ガイアの一族の伝説についてはなぜか口伝による伝承でしかない。時代的に見ても、ガイアの一族が擁した文明においても、文字がなかったとは推測しづらい。だが、記録的な文字は彼らの遺跡からは何一つ出土していないというのが現実である。
今なお謎のベールに包まれているガイアの伝説。
アステ・ウォール暦前九年、すべてのガイアの一族が滅んだという歴史上の記録よりさきに正式な歴史文献にガイアの一族の姿や文化は何一つとしてない。ガイアの一族が本当に滅んでしまったとすれば、この謎を解き明かす術は非常に困難な道となる。
唯一、ファティマ・アムル・ラルフォードと言う歴史作家が少女期にガイアの一族と旅をしたと自伝書に書き残している。それはガイアの一族が滅んだとされる八百年も後の時代になるのだが。
-魔法歴史学者、コンラート・フェレンツェン「古代魔法とガイアの文明」より-
ラルフ、シレーヌと合流することができたセレナ達は、アステ・ウォール市の北の城門近くにあるガイアの塔へときていた。
巨大な塔である。切り出した石を無数に組み合わせた古代遺跡の一つだが、現存する遺跡の中でこれほどまでに壮大で、原形をとどめているものは少ない。もっとも千年前まではこの塔も何度か改修工事が行われている。それ以来はまったく手付かずだが、風化の度合いは恐ろしく遅い。この砂漠の風にすら負けない頑強さを誇っていた。かつてセレナたちが訪れたルドア神殿も同じくらいの歴史を持っているが、この塔はルドア神殿のように華やかな装飾がないかわりに、豪胆でふてぶてしいまでの尊大さすら覚えさせる存在感がある。
この塔の周りはこの都市の宗教地区となっており、寺院や僧の住居やらで質素な印象を受ける。街を行く人々も聖職者らしき衣を纏った者が多く、雰囲気もほかの町並みとは違う。アルカーティスの宗教は小乗的で俗世間の社会と聖職者達の社会との交流は極めて薄い。それがこの街を独特の雰囲気にさせているのだろう。普段、滅多にこういった地域に足を踏み入れることのない彼女たちにとって、この空気はある種異様な感覚だった。
その中を一行は塔に向かっていた。
アーディルは先行して塔に進入して内部を探ってこようかと言ったが、セレナは首を横に振った。相手はあのアルフレッドである。魔法使い相手ではアーディルやラルフが隠密行動の達人であろうとも、何が起こるかわからない。相手が剣であれば、彼らが不覚を得ることはあるまい。だが相手が魔法使いであれば話は別となる。結局は正面からあたるしかない。セレナはそう考えて塔へ向かった。
セレナはやはりフードを深々とかぶってその素性を隠していたが、塔の内部に入って、閉ざされた門の前に立つとためらいなくそのフードを取って、ガイアの一族の象徴たる緑の髪をあらわにした。
その場には多くの僧が控えている。場にどよめきが起こった。
そしてその場で恐らく一番上位であろう、中年の僧に話し掛けた。
「見ての通り、私はガイアの一族です。この塔にアルフレッドという人がいるはずです。セレナ・アスリードが来たとお伝え願えますか」
自分から積極的に動いてる。セレナは自分自身に軽い驚愕を覚えていたが、毅然とした態度で動いていた。普段の自分とは違う自分を演じることで、焦燥に似た胸の高鳴りを無理に押さえようとしていたのかもしれない。いくつかの視線を感じる。だが、セレナは表情を崩さなかった。
初め驚きで困惑していたその僧もやがて塔の内部へと急ぎ、しばらくすると僧が帰ってくる。
「ご案内します。奥へお進みください」
彼は丁重に礼をし、塔の中央に位置する主回廊からはずれた、古い狭い回廊へと進んだ。そのやや予想外の反応にセレナは困惑したが、彼に続いた。
まず、アーディル達はこの場に残されるのではないかと思っていた。アルフレッドにとって必要なのはセレナ一人だけだろう。この塔の僧の数は相当なものだと思われる。たとえ強行な手段に出たとしても、アーディル達に抵抗はできない。
私が逃げることを恐れてのことか……それとも?
セレナは用心深く奥へ進んだ。
「これより先は『聖域』と呼ばれる場所でございます。特別にアルフレッド様より申し受けたまわっております。どうぞ……」
僧は促した。この先には古いが大仰な門が待ち構えている。あまり頻繁に使われてはいないのだろう。人の出入りしたような気配があまりない。
「俺達もいいのか?」
セレナと同じ疑問を持っていたのだろう、ジークが問い掛けた。
僧は頷く。
「何か裏があるかもしれないな」
アーディルがセレナの耳元でささやいた。だれしもこの状況に安心することなどありえない状況だった。セレナも頷き、ささやきかえす。
「うん、でも私たちには選択権がないでしょ」
「行くしかないな」
アーディルが低く答えた。
そこは奥へ進むと階段だった。下りである。螺旋状に下るその階段は随分と長い。その意外さにミナは自然とつぶやいていた。
「随分下るんだ。てっきり上に上がるもんだとおもってた……」
「この手の古代建造物にはありがちな構造さ。地上の部分より地下の部分にその建物の重要な部分、お宝なんかが隠されてる場合もあるな」
先頭を行くアーディルが答える。彼とラルフがこの中で一番夜目が利くだろう。だが、この中ではあまりその必要もないといえた。
少しこの階段を下った場所から、この回廊全体がぼんやりと明るくなっている。光苔の類が張り巡らされているのだ。ガイアの一族の力は植物を操るところにある、といった伝説の一部をまざまざと見せ付けるかのようだ。
「ん? どうしたんだ? ファティマ」
殿を務めているラルフがファティマの様子がいつもと違うことに気づいた。温和な彼女にしては珍しく、緊張感と嫌悪感で表情が強張っている。
「いえ……さっきからなんですが、攻撃的というか、威圧的というか……その、うまく言えませんけど、不快な魔力の波動を感じるんです」
ファティマは振り返らず、彼女がその魔力を感じる方向、つまり進行方向を見つめたまま答えた。
それはファティマだけでなく、セレナもそれを感じていた。彼女の場合、ファティマの場合よりもさらに具体的な圧力を感じ得ない。その魔力の根元を知っているからだ。悪寒と気温に関係のない汗に一瞬、体を強張らせた。
と、一行の視野に一つの扉が姿をあらわした。二メートル四方の普通の扉だが、その扉は半開きになっていて、奥へいざなうようにさらにぼんやりとした光が漏れている。
「ここに入れってことか」
「他に道はないみたいだからね」
ジークの独り言じみた呟きにシレーヌが答えた。
「でも、あの部屋に人の気配は感じられない」
「油断はしないことだ、何が起きるか、わからん」
歴戦の傭兵の二人の会話は砂漠の風のように厳しく簡素だが、一行に十分な緊張感と信頼感を与えてくれる。
一行は十分な注意力をもってその部屋に入った。
その部屋は広大なホールだった。地下の奥深くにこれだけの大ホールを築く技術は現在でも難しいだろう。ガイアの一族の文明の高度さをあらわしているかのようだ。だが、一行はそれに築くこともできないような、異様な雰囲気に包まれていた。
「これは?」
「木偶人形?」
その広大なホールには数え切れないほどの木偶人形が飾られている。形、装飾ともまちまちだが、その数は数百。この地下ホールに豪勢な調度品をつけてやれば、王侯貴族のパーティの模倣図のようにもおもえるだろう。
「どういうこと?」
ミナが興味をもって木偶人形に触ろうとした。
「これは……だめ、ミナ! 気をつけて!」
ファティマがはっとして叫んだ。その刹那、その数百体にも及ぶ木偶人形が、軋みの音を立てながら、動きはじめたのである。
「げっ? な、なにこれっ?」
ミナは驚愕に大きな瞳をさらに大きくして狼狽した。ミナだけではない、実戦経験豊富なジークたちも驚愕に目を見開いていた。
「傀儡術! みんな、気をつけて。これは誰かが魔法で操ってるんです! でも、これだけの数を……」
ファティマは皆に注意を叫んでいたが、彼女自身も動きが取れなかった。
傀儡術は呪術の一種で、魔力を込めた木霊とよばれる水晶球を人形に組み込むことで、人形を操ることのできる高等呪術の一つである。無論、人形を操るには精神統一が必要だし、それを維持する魔力、精神力も必要となる。通常の術師があやつれる人形の限界は四体程度動かせれば、それで精神力が持たなくなる、といわれている。
だが、数百体の人形を操れる術師がいるとすれば!
