かつて人類は二種類に別れていた。それは温厚な人類と暴力的な人類の二つであった。温厚な人類は高い文化を持ち、自然を「神」と崇め、原始的な宗教を築き上げた。原始農耕を始めたのも彼らである。戦闘が不得意、と言うよりは戦うことを好まぬ彼らは武器の発達が進まず、狩猟は苦手であったためだ。
一方、暴力的な人類は、特に文化を重んじない人類であった。しかし、北で生まれ育った彼らはきわめて「生」にシビアであり、その環境に屈するものは「死」を選ぶしかなかった。そうして、彼らは戦闘力を身につけ、好戦的な精神を得たのだ。
のち、二つの人類は人口が増えるに連れて争うようになった。無論、戦争を得手としているのは暴力的な人類である。いくつかの交配から大量の雑種が生まれたが、それでも、戦闘を狩猟のみにしか知らぬ温厚な人類は、地上から消滅した。
以来、人類の歴史は血と争いで溢れている。それは好戦的な人類が生き残ったからである。以後も歴史は血と争いにまみれるだろう。それはヒトが避けられぬ道である。
-カランダ市生没 戦史家・F/ヴィルヘルム「人類の罪」より-
藍を混ぜた鉄灰色の髪を持つ陰遁の知者、ハインツはいつものように王宮内をぶらぶらと歩いていた。ぼんやりした瞳は、何かを考えているようで、実は何も考えていない。彼を知らぬ者は、知的活動に励んでいるのか、と過大評価をしてしまうが、彼を知るものは、彼が怠けているだけだと言うことを知っている。そんな彼が若くして中将の階級にあると言うことは彼の才能を推して知るべしである。が、彼の日頃を観察すれば、その真意は疑わしくなってしまうが……
このとき、ハインツは颯爽とした足取りではなかったが、一つの目的地を目指していた。とは言え、それは王宮内であるために数分も経たぬうちにその箇所へたどり着く。
「遅いぞ。半刻の遅刻だ。人を待たせるのは得意技なのか?」
背の高い、鎧に身を包んだ青年がハインツの姿を見つけてつぶやいた。
「わるいわるい。まあ、私とおまえの仲じゃないか。ローズハルト」
ハインツは少しも悪びれた様子もなく、笑って手を上げた。
彼が待たせた青年の名はサー・セーヴル・ローズハルト。聖騎士と言う、騎士よりは上で貴族よりは下という身分を受けている男だ。「美男子の聖騎士」と言う、同年代の女性からのあだ名にふさわしい容姿を持っている。それを聖騎士の鎧と外套で長身を包んでいるのだから、映える。
彼の階級は准将で、ハインツよりも二つ階級は下だったが、年齢はローズハルトが一つ上だった。それらには関係がなく、二人は旧知の仲で、兵法学の同門の親友だった。この時代、仕官学校と言うものはなく、引退した名士の元で兵法を学んだりすることが、仕官への道だった。カランダ王国の場合、仕官試験というものがある。平民でも騎士でも貴族でも、それを通れば仕官になれると言うわけだ。ただ、仕官に上流騎士や貴族が多いのは、コネという力が非常に強いためである。
「俺はおまえと違って忙しい身なんだ。そんな俺を暇そうなおまえが待たすとは、罪悪感を覚えぬか?」
ローズハルトはもっともらしく毒付いていたが、ハインツの性格をよく知る彼である。彼もこの場所にきたのは五分前の所である。しかし、それを正直に言ったのでは面白くない彼であるので、真に受けるハインツをからかって見るのだった。
「ま、何か用があるのだろう? 余り面倒なことは吹き込まないでくれよ」
「そんなに面倒なことではないよ。優秀な人材が欲しいのだ。ローズハルトの眼は信頼している。人事の方に手を回して、捜して確保してくれないか?」
「それはまたたいそう面倒なことで……」
ローズハルトは苦笑して答えた。
「まあそこなんとか頼まれてくれよ。私には卿だけしか頼る人がいないんだ」
古今東西、「あなたしかいない」という文句は人に頼み込むときに一番効果のある言葉の中の一つである。その言葉は陳腐であるが、その効果は凡庸ではない。
ローズハルトはハインツのような知者には似合わぬ陳腐な言葉に苦笑いを浮かべた。しかし、本当にすまなさそうに頼み込む親友を見ると、どうも断われないのだ。人のよいローズハルトの心はこの時、すでにハインツの頼みを承諾していた。
「ハインツ様! ここにおられたのですか。陛下がおよびでございます」
一見少年のような下仕官がハインツを見つけて駆け寄った。おそらくは王宮仕えの少年下仕官だろう。仕事は主にラッツウェルの命を配下の将に伝えたり、宮中の警備だ。
「陛下が私を? 分かった、すぐ参ろう。……じゃあ、そういう訳で、宜しく頼むよ、ローズハルト」
「……やれやれ、後で酒でもおごれよ」
「酒の一杯でもおごるさ」
「酒二杯じゃないと割にあわないな」
「わかったよ」
ローズハルトの笑みを含めた言葉に、ハインツはいつもの苦笑いを浮かべて、片手を振った。友人同士に敬礼など要らぬ。階級の差も要らぬ。ただ、そこに信頼と友情がある。少年の眼は二人をそう捕らえていた。
ハインツはラッツウェルの私室に呼び出されていた。普段は滅多に王の私室など、一貴族でしかないハインツが入ることはない。ハインツはそれに驚きはしたが、臆せなかった。何か理由があるだけの事なのだ。それと彼は周囲の状況に影響されるほど繊細な男ではない。
「陛下、ただ今参上つかまつりました」
「ふむ。そのようにかしこまらなくてもよい。二点、話があるのだが」
ハインツはやはり颯爽とした足取りではなく、ゆっくりとラッツウェルの座る豪奢な椅子のそばに歩み寄った。
座れ、とのラッツウェルの視線にハインツは答えて、ラッツウェルとテーブルを挟んでの椅子に座る。
「卿を呼んだのはほかでもない……カテローゼ」
ラッツウェルが奴隷の少女の名を呼ぶと、部屋の片隅の彫像のようにかしこまっていた少女がぱたぱたと奥の部屋へと駆けていった。
「側に置くなら、あの様な少女がよいな」
ラッツウェルのふとした言葉にハインツは怪訝そうに小首をかしげた。
「はは、つまり政治的関心、野心のない娘の事だ。余の行動を観察したり、こうした会談をつげ口せぬ、あのような娘を侍らせておくのが一番よい」
ハインツはなるほど、と表情を作ろうとして失敗した。
その直因はカテローゼが連れてきた女性にあった。それはハインツが最もよく知る人間の一人である彼の妹、エリザベート・フォン・ハインツだった。
「エリ……おまえどうしてここに」
滅多に驚いた表情を作らぬ脳天気なハインツが仰天の表情を浮かべていた。ラッツウェルはそれを意地悪く楽しんで、紹介をした。
「先日、予に会いたいという女性がいる、とのことでな。会ってやったのだ。そうしたらどうだ? 卿の妹ではないか。彼女が言うには仕官をしたくとも兄が許さぬ、と」
「はぁ、その」
ハインツは返答に窮して、情けない視線をあちこちにさまよわせた挙げ句、行き着いたところはエリだった。エリはつんと澄まして、兄の視線を拒絶した。しかし、ハインツはその表情の裏に悪魔的な勝利の微笑みがあることを知って僻易し、自らの敗北を認めていた。
「……で、エリ……いや、エリザベートが陛下に何を……?」
「陛下をお守り致します」
答えたのはエリの方だった。よく見れば、貴族らしい服装ではなく、軽く動き安い服に剣を帯びている。王宮剣士と呼ぶにふさわしい姿だ。整った顔はやや厳しさが混ざって中性的な美しさがある。
「エリザベートの剣の腕は試してみた。余の護衛にふさわしい剣技の持ち主だ。文句はあるまい?」
ラッツウェルの合理精神はエリの必要性を認めていた。無論、ハインツも合理主義者ではあったが、彼の場合、エリは実の妹であるから、エリにはそんな生死をかける職に付くよりも、令嬢として貴族に嫁いで欲しいと願っている。いや、貴族でなくてもよい、普通に幸せを得る家族にめぐり合えばそれ以上のことないと思っていた。それはエリの希望に沿わぬものではあって、エリを意思を思うと勝手だとは思うが、兄としては当然の想いでもある。
「しかし、護衛ならばあの暗殺者が……」
ハインツは柱の影にとけ込むように潜んでいるカーミラに視線を向けてつぶやいた。
ハインツの視線が突き刺さった瞬間、カーミラは柱の死角に入って姿を消す。彼女としては、一見ぼんやりとしているハインツに発見されたこと自体が驚きだった。無論、その程度では彼女は動揺せぬ。彼女は彼の発見を偶然だと思ったが、ハインツは偶然ではなく、彼女の気配を感じていたのだ。
