森は燃えていた。
風と水と大地が何百年という果てしない歳月をかけておりなす豊壌の緑は人間の炎という力に一夜にして灰塵に化そうとしていた。その炎が闇夜に照らす陰影は悲惨たる殺戮の現場を刻み込んでいる。漂うのは鳴咽感を漂わせる死臭。そこに狂気はあった。
名もない山村にアルカーティスの東北部の雄、カランダの兵士三〇〇名が急襲したのは夏も終わりかけた深夜であった。
森で覆われたティルス山脈のなだらかな東中腹に位置するその村は人口一〇〇人足らずの小さな村で、林業、農業を中心に、ほとんど外界との交流のない自給自足の山村だった。そこにカランダ王国の精鋭が夜襲を行ったのである。三方から火を放ち、混乱した村人達をカランダの兵士達はためらう事なく切り捨てて行った。
「セレナ! ここから絶対に出ないのよ!」
村中に怒号と悲鳴がこだまして恐怖の騒音は森中を駆け巡っている。森は炎の力に屈し、山火事のごとく漆黒の闇夜をおどろおどろした朱に染めていた。
「かあさん! かあさんまってよ! 何が……いったい何が?」
その村の一角にある倉庫に放り込まれた少女は、恐怖に彩られた表情で彼女の母親に訴えた。きれいな顔立ちだ。美少女と呼んで語弊はない。ただ、目につくのは希有なる長いエメラルドの髪だった。突然の事に彼女は事態を把握していなかった。彼女の脳裏にかけめぐるのは恐怖と混乱。
「あなたは……絶対に死んじゃだめよ。何があっても、ね」
少女の母は彼女を落ち着かせるように、ゆっくりと、微笑みながら諭すように少女に言った。少女は訳が分からず、紫紺の瞳を小刻みに揺らしているだけだった。
その反応を見て彼女の母は目を細めてやはり紫紺の瞳を揺らしたが、一瞬の決意の光をみなぎらせ、その倉庫から駆け出した。
「かあさん! かあさんっ!」
少女は愕然としてその扉を叩いて絶叫した。だが、その扉は厚く、鍵がかけられてしまって、中からは開くことが出来ない。少女は絶望に膝を落とした。状況からそれなりに事態を把握し始めたのであろう。だが、腑に落ちないのはこんな山村を攻めた軍である。戦略的にも、資源的にもなんの価値もないこの村を。
「緑の髪の娘を出せ! この村にいることは分かっている! 出さねば、皆殺しだあっ!」
密室となったこの蔵にもカランダの兵の絶叫が聞こえてきた。
その声を聞いて、少女は愕然とする。
緑の髪!
この村で緑の髪をしているのは彼女だけである。だいたい、緑の髪をしている人間など、この世に希有であることはまちがいない。しかも彼女は事に鮮やかなエメラルドグリーンである。
「私はここよ! 出してっ、出してえぇ!」
少女は絶叫した。何故、軍が自分を狙っているのか、何故、自分が希有な緑の髪をしているのか、そんなことを彼女は全く知らなかったが、それが原因で村人が皆殺しにされるのは耐えられなかった。
外からの反応はなく、彼女は二、三度扉に体当りし、四度めに彼女の願いは達せられ、彼女は粉砕した扉と共に、外に転がり出た。
「私はここよーっ! 村の人達を殺さないでぇっ!」
少女の絶望的な金切り声が狂気が乱舞する村中を走る。村の建物にも火は移っていた。広場にはいくつもの死体が丸太のように無造作に転がっていた。
少女はその光景を目の当たりにして、全身の力が虚脱して行くのを覚えた。ふと気付けば、足元からうめきが聞こえる。
「かあさんっ!」
視線を足元にやって少女は驚愕する。そこには、彼女の母が血塗れで横たわっていた。
「……セレ……ナ。逃げなさい……早く……逃げ……なさい……」
彼女の母は、息も絶え絶えに必死に叫んでいた。だが、その叫びも弱々しく、重くかすれて、喧層がこだまするこの状況の中では少女の耳にやっと届く程度であった。
「かあさんっ! しっかり、しっかりしてぇ!」