同じ術師であるファティマは愕然とするほかどうしようもない。
「ど、どうにかならないのっ?」
ミナがその木偶人形に襲われかけて、泡を食ったままファティマの側へ帰ってきた。幸い木偶人形の動きは鈍い。だが、木偶が木偶だけに彼らの振り上げた腕の直撃を受ければ、それは棍棒で殴られたも同じである。戦慄せざるをえない。
その無数の木偶人形たちはわらわらと動きながら彼女らに近寄ってくる。だが、一瞬の隙を作ったものの、歴戦の戦士達は次の行動に移っていた。
セレナとファティマを囲み、剣を抜いて敵の行動に備えた。無論、ミナも剣を構えてその陣に加わる。セレナも剣を抜いたがファティマは武器を持っていない。外の円が彼女たちを守ってくれるが、万一それを突破されたときにファティマを守るのは彼女だ。
「ファティマ!」
ラルフが彼女の名を呼んだ。
「はい。やってみます」
ファティマは短く答えてセレナを見た。セレナもファティマに視線を合わせていて、すばやく首を小さく縦に振る。
ファティマは懐から呪符を取り出し、セレナは印を結ぶ。ディスペルマジックを試み、魔力を入れられた人形を、ただの人形に戻そうとしたのだ。
「はっ」
二人の小さな気合の声とともに、不可視の魔力の波動がほとばしる。
うごめく人形の数体が小さく震えたかとその刹那、まるで糸のきれた操り人形のようにその場に崩れ落ちたのだ。だが、それは絶対数において微々たる数である。
「だめです! これだけの数は無理です!」
ファティマの悲鳴のような声が響いた。
すでに彼女らの陣と人形たちとの間合いは零になりつつあった。
剣が木を砕く音が大ホールに響いては消えた。どうしても中の二人に気を配らねばならないアーディルらは、守備的な行動しかとれず、本来の彼らの力を出すことは難しかった。だが、それでも何十体という木偶人形を打ち壊し、がれきの山を築いた。だが、人形の数は一行に減る気配を見せない。
「もう少し、もう少しだけ、絶えてっ!」
セレナが叫んだ。複雑な印を組み、呪文の詠唱を続けている。興奮と緊張に上気した彼女の表情は紅潮して、否応無しに存在感があった。
そしてついにセレナの魔法が発動する。ホールの奥へ向けて大火球が発射されたのだ。セレナの魔力は驚嘆すべき領域まで昇華している。
猛烈なその火球は彼女たちを包囲する人形たちの一角を貫いて、奥のホールの壁に突き刺さり爆発した。
「今だ! 突破する!」
包囲網の一角の緩みにジークは敏感に反応した。彼の膂力から爆発的に振り下ろされる大剣が人形を粉微塵する。それに続いたのが、攻撃的な性格を持つミナだった。長剣を巧みに操って木偶人形を砕きながら、包囲を突破すべく疾走する。
「よおし! 行くぜ!」
魔法の成功に安堵しているセレナの肩をたたいてアーディルが微笑んだ。
セレナとファティマを守る形で、突破口を切り開くジークとミナのあとをアーディルが続く。後背の備えは臨機応変なラルフとシレーヌ。
と、並走するラルフとシレーヌは目が合った。というよりも、ラルフが故意にシレーヌに視線を合わせたというべきであろう。
「ん?」
シレーヌはその意図をわかり得ていなかったが、この大ホールを抜ける扉の近くまでくるとその意味を知る事になった。
ホールを抜ける扉が近づく。
大剣でまとわりつこうとする人形を数体吹き飛ばしたジークが隣のミナに声をかける。
「あの扉を突き破ったら、目一杯前へ飛べ、最速でだ」
「え? なんで?」
「いいからそうしろ。この遺跡は思った以上にやばいらしい」
ミナは訳が分からないような顔をしたが、この場はジークに従うべきだと判断した。粋がって見てもジークの経験を軽視するような彼女ではない。
「後ろはアーディルに任せる。頼むぜ」
セレナとファティマの事をいっているのだ。アーディルは瞬間的に理解する。
「わかった、まかせとけ!」
ジークの巨体が扉を粉砕するかのごとく突破する。半瞬遅れて、ミナが、そのまた半瞬後、セレナとファティマを両腕に抱えたアーディルが跳躍していた。軽量の少女とはいえ、二人を抱えてもさらに加速する彼の脚力は想像を絶する。
一瞬の躊躇もなく彼らが駆けたその場所に無数の鋭利な手裏剣が降り注いだ。アーディルすら今まで見た事のない形状の不思議な形をした手裏剣だ。二瞬、遅れて天井から二つの黒い影が降りてきた。ジークの判断がなければ、セレナたちが被害者に、それらが加害者になっていただろう。
異様な殺気が立ち込めている。
「うあっ!」
ミナが剣を振るった。さらに奥から現れた黒い影の剣を受け止めるためだ。その剣は揺らめく炎のような不思議な形状をしている。なんとかそれを受け止めたものの、踏み込みを取られたために反撃がままならない。ミナは何とか腕力でそれを跳ね除けた。それは身軽に飛びのいて、すばやく次の体制を取った。
「はやい!」
その間にもぞろぞろとそれらは姿を見せてきた。
「こいつら、かなりやべぇ生き物だぜ!」
ジークが叫んだ。
「生き物なの? あれは……」
ファティマが声を絞り出すように言った。
その黒い影はまるで爬虫類のような光を持った瞳と、うろこを持っていた。時折、ちろとだす舌はヘビのそれとそっくりだ。それらが二足歩行し、妙な形状の剣と小型の盾を身につけている。無論、ファティマもそうだが、皆それを見た経験などない。
奇声が鳴った。セレナたちがきた扉からだ。
黒い影の二体がもんどりを打つように倒れた。緑色をした体液、なのだろうか、液体がその骸から流れ落ちる。それを斬ったのは殿軍のラルフとシレーヌだ。
「なるほどね……」
シレーヌはちらとラルフを見た。
が、次の刹那には二人とも行動を起こしている。
シレーヌは左に散って、動揺するその黒い影の一体を次の標的にして斬りかかっていた。ラルフは右に懐から短刀をを三本投げつけて、的確に敵を貫いた。そしてセレナたちがいる場所に駆ける。
「ここは私とシレーヌで何とかしよう。君たちは先へ進め。こんなことをしにここに来たわけではあるまい? 急いだ方がいいのだろう?」
ラルフはいつものような穏やかな声だった。そしてセレナを見る。セレナはここに来た目的をラルフたちにも話している。そしてアルフレッドという男のことも。
セレナは一瞬と惑いを見せた。が、彼に従おう、彼にここ任せよう、そうするべきだと思った。
「ファティマ……」
ラルフは隣のファティマの視線に気づいた。
「ラルフさん、私も、ここに残ります」
「ファティマ、それは……」
ラルフは口篭もった。その背後に黒い影が襲い掛かった。だがその瞬間、横凪に払われた剣で真っ二つになって崩れ落ちる。その剣はシレーヌだった。
「ファティマ、あんたはここには邪魔なだけなんだよ。ラルフの足手まといなんだ。先に行きな」
シレーヌは剣を軽く振って敵の体液を飛ばしながら、ファティマを見下すように見つめた。ファティマはおびえたように彼女を見つめた。確かにシレーヌが言うようにファティマ自身にはあの敵の攻撃から独力で身を守るのは不可能だ。
「ファティマ、セレナの敵にはおそらく魔道師がいる。その時、魔法に対抗できるファティマの力が必要になるはずだ。人にはそれぞれ必要とされる場所と時があるんだ。ここはファティマにふさわしい場所じゃない……ってことかな」
「それは……ラルフさんにとて私は必要じゃないってことですか?」
ラルフは答えなかった。
ファティマは自分の発言に赤面した。そして自分がまだ子どもである事に愕然とした。何と幼稚で見当外れな発言だったのだろう。
私はシレーヌさんに嫉妬してた……そんな次元の問題じゃないのに!
「ファティマ。私は君がいないと何もできない人間だよ。それを一番よく知ってるのは誰だい?」
ラルフは微笑んでいた。
「ったく。痴話げんかなら、他ンところでやんなさいよ」
シレーヌは一つ小さくため息を吐いて、次の相手を求めて駆けた。
「よし、ファティマ。急ぐぞ」
アーディルが声をかけた。セレナ、ジーク、ミナ、アーディル。そこにファティマを加えた五人は奥の通路へ向かって疾走した。黒い影の数体がそれを追ったが、ラルフの短刀がそれを貫いて射落とした。
「心配するな。すぐに追いつくさ」
ラルフも剣を抜いて次の敵を切り裂いていた。
五人が転がり込んだ通路は徐々に下りながらつづら折りになっていた。
もうどれくらいの距離を走り、どれくらい地下へ潜っているのかわからない。そういう感覚に優れたアーディルですらだ。
この通路に特にトラップがないのは、通常に使われた通路だという事を示している。内部に進むならこの通路でいいはずだ。アーディルはそう確信して疾走を続けた。
と、通路の終点が見えた。行き止まりではない。ホールへの入り口となっていたが、遠目にもそれは地上への出口のごとく明るく光が差し込んでいる。
「まさかな。ずっと下ってきたんだぜ」
「入り口が山上とかなら、分からない話でもないが……」
アーディルが立ち止まり、つぶやいた。ジークも混ぜ返したが言葉に自信がなかった。
「いこう。誰かがいる……」
セレナが低く言った。彼女はこのホールに近づく前から、この通路の先からまがまがしいまでの妖気を感じていたのだ。それも感じたことのある気配。そして、自分に最も近かろう気配。
一行はその部屋に踏み入れた。
その明るさの原因は魔法による人工太陽だった。本物の太陽にかなう光量ではないが、この五〇メートル四方の空間を照らすには十分な光だ。現在のアルカーティスに存在する魔法ではこのような人工太陽を作り出すことは難しい。さらにそれを半永久的に持続させることなど過去形で語られるだけである。
この遺跡がガイアの一族の遺産であるとすれば、彼らの魔法文明の高度さが計り知れる。
しかし、この場所も地下奥深くである事をこのホールの壁が教えている。岩肌は黒光りしてそれが地上の岩盤でない事を知らしめている。アステ・ウォールの地上の岩盤は花崗岩を中心としているからだ。
そこには一人の女がいた。まず目に付くは長くつややかな緑の髪。遠目にはそれがセレナだと見えてもおかしくない。
女は顔を上げた。そしてセレナたちを直視する。いや、セレナを直視したのだ。
それは凄惨な瞳だといってよいだろう。その瞳の中に氷炎の憎悪がある。それをまともに共感したファティマは思わず顔を歪めた。
この人の中にあるのは……!