「ははは、カーミラか。たしかに彼女は護衛として有能だが、彼女は影だ。表には出れぬ。しかし、エリザベートなら、面に出ることが出来る。時には面の護衛も必要だろう。まあ、護衛など本当は欲しくはないのだがな。暗殺に倒れるくらいならば、予も大した男ではあるまい」
ラッツウェルは皮肉っぽく笑った。ラッツウェルの気性は覇王であり、自由人なのだ。その矛盾した精神がこの若々しい王に存在している。そして、その才能は覇王として活きるだろう。ラッツウェルは確実に覇王としての道を歩み始めていた。
「いずれエリザベートには位を与え、貴族号をあたえるだろう。ハインツ伯、卿の妹を思う気持ちは分かるが、エリザベート自身が望む事なのだ、分かってやってくれ。余もどうせ置かねばならぬ護衛ならば、エリザベートのような気持ちのいい人間がよい」
ラッツウェルはハインツに懇願していた。王が部下に懇願する。それが如何に難しい事か。階級を重んじぬハインツにもそれは分かる。ラッツウェルは自由のない王なのだ。せめてもの選択ぐらいは許されるべきなのだ。ハインツは妥協を選択せずにはいられなかった。
「しかし、卿をここによんだのはエリザベートの事が主ではない」
ラッツウェルはハインツを直視してつぶやいた。エリの事だけならば、特にこのような私室で会談するまでもない事なのだから。それはハインツとて気付いていた。
「卿も知っておろう。ドゥルジ伯の事だ。我が弟ラウエルの婚約者、ルシアを捕らえ、ガイアの娘をおびき寄せる餌として使ったことを。これは大逆に値する。これを口実に彼をつぶせないだろうか? ドゥルジ伯はオーベルハイム公とつながっておる。彼を除名すればオーベルハイム公の発言力は著しく落ちるのだが……」
ラッツウェルはカランダ王国の全権を握ろうとしている。彼が国王でありながら、絶対の権力を持っていないのは、彼の義父となり、外戚として権勢を振るうオーベルハイム公の存在のためだ。オーベルハイム公は政治的手腕を持って諸有力貴族を味方に引き入れ、絶対的な発言力を持っているのだ。それを廃し、親政を引く。それがラッツウェルのまずの野望である。ハインツはそのオーベルハイム公に真っ向から意見の対立を述べた有力貴族として、ラッツウェルの眼に止まっていたのだった。
ハインツはラッツウェルの意図を理解した上で、左手で整った顎を撫でて思考を巡らした。情けないことにこのところ知的活動を怠っていた彼の智の畑は、雑草に占領され、除草し、かつ耕して作物を作るまでに少しの時間が必要だったのだ。必要のないときは怠けている。それが歴史に名を残す「知者」であると後世の人間は誰も知らぬのだった。
しかし、思考自体は極めて柔軟なハインツである。諸々の作業は駆け足で片付き、結論という果実が実るまでにラッツウェルが不快になるほど時間を要しなかった。
「アムル公女ルシアの監禁、暴行に至っては重罪に値すること。それを責める文書をドゥルジ伯にお送りになり、伯に出頭を命ずるのです。それに従えば、彼の爵位、地位を降格なされ、領地の一部を召し上げればよろしいでしょう。しかし、伯は気が短く、先見の立たぬ者、との噂。おそらく、文書を受け取れば疑心暗鬼になり、出頭はしますまい」
ハインツはおそろしくさらりと言った。そして、その内容は合理的かつ筋を通している。ラッツウェルは自己満足に近い心境にあった。この男を信頼した自分が間違いではなかったと言う安心を覚えていた。
「しかし、疑心暗鬼にかかった伯が兵を集め、反乱を起こすに至った場合はどうなるか? ドゥルジ伯はライゼルの辺境伯ハインリッヒとも通じておる。さらにはオーベルハイム公の傘下の一人だ。これらの諸候が一気に兵を上げれば、手の打ちようがなくなるぞ」
ラッツウェルを悩まさせられているのが、それである。貴族達の横のつながりだ。オーベルハイム公は北カランダに封土を持つカランダ第一の大貴族だ。ドゥルジ伯、ライゼル伯ハインリッヒらは東カランダ地方を代表する貴族達である。その戦略的位置と戦力は侮れぬ物である。
「そこで、私に一つ策があります、陛下。オーベルハイム公の動きを止めるのは実はたやすい事なのですよ」
ハインツは知的な光をはぐぐむ瞳をラッツウェルに向けて、不謹慎にも片目をつぶってみせた。
真夜中に異常な態度を見せたセレナはついにその夜、部屋から出ることはなかった。が、次の朝には笑顔を作りなおしてアーディル達の前に現れたのだった。が、それが常の物ではないと察するには十分すぎた。珍しく、化粧をしていたのである。くたびれた肌を顔料で多い、一晩中泣き明かしたのかはれぼった眼を目張りでかくし、荒れた唇には微かに紅をさしていた。それは艶として美しかったが、痛々しくも飾り付けた美しさは彼女に不似合いだった。彼女の輝きは自然の中にある。
セレナが明るく振舞おうとすればするほど、アーディル達は昨夜の出来事を聞くことをはばかれた。明るくする事がセレナの暗黙の拒否だったのだ。
セレナが朝食のだんらんから一時退席したとき、
「機会を見て、私が聞いてみる……」
と、ミナがつぶやくだけしか出来なかったのだ。
とにかく、セレナの傷ついた心にくさびを打ち付けることなど出来ようもない三人は、セレナの不思議なくらい取り戻された笑顔と共に一路カランダを目指したのである。
ヴァルハナを出て二十日目、ミナの怪我をいたわっての行程で一行はカランダ市に到着していた。兵士達が慌ただしく動いており、郊外では演習があちこちで行われていた。
「まるで戦争でも起こるみたいだな」
アーディルの率直な感想が真実であるとは思いも寄らぬ彼らである……
王宮の廊下を歩いていたラッツウェルの目の前にすっと影が走る。その幻妖はたちまち人の形をなし、妖艶たる女性を生み出した。カーミラである。寡黙な女暗殺者は膝まづき、臣従の証を見せた。
「陛下にお願いがあります。しばらくの間、暇を貰えぬでしょうか」
「暇? これから戦が始まろうと言うのにか?」
ラッツウェルは小さく首をかしげた。カーミラが私情で動く女ではないことを彼は十分理解していた。故に、この発言も裏に何かがあると推測していた。
「はい、いずれは陛下に驚異を加えかねぬ男を知っております。その者を私は殺したいのです」
「殺す、か。余り穏やかではないな」
「はい、しかしこれは私事であります……我が復讐。はらざずにはおられませぬ」
かつての教え子であるカーミラにその命を狙われているとは思ってもいないラルフはルシア達とライゼル地方を目指していた。ヴァルハナで衰弱したルシアをその妹であるファティマは呪術の心得があって、姉に治療術を施しながらの旅であった。
その二人をかばいながらの旅であったために、行程は順調ではなかった。しかし、確実に移動せねばならない。彼らは追われる身なのだ。ドゥルジ伯領は過ぎ去ったとはいえ、東カランダにはドゥルジ伯の息のかかった諸候は多い。
「へっくしょっ!」
緊張間のないくしゃみがラルフから発せられた。
「風邪ですか? ラルフさん」
ファティマは敬愛する人を心配することには事欠かなかったので心配そうな表情で彼をのぞき込んだ。
「いいや、多分誰かが私の事を噂してたんだな」
ラルフは悠長に笑って澄ました。しかし、彼は知らぬ。今の彼より強く成長した二人の暗殺者が彼を襲うことを。それより身を護るには彼自身が、かつての修羅に戻らざるを得ないことを。
淫眉な香が立ちこめている。女の香だ。
先王リヒャルト三世の三男「愚鈍王子」ミハエルは、後宮の女を侍らせて、自らは性欲の限りを尽くしていた。一説によるとこのとき彼は二十四歳であるが、彼は全ての欲望を満たすべく、薬物以外のこの世の快楽をすべて経験していたと言う。しかし、それでなお自我の精神を失わぬ彼は常識を越えていると言ってもよい。意外にも彼の精神はラッツウェルに勝とも劣らぬのであった。
しかし、彼に欠如しているのは愛情であろう。そうして快楽を求めている彼には感情が育つわけもない。常に浮かべる冷笑。それが何よりではないのか。今、彼の下で快楽に喘ぐ美女もまた、彼に快楽を与える道具でしかない。
やがて絶頂に達してそれは力なく横たわった。ミハエルだけが空しさの心を虚無の内側に漂わせていたが、突如現れた声に気が付く。
「ミハエル様」
「ジャッドか。ふん、待っていたのか?」
「いえ」
「よかろう。で、ルシアの動向は?」
「ドゥルジ伯の手からは逃れました。しかし……今、彼女にはラルフォードと言う者が付いております」
「ラルフォード? 何者だ」
ジャッドは一拍置いた。それは彼がラルフを恐れているのではなく、演出だった。
ラルフの強ささえ、彼は引立て役にする。