いつの間にか溢れたのであろう、少女は涙で頬を濡らしながら、自らの血でまみれた彼女の母を抱き抱える。
「逃げ……なさい。早……く……」
だが、彼女の母からこぼれ落ちる鮮血の量は決して少量ではない。時ともに瞳の光はその明度を失って行き、声は低く沈んで行く。少女は、その母を抱きながらもただ鳴咽しながら彼女の死を待つしかすべが無かった。
「緑の髪の娘を見つけました!」
生気を失って行く母をだかえたまま、うずくまっている少女の背後で無骨な声がする。その声の主である兵士は、うずくまる彼女の長い髪を無造作に握って立ち上がらせた。
「いやああっ!」
必死で彼女はその兵士を振り切ろうとしたが、所詮は少女の力である。大人の男の力に勝てるものではない。彼女は簡単に二の腕を捻り上げられ、抵抗が出来なくなる。
「よし、でかしたぞ」
「これは、ハインリッヒ様!」
少女を捕らえた兵士は、右腕一本で略式の敬礼を向ける。その敬礼の先には若い青年が立っていた。他の兵士とは違う、立派な鎧と外套でその身を包んでいる。大柄ではないが、威風は十分に備えた風貌だった。
「いやあっ! はなしてっ! どうして……どうしてこんな事を!」
少女は髪を振り乱し、涙で顔を汚したまま混乱のそのままに、絶叫をハインリッヒにたたきつける。だが、当のハインリッヒは小さく唇を歪めただけで表情すら変えない。
「ふっ……落ち着きたまえ。この村が焼かれた原因は君にあるのだよ」
「私に? 私が、何をしたと言うのよ」
「その髪だ。君が緑の髪をして生まれたときに、この村は焼かれると運命付けられたのだよ、遠かれ、早かれ、ね」
ハインリッヒはわずかに微笑みを浮かべながら、少女に近寄り、左腕の自由を奪われたままの少女の髪を撫でた。そんなハインリッヒの行動すら少女は忘却し、彼の言葉に愕然としていた。
「私が必要なら、もう抵抗しない! 私を殺したいなら、抵抗しない! だけど、だけど、村の人には手を出さないでぇっ!」
「ほう……気丈な娘だな。その心構え、気に入ったぞ。殺しはせぬ」
ハインリッヒは恍惚そうな微笑みを浮かべて、涙にきらめく少女の顔を見た。気丈そうな発言とは裏腹に、その瞳には強い光が漲ってはいない。ただ、絶望だけが揺らめいていた。
ハインリッヒの言葉を受けた少女は、がっくりと力を抜く。全ての未来を放棄したのだ。それくらいの絶望が彼女にのしかかっていた。
「よし、村を焼け、一人も逃がすな。女も、子供だ! 全ての痕跡を焼却せよ」
ハインリッヒの次なる命令を聞いた少女は、愕然として彼を見上げる。
「いやああっ、どうしてっ? お願い、止めてぇっ!」
少女は絶叫した。髪を振り乱して、兵士を振り切ろうともがくが、そう簡単に脱出できるものではない。
「わからないか? 小娘一人手に入れるだけで村を焼いたのだ。それが、正規のカランダの軍だと世間に知れ渡ったらどうなる……口封じだ」
ハインリッヒは余りにも冷徹に述べた。妖しく輝くプラチナの瞳が少女を捕らえる。
少女は全身に悪寒が広がるのを覚えた。
「人でなしっ!」
無力感と絶望に奥歯を噛みしめながら少女は強く言った。だが、ハインリッヒは表情をわずかにも揺るがさない。徹底した冷酷だった。
少女は最後の抵抗と言うべき、言葉にならない声を力の限り振り絞った。もはや、どうしようもない無力な抵抗だったが、彼女に静観を望むのは酷な話だ。
「ちっ……やかましい娘だ。だまらせろ」
さすがに少女の絶叫は耳にさわるらしく、ハインリッヒは忌々しそうに吐き捨てた。
重い衝撃が少女の後頭部を襲う。剣の柄で殴られたのだ。
「ぁ……ぅ」