ファティマはこの女を見た事があった。砂漠でのことだ。セレナを襲った謎の女性、シンシアだ。わかっているのは彼女もガイアの一族だと言う事。何かセレナと縁があるのだ。
ファティマははっとしてセレナを見た。
セレナは平静だった。シンシアの眼を受けても揺らぎすら見せていないようだった。
「セレナ……オマエを殺す」
シンシアがつぶやいた瞬間だった。セレナの表情が弾ける。
「くっ! 皆跳んで!」
セレナが叫ぶ。その場にいる全員が自分の周りの違和感に気づきつつあった。セレナの声がきっかけとなって全員が弾けるように跳躍する。
その刹那、大気が爆発した。
なんとか直撃を避けた五人だが、その爆風で壁や床に叩き付けられる。
「なんて魔力……え?」
起き上がったファティマはシンシアを見た。と、同時に驚愕する。
よろめきながら立ち上がったミナは「それ」をみて表情を硬直させた。
彼女らが見たのはシンシアが変化してゆく姿だった。艶やかで長い緑の髪が風もなく揺らめきながら伸び、巨大化してゆく。それは大蛇から竜の姿に変わり、シンシアの本体もぬらりとした鱗に包まれた。美しかったその顔も竜のそれへと変化する。それは巨大な体を持った八匹の竜の頭を持つ伝説上の生き物に酷似していた。
「ば、化け物……」
ミナは平常心を失って、硬直から抜け出せずにいた。
それをみたシンシアはまずはこの少女からだといわんばかりに接近した。ミナは動けない。竜の一つの口が大きく開いた。その奥にちらりと炎の光が見えた。その刹那、紅蓮の火球がミナめがけて発射された。この時になって、初めてミナは我を取り戻した。だが、遅い。彼女は死を覚悟した。
瞬間、火球は石畳の床にぶつかって轟音とともに四散した。直撃の一瞬前にアーディルがミナを突き飛ばすかのようにかばったのだ。
「ばっかやろ! 何やってんだ!」
「ご、ごめん!」
アーディルの声にようやく我を取り戻したミナは注意深く剣を構えて魔物を見る。それはいつもの彼女の姿だ。アーディルはそれを見て一息をついた。近くにセレナがいる。
「それにしてもよ、何なんだあれは?」
自問に近い呟きだったが、それをセレナは明敏に聞き取っていた。
セレナは厳しい視線を魔物であるシンシアに向けながら、苦しげに歯を食いしばった。彼女は、シンシアの姿が何を意味するか悟っていた。ガイアの一族というものはそういうものなのだ、と。
「……敵よ。倒すべき敵」
セレナはアーディルに低く告げると呪文の詠唱に入った。進境著しい彼女の魔力はガイアの一族と出会う事で触発された部分が多い。光の矢が無数に作り出されて魔物に走る。その皮肉で強力な魔力をもってしても魔物は歯牙にもとめない。その光の矢も魔物の鱗に弾かれてほとんど効果がなかった。
「くそったれ! やるしかねぇってことか!」
ジークがはき捨てるように大剣を構えて突進した。距離を置けばミナを襲った火球の餌食になってしまうし、彼らの武器は懐にもぐ込まねばならない。
それに続いてミナとアーディルもジークに続いた。ジークがいかに強靭な肉体の持ち主とはいえ、巨大な魔物相手にまともな勝負ができるわけがない。
「うおおお!」
ジークの大剣が唸り、魔物の鱗を何枚か吹き飛ばす、緑の体液が飛び散る。魔物は爬虫類のような瞳で彼を確認し、しっぽをもって彼を弾き飛ばした。同時にミナが上空に飛び、魔物の上を取ろうとした。だが、魔物は八頭の頭を持つ。その一頭に弾き飛ばされ、壁まで吹き飛ばされる。
その彼女をオトリにしたかのようにアーディルは魔物の隙を突いて懐に潜り込んだ。鱗の薄い腹部を切り付ける。一瞬の早業に魔物は焦りを見せたものの、すぐにしっぽをうまく操って懐の彼を吹き飛ばす。
後方から立て続けに八枚の呪符が放たれた。ファティマの呪法である。それが魔物を包む正方体の頂点なり、呪力で魔物の動きを封じようとした。だが、次の瞬間悲鳴を上げたのはファティマの方で呪力で宙に浮かんでいた呪符も一瞬にして燃え尽きる。
「く……魔力が違いすぎる」
よろめくファティマ。
「このっ!」
ミナが長剣を構えて再度突撃をする。ジークもアーディルも続く。攻撃するしかない。アドレナリンは恐怖を彼らから取り去り、強大な魔物に取り付いていく。セレナやファティマも効果がないまでも彼らを援護するべく、もちうるすべての術法を叩き付けた。
だが、セレナの攻撃魔法もファティマの呪符も大きな効果はなく、アーディル達がいくら斬り付けても魔物の動きに衰えは見えなかった。魔物は火炎と強力な尻尾で熾烈な攻撃を加えてくる。逆に体力の限界が五人に近づいていた。
何度火炎を浴び、壁に叩き付けられただろう。ついに五人は意識を失っていた。そして次に意識が戻ったときは、それぞれが別の竜の首に巻き取られ、高々と持ち上げられていた。残りの竜が大口を開けてちらちらと炎を見せていた。
「くそっ」
アーディルは恐怖と無念さに舌打ちした。仲間を見ても皆同じだ。心の底で一番信頼していたジークも自分と同じありさまだ。次にセレナをみた。
彼女だけが他の仲間と違った。他の皆は自らの死を覚悟したような表情なのに、彼女だけが生気のある目を持って魔物を睨み付けている。そこには常の彼女にはない、殺気すらほとばしっている。
と、魔物の中央の竜の表情が変化してシンシアの顔になった。不気味なその魔物はセレナを凝視する。
「殺サナイ。簡単ニハナ……嬲リ、嬲リ、嬲リ殺シテヤル」
「それ」は言った。顔は人間でも、体は人間のそれとは違った。そして精神も人間のそれとは違うのだろう。しかし、その顔は邪悪に歪んでいるもののセレナのものとよく似ていた。それにセレナは恐怖していた。その恐怖に打ち勝つため感情を怒りで埋め尽くしていた。
「違う、私はこんなんじゃない!」
きつく胴を締め上げられ声は出なかったが、心の中で叫んでいた。
と、魔物の体が変化した。魔物は元のシンシアの姿に戻り、異様なまでに伸びた緑の髪が竜に変わってセレナたちを持ち上げていた。
「苦しめ」
シンシアが笑う。
と、その髪が万力のような力を持って五人の体を締め上げた。その木目細かな髪が皮膚に食い込み、血がにじむ。その一本一本が鋼線のような強度を持ち、ジークの筋力ですら引き千切れない。逆に動けば髪が肉に食い込み激痛が走った。
五人は悲鳴を上げ、激痛に意識が薄れつつあった。
まず、ファティマが手に握った呪符を落とした。
ミナが、アーディルが、ジークがついに剣を落とした。
乾いた音が響く。
遠ざかる意識の中それをセレナは聞いた。そして自分の掌にあるガイアの剣が今にも落ちそうだった。
「負ける……の? アイツに?」
薄れる声でつぶやいた。肺の中の空気は無いに等しい状況だった。瞳にはシンシアを捕らえていない。
「負ける? 負けれられない……負けられない!」
心の叫びが何かにぶつかって弾けた。
刹那、風も無くセレナの髪が激しく舞う。
「うあああああっ!」
セレナの絶叫が反響して、失いかけた瞳の光は朱色の輝きをもって復活する。そして次の一瞬に、セレナの全身から緑の炎がものすごい勢いで放出された。それは一瞬でシンシアの髪を焼き尽くし、セレナの身体は宙を舞う。その炎は他の四人の髪まで伝播して燃やし尽くした。四人は床に落ち、その衝撃で薄くも意識を取り戻しつつあった。
「くっ……セレナァ……!」
シンシアは苦痛に歪んだ顔でセレナを睨み付けた。セレナはその凝視を正面で受け止める。そのにらみ合いは長く続かなかった。セレナの意識が急速に失われたからである。セレナはゆらりと地面に落ち、横たわる。
「今ならっ!」
ミナは朦朧とする意識の中、剣を拾ってシンシアに突進した。息が切れ、全身は汗だくだ。剣を持つ腕の感覚が薄れつつある。だが、人間の形をしている今が好機だと思ったからだ。それにジークが続いた。
「甘いな!」
シンシアは衝撃波を払って二人をなぎ払って、壁に叩き付けた。それでも二人は意識を失わなかった。剣士の矜持がなせる業なのか、精神が肉体を凌駕している状態なのか。
シンシアはまた変化を始め竜を形作った。髪を焼かれた後のそれは以前より一回りは小さく見えた。
その後背からアーディルが短剣を投げ、ファティマが呪符を放った。ほとんど効果はなかったが魔物の注意を引くには十分だった。意識を失ったセレナから引き離す必要があったからだ。魔物は二人に火炎を浴びせた。俊敏な二人は辛くもそれを交わしながら、手投げの剣と呪符で対抗する。それにミナとジークが加わって応戦した。
四人の体力が限界に達して壁際に追い込まれ、ひときわ大きな火炎が浴びせられようかというその瞬間、吐き出されたのは火炎でなく、魔物の悲鳴だった。