「『暗闇のラルフォード』かつて、世界最強の暗殺者と呼ばれた男です」
「かつて……か」
ミハエルが言った。ミハエルの鋭敏さにジャッドは口元に笑みを浮かべた。
「勝てるのか? おまえが」
「勝てます。今ならば、確実に」
「ふ、面白い。ではルシアを奪え。俺も行動に出る。時代は面白くなるぞ」
ミハエルは性癖となった冷笑を浮かべた。しかし、それは普段の下卑た笑いではなく、狡猾な知性を放った微笑みだった。
ハインツの予想は事実と同類項に収めて恥じないものとなった。ドゥルジ伯ケッツァーは、ラッツウェルの出頭命令を受け、それを拒絶したのだ。先見を持たぬ彼は、出頭すれば殺される、と思ったのである。有力貴族の長男として生まれ、なに不自由なく生きてきた彼の恐怖は屈折していた。
ケッツァーは事もあろうに急ぎ、領邦に戻ると兵を集め始めたのである。実は、ケッツァーはその貧弱な戦略的思考を張り巡らせて、反乱を事前より企てていたのだった。それがハインツの唯一の誤算であった。しかし、致命的ではない。が、無視できるほどの事でもなかった。
ケッツァーは自己の能力の中でも長けている部分である弁舌を活かし、同盟諸候を募り始めた。カランダ王国は絶対王政制ではなく、専制君主の封建国家である。すなわち、専制君主であるラッツウェルを支える多数の諸候、それはハインツやケッツァー達であるが、その支えを失えば、ラッツウェルは国王でありながら、一地方の豪族に成り下がる。
カランダ王国は巨大化してまだ若いが、中枢部は古い国家である。オーベルハイム公を初めに門閥化の著しい階級制国家だ。その門閥で最有力のオーベルハイム公との友好関係にあるケッツァーは同盟を募るのにきわめて有利であった。
ケッツァーはこの反乱を起こすに当たって、必ず味方に付けねばならぬ二人がいた。オーベルハイム公とライゼル辺境伯ハインリッヒだ。前者はカランダ以北に勢力権を持ち、後者は南部カランダに勢力権を置く大貴族だ。そしてその位置関係は戦略的にきわめて重要である。戦術において最も有利とされるのが包囲戦術だ。それを戦略レベルで包囲出来るのである。有利は絵に書いたような有利さであった。
そして、ケッツァーは以前よりこの二者には親密に接している。盟友となるに僅かの努力さえ必要なかった。
しかし、ケッツァーの速すぎる対応はオーベルハイム公ら、彼に味方する諸候らにとって奇襲となっていた。この時代、兵士は府兵制と呼ばれるシステムで動員される。それは、地域毎に戦時、徴兵されるシステムだ。その主体は都市よりはなれた地方に住む農民達であり、軍事行動は農閑期に限られる。農繁期の動員は著しく生産力が落ちるからだ。なお、この時代の常備軍は総動員数の二〇%にも未たず、戦力として数えられる数字ではない。農閑期とはいえ、十分な戦力を得るにはおよそ一カ月の時間を必要とするのだ。
これが、準備をかねてからしていたケッツァーはすぐに戦力を動員できた。それは反乱を予測していた、ハインツ、ラッツウェル等も同じである。が、オーベルハイム公らは準備が不十分であった。彼らが戦力として数えられるまでにはまだ一カ月の時間が必要だったのだ。それがハインツの戦略において重要な所であった。タイムラグを無視したケッツァーの戦略は四次元的な破綻があったのである。
自己中心的な戦略をとる、とハインツは予測した訳ではない。しかし、この事態を予測した彼の心眼はおそるべきものである。ラッツウェルは驚嘆せねばならかった。
この時、ケッツァーの動員できた兵力が三万。ラッツウェルの動員できた兵力は五万余。この数字にはハインツ伯の兵力も含まれている。数の上では圧倒的にラッツウェル有利である。しかし、ケッツァーはまだ自分が有利であると確信していた。その理由はこうである。ラッツウェルがその全兵力を自分に向ければ、一時は不利であるが、しばらく耐えしのげば、ハインリッヒからの援軍が訪れるであろうし、ラッツウェルらの後背から、オーベルハイム公の軍が彼らを襲うであろう。そうすれば、一気包囲閃滅はたやすい。もしくは、オーベルハイム軍がカランダ市を占拠すれば、ラッツウェルの軍は根無しとなり、その士気は地に落ち、やがて長い時を待たずして瓦解するだろう。ケッツァーはすでに自分の勝利を信じてうなたがわなかった。
しかし、ラッツウェルがドゥルジ伯ケッツァー討伐に向けた兵力はその半分であった。それは信じられぬ兵力分散の愚であると見えた。
「私をなめているのか? 人を馬鹿にするにもほどがある!」
その報を聞いたドゥルジ伯ケッツァーは激怒したが、この時彼は気付いていなかった。ラッツウェルの本隊二万余がカランダ市に滞在して動かぬと言うのは、オーベルハイム公が彼の後背を付くことは不可能となったのである。それどころか、オーベルハイム公が兵を動員しようとするならば、その準備が整わぬうちにラッツウェルはオーベルハイム公を攻め、壊滅させるだろう。オーベルハイム公は戦わずしてその力を無力化されたのだ。
かなりの時間をかけてその事実を知ったケッツァーは愕然としたが、楽観を絵に描いたように彼は述べた。
「ならば、各個撃破に出るまでだ。奴らの一つ一つを別々に攻撃するのならば、兵力は我が方に有利だ」
しかし、それは正論であったであろう。ケッツァーの持つ兵力は三万を越す。その彼を討伐に向かうゼフルト元帥の軍は二万五千を僅かに割る。兵力差は歴然である。この二者がぶつかり合えば、それは戦略家でなくても自明の理である。さらに、ケッツァーにはハインリッヒと言う強力な味方がいた。
「オーベルハイム公の動きを封じることはまあ出来た。しかし、戦術レベルで負けてしまっては、私はただの愚か者でしかないな」
と、自らを皮肉ったのはこの戦略を考えだし、ラッツウェルに進言したハインツである。彼は現在、ドゥルジ伯討伐軍の参謀長の地位にいて、指令官ゼフルト元帥の側にいる。副指令官にはハインツの希望もあって、ローズハルト准将が当たっていた。人事にあたってはローズハルトが担当してたために、門閥貴族の息のかからない部将達が揃っていて、ハインツとしては思惑通りの軍隊になっていた。
ゼフルト元帥は先王リヒャルト三世から使えている宿将で今年六十五歳になる老将だ。老齢による威厳の喪失は未だなく、鋭い眼光は大将として十分な力を秘めている。やはり、ちがうな。などとハインツはのんきに思ってしまう。しかし、ゼフルトは老将故か、戦場の掟を心得ており、若輩ながら戦功奇功を上げているハインツを高く評価していて、作戦面ではおおよそ彼の意見を取り入れていた。
部下と上司に恵まれたハインツは自分の思い通りの戦術を取れることになったが、ここに誤算が生じた。ライゼル辺境伯ハインリッヒは驚異的な動員速度で兵をかき集め、ライゼル地方特産である軍馬を駆り、一万二千騎をこの戦闘に間に合わせたのである。
二軍はヴァルハナ山脈を越えた森林地帯で膠着状態となった。常緑林の中にも落葉樹は混ざっていて、森はさみしげな空間がちらほらと存在したが、やはり、森は繁っていて斤候たちは双方の位置確認に神経をすり減らされたのだった。
「おい、まずいことになったな」
ローズハルトがある夜、ハインツの天幕を訪れて酒を酌み交わしていた。無論、二人とも酔うまでは呑まない。彼が言うのは彼我の戦力の差だ。いまやその差は二倍近くになっている。
「でも一たす一は二だよ。一たす一が三や五になるわけじゃない」
「あ?」
ハインツの意味不明瞭な言葉にローズハルトは思わず聞き返した。
「それに二という数字は一と一をくっつけたものだ。逆に言えば二を一と一に分けることもできなくはない」
明敏なローズハルトはハインツのいわんとしている事がおぼろげながら見え始めていた。
「ならば、どうすればいい?」
「さほど難しくはないと思う。ドゥルジ伯とハインリッヒは今は手を結んでいるが、二人とも相当の野心家だ。根本的には両方と相手を利用しようと思っている。そこにつけいる隙はたっぷりとあるとおもうね」
「ハインツ閣下!」
突然、ハインツの直属の部下が天幕へ駆け込んで来た。彼は斤候部隊の指揮をとる中級の仕官だ。
「何事だ? 騒々しいな」
「ここから東南一キロほど先に野営の光が見えます」
その報告を聞いてハインツはそれが敵か味方か等と言う愚問は発しなかった。自分達以外は敵なのである。援軍の到着の報告は受けていないし、その確率もない。それと、一キロと言う至近距離まで接近されたのは付近が森で、視界が効かぬと言うことである。
やれやれ、奇襲をされてはたまったものではなかったな……