絶望の吐息と共に意識が深く闇の中へ沈んで行くのが、不思議なことにはっきりと分かった。少女は意識が闇の中へ沈んで行くことに何の抵抗も見せなかった。絶望がすべての力を彼女から奪い去ったのである。その奈落へ彼女は堕ちることを拒まなかった。
大陸アルカーティスはおおよそ「メ」の字をしている。
その大陸の北東部をほぼ手中に納めているのがカランダ王国である。現国王ラッツウェルの先代リヒャルト三世は「征服王」と呼ばれる軍事の天才であった。彼の代に北東部の有力勢力の一つでしかなったカランダを一代で北東部の覇者にまで築き上げたのである。おそるべきはその天才的な軍事力とそれを支えた優秀な政治力である。希代の英雄と呼んでも語弊はない。
だが、彼は四〇代前半という若さで死んだ。当時皇太子であったラッツウェルは未だ二〇代の若さである。英才教育を受けた明敏な彼であったが、やはり「国王」という地位には余りにも若すぎた。
新興国に若い王。この条件から生まれ来るのは醜い権力争いである。リヒャルト三世には三人の息子がいた。長男はラッツウェル。次男はラウエル。この二人はどちらも明敏で才能豊かな人物であったが、器量という点ではラウエルはラッツウェルに遠く及ばなかった。リヒャルト三世が世継ぎにラッツウェルを選んだのはこのせいであろう。
そして、三男ミハエル。「愚鈍王子」の俗名を持つ彼は、誰からも軽蔑される存在であった。この三兄弟の物語はここではふれぬとする。
リヒャルト三世が会得した新領土の内のアルカーティス最大勢力アステ・ウォール帝国に一番近い支城ライオット城はカランダとアステ・ウォールを結ぶライゼル地方の要衝であった。そして、その城主はカランダ王国辺境伯ゲルハルト・フォン・ハインリッヒ・ライゼルであった。
その部屋は限りなく密室に近かった。
重い衝撃をわずかに後頭部に残した少女には、ただ一つある小さな窓からこぼれる光が、屈折した太陽の光なのか、月の明りなのかも判断が付かなかった。ただ、冷たい石造りの城のさして広くない部屋にいることは分かっていた。
そして、彼女は両腕両足を今座っている樫の椅子に縛られ、自由を奪われていた。そして、忌々しき事には彼女の正面にはハインリッヒが彼女をじっと見つめていた。
少女は愕然としたまま、怒りに肩を震わせた。
少女は憎悪に満ちた瞳でハインリッヒをにらみ続けていた。光を失ったその瞳はそれが十六歳の少女の物とは信じられないほど悪意に満ちている。もし、視線で人が殺せるならば、ハインリッヒは一瞬にしてその命を失ったであろう。
「ふ、気丈なものだ」
だが、ハインリッヒはその鬼気迫る視線にも動じず、彼女に近寄った。彼は知っていたのである。彼女がその憎悪と怒気を放っている裏に、膨大な不安が隠されていることを。
「私を……どうするつもり?」
少女は低い声で尋ねた。瞳は輝きを失って、硬質な光をはらんでいる。
「ふ……質問は私がするはずなのだ。ガイアの娘よ」
「え? ガイア……の娘?」
「やはり、知らぬか。まあよい……ガイアとは『大地』を意味する言葉……おまえもアステ・ウォールにある『ガイアの塔』を知っておるだろう?」
少女は表情を怒りから動揺に変えてうなずいた。
ガイアとはハインリッヒの言葉の通りアステ・ウォール帝国の領土内にある巨大な古代遺跡塔である。かつて、このアルカーティス全土を支配したアステ・ウォール第一王朝は今では伝説と化した「ガイアの力」を擁して、この地を平呑したのである。その伝説は多少の違いはあれど全土に広がっていて、辺境の山村育ちの少女もそれくらいは知っている。
「それが……それが何か私と関係があるの? そんなの人違いだわ!」
「人違い? それはない。ガイアの一族であることはその緑の髪が証明している」
ハインリッヒの言葉に少女は愕然とした。可愛らしい眉間を不安に曇らせる。
