カランダは大陸アルカーティスの北部に覇を唱える大国である。英雄リヒャルト3世は諸王侯が乱立していた北部アルカーティスを一代にして統一し、大陸中央のアステ・ウォール、西部のメルディアに次ぐ第三の勢力をアルカーティスに書き込んだのである。
カランダは北の海、トバ海に望むきわめて肥沃なカランダ平原を有しており、カランダの版図はアステ・ウォールの半分にも満たないが、経済力と生産力においては、間違いなく大陸一である。これは戦略的に重要なことであった。動員数、勢力図では見えない、影の力である。かくして十分な補給なしに、勝利を納めた軍隊は今だかつてない。
だが、カランダもリヒャルト三世を若くして失い、政治的に不安定な時代が訪れていた。
紅茶を薄くしたような美しい色合いの髪を僅かに揺らせて、少女は竪琴を引いていた。彼女を包む絹の衣装は白一色であったに関わらず、豪奢な雰囲気を忍ばせている。彼女は細い、白く淡く透き通るような指で静かなメロディを奏でていた。
心落ち着く旋律である。
その部屋には青年がいた。黄金にプラチナをまぶしたようなくすんだ巻毛の金髪の青年だ。瞳はプラチナの輝きを持っている。服装はあくまで豪奢で金糸銀糸で見事な刺繍が描かれている。
彼が、現在のカランダの当主、ラッツウェルである。まだ三十路も達していない若き王は二十六の年にその地位を継いでいた。一昨年の春の事である。
物静かな旋律を傍らに、彼は物思いにふけっていた。
アステ・ウォールとメルディアを攻略し、大陸を統一する……それにはまずはカランダの全権の得ねばならぬ……
ラッツウェルの苦悩はそれだった。ラッツウェルが若くして王位を継ぐに当たって、後見人を名乗る重臣達が絶対であった王の権力をむしばみ始めているのである。政治で言えば、名目上は彼の味方であるカランダ王国最大の重臣オーベルハイム公爵である。彼は摂政の地位からほぼ、政治の力は彼が握っている。
まずは、政治だ。政治の全権を余が握らぬ限り、事は進まぬ。次いで情報だ。この二つさえ揃えば、軍などどうにでもなる。だが、今、余にはオーベルハイムの後ろだてなくしてはおれぬ。難しい……
「またお考えになられておられるのですか?」
少女は琴を休め、静かな声で言った。幻想的な美しさを持つ少女だった。ひすいの瞳はその奥が分からぬ程に澄み渡っている。瞳の奥に、もう一つの世界がありそうだ。
「うむ。どうしても余はこの大陸を一つにしたい。一つにせねば、この大陸から争いが消えることはない」
「あなたは、平和を実現するために争いを望むのですね」
少女の言葉は静かであったが、その意味には凄絶さを多分に含んでいた。
「そのことぐらいは十分承知しておるつもりだ。それは支配者にとって永遠の命題なのかも知れぬ。だが、哲学者ならばともかく国王たる余がそんな論に殉じて良いはずがない。余は万能には程遠いが、余に出来ることはある。出来ることを捨て、出来ぬ事に殉じる権利は余にはない」
ラッツウェルは半ば自分に言い聞かせるように言った。
「ドゥルジ伯爵らが、ガイアの一族の捜索に力を注いでいるそうですが……」
少女は平静な声で言った。ラッツウェルはその言葉にはほとんど興味を示した様子はなく、僅かに怪訝そうに首をかしげた。
「ガイア……? あのガイアの伝説の事か?」
「はい」
「伝説は伝説に過ぎぬ。そのようなこと、ドゥルジ伯などに任せておけばよい」
ラッツウェルはあまり表情に変化の無い端正な顔に苦笑を張り付かせて言った。だが、冷静に少女は続ける。
「が、伝説といえど、無から始まった物だとは思えませぬ。ドゥルジ伯爵は……その陛下の地位、すなわちカランダの王座を狙っていると伺います……」
「予を蹴落とそうとする者をいちいち確認していては、キリが無い。そう、アリア。あなたの父上もそうだな」
ラッツウェルは目にかかる前髪をかき上げて、笑った。言葉と表情は矛盾している。このところの彼の特徴であった。そして、それが少女、アリアには痛々しい。彼女の父、ラウグル・フォン・オーベルハイムは宰相と言う地位にあるが、実質は摂政と言っても異はなく、政治面ではほぼ、彼が権力を手中に納めていた。
「だが、予は負けぬ。予はこの手でアルカーティスを支配する。ガイアの力などには頼らぬ。頼ったところで、それは仮染めの支配にしか過ぎぬ。余、自身の力でこの大陸を支配せねば、真の平和などありはせぬ。その支配による平和がどれだけの間続くかは分からぬが、一度、このアルカーティスの戦乱を治めなければならぬ。それが、余に課せられた宿命とも言えよう」