意識を取り戻したセレナが、まだ半身を起こした状態で無数の氷の刃をはなったのだ。その刃が無数に突き刺さった魔物は全身を硬直させる。
氷の刃はすぐに解け、その後には魔物の血液がほとばしった。
「今だっ!」
ジークが吠えた。三人の剣士は最後の力を振り絞って硬直した魔物の首を切り落としていく。息は乱れ、剣を握る腕の力はたしかではなかったが、返り血にまみれながらも八体あった竜を中心の一体を除いてすべて切り落とす。
魔物は、その姿をとどめる事ができなくなったのか、徐々にシンシアの身体に戻っていった。その彼女のすがたは艶やかな緑の髪はずたずたに切り刻まれ、全身が赤く血で染まっていた。荒れた息であごは上がり、肩は激しく揺れていた。
だが瞳は鋭く、いまだ起き上がれないセレナを激しく睨み付けていた。
セレナは正気を持った目でシンシアの視線を受けた。静海のような深い瞳だった。
が、それゆえシンシアは逆上した。
「セレナッ!」
シンシアは重くなった体を引きずって彼女に近づいていった。だが、彼女の鬼気迫る表情とセレナの危険にジークとアーディルが立ちはだかり、彼女に斬り付けた。二度三度の斬撃には彼女は止まらず、四太刀目、ついに力尽きて仰向けに倒れた。最後の執念というべき行動だったかもしれない。
その姿にセレナはようやく立ち上がり、シンシアの側へ寄る。ミナとファティマも安堵のため息と共に駆け寄ってくる。
シンシアはすでに虫の息だった。だが、セレナが近づくと瞳をその方向に向けた。だが、すでに瞳に光りはなく焦点は合っていない。もう見えていないのかもしれない。セレナの方へ瞳を向けたのは、何か引き合う力が彼女たちにあったからかもしれない。
「セレ、ナ……も、もし、真実、を……もう少し、は、早く、知る事が……で、できていれば……こんな、結果には、ならなかった……か……も……」
セレナは荒い息を殺して沈黙していた。
「……も、もし、も……わ、たし達が、この、ような……宿め、い……で、無けれ……ば……姉妹、が殺し、あう……こと……も……」
そこまでだった。苦痛に歪んでいたシンシアの表情が力なく緩んでいく。もう、彼女に生きる力はない。最後の表情は穏やかな微笑みがセレナに向けられていた。
「セレナ、このヒト、ってまさか……」
ファティマが恐る恐る聞いた。だが、その声はセレナに届いていなかった。
じっとシンシアの死に顔を見ている。
穏やかな、親しみのこもった微笑み。それがセレナに向けられていた。
セレナは音を聞いた。心の中で何かが切れたオト。
「うわあああっ!」
セレナは弾かれたように手にした剣でシンシアのその微笑みを滅多刺しにした。
ミナとファティマは思わず目をそらした。魔物とはいえシンシアの姿は人間である。その残酷さに少女たちが耐えられないのは無理も無い。
セレナは発狂したように奇声を上げてなおも剣を振るった。
「おいっ、セレナ!」
アーディルがセレナの腕をつかんでとめた。
セレナはゆっくりとアーディルの方を向いた。だが、アーディルを見ていなかったかもしれない。アーディルはその彼女の瞳の中に狂気が揺れているのを垣間見た。セレナの口元はかすかに笑っていた。
数瞬後、セレナは涙をこぼしていた。
戦い終えた五人はしばらくその場に座り込んで沈黙した。口を開くのも億劫なほど疲労していたのもそうだが、壊れそうな空気がどんよりと立ち込めているからだ。
しばらく、時が過ぎた。
「ね、ねえ、セレナ……何時から、知ってたの?」
ミナが恐る恐る尋ねた。セレナは沈黙を守ったままだった。
「あの森の夜のとき……」
「ちがう、そのヒトは敵よ。憎むべきガイアの一族」
セレナは感情のない声で言った。ミナは何も言えなかった。
四人に背を向けていたセレナはちらりとだけ、仲間を見た。皆が見ていた。
セレナはふらりと立ち上がった。彼女はシンシアとの戦いで右足を負傷した。骨折のような痛みではないが、間接が違和感と痛みを訴えていた。
「行こう。あまり時間が無いと思う。セシルも心配だし……」
彼女は足を引き摺りながら、闇に続く奥の回廊へ進みはじめた。
四人はその悲壮な後ろ姿を眺めて立ち上がった。
「セレナ……」
ファティマが苦しげにその名前を呼んだ。
刹那、その四人を一陣の黒が抜けていった。
大鷲のような体躯のカラスだった。それは風の速さでセレナに跳んで行く。
「セレナ! あぶないっ!」
ミナが叫び、駆けた。
だが、もう遅い。
声に振り返ったセレナは眼前に巨大なカラスをみた。自然のものではない。彼女は直感した。
「きゃあああっ!」
カラスはその大爪でセレナの胴をがっしりとつかむと、そのまま低空を滑空するように奥の回廊の闇へ消えてゆく。セレナの悲鳴とともに。
「くそっ、しまった!」
アーディルが舌打ちした。明らかに油断があった。敵地でありながら。そんな自分を責めるとともに焦燥の炎が彼の胸を焦がす。思うか否か、彼は弾けるように駆けはじめていた。
「追うぞ! 急げ!」
残る三人も彼に続いた。疲労と受けた傷は彼らの身体を重くしたが、セレナは彼らの仲間で親友だった。不平を言うような者は誰一人としていない。たとえ、彼女が人間とは異なる者であったとしても。
が、それをセレナはすべて理解していたわけではない。
シレーヌは肩で大きく深呼吸をした。新鮮な酸素が肺に満たされ、血液を解して全身の細胞へと送られる。それだけで乱れていた息が常の息に戻ってしまう。
「随分と時間を取られてしまった……追いつけるかしら」
小さくため息をつく。彼女の周りには人ではない、人によく似た生き物の骸が無数に転がっている。多くの地を旅し、広く見分を持つ彼女だが、このような生き物に出会うのは始めてだ。黒光りする鱗に包まれ、奇妙な剣を持って襲い掛かってきた彼ら。
「急ごう、ここはかなり危険なところらしい」
ラルフが歩み寄り、淡とした声で言った。表情や声に常の緊張感の無さが彼の特徴だが、彼の持つ独特の雰囲気が彼女に彼の真意を伝える。
「そうね、ファティマが心配?」
シレーヌはおどけて言った。二十三の彼女だが、大人と少女が同居したような性格の持ち主だ。剣士として腕は大陸でも指折りだが、冴える頭脳の持ち主なのだ。そういった態度も計算のうちなのだろうか。
「そういう訳じゃないが」
「もうすぐ三十路を迎えるわりに青い反応するのね」
「三十にはまだたっぷり一年以上あるぞ」
「たったでしょ、いっしょのようなものよ」
ラルフはぐうの音も出ずに頭を掻いた。シレーヌには一生かかっても勝てないと本気で思う彼である。そういった問答では。
だが、彼も彼女も知っている。一息の休息の後、先に進んだ五人を追って走りはじめた。
どれくらいの距離をカラスに捕まれたまま飛んだのか、闇の回廊を進んだセレナにはにわかには判断できない。だが、長くも短くも無い時間だった。闇は一点の光が見えたと思えば、彼女は光の中に包まれた。そこでカラスがホバリングの体勢に移る。
と、唐突に彼女の身体は宙に投げ出される。巨大なカラスは一瞬にしてたった一枚の黒い羽に姿を変えた。
たいした高さではなかったが、急な事だったのでセレナは床に倒れ込む。
「あのシンシアを倒すとはね……さすがに私が見込んだだけの事はある」
その声は広い地下室にこだました。聞き覚えのある声にセレナは顔を上げる。屈辱の記憶。忘れようも無い。
「アルフレッド!」
セレナは低く叫んだ。首をもたげると、祭殿のように高く階段状に積み上げられたところに彼はいた。見下ろすかのように見られていた。
セレナは目線を合わせたまま、立ち上がった。先の戦いでの戦闘での疲労と怪我が不満を訴えたが、彼女はそれを無視した。だが、その活力の無さは、アルフレッドに見破られたかもしれない。彼はにやりと笑った。
「真のガイアの力に目覚めた彼女を倒すとはね。私も彼女の領域までは達していないのにな。『想い』の力とはかくも偉大なものだとは」
端正な顔に彼はうっすらと笑みを浮かべている。まるでシンシアの死ですら、茶番の劇中の出来事のように。不思議とセレナはそれが不愉快だった。シンシアが実の姉であるなしにかかわず、人の命をなんとも想っていない彼は不愉快だった。
「彼女は死んだのよ!」
「殺したのはあなただ。私じゃあない、彼女とは血がつながっていたんだろう、君と?」「そんなことは関係ない!」
「まあ、いい」
アルフレッドは階段を降りてセレナに歩み寄った。だが、まだ距離はある。セレナは注意深く彼を見つめた。
「セシルは……セシルをどうしたの?」
セレナの問いにアルフレッドは軽い驚きの表情を見せた。彼女の言動を予想しなかったわけではなく、単に意識の中にセシルの事が欠落していただけにすぎないが。
「ああ、彼か」