ハインツは人事のように思ったが、口には出さなかった。参謀長たるものがそんな心構えであると知れたら、誰が彼の作戦にしたがうだろう。
「わかった。すぐ行こう」
ハインツは立ち上がり、それにローズハルトも続いた。
二人は斤候の案内で本陣を離れ、物見に有利な小高い丘へ登った。そこからは確かに、炎の明りが森のカーテンから漏れて輝いている。
「うむ、動いていないな。やはり野営か。しかし、こんな距離で野営だとすると敵はこちらに気付いていないのだろうか。ならば、今奇襲を掛ければ……」
「いや、彼らは我々に気付いているはずだな。彼らの位置の方が高い。つまり、彼らの方が我々より相手を気付き安い位置にいる。彼らが我々に気付いていないとは考えにくいよ。それに、あの炎のゆらめきを見ろ。少しも明滅せぬ。あれは野営と見せかけた罠だな。人の気配がしない」
ローズハルトは淡々と説明するハインツの横顔を見て感心すると言うよりは呆れた。何処まで眼力を持つのだろうかと、しばしば思わされることがある。しかし、彼は戦場以外ならカランダ市内で道を忘れて迷子になってしまうのだ。
「ゼフルト元帥の所へ行こう。相手の奇襲作戦を逆手に取る方法がある。まあ、うまくいくはどうかは、わからないけどね」
「ふふふ……」
「何がおかしいのです?」
ゼフルト元帥の老人的なしゃがれた笑いにローズハルトは疑問の声を掛けた。
「あのハインツの小僧じゃ。海のように深く穏やかでありながら、月のように激しく人の蔵腑を貫き、その内を見破る瞳を持っておる。もはやわしの時代など終わってしまうのじゃろうな」
それは買いかぶりすぎだ。ローズハルトはそう思ったが、老将の言葉に反発はしなかった。それはやはり確かであり、ハインツの内面には外面から想像のつかぬ強烈な何かが宿っている。それはローズハルトが及ぶところではない。彼はそれを知っていた。
このとき、すでにハインツの作戦案はハインツ、ゼフルト、ローズハルトの三人の将官で話し合われており、それは実行に移されようとしていた。そしてハインツは本陣をさって、実行面での直接指揮に向かっていた。
「あなたは変わった人ですね」
「そうかな? でも、私が立てた作戦は危険なものだ。それなのに私自身が本陣でのうのうとしている訳にも行かないだろう?」
「それが変わっているのですよ。まあ、とにかく足手まといだけにはならないで欲しいですね」
「努力はする」
ハインツは大柄な男と話していた。サー・ゲイオグ・キース中佐だ。
キース中佐はローズハルトが登用した人物だった。大柄で中肉中背のハインツと並んでいると巨人のようにも見える。二十八歳の青年だが、勇猛さでは評判であった。しかし、ローズハルトがこの男に目を付けた訳は、勇猛さに隠れた機転の効く頭脳である。柔軟な思考を持たぬ勇者と言うのは余計扱いが悪いものだ。
「でも、あなたの読みが外れていたとしたら?」
「うーん、困る」
キースの質問に、ハインツは気の抜けた声で答えた。
「しかし、困ってばかりはいられないでしょう?」
キースは予想外の答えに唖然としていたが、更に質問を続けた。
「ま、尻尾を撒いて逃げるしかないかもね。我々は百人程度しかいないんだ。戦って勝てるわけがないから」
ハインツはきわめて気楽な声だった。彼には一応の確信があったし、もし敵が存在していたとしても、この夜陰にまぎれて逃げ帰るのは特に難しいことではない。次の作戦を立てるのには一苦労しそうだが、この作戦自体は成否はともかく、危険ではない。
「まあ、成功する、と信じなければ人生なんてやってられないさ」
キースはハインツの上官らしからぬ、貴族らしからぬ、その態度に好感を持った。いや、それを越えた不思議な魅力を彼から感じていた。それはキースのような武人にはとうてい言葉で表現することの出来るものではなかった。
そうしてハインツとキースに率いられた精鋭若干百名はハインツ達が報告を受けたかがり火の地点へ急行した。
気配を悟られまいと慎重に、かつ迅速に彼らは接近しドゥルジ伯の野営地点に到達した。
「やはり、気配がしませんね」
「うん、よし、慎重に突っ込もう」
キースの合図によって百名が敵陣に突撃する。が、しかしそこは予想と違わず、無人の陣だった。天幕とかがり火だけが残されている。そこに軍に必要な物資は全くなく、明らかに見せかけの野営、罠だった。
「やはり……か」
ハインツは自らの予測が事実となり、にわかに彼の瞳に知性の鋭さが戻った。
「ハインツ閣下! あたりには無数の罠が!」
ハインツは部下の報告受けて、偽の野営地点の中央部に走った。そこには様々な罠が広く、更に密度も高く仕掛けられていた。小さな衝撃でも発火するようにされた火薬をつめた樽。ロープの反動を利用した大木を削った鋭い杭が持ち上がる罠。落し穴や網などの簡単かつ、有効な罠が揃っていた。
「知らずに飛び込めば大打撃でしたね」
「いや、それだけではないだろう。これらの罠にかかった私たちをさらに追い打ちにかけるために彼らはこの近くに伏しているはずだ」
ハインツは冷静に答えた。キースはドゥルジ伯の大昧かつ有効な策略に背筋が凍る思いがしたが、それをはるかに知略で越えた男が彼のすぐ側にいる男、ハインツだ。
「この罠を作動させよう」
「え?」
「そうだな、半分くらいがちょうどいいだろう。なるべく派手に、たくさんの人間が混乱に陥っているように出来ないかな?」
ハインツはきわめて淡々とした声であったために、キースは瞬間的には彼が何を意図しているのか読めなかった。が、彼も優秀な頭脳の持ち主だ。二瞬、三瞬後にはハインツのいわんとする所を知り、大きくうなづいた。
「よぉーし、野郎ども! パーティの始まりだぜ!」
キースは軍の部将と言うよりは山賊の頭領と言った感覚で部下に合図を送った。
キース以下百名のあらくれ者達はハインツの要望に忠実に仕事をこなした。罠を稼働させ、さらに大軍が罠にかかって混乱に陥っているように騒ぎ立てたのだ。無論、それを行うのに一人の犠牲者もだしてはない。
「いい部下を持っているようだな」
ハインツは一人かやの外でつぶやいた。キースとその部下達の動きは手放しで賞賛して良いものだった。
「よし! もういいだろう。すぐにでも敵がこの場所を襲う。卿らは速急にこの場を離れ、身を隠せ。後は各自の才覚に任せる。無事、本隊に戻れることを祈る」
ハインツは頃合を見て指示を下した。後は逃げ帰るだけである。敵が迫っているとは言え、この夜陰と小数の人数である。隠れて逃げるのはさほど難しい事ではない。
ハインツの指示が終わると彼らは蜘蛛の子を散らすように散開し、夜の森へと消えた。
実にその数分後、ドゥルジ伯の主力三万が彼らのさった後を襲ったのだ。
「奴らは罠にかかって混乱している! 今ならば、たやすく撃破できる!」
ドゥルジ伯の怒号の元、その配下の部将達を戦闘に偽の野営の後を襲う。そこには混乱で十分な指揮系統を寸断されたカランダ兵が多数いるはずであった。
「なに? 罠が生きている?」
しかし、そこにはカランダ兵など一兵たりともおらず、逆に彼らが仕掛けた無数の罠が、半数、未作動で待ちかまえていたのだ。その罠に判断力があるはずもなく、それらは侵入者の命を奪うべく作動した。突然の事に前線は混乱した。それは恐慌に至るまでにさしたる時間を持たず、それはたちまち全兵に伝染した。
「こ、これはどうしたことだ!」
ドゥルジ伯は比較的軍事的才能を持った男であったが、一旦恐慌に駆られた部隊を建て直すのは至難である。なおも彼は自らの周りの混乱を沈めつつあったが、彼から離れた中級の指揮官にその能力はなく、混乱は一向に収まらなかった。
そこに待ちかまえていたカランダ兵の主力二万五千が後背からドゥルジ伯の軍を襲ったのである。混乱し、まともな指揮系統を失った部隊は相対的に恐ろしく弱くなる。ローズハルトを先頭にしたカランダ軍はたちまちドゥルジ軍の後背の部隊を粉砕した。
ドゥルジ伯は苦戦の中、秩序を保つ部隊を持って後背の反撃にあてたが、勢いに乗るカランダ兵の侵入を食い止めることはできなかった。ドゥルジ軍の戦線はいまや崩壊しつつある。
「おのれ! 姑息な真似をしおって!」
ドゥルジ伯はなおも強情に反撃を唱えていたが、カランダ軍の侵入を食い止めるその抵抗力は徐々に失われつつあった。
だが、戦況は再び変わった。カランダ軍の後背が騒がしくなったのだ。戦況を知ったハインリッヒがドゥルジ軍の崩壊から彼らを助けるべく、カランダ軍の後背を襲ったのである。
「後ろから敵襲? 斤候どもは何をやっておったのだ!」