ラッツウェルはプラチナの瞳に激しい光を宿らせていた。それは凡庸たる者では気付くことが出来ぬ、内なる炎の光だった。おそらくは、この光にカランダの重臣達は気付いていない。だが、ここに一人気付くものがいた。
今、ラッツウェルが唯一心許せる人。それが、アリア・フォン・オーベルハイムであった。
「悲しい人。支配による平和など、真の平和ではございませぬ」
「わかっている。だが、今のこの大陸で望めるものは支配による平和でしかない。未熟な予はそれしか思い付かぬ……」
ラッツウェルは低い声で応えた。そこに彼のやりきれなさがある。
だが、アリアは感嘆していた。
大きい……そして、深い。この方なら時を重ねれば、実現も夢ではないかも知れない……
「アリア、あなたは優しい人だな」
ラッツウェルはいつの間にか、彼女に近付いていて、小さくつぶやいた。そして、流麗たる仕草で左手をアリアの背中に回し、抱きよせ、唇を奪う。
「このような愛の無い婚約にも、ひとつも不満をこぼさぬ」
「私には、まだ本当の愛と言うものを理解できませぬ……」
アリアは彼女にしては珍しく動揺に瞳を揺らしながら応えた。ラッツウェルに身体を許したことも何度ともなくある。だが、その度に、彼女は常の冷静さを失わずにはいられなかった。
「ふ、予もだ。できることなら、この世の者達すべてが、本当の愛というものを理解せずに生きていると信じたいものだ」
ラッツウェルの希望は、完全に当たりもせず、はずれもしなかったであろう。
「だが、アリア。あなたとこうしていると本当の愛と言うものが見つかる様な気がする……だが、余にはそれが恐ろしくも思う……」
ラッツウェルはプラチナの瞳を細めて、もう一度アリアに口づけをした。今度は長く激しく。そして、抱き込めば消えてしまいそうなアリアの身体を熱く抱擁する。
「あ……」
アリアはラッツウェルの熱さに吐息をもらした。底知れぬ愛へ恐怖感と期待感で彼女は胸の鼓動が速まって行くのを覚えた。
夜が明けて陽もかなり高く上がっていた。
森の入口にある山小屋にしてはやや大きめな小屋に少女は寝かされていた。今度は暖かなベットの中でだ。少女は未だ眠り続けていた。その彼女の横で、青年が椅子に座って、床を見つめている。微動させしない彼の微かな息遣いさえなければ、一枚の絵画の様でもある。何を想っているのか、何も考えていないのか、組んだ両手に顎を乗せて、視線は動かない。
「んっ……」
少女が僅かに声を上げた。太陽の位置が変わり、ベットの位置まで窓から光が差し込んできたのだ。だが、その声に青年、アーディルは反応せずに、床を見つめ続けていた。
「あ……あれ?」
少女はゆっくりと上半身を起こして、辺りを見渡した。夢から覚めたような表情とは今の彼女の事を言うのだろう。そして、彼女にはそれが夢であって欲しかった。
だが、乱れた緑の髪が彼女の眼にかかると、はっとして彼女は表情を蒼白に変えた。昨夜の出来事が鮮明に記憶に蘇ったのである。
「やっと起きたみたいだな」
アーディルはようやく椅子から降りて、少女に微笑みかけた。若くきれいな顔立ちだったが、精悍さも幾分が混じっていた。だが、その微笑みはやさしげその物。
「ひっ……」
だが、少女は恐怖に端正な顔をゆがませて、身を引いた。生理的にシーツを掴んで、身を隠す。昨日の惨劇が、余りにも彼女の精神を犯しているのだ。冷静な判断を彼女に求めようはずが無い。
「おいおい。俺、何かしたか? 少なくとも敵じゃねーぞ」
「あ……」
アーディルの呆れた顔に、少女は昨夜の男、ハインリッヒと違うことに気が付いて、僅かだが緊張の糸を緩めた。アーディルはその彼女の気配を感じて一息付き、言葉を続けようとした。が、嫌でも目にはいる少女の希有たる緑の髪を見つめる。
その視線に彼女は敏感に反応し、テーブルに置いてあった、数本のナイフを見つける。そして機敏にそれを取ると、自らの胸に当てた。
「寄らないでっ! 少しでも寄ったら、死んでやるっ!」
少女は涙目で叫んだ。だが、気丈な彼女は臆しているものの、口調ははっきりしている。自ら心臓を突くと言うのも、まんざら嘘ではなさそうだ。
「こらこら……」
アーディルは切れ長の目を一瞬、驚愕に見開かせたが、すぐため息をついて呆れた。どのみち、その彼女の持っているナイフはアーディルが使う手投げ用の剣で少女の至をためらう細腕で心臓まで達するような物ではない。切れ味も余り良くないので、専ら彼が敵を錯乱させるために使うものだ。
「何事じゃ?」
騒ぎを聞きつけた老人、ジルが覗きにきた。この小屋の主は彼である。そして、剣を構えたままの少女を見つける。