彼は冷笑を浮かべると視線を後方にやった。そこには巨大な紫水晶の円柱がいくつも並んでいる。透明度の高い紫水晶の中には、何かが埋まっているかのようにそれぞれに何かが中心に存在していた。
セレナは胸に焦燥を感じた。冷たいものが彼女の身体を貫いていく。
「近づいてよく見てみるがいい」
アルフレッドは笑みを浮かべたまま、彼女を促した。セレナは注意深く、だが彼の言葉の通りに紫水晶の円柱群へと足を進めた。だが、進むにつれて彼女の表情が劇的に変化する。
「なん……て、こと……」
水晶に入っている何かは、ヒトだった。紫水晶を通しても彼らは鮮やかな緑の髪を持っていた。そしてそのすべてが、心の臓を抉り取られている。
「一番奥を見たまえ」
「セ、シル!」
セレナは愕然とした。すべての力が抜けていく感覚に襲われた。
彼女の瞳に映ったのは、まだ思春期に入るかどうかという年頃の少年セシルの亡骸だった。
「実は、採生の生け贄は後一人というところまできている……後一人で封印されたガイアの一族はすべて開放される」
セレナは無言でうなだれた。長い髪はやわらかに落ち、彼女の表情を影の奥へとかくす。
「そこで、セレナ。私は君の美しさと才能を知り、君が欲しくなった。シンシアもいない。君とともにガイアの封印を解き、君や私たちを迫害した人間たちを駆逐しようではないか」
アルフレッドの瞳が怪しく紅く光る。
セレナは急に違和感を感じて左手で頭を抱えた。
「何? この、感覚?」
セレナには迫害されるガイアの一族の映像が見えていた。迫害され、生地を追われ、時にはひどい拷問の上、殺された者……
数瞬の間であったのかもしれない。
セレナは荒々しい息で立ちすくんでいた。
「さあ、セレナ……私の元へ」
セレナはよろめいた。何かが彼女の中で光を与えている。アルフレッドが与える闇の中で彼女の心はまだ闇に染まりきらぬ何かが騒いでいる。
違う、私はそんな事を望んでここに来たんじゃない。私には仲間がいる。アーディルやミナ、ジーク……ファティマ……私は彼らに嘘をつき、裏切るのかもしれない。けど、アルフレッドの言うような事を望んでいるわけじゃない!
「いやだ! 私はあなたのような事を望んじゃいない。確かに彼らが私たちの一族に与えたことは許したくない。許されるべきものじゃない」
セレナはきっとアルフレッドを睨み付けた。アルフレッドはすでにセレナのすぐ側まで近寄ってきていた。アルフレッドは冷笑を浮かべ、セレナを見下ろした。セレナはわずかに後ずさりながら、油断なく身構えていた。
「私には仲間がいる。たくさん、たくさん助けられた。彼らも人間よ!」
アルフレッドは冷淡な表情のまま、右手を動かした。そこから衝撃波が放たれ、セレナはホールの柱まで飛ばされて打ち付けられる。
セレナは片ひざをついて、倒れ込むのを耐えた。
「しかし、だ。彼らが君の本性を知ったら、どうかな? シンシアの姿を見て、彼らはどう想っただろう?」
セレナは背筋が凍る想いがした。
さして遠くない過去が彼女の脳裏に浮かぶ。彼らがシンシアの本性、その姿を見てどういう態度を見せたか、どんな言葉が彼らの口から飛んだか。そして紛れも無く、シンシアと同じ血がセレナには流れている。セレナは自分に魔性の血が流れている事をすでにはっきりと認識していた。
セレナの瞳孔が正常ではない収縮を繰り返した。軽く震える彼女からは異様な気配が流れはじめていた。
生まれ育った故郷。両親、友人、自分のせいですべてを失った私。
でも私が何をしたというの?
すべて失った後に現れたアーディル。ミナ、ジークみんな……やっぱり私はまたすべて失うの?
でも私が何をしたというの?
彼らが私の本当を知ったら、私はどうすればいい? 違う、彼らが、私をどう扱うの? やっぱり私は……
私はずっと失う事の宿命を負ったまま生きていかなきゃいけない。
もう……もう、いい。
すべて、終わってしまえば……
それは、それは凄惨な赤だった。
セレナの瞳がアルフレッドを見た。紅の光が彼を貫く。
「な、に?」
アルフレッドは驚愕した表情のまま硬直した。すべての筋肉が運動神経の伝達に逆らい、まったく動かす事ができない。焦燥の中、アルフレッドはセレナから発せられるまがまがしいまでの魔力を感じ取った。ろくに動かなくなった表情がぎこちなくこわばった。
それを見てセレナはにやと笑ったのかもしれない。
彼女はゆっくりと彼に近づき、拳をみぞおちに食い込ませた。
アルフレッドが激痛に声も出せなかった。かわりに肋骨の数本が悲鳴を上げて折れた。少女の膂力とは思えないそれが数発、彼の胸部と腹部に叩き込まれた。
と、アルフレッドを戒めていた力が解き放たれる。彼はそのまま崩れるように床に倒れた。苦しげにセレナを見上げると目を細めて微笑む彼女がいた。
「痛い?」
無邪気な声にアルフレッドは恐怖した。セレナは彼を見下ろし、微笑んでいた。
彼女は正気ではない。そしてガイアの一族の力が関与して、人ではない力を与えている。
アルフレッドもガイアの一族である。その力を解放してセレナから逃れようとした。
「だめ、そんな力じゃどうにもならないよ」
アルフレッドの衝撃波をそよ風を受けるかのようにセレナはさらりと受け流し、彼のからだを持ち上げると嬲るように打撃を与えた。
「セレナ!」
その惨劇の中、アーディルの声が鋭く飛んだ。
セレナはぼろぼろになったアルフレッドをつかんだまま、肩越しに彼を見た。彼に追いついてミナやジークが駆けてきた。
セレナは信じられない事に片腕でアルフレッドを投げ捨てると四人の方を見て微笑んだ。
「セレナ……」
ファティマはセレナの異常に気づいて震える声でつぶやいた。
「すべておわったよ、アーディル。セシルは死んじゃったし……アルフレッドも懲らしめておいたし」
「おい? セレナ?」
「皆も帰った方がいいよ。ここはニンゲンのいる場所じゃない」
「正気じゃないのか?」
ジークがいぶかしげにつぶやいた。
と、セレナの懐から光が漏れた。同時に腰に携えたガイアの剣からも紅く激しい光りがほとばしる。
「何? すごい……すごい魔力!」
ファティマが青ざめて叫んだ。光を放つそれらから強烈な波動を彼女は感じているのだ。
「この、まま、おわってなるものか!」
祭殿の奥へと投げ飛ばされたアルフレッドは血まみれになりながらも何かの呪文を詠唱していた。彼の手には拳大の宝玉が握られている。ここにはガイアの残した三つの鍵となるモノが存在していたのだ。
「さ、最後の贄は、私……になろう、とは……いや、それも、おもしろ……い」
一段と彼の持つ宝玉の光が輝きを増した。その閃光に包まれるかのごとく、彼の命は燃え尽きていった。
「アルフレッド!」
セレナは事態を把握したのかアルフレッドの方を睨み付け、波動を放った。
「も、もうおそい。これで奴等は復活する……ニンゲンを滅ぼせ……」
「くっ! うわああっ?」
突如、セレナは頭を抱えて苦しみはじめた。
光は一段と光度を増し、離れた距離に入るアーディルたちにも直視するのはかなわない。光はすべてを包み込むかのように際限無く広がり、あまりの眩しさにアーディルたちは気が遠のいていった。
その刹那。
光の奔流は何も無かったかのように収まっていた。
「何が起こったの?」
誰も答えようの無い事はわかっていたのかもしれない。だが、ミナは声に出さずにはいられなかった。しんと静まり返ったホールの中心ではセレナが倒れている。
「セレナ?」
アーディルが駆け寄る。
「おい、セレナ。大丈夫か?」
「アーディル……」
セレナはかすかに目を開く。いつものセレナの瞳の光だ。アーディルは安堵のため息を一つついた。
「まずい、まずいよ……アーディル。扉が開いちゃったよ……封印が……」
「扉?」
セレナは涙目で訴えた。だが、アーディルには何のことか見当が付かない。
「何だろう……変な感じ……」
「どうした?」
ファティマは目を丸くしてきょろきょろとあたりを見回した。いつも持っている感覚の一つが欠けている。彼女のような魔術の力を持っている人間は五感のほかに霊感的なものが非常に鋭い。それが欠けているのだ。
「さっきまで、突き刺すような魔力を感じてたんです……けど今は、それがまったく……」
ジークの声にファティマは驚いた表情を固まらせたまま、つぶやくようにこたえた。
「きえたのか?」
「いえ、私自身の感覚がおかしい、って感じで……何か感覚のひとつが麻痺しちゃってるような」
ファティマは不安げにあたりを見渡した。
「当然よ、ファティマ。今、いつもみたいな感覚を持ってたら、気が狂いそうになるわ……」