ローズハルトは報告に怒声で答えたが、その時にはすでに事態は回復に向かっていた。軍中央部にいて戦況全体を見ていたゼフルト元帥が後背からの反撃に対し、なおも抵抗の強いドゥルジ軍の中央突破を諦め、その左翼付近をかすめ取るように攻撃の方向を変えたのだ。薄い部分を強襲されたドゥルジ軍になすすべはなかった。カランダ軍はそこを悠々、かつ迅速に突破し、秩序と速度を保って、戦場を離脱したのだ。
「ち、ドゥルジめ、何をやっておるのだ!」
逃走するカランダ軍の後背を見つめてハインリッヒは忌々しそうに吐き捨てた。このまま挟撃を続ければ、必ず、彼らが勝っていたのだ。
「しかし、ゼフルト元帥か、あの指揮は……速い判断は敵ながら見事か、しかし追撃も許さぬ隙のなさは、かわいげがないな」
ハインリッヒは独り言に老人にかわいげを求めていると、自嘲した。
その戦闘はきわめて短いものであり、一時間余りであった。しかし、その戦果は大きく、ドゥルジ軍の五分の一を削り取っていた。カランダ軍はハインリッヒの後背からの奇襲によって逃走せねばならず、敗走するドゥルジ軍を追うことが出来ず、ドゥルジ軍は辛くも壊滅を免れたのであった。しかし、ドゥルジ軍の戦意の喪失と戦力の削減はハインツの狙ったところであり、彼の作戦は一応の成功となった。
その彼であるが、ドゥルジ伯の罠を見せかけの作動をさせた後、森の深いところに隠れていたのだが、味方がドゥルジ伯の軍に襲いかかったとき、うかつにものこのこと姿を表したために、味方の兵に敵の将兵に間違えられて追い回される羽目になった。ハインツはまさか味方と戦う訳にも行かず、ほうほうの体で逃げだし、逃亡する途中、何時のまにかカランダ軍本陣の近くまで来ていて、「回収」と言った形で彼は戻るべき場所に戻っていた。
「さすがはゼフルト元帥だな。我々にはできぬ見事な用兵だ」
安息の一息を付けたハインツはもっともらしく元帥の老練たる用兵を評賛したが、余り説得力がなかったのは言うまでもない。
しかし、彼の評価は事実とたがわっておらず、ゼフルト元帥は戦力を一点に集中し、ドゥルジ軍の左翼を突き破ると、迅速なる速さを持って戦場を離脱したのだ。それもハインリッヒの追撃を許さぬ、後衛の隙を一部も見せずにだ。
「グスタフ・ド・ハインツか。一見軟弱な貴族の青二才に見えるがなるほど、奇想天外な策を用いる。なかなか見所がありそうではないか」
一方、ゼフルト元帥はハインツを辛辣ながらも彼なりの賞賛の声で評価していた。老いた彼の瞳に、彼はハインツの若々しい姿を思い浮かべて、彼が我が孫であれば、とつぶやいた。彼には子も孫も恵まれていなかったのである。
一昼夜の逃走を続けたドゥルジ軍は更にその数を減らし、二万余まで数を失っていた。しかし、その間ハインリッヒ軍と合流を果たし、その数は四万弱と、カランダ軍に対して、圧倒的数的優位を保っていた。
彼らはそのまま東走し、ヴァルハナ山脈の頂付近まで撤退していた。
原始戦争から始まって、近代戦争に至るまで、自軍を高い位置に置くことはきわめて有利とされた。原始戦争による、弓、剣、槍などにおける集団戦術は位置エネルギーを得ることによって、その威力を増幅させる。近代戦争における、砲や銃火器による戦闘に追いても高所はその射程と威力を増すことが出来る。さらには、下方の軍は敵を攻めるためには山道を登らねばらず、その機動力は落ちること著しく、さらに兵の疲弊を招く。故に高所を制す軍が相対的有利を得ることになる。しかし、これは太古の兵法家にして哲学者であった男が論じて以来、用兵家の間では常識中の常識であり、並の指揮官ならば、誰も知るところであった。
その常套手段は防御に徹した場合、おそるべき効果を呼んだ。そして、ハインリッヒの取った戦略もそれであった。峠を制し、さらに相手より大兵力を持つ。それが防御に徹するのだ。攻める側はいかな方法を用いようが、勝利を収めるのは至難である。
「やれやれ、かわいげのない戦略をするものだ」
しかし、ハインツはそう評したものの、ハインリッヒの立場が自分なら、自分もそうしただろう、と思わざるを得ない。それ以上の効果のある戦略も存在しうるかも知れないが、存在したとしても、彼の知能の及ぶところではなかった。
一方、ハインリッヒの戦略はさらに壮大だった。ヴァルハナ山脈を自然の大長城として敵を長期に渡って食い止める。彼らの占領した東カランダにはヴァルハナ、ドゥルジ、ライゼルと言った大都市と、アムル地方、ライゼル地方の穀物地帯も有している。独自の経営はたやすいことだった。
戦闘が長期に渡れば、逆に基盤の不安定さを露呈されるのがカランダ軍であった。彼らが基盤とする西カランダにはドゥルジ伯らと組む、オーベルハイム公ら諸候も数多くいるからだ。ハインツも無論、それに気付いていた。
「やはり相手の思惑通り事が進むと負けてしまうだろうな」
ハインツはまるで他人事のようにつぶやいていたが、その瞳は知的な輝きを増しており、その光の中には絶望の影はなかった。彼は楽観はしていなかったが、事態の変化を不可能とは認識していなかったし、それをなしうる能力を持っていた。
翌日、カランダ軍は動きを見せた。それはドゥルジ軍らが待ちかまえる峠より、遥か南の険しさを増した旧街道の峠に向かっていた。
その日は風が強く、雲が空を駆けるように現れては消えていく。その間にもそれらは刻刻と変化を見せて、見るものを退屈させなかった。少なくとも、素朴な人間にとってそれは一つの芸術的な刺激があった。
それをぼんやりと眺めながらラルフは歩いていた。側にはファティマやルシア等もいる。彼らはヴァルハナから落ち延びて、ライゼルのジルを頼って街道を南下中だった。が、ラルフは空を見上げていたために、足元に転がっていた大きめの岩に足を取られて転んでしまった。
うかつを絵に書いたような格好で彼はひっくり返っていた。ルシアとシレーヌは腹を抱えて爆笑し、ガルドは額に手を当ててあきれかえり、ラルフを敬愛して止まないファティマさえ、笑いがこぼれ落ちるのを堪えるので必死だった。
「あれがラルフォードの現状か。つまらぬ。環境は人をこうまで変えるのか」
ラルフのうかつを遥か遠方からその神眼を持って見つめるものがいた。その男の背には一メートルは優にあろうと言う大弓がある。この弓こそ彼を象徴する最大の一つでその弓威は神の領域に達していると言っても語弊ではない。彼の名はジャッド。
「あれならば、ルシアを奪うのは訳はない。奴の方が厄介な存在……か」
ジャットは不敵な笑みを浮かべて、気配を景色に溶け込ませた。
ラルフ達はすでにノープルをさらに南下していて、ライゼルまでは後僅かであった。小さな宿場町の宿に一晩の宿を取り、旅の疲れを眠りで癒しているの時であった。
冬の夜は冷えて静寂である。
ふと、ラルフはその眼を開けて、宿から出て行った。宿と言っても小さな民家のようなものだ。彼らの部屋からすぐ外に出ることができる。宿は町外れで、外には春かな平原が広がっている。
「まんざらふ抜けた訳ではないらしいな。私の気配を悟るとは」
「余りかいかぶらないで欲しいな。私はもはや過去の私ではあらぬよ。かつては最強と言われた私だが……もはや、今の私にその力はない。私を殺しても、無意味だと思うが」
「事実など大した意味を持たぬ。それに私がおまえを許すと思うか」
闇から湧き出るように人影がラルフの後ろに迫った。端正かつ妖艶な姿は二十代前半の女性で、それとは裏腹にまがまがしい殺気が纏われていた。カーミラである。
刹那に闘い始まった。裏を取ったカーミラが長剣を振りかざす。ラルフは振り返る時間的不利を犯さず、後向きに彼女の剣を受けた。まるで背面に眼が付いているかのようだった。彼らほどになれば剣気を悟るぐらいは訳はないのだ。
ラルフは跳んだ。カーミラが手剣を立て続けに投げつけた。狙いは一分も狂ってはいない。逆にそれはラルフにとってたたき落とすことは簡単であった。が、彼が気付いた瞬間、カーミラは彼を捕らえる距離にいた。突いた剣はラルフの髪を一房切り落としていた。
ラルフは愕然とした。反応力がこれほど違うとは。衰えと、成長。それは圧倒的な相対的戦闘力の差を産みだしていた。
勝てぬ……彼女はおそらく今世界最強だろう。あの男と並んで……
ラルフはその時、もう一つの気配を気付いていた。闇は彼の領域である。闇は彼の精神を拡張させ、感覚器を鋭くさせるのだ。
しかし、彼が私を襲わぬ所を見ると、カーミラと吊るんでいるわけではないのか……?