「おお、ガイアの娘が目覚めたか」
「っ! 知らないっ! ガイアだかなんだかしらないけど、私は何もしらないっ! だから、だからもうほっといてっ!」
「ガイア」と言う言葉を聞いた瞬間、肌の裏がざらつくような嫌悪感を覚えた彼女は髪を振り乱して、大声で叫んだ。
「少しは落ち着けよ。俺達は敵じゃないって言ってるだろう?」
少女がジルに気を取られている内に、いつの間にかアーディルは少女の側に寄っていて、ナイフを握る彼女の小さな手を右手で捕らえていた。
アーディルはジルをちらりと見て、少しためらうような表情を見せたが、すぐに少女の方を見て、真剣な表情で言った。
「いいか? 落ち着いて聞けよ。俺は、何が起ころうともおまえを守ってやる。カランダの連中に好きにさせやしない」
「アーディル……おまえ、まだあのことを……」
ジルは悲しそうにアーディルを見た。
「そうさ、忘れられるわけが無いだろう? 俺の妹は『緑の髪』というだけで、カランダの連中に殺されたんだ」
「え?」
驚愕してアーディルを見たのは少女だ。つぶらな瞳が、驚愕に搖れて不安げにアーディルを捕らえている。瞬きすらしない視線にアーディルは常の冷静さを持って肩をすくめた。
「俺の妹はティナって言ってな……五年前さ。突然俺達の家にカランダの兵士が押し掛けて、ティナをさらったんだ。両親も殺された。俺は運よく重症で済んで、生き残れたんだけどな。それから俺は、妹を捜して旅に出た。情報を得るために、盗賊になってカランダ中を回ったよ」
ここで言う「盗賊」とは泥棒や強盗とは違う。錠前外しや隠密、偵察、夜間行動などに長けた技術者の総称である。もっとも、そう言った物を特技としているために、盗みなどをするものも少なくなく、「盗賊」という名もそこからきていると言う。
「盗賊仲間ってのは割と横のつながりがひろくってね。そして、知ったよ。俺の妹が殺されたことを。拷問の挙げ句にな……」
アーディルは冷静な瞳を輝かせて少女に告げた。が、彼女は気付いていた。彼の静海の瞳の奥には、怒りの嵐が渦巻いているのを。
「あんたをみてると、髪のせいか他人のような気がしねぇ。ティナの二の舞にはしたくねぇ。俺は……守ってやりたいんだ」
「私……でも……」
「分かってる。自分でもガイアの力が何なの分からないんだろう? 俺達だって、ロクにその真実を知らない。心配するなよ。前を向いていれば、きっと何かが見えて来るはずさ」
アーディルは優しく微笑んだ。少女は小さくうなずき、床を眺めた。
「アリガト……アーディル……私……」
少女は硬い表情を僅かだが崩した。だが、昨夜の事が尾を引きずっているのは余りにも明白で、彼女が笑顔を取り戻すには後少しの時間が必要だったのである。
「私……セレナ……セレナ・アスリード」
アムル公国はカランダのすなわちアルカーティスの最東部に位置する国家だった。豊富な降水量を利用した水稲農業が盛んで、カランダ平原に並んで高い生産力を誇る。
アムル公国はカランダに従属的であったとはいえ、アルカーティス北東部で最後の独立国家であった。そして、リヒャルト三世の英雄伝のエピローグとなった舞台でもある。アムル公国が滅んだのは今より四年前。すなわち、リヒャルト三世が急死する一年前の事である。
アムル公国はカランダに親密の印として、毎年なにがしかを贈っていたが、その品が不足だと言うことでリヒャルト三世は軍を差し向けた。彼に取って口実は些細なものでよかったのだ。とにかく、彼はアムル公国の領地を欲していた。アムルを攻略し、アルカーティス北東部に基盤を作れば、大陸統一は無理でも、アステ・ウォール併合ぐらいは夢ではないはずだ。アムル公国はリヒャルト三世の野望のいけにえだった。アムル公国はカランダの大群の前にとうろうの斧とも言えるべき抵抗を見せ、僅か二カ月で城は陥落。アムル市民三万の半数は死亡、半数は奴隷となった。そして、再建できぬよう土地には塩を撒かれ、アムル公国は文字どおり死んだのであった。
その旧アムル公国の西部、すなわち、カランダとの入口にある町、ノープルは人口四〇〇〇余りの小さな町である。が、カランダの東の大動脈、ヴァルハナ街道の重要な中継地点として、商業の町として栄えていた。なにしろ、南はライゼル地方さらにアステ・ウォールへ、北はカランダ第二の都市、ヴァルハナへと続くのだ。
そのノープルは大嵐に襲われていた。