セレナが静かに言った。彼女は何かを感じ取っているようだった。暑さからではない、額の汗の雫はおびただしい量になっている。
古い扉が軋むような音。
しかしこの場所に扉などセレナたちは確認していない。
「な、何?」
訳のわからない恐怖にミナが思わず声をあげた。人間は恐怖や不安に耐えられなくなると何か口走ってしまうものだ。今の彼女がその状態だった。
「来た……」
セレナが枯れた声でつぶやいた。
その刹那、空間が裂けたのだ。今セレナたちが存在する空間に、違う空間からの干渉が生じ、空間がねじれて裂けたのだ。
その避けた空間から、一人の老人が出てきた。その老人はセレナのような緑の髪を持っていた。彼女と違うところは彼の皮膚は緑がかって不健康そうというよりは、爬虫類のぬめりを持ったそれに酷似していた。
「我は『門番』。長らくこの門が開かれることを我々は悠久の時間が存在する闇で待ち望んでいた。礼を言わねばならぬな……子孫よ」
その老人は「こちら側」の空間に降り立った。近づくと意外と老人の体は大きく、ジークより二周りほども大きい。目は鋭く光っていて爬虫類のそれを思わせた。少なくとも、人間ではない。
「くっ……」
セレナは唇をかんだ。老人、門番が言っていることは彼女のことだ。
おそらく彼は伝説上で語られる、封じられたガイアの一族だ。かつてこのアルカーティスに君臨していた彼らは、伝説では人間の魔道師たちによって、異世界に封印されたとする。そしてアルフレッドの言動から察するに、その封印が今解けたことになる。
「脆弱なる人間どもに我々が封じられるとは。神器の魔力を侮った我々がおろかであったか。しかし、その神器を用いてまた、我々の封印をとくことができようとは、因果なものだ」
門番は愉快そうに笑った。
「礼を言う、子孫よ。そなたは我々をこの地に帰した者として、未来永劫語り継がれよう、そして我々の王になってこの大陸を支配するのだ」
門番はしわがれた手をセレナに差し向けた。
「違う。私はあなたたちを呼んだんじゃない。こんな扉、解きたくて解いたわけじゃない!」
セレナは風もなく髪を逆立てた。瞳が一瞬、朱色に染まり、衝撃波を放つ。
だが門番の老人は彼女の放った衝撃波を受けて、平然とその場にいた。
セレナの表情が驚愕に硬直する。
「どうした子孫よ……私よりも強い力をもった仲間は次々に現れようぞ」
門番の老人は唇の端を醜くゆがめて笑った。
「だめよ……そんなのが現れたら……みんな殺されちゃう」
セレナは愕然とつぶやいた。彼女は今、世界が、人間たちが滅びに瀕している事を悟った。ガイアの一族の怨恨が人間に向って吐き出されるようなことになれば、人間はこの大陸からいっそうされるだろう。
「大地を護りし我らを闇の深淵においやり、のうのうと大地の富をむさぼり汚す人間どもを滅ぼすのだ」
人は大地を焼き、己の欲望のままに大陸を汚している。それは滅びへの緩やかな道だ。ガイアの一族はそれを護っている。大地の力を有効に引き出し、文明に転化する力を持っている。セレナにはそれを本能的に知っていた。
かつて大陸はガイアの一族とそれに隷属する人間たちで豊かに暮らしていた。
今では砂漠となった大陸の大部分は緑と水の豊かな土地だった。
この大陸にガイアの一族が消えたとき、大陸の乾きは始まった。
「でも、私はこの人たちの生きてきた! 私はあなたたちの王なんかにならない! 人間たちに復讐もしない!」
「子孫よ、この大地がどうなろうとよいのか?」
「そんなこと、今の私には関係ない!」
セレナは連続して衝撃波を放った。それは門番には微々たる影響しか及ぼさなかったが、宣戦布告にはなった。
「愚か者よ。人間の器に入った魂程度で我々に抗うことなど叶いはせぬぞ」
門番の両手に魔力が集中する。
「セレナ、あいつは敵なのか?」
アーディルが聞いた。
「アーディル、みんな! お願い、あいつを倒して。じゃないと……」
セレナの言葉をさえぎって、アーディルが彼女を抱えて跳躍した。一瞬、いや半瞬遅れて巨大な火球が彼の肩を掠めて行く。その後ろに居たミナたちもそれを間一髪で避けた。その威力はこの地下神殿を揺るがすほどの威力だ。直撃を受けたら跡形もないだろう。六人はその破壊力に戦慄した。
「くそっ、ここに入ってからとんでもないことばかり起こりやがる!」
ジークは毒づいて大剣を抜いた。
火球を避けると同時に六人は門番の老人を取り囲むように跳んでいる。多対一の戦術として包囲はきわめて有効な手段だ。
「愚か者め」
老人はにやりと笑い、掲げた右腕をゆっくりと振り下ろした。
地下にできた巨大な空間に轟音がとどろく。
その刹那、六人は巨大な雷にその肉体を討ち抜かれていた。
激痛に悲鳴すら上げることもできず、六人は放電しながら陸に上がった海老のように床を転げ歩いた。が、それも長くは続かず、やがてぐったりと地面に四肢を横たえた。
意識が白濁としていた。
セレナは気づくと真っ白な霧の中で呆然と立ち尽くしていた。
前方に影が四人、見えた。それはだんだんと彼女に近づいてくる。そしてそれは、彼女がよく知る四人だった。
「みんな……」
彼女は不思議そうに声をかけた。だが四人は反応なく、彼女の横をすり抜けていく。
そして、過ぎ去ろうとする。
セレナは悪寒が背筋を駆けぬけて行くのが分かった。
「アーディル! ジーク! ミナ! ファティマ!」
セレナは絶叫した。
「そっちには、そっちには行ってはだめぇっ!」
セレナは朦朧とした意識を石畳の冷たさで取り戻した。体は動かそうとすれば、筋肉と言う筋肉、関節という関節が激痛を訴えた。それでも次第にはっきりする意識が状況を彼女に教えた。
首をもたげると、門番の老人が驚きの表情で彼女を見下ろしていた。
「まだ息があるというのか……」
老人は驚いてセレナを見た後、ほかの四人も彼女のようにまだ這いつくばったままだが、それぞれに動きを見せている。老人は思いのほか驚愕していた。
アーディルは雷撃を食らった後、意識を暗闇の中に落とした。
安らかな空間に導かれた後、妹ティナの面影を見た。それに誘われるような感覚に陥ったが、その直後セレナの叫びを聞いた。遠い声だったが、彼にははっきりと聞こえた。
そして、彼は意識を取り戻したのである。
ほかの三人も、同じような感覚を覚えて、セレナの声によって意識を取り返したのである。
「くっ……みんなは……無事、なのか?」
アーディルはよろよろと立ちあがりながら、散った仲間を確認した。ほかの四人もなんとか立ちあがっている。あれだけの衝撃に耐えられたことは奇跡に近いと思った。体力的に不安のあるファティマも無事のようだ。
「よかろう……すこし相手をしてやるとしよう」
老人は不敵に笑い、地面をすべるように移動した。歩いているのではない、地面からわずかのところを、文字通りすべるようにセレナに接近して行く。
セレナははっとして、印を結び、火球を放ちながら逃げた。火球の威力は申し分ないものだったが、それは老人に直撃する寸前で、彼の体は瞬間的に横にずれて避けた。
「なっ?」
「無駄だよ」
老人は笑い、そのしわがれた右手に光の杓杖を作り出した。その杓杖の魔力に悪寒を感じたセレナは逃げ出した。だが、彼女が駆けるのは先ほどのダメージがあるのか、老人よりわずかに遅い。
「させるかっ!」
まるで図るかのようにアーディルとミナが同時に左右から老人に斬りかかった。速度、タイミングとも申し分なかったが、彼らは老人の寸前で見えざる力に捕まえられたかのように進めなくなる。
「な……によ、これ……!」
ミナが歯軋りをしながら、力任せに老人に斬りかかろうとした。
その刹那、二人の体はふわりと浮き、壮絶な勢いで吹き飛ばされた。
アーディルはそれでも身軽に体制を立て直したが、ミナは不幸にも飛ばされた方向に石柱があって、それにしたたかに体をうちつけた。
老人は二人にかまわず、セレナに直進した。
光の杓杖が彼女に向かって伸びた。とっさに身を翻したセレナは直撃は免れたものの、杓杖が石畳を砕いて爆発した。それに巻き込まれたセレナはもんどりをうって倒れた。
「げほっ!」
「くそっ、奴は一人一人、なぶり殺しにするつもりだ! 一対一じゃ、俺たちに勝ち目はないからな!」
せきこむセレナを見て、アーディルが汗をぬぐいながら叫んだ。
老人は動けないセレナに接近した。
だが、空を切り裂く音がホールに響く。
ジークの大剣だ。
横凪にはらわれたその威力は絶大だが、またも老人に直撃する手前でその動きを止めた。
老人はにやりとジークを見た。
だが、ジークもにやりと笑う。
「……う、おおおりゃぁっ!」
鍛えに鍛えた筋肉が盛り上がり、すさまじい膂力が大剣を伝わって、老人の作り出した空間すらを捻じ曲げた!