ラルフは漠然と考えたが、戦いの最中に他事に思考を回してしまった自らを呪わずにいられなかった。彼が戦闘に集中したとき、カーミラのやいばは彼を捕らえようとしていた。
「くっ!」
が、彼も百戦錬磨だった。カーミラの視界にラルフが急速に接近する。正反対の方向に疾走する二者の距離は一瞬に無となり、ラルフの身体がカーミラの身体を突き抜けて消えた。
幻術である。幻術とは魔法とは別の技術で、精神波を操ることによって、相手の脳に直接感覚を与える技術である。脳の中までは誰も鍛えることが出来ないので、幻術を受けた者は必ず幻覚を視る。実害を与えることはできぬが、陽動などにはきわめて有効な技術である。但し、精神波には指向性がないために、彼の及ぶ範囲内、全ての生き物が幻覚を見せられる羽目になる。
「く! 幻術か!」
幻術は暗殺者の中では知られた技術である。そして使う者も多い。カーミラは一瞬、幻術に惑わされたが、その隙に間合いを開けた真実のラルフを追って跳んだ。彼女も幻術使いなのだ。幻術では動揺することはない。
「ラルフさんっ!?」
刹那、闇に少女の声がこだました。ファティマだ。明敏な彼女は外での異様な雰囲気を感じ取り、目覚めて様子を見にきたのだ。
「くっ! ファティマ、来るなっ!」
ラルフは珍しく声をあらげて彼女を制した。カーミラに彼女を狙われたら、彼女に逃げるすべなど完全にない。その声が終わるか否かの瞬間にカーミラがラルフを捕らえていた。神速の剣が閃く。ラルフは辛うじてそれを剣で受け止めることが出来た。
しかし、女性とはいえ、全身を鍛えぬかれたカーミラのりょ力はすさまじく、同じように鍛えられているラルフは踏み込まれたため体勢が悪く、身動きが出来なかった。
「ふ……あれが、おまえの愛するものか? 私から感情を奪ったおまえがいい気な者だ。私の野望はその恨みを晴らすことだ。楽には殺さぬぞ」
剣を合わせたまま、カーミラは妖艶に微笑んだ。そして、次の瞬間、彼女はぼんやりと揺らめいて消えた。剣圧がなくなったラルフは愕然とする。カーミラの行動を悟ったからだ。
カーミラはファティマに向かって疾走していた。彼女はまずは、ラルフの親しいものを殺し、精神的苦痛を彼に与えようとしたのである。実力の差が生んだ「余裕」であった。闇を駆ける彼女の速さに、ファティマはどうすることも出来ない。呪術が多少使える以外は、彼女はまるっきりただの少女なのだ。闇の中できらめかぬようにできた漆黒の剣が彼女を襲う。追うラルフは絶望を覚えた。
「夜中に騒ぐと近所迷惑なんだぞ!」
そのカーミラの横腹を殺気を混じらせた鋭い剣気が迫った。未塵の躊躇もないそれはカーミラでさえ、恐怖を覚えずにはいられなかった。その餌食にならぬため、彼女は前方へ大きく跳躍した。彼女はそのままファティマの遥か後方まで跳んで、体勢を整えた。
「シレーヌさん!」
ファティマを助けたのはシレーヌだった。美麗だが、それ以上に強力な剣士である彼女は、外で繰り広げられる剣気の応酬を感じていたのだ。この場にはいないが、無論、ガルドもそれを感じて目覚めている。
「なんか尋常じゃないみたいじゃない?」
「シレーヌ! 気を付けろ、敵はもう一人いる! ルシアを狙っている!」
ラルフが叫んだ。と、同時にファティマとシレーヌに銀のきらめきが見えた。
その銀のきらめきは一瞬にしてシレーヌの肩をかすめて行った。もし、彼女が本能的に刹那に身を引いていなければ、それは彼女の心の臓を捕らえ、貫いたろう。
その横を人影が疾走して行った。疾風のジャッドである。彼はラルフを襲ったカーミラの動きを見て、隙を伺っていたのだ。カーミラはそれに気付かずにいたが、暗闇をテリトリーとするラルフはそれに気が付いていた。
「シレーヌ! 奴はルシアを狙っているっ!」
「分かったっ!」
ラルフの絶叫に全てを理解したシレーヌは敏速に行動した。しかし、彼女の脚力を持ってしても、ジャッドには追いつけない。いや、ラルフ、カーミラでも彼に追いつくことなど出来ぬ。彼は名が指す通り、最速の男なのだ。
「ガルドォっ! ルシアが狙われている!」
しかし、ジャッドといえ、彼も人。シレーヌの絶叫の音速には勝てぬ。その声のためにガルドは細心の注意を払うことが出来た。
「ちぃっ!」
ジャッドは舌打ちし、疾走しながらその神弓を射った。ガルドは剣を青眼に構え、その矢筋を見きろうとした。見きって剣でたたき落とすつもりだった。その自信もあった。が、弓勢は彼の予想よりはるかに凌駕していて、彼が矢を確認したときには、それは彼の肩に突き刺さっていた。
「ぐあっ!」
ガルドの巨体が揺らぐ。ジャッドはその隙を逃さなかった。短剣を抜いて疾走する。が、弓を射るために失速した彼にシレーヌが追いついていた。
「こんのォ!」
シレーヌが根心の力を込めて剣を打ち下ろす。虚を突いた有効な攻撃だったが、ジャッドの反応力はそれを遥かに越えた。彼女の剣は空しく空を切り、ジャッドは前方に跳躍していたのだ。
その間、彼は剣をしまい、矢を射ようとしていた。その動作すら神速である。しかし、シレーヌは臆せず彼に突進した。彼の弓が正確が故に、彼女には勝算があった。突撃するシレーヌにジャッドがためらいなく神弓を放った。それは瞬時にシレーヌの眉間へ到達する。が、寸でで彼女は剣を青眼に構えて剣の腹で矢を受けたのである。おそるべき衝撃が彼女の両手に伝わったが、彼女は構わず間合いを詰めて、ジャッドを剣で捕らえた。
鈍い音が轟く。ジャッドも避けることが出来ず、短剣を抜いてシレーヌの剣を受け止めていた。が、打ち込みはシレーヌの方が断然早く、さらに切り返しをさせるほど、彼女も愚かではない。瞬間的にシレーヌがジャッドより優位に立ったのだ。
が、ジャッドはにやと笑った。その刹那、シレーヌの長剣はその根元から乾いた音を立て、ぽっきりと折れてしまったのだ。そこは剣で矢を受けたところであった。愕然とするシレーヌ。おそるべきはジャッドの弓勢である。
「あんた、女にしとくにゃ、もったいねーな」
ジャッドは唇を歪めて独特の笑みを浮かべた。自信と余裕とほんの少しの嘲り。それが彼の笑みだった。実は、受けたジャッドもしびれて感覚がなかったのだ。おれた剣で彼の腕をしびらせる。シレーヌの剣撃もまた、おそるべしである。
ジャッドは呆然とするシレーヌを打ち捨てて、宿に疾走した。そこにはまだルシアがいる。シレーヌは愕然とした。
「し、しまったっ!」
反射的に彼女は追ったが、剣を折られ、追いつくことも出来ぬ彼女になすすべはなかった。
一、二瞬の時をおいてルシアの甲高い悲鳴が上がった。それを聞いたシレーヌとガルドは絶望と、自らのふがいなさを恥じた。
「ル、ルシアっ!」
カーミラと剣を合わせていたラルフが驚愕の声を漏らす。しかし、その時にはルシアはジャッドの手に落ちていた。
「ラルフォード! ルシアは預かった。この娘はおまえと違って、まだ利用価値があるのだ。このまま陰遁させるには少し惜しいんでな!」
ジャッドは夜陰に紛れながら疾走し、叫んだ。その声は十分にラルフの耳に届いていた。愕然としたラルフであったが、驚異的な彼の精神力は、一瞬後には行動に移っていた。