夏の終わりから秋にかけて、アムル地方には「竜の城」と呼ばれるこのような暴風雨がたびたび襲う。アルカーティスの東南岸、南岸に広がるオリハ海の遥か南洋で生じた低気圧が発達して、この地方を襲うのである。「竜の城」という語源は、かつて空を飛ぶ魔法技術を擁し、滅びた一族が、空からみた雄大な積乱雲の塊を「まるで竜の住む城」と表現したことにある。
その「竜の城」がいま、ここに訪れていた。
町外れの旅道具屋に一人の旅人が飛び込んで来た。この暴風雨に巻き込まれたその旅人はタールで防水加工した外套を羽織っていたが、その防水効果も余り役には立っていないようだった。
「珍しいな。こんな大嵐の日にお客がくるなんてね」
店の主人はのんびりした口調で、旅人を向かえた。まだ若く、三十には達していまい。この地方の人間にしては珍しく、黄金色の髪をしていた。アムル公国の住民は八割ほどが黄色人か、その混血だが、彼は明らかに白色人であった。
「酷い嵐ね。全くついてないわ……」
旅人はフードを外して、外套を抜いだ。雨水が染み込んで、中の旅装束までぐっしょりだ。そして、意外なことには旅人は白亜麻の髪の美女であった。長い髪を後ろで結わえて邪魔にならないようにしている。女性の旅人は珍しくないが、一人旅は珍しい。女性には女性の危険が付きまとうからだ。この辺りも、戦役の後で、決して治安がいいとは言えない。
「少し、休ませて貰える?」
「ああ、別に構わないけど、この嵐は今夜中には抜けきれないんじゃないかな? 別に泊めてあげてもいいよ。料金を取ろうって腹じゃない。困った旅人を助けるためにこの店を開いているわけだしね」
店の主人は柔和な表情で話しかけた。おそらくは本心なのだろう。旅人の女はそう感じた。だが、だとしたら彼は相当のお人好しである。得体も知れぬ流れ者を泊めるなど無謀備極まりない行為である。それとも、別の意図が彼にあるのか……
彼女は彼の心の奥を見破ろうと瞳を見つめたが、底にあったのはぼんやりしたコバルトブルーだけだった。
「ハンガーならそこにあるから、使ってもいいよ。ずぶぬれのままじゃ、寒いだろうし」
「え? じゃあ、そうしようかな」
とにかくおそるべき人の良さを誇る店の主人の言葉に彼女は従った。別に、人の良さなど、おそるべき物ではないかも知れないが……
旅人の女はせっせと服を抜いで、アンダーシャツ一枚になった。そこまでは濡れていない。無論、濡れていても気軽に脱げるものでもないが。
そこから垣間見れる彼女の身体から彼女が一人旅をしていた不自然さは消えた。全体的に細い身体付きではあったが、無駄の無い筋肉でよろわれているのだ。見れば中剣と長剣の間くらいの大きさの剣を持っている。
「へえ、女剣士か……」
「まあ、そんなところ。そうだ、ここからヴァルハナまではどれくらいかかる? その分だけの食料が欲しいんだ」
「そうだね。嵐で道が荒れて無ければいいんだけども……徒歩なら十日前後かな? 大した行程ではないよ」
「そう……じゃあ、その分だけ頂戴。銀貨五枚。こんなところかしら?」
女はランプに淡く照らしだされて、妖しく輝く銀貨をちらつかせた。長く旅をしているらしく、物の相場をわきまえている。
「うーん、そんなところだね。まあ、美人だし銀貨四枚に負けておこう」
店の主人は人のいい笑みを浮かべて、極簡易的な商談を成立させた。女は思わず失笑を禁じ得なかった。これ程までに人が良くて、商売はやって行けそうもない、と彼女は思ったのである。彼女は商売の経験はなかったが、それでも彼よりはうまく経営できそうだ。
「おーい、ファティマ……あれ?」
店の主人は奥に向かって、ひどく間延びした声で誰かを呼んだ。返事が無いのを怪訝に思った彼は、店の奥を覗いてみると、膝に何がしかの本を置いたまま、一人の少女が椅子の上で可愛い寝息を立てていた。絶世、とは言えないが、さわやかな感じのする美少女だ。柔らかなウェーブのかかった黒髪が美しい。
「なに? 奥さん?」
「まさか、年齢が違いすぎるよ。私とファティマは十二も年齢が違うんだ」
「じゃ、愛人?」
「私が幼女趣味ならね」
「妹?」
「ちっとも似てないと、自分では思っているけど?」
旅の女の半ば冗談の質問に、彼はいちいち真面目に応えた。
おかしくなった彼女は堪えきれずに「ぷっ」と笑みをこぼす。店の主人も苦笑い的に唇を歪めて笑った。真面目な応対は振りだけで、実際は冗談を冗談と受け止めていたのだ。そこまで彼もお人好しではない。
「う……ん? あれ? ラルフさん……えと……」
「お客さんだよ。悪いけど、倉庫から干し肉を十日分。頼むよ」