老人の衣服の一部が千切れ、緑の体液がわずかだが、流れ落ちた。
「人間にしては、やるな」
老人は手のひらで一瞬にして火球をつくりあげ、ジークに直撃させた。
すさまじい威力にジークは吹き飛ばされ、壁にたたきつけられる。
髪と肉がこげる、いやなにおいが漂った。
「ジーク!」
セレナの悲鳴のような声が辺りを切り裂いた。
「やはり人間を侮ってはならぬな。過去を繰り返してはつまらぬ。やはり全力を持っておまえたちを葬り去るとするとしよう」
杓杖を振り上げた。セレナはそれを跳んで避けようとしたが、右足に激痛が走った。シンシアとの戦いで痛めたのを、先ほどの爆風でさらに痛めたのだ。
だが、杓杖は振り下ろす直前で止まった。
老人の四方に式札が浮いている。ファティマの結界だ。
「おのれ、小癪な」
動きを封じようとするファティマに老人は鋭い眼光を向けた。魔力がほとばしり、ファティマを貫く。ファティマも必死に呪詛を唱えて、老人に張った結界を維持しようと試みた。
しばらくの見えざる攻防のあと、ファティマが小さく悲鳴をあげて四つん這いに倒れこんだ。心がばらばらになりそうな衝撃にファティマは球のような脂汗を流して、床に落としていた。
「ごほっ」
口の中に鉄錆の味が広がる。
なおもセレナを狙う老人にアーディルが手投げ剣を何本か放った。
それはほとんど効果をなさなかったが、老人の注意を引くには十分だった。彼がかずらわしそうにアーディルのほうへ向き直ったとき、背後からミナが跳びかかって斬りつけた。
「やったっ!」
ミナは確実に手応えを感じた。
が、
「愚か者め!」
老人は至近距離で衝撃波を放った。
近くに居たセレナ、アーディル、そしてミナが吹き飛ばされる。
ほとんど接触状態だったミナは勢いよく壁にたたきつけられ、一瞬意識が遠のいた。そこに連続して衝撃波が小柄な彼女の体を襲った。
悲鳴すら上げることもできず、壁際で踊るように強大な力がたたきつけられた。
そして彼女の死の舞踏が終わると、ひざから彼女はゆっくりと倒れこんだ。
「ミナ!」
悲鳴のような声を上げてファティマが彼女の元へ走った。未だファティマは心臓を握りつぶされたかのような激痛が残っていたが、必死になってミナの元へ駆け寄った。 彼女がミナを抱き寄せて顔を覗き込むと、血色のいいはずの彼女の顔が真っ青に青ざめ、唇は死人のように冷たくなっていた。
「だめ、だめよ、死なないで……」
ファティマは呪符を出して、ミナに祝詞を唱えた。
死なせはしない……!
そう彼女は強く念じて祈った。
「厄介な呪術師め」
老人は二人に衝撃波を放った。
ファティマはミナを護るように、自らの体を盾として曝した。
重い衝撃がファティマの体を貫いていく。
皮膚の内側からそぎ取られるような激痛に彼女は意識を失いかけたが、ミナへの祝詞を止めなかった。全身から傷口が開き、白い体が赤く染め上がっていた。
「アーディル、ごめん……もう……」
セレナの元に駆け寄ったセレナはミナとファティマ、ジークを見つめてつぶやいた。
そしてかすかに唇を動かす。
「なんだって?」
アーディルが聞き返す。しかし、セレナのほうを見た彼はすぐに視線をそむけねばならなかった。セレナの瞳は紅く輝き、その明度のためか徐々に白に変わっていく。その光の強さにアーディルは直視することができなかった。
その閃光の中でアーディルは軽く跳ね飛ばされたように後方へ跳んだ。
その刹那。彼の目の前には巨大な竜がそびえたっていた。
緑の鱗を持ったそれは、記憶に新しいシンシアのものと酷似していた。
アーディルは、それが、セレナであると超感覚的に悟っていた。
竜は呆然とするアーディルに一瞬視線を向けたようだった。だが、全てを立ちきるかのように竜は老人に向かって前進した。
「な、なんなのこれっ?」
ホールの入り口からシレーヌの声がした。
この光景を見て驚かぬ者など居ないだろう。だが、逆にその声によってアーディルは我を取り戻した。
竜と老人は人知を超えた戦いを繰り広げていた。魔力と魔力の応酬が大地を揺るがし、この地下空間すらもきしませていた。だが時間が経つにつれ、かつてセレナであった竜が徐々に押されている。
「俺たちは、勝てないのか」
アーディルは苦しげにうめいた。
シレーヌは老人のほうに視線をやって口の中でうめいた。あれが、敵。彼女には老人の魔力を感じることはできなかったが、老人の強さをというものを肌で感じることができた。そして、彼女の力はそれに遠く及ばぬことを彼女自身知っていた。
彼女はあたりを見渡すと、際で崩れるように座り込んでいるジーク。冷たい床で倒れているミナ。彼女の前でようやく立っているのだろう、傷だらけのファティマ。このホールには死の香りが満ちている。かつてシレーヌはこの匂いを嗅いだ事がある。負け戦の戦場で。そしてここには逃げ場はないと彼女は考えていた。
ラルフはその場にたどり着くなり、ファティマの元へ駆けた。
「ファティマ……しっかりしろ」
ファティマは意識が朦朧としながらも、最愛の男の声を聞いた。痛覚はすでに人の限界を超えて鈍い感覚だけが全身を襲っていた。
「ミ、ナは……」
ファティマはあえぎながらラルフに問い掛けた。かすかな声を聞き分けたラルフはファティマの背後で横たえたミナの姿を確認する。
彼女はかすかだが、小さな胸を動かして呼吸をしていた。
「ああ、よくやったなファティマ。彼女は無事だよ」
ラルフはやさしげに言った。ファティマはそれを聞いてやわらかな笑みを浮かべた。混濁した意識は徐々に白くなってゆき、不思議な快感すら感じながら、彼女は意識を失ってラルフに身をゆだねた。
「あとは私に任せてくれ」
ラルフはファティマをミナに添うように寝かせると、剣を抜いて老人のほうへ向き直った。
やがてセレナが変身した竜と老人の戦いの帰趨は決まり、老人が放ったひときわ大きな爆発光が竜の体を包むと、その光が収まった後には竜の姿はなく、ずたずたに傷ついたセレナの姿があった。彼女は最後の矜持か、倒れこむことをか細い両足で体を支えていた。 だが、老人も傷つき息も上がっていた。老人はゆっくりと右手をかざし、セレナにとどめの一撃を加えようとした。
「くそっ!」
アーディルが俊敏に駆けた。それと同時にシレーヌが老人に突貫をかける。
シレーヌはこの事態に及んでいまだに恐怖というものを覚えぬ自分に嘲笑すらしていた。剣聖という大陸随一といわれた武家の家に生まれ、女子でありながらも剣士としての力を幼い日から植え付けられたのだ。そして、剣士にとって一番感じてはならない感情。それは恐怖だった。それは筋肉を硬直させ、思考を止める、そしてそれらは敗北を至らしめる。それは剣士にとって不要な感情だった。
シレーヌは常と変わらぬ速さで老人に迫る。
老人はセレナに向けた衝撃波を急慮シレーヌに目標変更し、それを放つ。だが、シレーヌは空気の奔流を読んでおり、目前でそれを交わしてさらに突進した。肉薄した彼女は横なぎに剣を払う。わずかに発生していた老人の防御壁が彼女の長剣に干渉し、シレーヌの攻撃は老人の衣服を切り裂いたに過ぎない。
が、それはシレーヌのねらいでもあった。老人の注意をまったく受けずにラルフが神速の剣を放つ。それも老人はわずかに空間を捻じ曲げて対応した。
だが、二人はそのまま間合いを空けずに老人にまとわりついて攻撃を繰り返した。間合いをあけてしまっては、相手の魔法による攻撃を受けるだけだが、隣接攻撃を繰り返す限り、その選択肢はない。いつ老人の衝撃波をまともに食らうかわからぬその緊張下の中、彼らは最大限の攻撃力を発揮した。
アーディルはセレナに駆け寄った。
「セレナ! 大丈夫かっ?」
アーディルはセレナの肩を持った。セレナはその感覚が遠い昔に覚えた何か心地よいもののように感じた。セレナは傷だらけの体をアーディルに預けた。
アーディルはセレナを抱きとめると、老人とラルフ達の戦いを見た。
アーディルは冷静に思う。もし、人間の戦闘力に限界があるとすれば、ラルフやシレーヌはその限界に近い存在だろう。その彼らの力を持っていしてもガイアの一族に勝ち得ぬとすれば、もしもガイアの一族がこの先、多数現れるとすれば、人間は彼らに滅ぼされる以外の道があるだろうか。
だが、逆に思う。ガイアの一族は人間の手によって一度は封じられた存在のはず。ならば、もう一度人間の手によって封じることは可能なのではないか。そしてその方法はここで再現できるものなのだろうか。
「アーディル……賭けて見る?」
セレナはアーディルの胸の中で彼を見上げた。
アーディルは驚いて彼女の顔を見た。アーディルは先ほどの考えを口に出したわけではない。思考を読まれたのだろうか? それとも同じ考えを抱いていたのだろうか。そんなことはどうでもよいことだと彼は思った。
「ああ、この際何でもやってやるさ」
アーディルは笑みを浮かべた。いつもの彼の不適な笑みだった。セレナはそれを見て自分の中で得がたい満足感を得ていた。
「アーディル、これを」
セレナはアーディルにガイアの剣を押し当てた。かつて人間達がガイアの一族を封じたとき、神器として使われたものだ。それをセレナもアーディルも知らなかったが、セレナはこれをファーニアから受け取ったときから、得も知れぬ感覚を感じ取っていて、それがこの地で確信に変わっていた。
「彼が攻撃に転じる瞬間、彼の防御フィールドが一瞬解放される。その一瞬を狙って剣を……あとは私に任せて」
セレナは瞳を小さく揺らせながらガイアの剣を握る彼の手に自分の手を添えた。
「……ああ、信じてるぜ」
アーディルはそう言い残すと疾走した。
正面から突っ込んだシレーヌが見えない力に鷲掴みにされた。人の力を持ってして抵抗するには酷な圧力が彼女を締め上げる。食いしばった歯茎から血がにじみ、彼女の体がねじれる。肺が圧迫されて悲鳴すら上げられない。シレーヌは死を感じた。
と、老人の視界に何人ものラルフが現れて猛烈なスピードで襲い掛かった。
これにはさしもの老人も狼狽した。
ラルフの幻術だ。いかにガイアの一族といえ、視神経を持つものはこの力逃れるわけにはいかない。シレーヌは脊椎を折られる寸前で解放された。
老人は衝撃波を放って幻術をなぎ払うとラルフにその矛先を向けた。ラルフは驚異的な脚力を持って老人の攻撃をかわす。だが、彼の剣は老人にたどり着く以前に老人の障壁によってはじき返される。
「こうも、剣が利かないんじゃ、勝ち目は……」
シレーヌはようやく剣を支えに立ちあがると、口にたまった血を吐き捨てながら言った。と、彼女の視界にアーディルの姿が目に入る。
なぜ今ごろ彼が?