「私の……髪が?」
「そうだ。ガイアの一族とはかつて、アルカーティスを支配した一族の事。ガイアの一族七〇〇年もの昔、その種が絶えたと伝説では語られるが、そうではない。ガイアの一族は小数だが、子孫を残している。その緑の髪だ。ガイアの一族の者はすべて緑の髪をしている」
「うそ! そんなの知らない! だってとうさんもかあさんも緑の髪をしていなかった。でも、実も娘だって……私はそんな話とは関係ない!」
「ガイアの一族は今では失われた秘法『隔世遺伝の法』を用いてその力を子孫に託したのだ。おまえもガイアの伝説を知っておるなら分かるだろう……ガイアの力が何を意味するかを……」
少女は慄然とした。彼の言葉の意味を悟ったからである。
伝説ではガイアの一族が持つ力はガイアの塔で光に変えられ、その驚異たる威力を持ってガイアの一族は大陸を統一したのである。戦慄の伝説である。
「でもっ! でも、わたしそんなこと何も知らないもの! あなたたちがガイアの力をほしがってても、私、そんな力無いもの! 私、何も知らないもの……」
少女は涙をこぼしながらうつむいた。涙に冷たい石造りの床がゆがんで見える。だが、ハインリッヒは更に冷酷に続けた。
「わかっている。その態度を見ればな。だが、おまえの意識の深層にはその記憶が受け継がれている。私は、以前おまえと同じガイアの一族の娘を捕らえたことがある。ガイアの一族は基本的に二重人格なのだ」
「そ、その人は?」
「死んだ。もう、ずいぶん昔の話さ。ガイアの一族は肉体的、精神的に苦痛を与えその限界点に達すると、その意識の深層が表に出る。私たちは、ガイアの一族についての正確な情報が知りたい……」
「まさか……その人を……」
「そうだ。私はしくじったよ。彼女からはたくさんの事を教えて貰ったがね」
少女の瞳は恐怖と悲痛に見開かれた。
「ひとでなしっ! そんなこと……そんなことが許されると思っているのっ?」
「ふ、過去に失われた命を哀れむより、自らを哀れむべきだな、君は。いや……その呪われた運命を哀れむべきかな」
ハインリッヒは冷酷な微笑みを浮かべて、抵抗の出来ない少女の絶妙なラインを描いた顎に手をやった。
直視に絶えかねた少女は視線を逸す。まるで醜いものから視線を外すように。その態度を見たハインリッヒはやや恍惚な笑みをこぼし、指を鳴らした。
部屋で唯一の扉が開き、ハインリッヒの部下である兵士がいろいろな機材持って表れる。金属がかち合う音に少女の不安は絶頂に達した。
「な、なにをするの?」
少女は震える声で尋ねた。ハインリッヒはちらりと彼女の方へ視線をやると、多種多様な機材を品定めする。
「想像はつくだろう? 私もあまりこういったことは好きではないのだがね」
月影に紛れてたたずむ二人の男がいる。蒼古としているが月の光は激しく、夜を闇から救うには十分であったが、やはり、光在りて闇も在りし。
その闇の中で彼らは夜に刻まれた漆黒の城影を望んでいる。
「あの城に緑の髪の娘が?」
その内の一人、青年が言った。高音でハスキーなその声はやや少年っぽい。
「うむ。情報は確からしい」
「その、らしいってとこが怪しいぞ。無駄骨は折りたくないからな」
「若い内は苦労を重ねたほうがいいとも言うぞ」
「迷惑な言葉だ」
青年に応えた声はしゃがれた老人の声だった。だが、その口調ははっきりしていて力強ささえも感じ取ることが出来る。
「じゃが、アーディル。おまえはこの情報を見過ごすことはできんじゃろう?」
「やっぱり、あんたの性格は最低だ、ジル……ま、あんたの言葉通りだが」
青年の名をアーディルと言う。長めの黒い猫毛の髪を青いバンダナでまとめている。顔立ちは端正だったが、蒼氷石の瞳は鋭い光を放っている。一方、ジルと呼ばれた老人も精悍な顔立ちをした老人だった。未だ精気は失っていない。