まさか、こんな嵐の日に客が訪れるとは思っても見なかったのだろう。彼女が何時の間にやら眠りこんでいたのも分かる。そのためか、店の主人、ラルフも苦笑いして、彼女に優しく接した。もともと、彼は「怒る」という行為に程遠い人間ではあったが。
「はいっ」
寝起きでありながらも、爽快な笑顔を残して、ファティマは奥に消える。いかにも嬉しそうな表情が可愛い。実の所、彼女の一番の至福とは、ラルフに頼られることにある。
「なにも、起こすことはなかったんじゃないの?」
「まあ、それはそうだけど、私より、ずっとファティマの方が慣れているからね。私が行ったところで、干し肉を何処に置いたのか、忘れているし」
ラルフは飄々と、応えた。その答えに一瞬、呆然としたのは旅の女である。世の中にはいろいろな商売人がいるものだと、彼女は改めて知ることになった。もっとも、このときの彼女の認識は後になって大きな間違いだと言うことを知るが。
「ところで、彼女はいったいあなたの何? とても、この程度の店じゃ、メイドを雇うだけの収入があるとは思えないけど……」
「失礼だな……まあ、その通りだけど。でも、実は彼女はメイドだよ」
「え? 嘘」
「私は滅多に嘘はつかないんだけどね。まあ、そう思われても仕方が無いか。正確は同居人兼メイドってとこかな。ちょっとした、事件があって、その時、彼女を助けたんだ。それ以来、私の元を離れないんだ。給料だって、大した額じゃないのに……」
ラルフは困ったような顔に笑みを浮かべて、首をかしげた。実は、ファティマは彼に惚れているのだが、鈍感なラルフはそれに一向に気が付こうとしない。けなげなファティマは今日もラルフのために働くのだ。もっとも、それは彼女にとって喜ばしいことでもあったのだが……
淡いランプの光が夜の酒場にほのかな陰影を流し込んでいる。人為的で、それでいて自然的な幻想が、そこにあった。この時代、人と自然とはまだ未分離の状態にある。
旅の女の名前はシレーヌといった。まだ二十三になったばかりの美しい女剣士だ。
彼女は今、苛立ちを隠しきれずにいた。しかし、それでも赤ワインで濡れた甘い唇は限りなく艶美で、それを見る男達の心を溶かす鍵ともなっていた。
「たくっ……こんな街に三日も滞在する羽目になるなんて……」
「心配ない。明日ぐらいにもなれば、水もひいて、午後には渡しも再会するさ」
その彼女のとなりでエールをちびちびやっているのはラルフである。
竜の城の影響で、このノープルの街の近くを流れるアスト川が氾濫しているのだ。アスト川はさして大きな河川ではないが、流れが急であることで有名で、橋がかかっていない。唯一の横断手段は渡し船なのだ。無論、川が氾濫すれば、渡しどころでの騒ぎではない。かつて頑強な堤防がなかった時代、ノープルの街も幾度と洪水に見回れている。
「まぁ……それほど急ぐ旅ではないんだけれどね」
シレーヌは赤ワインのグラスを置いた。安酒場だが店でも最上級のワインだ。収入が不安定な流れ者にとって、高級ワインは滅多に飲めるものではない。だが、今夜は苛立ちのためか、彼女は少し浪費をしてみたかった。
「じゃあ、ゆっくりしていた方がいい。忙しいときは忙しく、のんびりしたいときは、のんびりと……これが私の理想としている社会だからね」
「理想ね。それって都合が良すぎるんじゃない?」
「そうかなあ?」
ラルフは苦笑いを浮かべて、本気か冗談なのか区別のつきにくい表情で言った。
彼の声は異常である。男性にしては余りにも細い声をしている。声変わりをしていない少年のような高さと細さを持っている。が、とてもきれいな声ではない。かすれているのだ。ハスキーと呼べるものではない。喉に障害があるかのようにかすれているのだ。聞きづらいことはないが、その奇特な声は特徴として強い。だが、その声は男性的なものが欠如しているに関わらず、男性的な優しさを含んでいて、女性を引き付けるに十分なものだった。例によって、彼は自身でそれを気付いていないが。
「この際だ、ひとつ相談に乗ってくれないかなあ?」
ひどく気抜けした声でラルフは言った。
「へ? いいケド。所詮あたしは流れ者だよ? 相談相手には頼りないんじゃない?」
「いや、えてして身近な人じゃないからこそ相談できる、ってこともあるものさ」
「へぇ。じゃ、相談相手になりましょ」
シレーヌは軽い気持ちでラルフに応えた。ラルフは小さくうなずいて、しばらく黙って考えをまとめて、それを言葉にする。
「一つ、私に依頼が来ているんだ。旧知の仲でね、無下に断わる訳にも行かない。とはいえ、受けるには危険すぎる……」
「危険? 一介の旅道具屋に依頼されたコトで?」