シレーヌは驚愕した。シレーヌやラルフに比べ彼の戦闘能力は格段に落ちる。シレーヌはそう思っていた。それは彼女の自信過剰ではなく、正当な評価であった。その代わりシレーヌにできぬことをアーディルはできる。決して彼を彼女は侮っていたわけではない。そして、彼が自暴自棄に自らの行動を任せるような男ではないことを知っていた。
まあいいか、何か賭けて見るものがあるとするなら、付き合ってみるのも悪くない。
シレーヌは一息つくと、ひときわ迫力のある気合とともにもう一度老人に突貫する。
だが、すでにラルフとの連携も足並みを欠き、二人は一瞬にして弾き飛ばされる。
その時、アーディルは老人の脅威をその身に浴びることなく接近することができた。
シレーヌとラルフの隙は、この場合「あえて」老人に見せたのであった。実に巧妙でかつ辛らつなものだった。代償はラルフの左腕の骨が、シレーヌは右鎖骨が音を立てて折れるのを聞いた。
「愚か者め!」
老人はアーディルの一太刀を侮った。
だが、ガイアの剣は老人の作り出す障壁を何もなかったかのように貫いた。
老人は驚愕にしわで覆われた目を見開く。
ガイアの剣は跳躍したアーディルの手によって老人の眉間へとつき刺さった。
「大地よ! わが母なる大地よ!」
セレナがアーディルの一撃を確認すると彼女の右手にある宝玉をかざした。
ガイアの宝玉が白い閃光を放つ。同時にアーディルの手元にあったガイアの剣の装飾部分が光を放った。
「なっ?」
「なんということだ……」
老人は苦しげにうめいた。
アーディルは空中でバランスを崩し、地上へと転がり落ちる。
「鏡よ! 光の鍵となりて、封印の門を閉じよ!」
セレナは光に包まれながら左手にあるガイアの鏡を老人へと向ける。
「おのれ……われわれが蒔いた種が、まさかこのような結果を導き出そうととは……」
強烈な魔力の奔流にファティマは意識を取り戻し、セレナの放つ魔力に驚愕した。
「……セレナ!」
やがて、ホール全体を光が包み込む。
あまりの光の強さにその場にいる全員が一瞬意識を失った。
それは一瞬だったのか、長いときを経てだったのか、その場にいた彼らですらわからない。光が収まったとき、彼らはその場で呆然ととしていた。
誰も我を忘れて呆然としている中、セレナがゆらりと動いた。
正確にはバランスを崩して倒れこもうとしていた。
「セレナ!」
アーディルが駆けて彼女を受け止めた。
アーディルは余りに安らかな彼女の表情を見て、一瞬背筋を冷たくしたが、傷ついてはいるのもの、彼女は彼によりかかったまま一定の息吹を彼に感じさせていた。アーディルは半分脱力したように安心したが、次の瞬間、この場の誰しもが戦慄した。
大きな地鳴りとともにこのホール全体が揺れ始めたのだ。
「これは……崩れる?」
アーディルは愕然とつぶやいた。
ジークはいまだ意識が戻らないミナを抱えあげてアーディルのそばへよってきた。
「どうする?」
「どうするって、言われてもな」
「冗談じゃないわよ、助かったと思ったのに生き埋めってわけ?」
シレーヌが憤慨してうめいた。その間にも振動は続き柱が倒れ、天井の石版が砕けては降り注ぐ。
このままでは生き埋めは必至だった。
と、アーディルはセレナの唇がかすかに動くの見た。
何かをしゃべろうとしているのか、彼はセレナの顔に耳を傾けたが崩壊する地下神殿の轟音にかき消されて聞き取ることができなかった。
だが、彼らの頭上がついに崩れ、まさにその瓦礫が彼らに降り注ごうという瞬間、彼らは光に包まれ、再び意識を失ったのである。
乾いた砂がほほを撫でる。そんな感触にアーディルは目を覚ました。乾いた風が髪の毛を揺らしている。
アーディルは自分の身が置かれた状況が飲み込めずに上半身を起こした。
体中の筋肉と間接が悲鳴をあげ激痛に彼は我に帰った。
俺たちはあの地下神殿で瓦礫の下敷きになったのではなかったのか!
アーディルはあたりを見渡した。すぐそばにセレナがいて彼女は意識を失ったままのようだった。夕闇に包まれた彼の周りには、ジークとシレーヌ、そしてラルフが立っていた。
ここはアステ・ウォールから程近い砂漠の小さなオアシスのそばだった。
「よう、起きたな」
ジークが精悍な顔に笑みを浮かべてアーディルの様子を見に近づいた。アーディルは体中が痛んだものの、大きな怪我はなく労することなく立ち上がることができた。
「何が起こったんだ?」
「俺にもよくわからん。俺も気がついたらこのオアシスに倒れいてた」
ジークは首を横に振って答えた。
とりあえず、けが人の手当てが先決だった。ラルフやシレーヌの骨折も酷かったが、特に三人の少女の怪我が酷かった。
まずファティマとミナが意識を取り戻し、彼女の呪符の力で仲間の傷を癒すことができた。
「ファティマ、あれは魔法なのか?」
ラルフが状況を説明し、ファティマに問い掛けた。ファティマは呪法の知識は相当なものを持っていたが、七人の人を一瞬にして転移させるなど、失われた古代の呪法を紐解いても聞いたことも見たこともない。
「魔法じゃないと思います。今、あれだけの強力な呪法は残されていません……あるいは……」
ファティマはいまだ眠りつづけているセレナを見た。あるいはセレナなら、あのガイアの一族の力ならば。だが、ファティマは首を横に振った。
「あれは魔法じゃありません。けれど、私たちを助けてくれた何らかの力が働いたのは確かです。でも、それに感謝すれば、それでいいんじゃないでしょうか?」
ファティマは穏やかに言った。それは彼女が憶測するすべてであり、彼女の気持ちであり、そして皆はそれに共感して頷いた。
西に傾いていた太陽はまもなく砂丘に沈み、風は夜の冷たさを運んでくる。
一行はそのオアシスで休みを取ることにした。
というよりも皆が疲労困憊で動くことができなかったし、なによりセレナの意識はまだ戻っていなかったからだ。
だれともなく眠りに落ちていた。それほどまでに疲労が重なっていたのだ。ジークやラルフでさえその睡魔には逆らうことができず、彼らが人間であることを改めて再確認できるまたとないチャンスだった。
夜半過ぎ、アーディルは歌声に目を覚ました。
聞き覚えのある声に、首だけもたげてその方向を確認すると、歌っているのはセレナであった。彼女は意識を取り戻し、大き目の岩に寄りかかって歌を歌っていた。
彼女が時折歌う南方の古い言葉で綴られた悲しげな歌だった。アーディルはその歌詞を理解できなかったが、とにかくセレナが無事に意識を取り戻し、元気そうであることに安心した。
アーディルはもう一度横になり、セレナの歌を聴いた。
その心地よい音律と砂漠の冷たい風は、疲れきった体を再び眠りに誘った。