「ルシアっ!」
ラルフは大地を蹴ってジャッドを追ったが、それを阻むものがいた。
「ラルフォード! オマエの相手はこの私だ!」
幻妖のカーミラは妖しい微笑みを浮かべながらラルフの前に立ちはだかった。その冷笑は彼女が余裕からなせるものだった。ラルフの今の能力ではカーミラに遠く及ばなかった。
「くそっ! そこをどけぇっ! カーミラ!」
その刹那だった。ラルフの全身から怒気と闘気がおそるべき力を持って放たれた。
それは本来、暗殺者にはないものだった。暗殺者とは人間としての気配を失った者である。喜怒哀楽を失った者こそ、暗殺者として最高に値するのだ。数年前のラルフがそうであった。感情を逸し、喜を持たぬ故野心を持たず、怒を持たぬ故冷静さを保ち、哀を持たぬ故ためらう事なく人を殺し、楽を持たぬ故常に厳格であった。
しかし、ラルフは感情を取り戻した。妻によって。が、その妻を殺された。感情を持ち始めたラルフにはそれは途方もない衝撃だった。彼はその時哀を知った。人を失うことの悲しみ。それが何時しか奪った者への怒りに変わり、それは己の能力を越えた力を生み出した。
「何だ? こ、この力は!」
そのラルフのすさまじい闘気をまともに受けたカーミラは珍しく動揺した。
人は人を護るために能力の限界を越える。古代の作家がそう述べた。それはこのとき正しくそれで、ラルフはこの時カーミラを圧倒していた。
ラルフがカーミラに突進し、強烈な剣撃を横凪に払った。剣気に我を取り戻したカーミラであったが、僅かに打ち込まれ、切り返す暇もなく、力任せにラルフにふっとばされていた。
「ラルフォード……伊達にふ抜けた訳ではないな。なるほど……」
ジャッドは逆にこのラルフの豹変を楽しんでいるかのように笑みを浮かべた。そして、抱えていた気絶したルシアを一瞬で背負い、弓を構えて突進するラルフに放った。
銀の閃光はラルフを目指し、暗闇の空を切りさいた。
乾いた音と共にラルフがそれを剣で撃ち落とす。並み大抵の集中力ではない。ラルフは構わずジャッドを目指して疾走した。
「そんな感情に任せた剣では俺は倒せんよ!」
ジャッドは冷静に後方に間合いを広げながら弓を構えた。
「だめぇーっ! ラルフさんっ!」
ジャッドが先よりも強力な矢を放つと同時に、ファティマが高速で疾走するラルフに横から抱きつき、そのまま横へ転がった。矢は虚空を切り、地面につき立つ。
「ファティマ! ルシアがさらわれてしまう!」
「駄目です! 今、今ラルフさんが行けば殺されてしまいます。でも、姉さんは殺されないでしょう? あの人は姉さんを殺せないはずです。でも、でも、ラルフさんは……」
ファティマがラルフに乗りかかったまま、涙ぐんだ瞳で訴えた。そのけなげで必死の訴えはラルフに常のラルフを取り戻させた。
「ファティマ……」
涙に濡れた彼女をラルフは優しく抱きしめた。その隙にジャッドはルシアを抱え、消えていた。いつの間にか、カーミラの気配もなかった。
が、ラルフ達はルシアを失ったと言う現実を残されていた。
「あれはまさしく鬼才だな。人じゃない。あんなずるい方法は、俺にはできない」
ローズハルトは回想録にそう記録している。また、歴史作家としてこの時代の一人であるファティマ・アムル・ラスティアスはこうも記述している。
「カランダ王国はラッツウェルの治下によって第二の人生を踏み出した。が、そこには幾多の難関が散らばっていたのだが、それらを駆逐し、頑丈な基礎を作れる、いや作らせたのは彼である」
彼らが述べたのはグスタフ・ド・ハインツその人である。先者は彼の友人であり、身近なものであった。批判的ながら彼の才能を的確は表している。一方、後者は同時代の人物であったが、直接の面識はなく、客観的な評価であった。
ハインツは軍をラズバル峠に移動させていた。その動きは彼にしては鈍かったが、これには一つの意図があった。それは、「敵に発見されなければいけない」という奇妙な理由だった。
その頃、ラズバル峠よりも北のファルム峠に簡単な砦を築き、カランダ軍の攻撃に備えていたドゥルジ伯はそのカランダ軍の行動を密偵からの報告で知っていた。
「ラズバル峠に? 一体どういう事だ。奴らは我々を無視するつもりか?」
大きな戦略眼を持たぬドゥルジ伯にはその動きは奇妙に映った。
「なるほど、大胆不敵と言うのはこういう事を言うのだ。こんな戦略をするにはよほどの度胸と自信を持っているか、もしくは脳天気だ」
同刻、報告を受けたハインリッヒはしばらくの考慮の後、ハインツの望む意図を察していた。彼も若くして才能に華開いている男の一人である。
ハインツらが進軍したラズバル峠は旧街道の峠であり、整備もおろそかで急峻な峠である。旅人も少なく、とても大軍が進軍するに向いた峠ではない。一方、ドゥルジ伯軍の構えるファルム峠は、新街道の峠で、道も広く整備もされており、進軍には安かった。が、軍の相対高度はドゥルジ伯軍にある。この時代、軍を高所に配した方が圧倒的に有利であった。これは特殊な場合を除き、近代戦までの常識である。そこがむしゃらに攻めるだけではカランダ軍に勝利はなかった。
ハインツの取った戦略はきわめて簡単だった。
「通りたい道が邪魔されるなら、回り道をすればいいのさ。急がば回れってね」
説明を求める幕僚達にハインツは微笑みを浮かべてうそぶいたのである。
ドゥルジ伯軍の後背にあるのは大都市ヴァルハナで、そこが彼らの補給拠点である。戦略の基礎は補給であり、飢えた軍隊が勝利を収めた戦史は何処の国を掘り返しても見あたらない。それくらいはドゥルジ伯もよく理解していた。逆に、ハインツらはその補給路を経てば良いのである。補給の失った軍隊は時間と共に衰弱し、減滅するだろう。が、逆にハインツらの補給拠点はカランダ市である。ハインツらがドゥルジ伯を無視してヴァルハナに向かえば、彼らは後背の補給路を丸裸にしてしまうこととなる。が、ここに一つのトリックがあった。
カランダ市に残るラッツウェルの勢力である。これには二万以上の兵力があり、簡単に切り崩せる勢力ではない。もし仮にドゥルジ伯軍がハインツらの補給路を断つべく、進撃すれば、ラッツウェルはカランダ市より打って出てドゥルジ伯軍を迎え打つ、それと同時にハインツらは反転し、ラッツウェルらの動きに呼応してドゥルジ軍を挟撃せしめることが出来るのだ。
また、ドゥルジ軍がファルム峠を動かねば、ハインツらはそのまま直進し、ヴァルハナ市を占領し、ドゥルジ軍の補給路を断つことが出来る。
それをハインリッヒはドゥルジに申告した。結局、ドゥルジ軍は戦術的位置的有利を捨て、退却せねばならなかった。戦わずして勝つ。戦略の第一歩であり、至る所でもある、至難のそれを簡単にやってのけたハインツを鬼才と呼ばずして何と呼ぶか、ローズハルトの人物描写は正鵠射て違わなかった。
「何、オーベルハイム公の動きを封じた時点で、この作戦は有効になっただけさ」
ハインツは周りの関心をよそに、彼らしくぼんやりと次の事を考えていた。