シレーヌは怪訝そうに首をかしげた。彼女の言うことは最も常識的で、否はなかった。が、このときシレーヌはラルフの過去を知らないから仕方が無い。
「そうか……まあ、あなたには話そう。この街じゃ、私とファティマしか知らない秘密だけどね。ところで、あなたは『暗闇のラルフォード』って人を知ってるかい?」
「名前だけはね。有名な暗殺者じゃない。私が、まだ流れ者になってまだ駆出しの頃によく聞いた名前よ。最近聞かないけど……」
シレーヌは記憶を掘り返して応えた。こう言った起伏の激しい生活をしていると、追憶することも少ない。
暗闇のラルフォードと呼ばれる暗殺者も凄い。暗殺者という稼業は無論、裏の世界で暗躍する。その闇の者がここまで有名になると言うのは、彼のおそるべき実績と強さを誇るに推して知るべし、だ。
「その人が、何か関係があるの?」
「いや、彼は私だよ」
ラルフは唐突に言った。あまりにも何気ない声であったために、シレーヌは思わずその言葉を聞き流しそうになって、数瞬後に驚愕の瞳をラルフに向けた。
「冗談だとしたら、ちっとも笑えないわよ」
「冗談なんかじゃないよ。もっとも、信じて貰えないだろうけどね」
ラルフは苦笑いして応えた。過去の自分をよく知る彼は、苦笑を禁じ得ない。闇の世界を暗躍し、金のために冷酷非道に人を殺してきた自分を。その自分が、いま、こうして平和に暮らしている。そのギャップは何処で生まれたか。それは、ソフィアと言う一人の女性に出会うことで始まった。だが、ここでは触れぬとする。
「じゃあ、こうしよう」
ラルフはゆっくりとシレーヌの方を向いた。カウンターで二人は飲んでいるわけだから、常は肩を並べているわけだ。その彼がじっとシレーヌの美しいヘイゼルの瞳を見つめる。
「あっ……」
一瞬、ラルフの身体がぼやけたかと思うと、その刹那には彼の身体は忽然と視界から消えていた。カウンターの椅子に座っていた彼は身動き一つしなかったのである。彼女は文字どおり我が目を疑った。だが、その瞬間、
「と、言うわけだ。暗殺者がよく使う幻術。まあ、久しぶりだったから、この程度かな。分かって貰えた?」
ラルフは微笑みを浮かべて、座っていた。
愕然とするシレーヌ。幻術は魔法ではない。一種の催眠術で相手に精神波や何等を用いての感覚を与え、相手に幻覚を見せる特殊技能である。その幻覚催眠の強度の物を「幻術」と呼んでいる。無論、誰もが使えるものではない。それを、ぼんやりした顔の街の旅道具屋の主人が使ったのである。否、彼は旅道具屋の主人などではない。
「それで……そのラルフォードさんが何を依頼されたの?」
シレーヌは表情を驚愕から微笑に変えて尋ねた。皮肉っぽい口調は明らかにこの状況を楽しんでいる。彼女も彼女で、なかなかの心臓の持ち主だ。
「一人の女性の救出、と言うよりは解放かな? こいつが問題なんだ」
「へえ、すると、かなりの大物?」
「まぁね。その人の名前は、ルシア・フォルグルド・アムル」
シレーヌは立て続けに驚愕の表情を作らねばならなかった。あのラルフォードが目の前の男だと知らされ、さらにはその彼の依頼の仕事の対象は滅びたはずのアムル公国第一公女ルシアだとは……
「まさか、アムル大公の一族は確か皆殺しにされたはず……」
いくらラルフォードが驚異の暗殺者であったとしても、死人を救うことなど出来るはずが無い。
「いや、ルシアは殺されていない。アムル戦役の時、彼女だけが、カランダへ送られていたのだ。本当ならば、彼女も処刑される身分であったのだが、カランダ王弟ラウエルの婚約者であると言う立場で、処刑を免れているらしい」
「ふうん。それで、その依頼主はその婚約を善しとしない者ね。誰?」
明敏なシレーヌは状況を読み取ることが出来た。しかし、最後の質問は彼女の立場上、領分を越えたものかも知れない。だがラルフはそれも即答した。
「彼女、自身さ」
「へぇ、面白そうじゃない? 受けるの?」
「まだ、決めてない。そこをあなたに相談したかったのさ。もっとも、これは私の個人的な問題なんだけれどね」
ラルフは苦笑と入り乱れた微笑みを浮かべて、ブランデーを飲み干した。
「受けた場合、敵に回すのはあのカランダとなる。余りにも……大きい」
「へえ、暗闇のラルフォードも相手を選ぶのね」
シレーヌはラルフの言葉を痛烈に皮肉った。世界最強と呼ばれた暗殺者を前にして彼女もどうしてなかなかの毒舌を振るえるものだ。だが、意外にも、いや意外ではなかったかも知れないが、ラルフはそれに苦笑いで応えただけだった。