「じゃあ、ジル。あんたはここで待っててくれ。これ以上先は俺に任せてくれよ」
「うむ。わしとて足手まといにはなり無くないからな。じゃが、しくじるなよ」
「俺を誰だと思ってる?」
アーディルは不敵に笑い、静かに、だがさっそうと城へ向い始めた。その気配は夜陰にとけ込むかのごとくである。ほんの僅かなときでジルはアーディルの気配を感じることが出来なくなった。
さすがか……ジルは小さく嘆息し、彼も林の闇へと気配を隠した。
「いやああああっ!」
甲高い少女の悲鳴が夜の帳を切り裂いている。
ばりばりと空気が弾けるような音を立てているのは空気中を走る電流のせいだ。そして、その電流は少女の四肢を駆け巡っている。
「かはっ……・」
不意に電流は納まり、少女が一時の解放に息を吐き出す。全身は汗でぐっしょりだ。もうろうとしているのか瞳は焦点を失って闇をさまよい続けている。
「おかしい……何故、反応が無い。本当にガイアの一族なのか?」
ハインリッヒは手先から放電する稲妻をかき消して喘ぐ少女を怪訝そうな表情で見つめた。
ハインリッヒは懐疑の視線を少女に向け、しばしためらいを見せていたが、もう一度呪文の詠唱にかかった。
アルカーティスには古くから、それは先史時代からであるが、「魔法」と呼ばれる技術が伝わっている。人の体内に在る「魔力」と言う力を媒介にして「呪文」と言う技術で有形無形のエネルギーに代えるのだ。「魔法」を使う人間は才能をもち、鍛錬を長く行った者に限られるので、「魔法」を使える人間は人口にして一割にも満たない。そして、そのほとんどが、「呪い師」や「占い師」程度のレベルである。
ハインリッヒは僅かだが雷撃の魔法を会得しており、極弱いレベルであるが、自由に扱えれる。それ自体は指向性の無い雷撃だが、少女の身体にはいくつかの金属片が結わえられているために、それが避雷針となって、雷撃は彼女の身体を襲うのだ。
まあ、よい。ガイアの者で無ければ、殺すだけだ……ハインリッヒは心の中でつぶやいた。彼に取って、彼女は「物」としか認識されていない。彼女を知るものはすでに、この世にいないわけだから、殺しても何等問題はないわけだ。
彼は気を取りなおし、更に雷撃を放とうとした。少女はもはやぐったりして抵抗のそぶりもない。
だが、その刹那に変化は起こった。
僅かだが、風もないのに彼女の髪が揺らめいたのである。さらさらと流れる髪は、まるで緑の霞のようである。だが、その動きは微々たる物だ。
「なに?」
ハインリッヒは初めそれを目の錯覚だと認識した。だが、その瞬間、
「……っ! うおっ!」
彼の身体を、いや、この石造りの部屋全体を奇妙な緑の炎で覆われたのである。それは余り明度の高くない緑の蛍光色で、不可思議なのは全く熱量を感じなかったのである。
「これは……一体?」
ハインリッヒは狼狽して少女の方へ視線をやった。熱くない炎に焼かれると言うのは、苦痛を感じ得なかったが、精神的には圧迫を禁じ得ない。
だが、彼女はぐったりしているだけで、僅かにも動かない。だが、その静寂を破ったのも彼女だった。いや、今までの彼女が彼女でなくなったと言うべきか。
「ガイアは……オマエ達の遊び道具では……ない……」
何時の間に結わえてあった布が外れたのか、少女は椅子から立ち上がり、ハインリッヒを見つめていた。その眼は深紅に染まり、常の彼女の瞳ではない。僅かに細めたその瞳にハインリッヒは刹那的な恐怖を覚えた。
その直後、緑の炎は何もなかったのかのように消え失せ、部屋には夜の静寂が戻った。
ハインリッヒは息をあらげたまま、狼狽を隠せぬ表情でたたずんでいた。
「今のは……一体? 今までの反応とは、明らかに違う……」