ドゥルジ伯軍は東に向かって敗走していた。数の上では未だドゥルジ・ハインリッヒ連合軍の方が勝っていたが、戦わずして彼らを敗走にいたらしめたハインツの奇略によって彼らの士気は地に落ちていた。
戦いにおいて「数」とは重要な要素の一つであるが、それが全てではないと言うことだった。彼らは五分と五分の戦いは不利とみて、ヴァルハナ市の城壁へ拠るため、東へと向かっているのだ。
その敗走を続けるドゥルジ伯軍の横腹に鋭い一撃が加わった。無論、カランダの兵力である。カランダ軍は先ほど見せた鈍速からは想像できぬ速さで彼らに肉薄していたのだ。しかし、それでも万単位の軍勢が出せる速さではない。
これはローズハルトが率いる五千騎からなる精鋭の騎兵の遊撃部隊で、ローズハルトの神がかり的な用兵技術によって、ドゥルジ伯軍を急襲したのだった。
予期せぬ奇襲にドゥルジ伯軍は浮き足立った。元々低くなっていた戦意は皆無に等しくなり、主力であった庸兵達は次々と戦線を離脱して行ったのである。軍は恐慌に陥り、はっきりした指揮系統を失って混乱をきたした。もはやドゥルジ伯にこれを収集する能力はなく、彼はローズハルトの先鋒が自らに近付いていると知ると、単騎ヴァルハナへ逃げ帰ろうとしたのだった。
それを見た諸将達は自らの主君の暗愚さに気づいて、単独で奮戦していたのも止め、逃亡か降伏の二つに一つの道を取った。その頃、ドゥルジに見切りをつけたハインリッヒは自らの軍のみを巧みに集結させ、ローズハルトの部隊を迂回して、迅速かつ整然と戦線を離脱していた。
「所詮は無能者か。あれと組んだのは間違いであったか。もはや、ガイアの一族を捜している時期ではあらぬかも知れぬ。ラッツウェル……か。ハインツと言う味方をつけて、大陸制覇を目指すつもりか」
ハインリッヒは荒れる戦場を見つめてそう独り言をうそぶいた。彼はそのままライゼルへの帰途を急がねばならなかった。政治的に厳しくなった立場を回復せねばならぬと言う運命が待ちかまえていることを彼は知っていたからである。
ドゥルジ伯がヴァルハナ市に逃げ帰ったとき、彼の持つ兵力は彼と共に逃げた五千弱の兵士のみであり、もはや、二万以上の兵力を保持するカランダ軍に抵抗するだけの力はなかった。
ハインツは迅速なる判断を持って兵力を展開させ、ヴァルハナ市を囲い込み、ヴァルハナ市を孤立させた。一方、それに対抗してドゥルジ伯は篭城の構えを見せて、徹底交戦の意を示していた。
市民のためを思うと、早急に攻め陥したほうがよい、ローズハルトとゼフルトはハインツにそう告げたが、ハインツは別に慌てる振りもなく、のんびりした声で答えていた。
「強襲すれば、それなりに犠牲が出てしまうし、街に火がついてしまうかも知れない。もうしばらく待とう。ドゥルジ伯が真に愚者であれば、答えは出るさ。まあ、他の手がないわけじゃないが、なるべく楽に勝てれば、それに越したことはないだろう?」
しかし、ハインツの予言は的中する。城門付近に罠を張り、ハインツらの急襲を待っていたドゥルジ伯は動きを見せぬ敵に苛立ち、愚かなる選択を犯したのだった。
ヴァルハナ市民を人質にとり、彼らの生命と引き換えに、撤退せよとカランダ軍に突きつけたのである。それを知ったヴァルハナ市民は怒り、四万を越す人民は一斉に反乱を起こしたのである。同時に兵士達の一部も反乱を起こし、もはや反乱を抑える力もないドゥルジ伯は反乱軍の首謀者達に取り押さえられ、ハインツらの前に引き出されたのだった。
ここに歴史に名を残した「ヴァルハナ戦役」はあっけなく終幕を向かえ、ハインツはほとんどの自軍の犠牲を払わず、小数で多数を討った策士として名を広めたのだった。
「そうか、ハインツとやらはドゥルジに勝ったか。まあ、ドゥルジごときにてこずるようではたかが知れているが、なかなか見事な勝ちっぷりだったな。で、どうだ? オマエのほうの収穫は」
部下からの報告を聞いた愚鈍王子の異名を持つミハエルは微笑んだ。が、それは暗愚なる笑みではなく、知性の閃光を秘めた冷笑だった。
「上々でござる」
答えたのはジャッドであった。知性を秘めた野性人の瞳をもつ彼は、誰にも仕えぬごとき精神の持ち主であったが、相手が仕えるだけの器量と才覚の持ち主であれば、それは別であった。そして、「愚鈍王子ミハエル」は彼が仕えるにふさわしい人物だと、彼は見抜いていた。
「しかし、何故でございます? 今更、アムル公国公女ルシアを手中に収めたところで……」
「ルシアの持つものは美しさと才覚であるが、この際はそんなものは二の次だ。が、彼女にはアムル公国の相続権と言うものがある。法的にはないかも知れぬが、世俗は有とみるだろう」
ジャッドにはミハエルの真意を見定めることが出来なかった。彼の眼力を持ってしてもだ。彼もまた、愚鈍という言葉から遥かにはなれた男であるに関わらず。
「アムル戦役のさい、かの地は塩をまかれ、不毛の大地にされたが、それも過去のことになった。アムル公国は初夏から秋にかけて雨量がきわめて多い。大地は洗われて元の肥沃さを取り戻しておる。かつての民も戻りつつある。そこへ、ルシアをつれて帰り、アムル公国復興を宣言させるのだ」
「なるほど」
ジャッドはようやくミハエルの話の真意が見え、好奇心豊かな瞳を揺らした。
「つまり、愛国心ゆたかなアムル公国の民は、ルシアが故郷に帰ったと知れば、難民となった者達も戻る。そこに私とおまえが加われば、我が兄、ラッツウェルに対抗できる勢力となる。いや、少なくとも兄は我々を無視することを出来ぬ」
ミハエルは冷笑を浮かべたまま話していた。
かつて、ジャッドはなぜ、ラッツウェルに逆らうのかをミハエルに問いた事があった。その時の答えは、奇妙そのものであった。
「分からぬ。自分自身でさえな。次兄ラウエルならばともかく、長兄ラッツウェルには私怨もない。カランダ王の座も対して欲しいものではない。歴史に名を残したいわけでもない。名誉を望むならば、愚鈍王子などと呼ばれる行為はせぬだろう。自分自身良く分からぬが、私は長い人生の中の暇つぶしに兄王に逆らうのかも知れぬ」
と……。
ジャッドはその時、彼について行こうと思った。少なくとも、この人について行けば、退屈はすまいと思った。人生を一つの娯楽と考えるジャッドには彼の気性はひかれるものに値したのだ。端からみれば、なんと愚かな男達だろう。しかし、彼らは自分達を信じていた。
ラッツウェルは反乱分子の一つであったドゥルジを下し、大きな勢力を持った。もはや彼に追随する勢力は国内にはなく、覇道を走り始めたと言って語弊はなかった。しかし、その中にもミハエルを初め、オーベルハイム公、ライゼル辺境伯ハインリッヒ等の有力な野心家達が息を潜めていた。
一方、カーミラはかつての師、ラルフに復讐と、暗殺者ナンバーワンの名目を得るために野心を人知れず燃やしていた。
大陸は今、野望の渦に揉まれている。それはカランダ国内だけにあらず、南方のアステ・ウォールも同じ宿命を急いでいた。
そしてそれらに巻き込まれて行く運命を知らぬセレナ達は、北カランダの街道を北上していた。