「いや、そういう問題じゃなくて……その仕事を受けて、うまく行っても、ここには戻れないって事だよ」
「なるほどね……ファティマちゃんか」
「そういう事になるね。まあ、ファティマなら私がいなくても十分生活して行けれるはずだ。私なんかより、ずっとしっかりしてるからね。ただ……」
「一人ぼっちにするには、気が引ける……と?」
「するどいな。その通り。何故か、ひっついて離さないんだよな、あいつ」
ラルフは苦笑いした。彼は天下無双の暗殺者であったが、そのほかにおいては限りなく愚者であったのだ。一番身近にいて、同じ所帯で生活を送る女の子の気持ちも察することが出来ないのだ。シレーヌは少し呆れた。彼女ははやくもファティマの思いを感じ取っていたのである。女性ならではの勘かも知れないが。
「そんな相談、受けれないわよ。あなた自身の問題よ。どちらを取れば、どちらか捨てなきゃならない。単純なコト。まあこの際、どちらが捨てるものが大きいか、そう考えると、楽かな?」
「捨てるもの……か」
ラルフは少し瞳を細めて、遠くを見つめるような目を見せた。いつもはぼんやりしていて人のよい瞳が今は、違う。
シレーヌの意見は僅かにファティマを保護するためのニュアンスが含まれていた。彼がファティマという人を失うことは、相当大きなものに違いないと判断していてだ。彼女も女である限り、ファティマを応援したくもなる。かわいそうなのはファティマだが、彼女にとっては、ラルフの側にいるだけでも十分幸せなのかも知れない。
「一度、私はルシアの依頼を捨てている。アムル戦役の時、私はリヒャルト三世の暗殺を彼女に依頼されたんだ。アムル公国には打つ手など、それくらいしかなかったからね。でも、私は断わった」
「どうして?」
「もう、私は暗殺を止めると誓ったからさ。ソフィアに……」
「ソフィアって?」
「私の妻。もう、四年前になる。殺された。因果なものだ。多数の幸せを奪った私はやはり、幸せを奪われる立場にあったらしい」
ラルフは自嘲気味に笑みを浮かべて言った。その笑みに含まれるのは彼女を守れなかった過去の自分のふがいなさに対する嘲笑と、過去への追憶を捨てきれない現在の自分への嘲笑である。明敏なシレーヌにはその笑み一つでそれらを察することが出来た。
「ソフィアと出会わせてくれたのはルシアだ。恩を受けて、二度も裏切るか……暗殺者らしいな。ソフィアは暗殺機械として育てられた私に人の心をくれた。私は、ルシアを裏切ることはソフィアをも裏切る事にならないと割り切れないよ」
ラルフは淡々と話していた。しかし、それでもその苦悩をシレーヌは感じ取ることが出来た。彼女もかなしい色の瞳を赤ワインに映してつぶやいた。
「そっか、結局は、どちらも捨てられないって事ね……」
「でも、必ずどちらかはとらなきゃならないものでもあるしね。でも、きっと私は心の中で決めてるさ。どっちを取るべきか、とね」
まるで他人事のようにラルフは笑ってみせた。その空虚な笑いが何を意味するのか、それを察するにはまだ、シレーヌも若く、経験が浅かった。
漆黒の闇。この時代、夜という時間は月の存在がなければ、完全に闇が支配する世界となる。闇とは様々な妄想を人に抱かせ、未知は恐怖へといざなう。だが、闇を完全に味方につけることができ、夜の帳の中を暗躍する者もいる。
少女は豪奢なベットの上に華奢な身体を横たえて眠っていた。若い、と言うよりは幼い。十二、三だろうか。まだ女としても未熟である。そこにひたりと影が忍び寄った。否、闇の中で影は存在しえぬ。闇の中で更に暗黒が存在したのである。
少女はその気配を察知して、目を覚ました。ほとんど、偶然的な察知であった。そうでなければ、この殺した気配を感じることなど不可能に近い。
その闇を見つめて少女は恐怖した。戦慄と言ってもよい。生理的に身体が小刻みに振るえだす。暑さからではない汗もふつふつと吹き出し、なま暖かい唾液もじわりと浮かんだ。
彼女はその闇を「暗殺者」と認識したからだ。無論、彼女は暗殺者と言うものをはっきりとどういうものなのか知らない。だが、それは本能的に察知していた。闇の衣の中で唯一露出した、蒼い目。その目は異常な光を放っており、その冷徹さは見る者の臓腑を貫いているようだった。
その恐怖は刹那的なものではない。その目に貫かれた者は、暗殺の凶刃からのがれたとしても、一生脳裏に焼き付くであろう。それほど凄絶な眼光だった。
「……あ……ぁ……助けて……」