自らを落ち着かせるために、独り言をつぶやき、大きく深呼吸をする。
少女は力を失い、冷たい床に倒れ込む。
その彼女を見おろしてハインリッヒは複雑な表情を浮かべた。彼女に対しての興味なのか、恐怖なのか、判断が付きづらい表情だった。
「面白い……おい! こいつを地下牢に放りこめ。両手両足を鎖でつなげておけ、逃がす手はない」
ハインリッヒは部屋の外に待機していた兵士に命令を下し、彼自身はその部屋から退出した。
少女は冷たい床に意識を取り戻した。
暗く沈んだ空気が静寂を奏でているここは、城の地下牢である。僅かに開けられた天井付近の壁が抜けていて、光を取り込んでいる。そのほかは、闇。囚人は悪。その悪に対しての慈悲は皆無であるのだ。たとえ、それが無実であっても。
「あっ……」
少女は立ち上がろうとして、つんのめった。両手両足にかせがはめられている。鉄の鎖で出来た頑丈なかせはある程度以上の彼女の自由を奪っている。
「私が、何をしたと言うのよ……」
怒りと悲しみとやりきれなさに、少女は肩を震わせた。涙が頬を伝って、乾いた石畳に落ちる。彼女は声を立てずに鳴咽した。彼女には泣き叫ぶだけの体力も気力も残されていなかったのである。
だが、疲労感だけが残る身体はすぐに睡眠を要求し、彼女はその牢にただ一つある粗末な毛布にくるまって、静かな眠りに付いた。今は悲しみだけが彼女の心を支配している。
鈍い音が夜の静寂に響く。極小さな音と共に人が倒れ込む音がする。
牢の番をしている兵士がその気孔と声帯をつぶされて、声のない断末魔の叫びをあげていた。だが、生物活動の基本である呼吸が出来ない今、彼はすぐに絶命する。
加害者は、青いバンダナの青年であった。アーディルである。剣のつかを利用して兵士に気付かれる前に、彼の喉を付いたのである。よほど手慣れていないとそうは簡単に出来る技ではない。
アーディルはいくつある牢の中から、僅かな気配を感じ取り、そこに少女が静かな寝息を立てていることを確認する。
アーディルはバンダナを右手でいじって針金を取り出す。その針金は幾重にも屈折していて、奇妙な形をしている。それを彼は鍵穴に突っ込むとその中をひっかきまわした。
かちり、という錠の外れる音にアーディルは僅かに表情をほころばす。今日は運がいい。アーディルは小さく嘆息した。
その僅かな気配に少女は反応した。普通ならば、それくらいの物音に反応できるものではない。だが、恐怖と不信が彼女の精神を極度に張りつめらせ、哀れにも浅い眠りしか彼女は付けなかったのである。
毛布をぐっとよせ彼女は牢の端へ身を引く。逃げ場の無い逃げ場所へ彼女の本能がそう動かせたのだ。その彼女の行動にアーディルは悲しげな表情で応えた。
「きゃ……」
悲鳴を上げそうな彼女を見て、アーディルは慌てて、その口を塞ぐ。悲鳴を上げられような物なら、侵入者である彼にはたまったものではない。
「不審な者に悲鳴を上げるのは、女の子らしくて悪かねーけど、それも時と場合によっては、歓迎しかねるな」
右手で彼女の口を抑えたまま、アーディルはささやくような小さな声で言った。
「俺はアーディル。心配するな……俺はおまえをここから助け出す。いいか、おちつけよ……」
アーディルは優しい声でささやくように少女を落ち着かせると、ゆっくりと手を放す。少女は驚愕に声を失っていたのか、アーディルの言葉に落ち着いたのか沈黙のままだった。だが、その刹那に彼女は力が抜けて、意識を失った。緊張から解放されたからだろう。それでなくても、彼女は憔悴しきっているのだ。無理もない。
「大丈夫。俺が守ってやるさ……ティナの二の舞にさせてたまるか……」
アーディルは気を失った少女を抱えて、蒼氷石の瞳の青い炎を静かに燃やした。