少女は消え入りそうな声で、やっと言葉をだした。涙が溢れそうな瞳は小刻みに搖れている。シーツを小さな手で必死に捕らえているのは最後の抵抗なのだろうか。だが、そんな光景を前にして、暗殺者の冷酷な瞳は一瞬もゆらぎはしなかった。
「死ね」
少女の網膜に焼き付けられたのは悪魔的な冷酷さを放つ眼光のみ。暗殺者のとぎすまされた黒い刃は、彼女の心の蔵を確実に貫いていた。
こぼれた液体が激しく白いシーツを桜色に染めて行く。
ひたすらに冷徹を続けた男は、最後の瞬間まで表情に変化をもたせずに、消えた。それは、正に闇にとけ込むようだった。暗闇のラルフォード。彼の名はそこにある。
「ラルフさん、いつまで寝てるんです? おきて朝ご飯食べて下さいよ。片付かないんだから!」
「う……うん、ごめん」
ラルフは寝起きで重い頭を抱えながら、ベットから降りた。ゆっくりと背伸びをしながら、大きなあくびをする。ファティマの小さな拳なら三つくらい入りそうだ。
「ラルフさん。ずいぶんうなされてましたけど、悪い夢でも見てたんですか?」
「え? まあね」
ラルフは表情の無い顔でファティマに応えた。
あの頃の夢をまだ見るとは……ラルフはぼんやりとそんなことを考えた。その過去をファティマには語ったことがある。この街で彼の過去を知るのは、彼自身と彼女のみである。
ラルフはぼんやりした表情のまま、食卓に座り、ファティマが用意してくれた食パンにかぶりつく。ファティマはまだ十六歳だが、料理を始め家事に関してはプロフェッショナルである。無論、飯もうまい。生活無能者なラルフにとって、ファティマの存在は実に偉大なのだ。
「ほら、ラルフさん、ここ掃除しますから、他行って下さい」
「あ、ごめん」
非常に食事を取るのが鈍い彼はいつもファティマのほうきに追い立てられて、食卓から追放される。彼がこうぼやいたところ、
「毎日掃除して、そんなに楽しいかなあ?」
「汚れたところが、きれいになることは楽しいですよ」
と、ファティマは応えたのである。汚いところでも平気でごろごろしていられるラルフには一生かかっても理解できない高邁な精神なのだ。
ともかく、ファティマのほうきによって、食事の場を失ったラルフは、食パンを加えたまま、玄関の方へ行き、段になっているところに座って落ち着いた。
この辺りは季節によってはかなり湿度が高くなるので、室内の床は高くなっている。床下に風を通して、湿気を防ごうと言うものだ。よって、玄関なるものが存在し、そこだけ一段低い。もっとも、室内も土足の風習だが。
その玄関と店ので入口を兼ねるドアが突如開いた。シレーヌが現れたのだった。
「あなたの家では玄関で朝食を取る習慣があるの?」
「曜日によってはね」
シレーヌの呆れた質問に、ラルフもいい加減な答えで応えた。いつもぼんやりした表情をしているが、本来彼も頭の切れる人間なのだ。もっとも、最近はろくでもないことにそれを働かせているが。
「それにしても、はやいね」
「あなたが遅いのよ。とりあえず、午後イチで船が出るそうだから、それまでに準備してよね」
「うん、わかった」
最後の一口をラルフは押し込み、応えた。
彼は決めたのだ。どちらを捨てるかを。彼にとって、どちらを捨てるにしても大きな課題であったが、その捨てる対象を考えたところ、どうやらファティマのほうが受けるかなしみや影響が少ないと考えたのだ。無論、彼の一人よがりの結論だが、まさかそれをファティマに相談する訳にも行かない。結局の所、独断に走るのが精一杯であった。逃避は、ファティマを取ることとなる。
ちらりと家の奥を見ると、掃除で忙しくくるくる動き回っているファティマの姿を捕らえることが出来た。ラルフはねぐせの付いた蜂蜜色の髪をかき回し、青い瞳を微かに悲しみに揺らした。
「運が良かったら、また戻って来るから……」
ラルフはそれを声にはしなかった。
「竜の城」が過ぎ去った後の空は、一段と秋の色を強めていた。永遠の青は正しく底無しに天を突き上げている。あの奥には何があるのか、誰も知るところではない。
「やれやれ、どうやら極悪人になってしまったようだな」
とぼけた声でぼんやりとつぶやいたのはラルフだ。
「とっくの昔から、極悪人でしょ? あなたは」
「まあ、そうかも知れないけど、あの子を裏切るってのは初めてだしね。それに、この歳になってまで家出するとは、夢にも想わなかった」
意外に真面目そうな声でラルフは言った。その不良青年は唯一書置きを残して家をこっそりと去ったのだ。ファティマがふとした用事の留守に。彼はルシアを取ったのだ。
「しかたがないんじゃない? そーゆーこともあるって……」
振り返っては悲しそうな瞳を魅せるラルフにシレーヌが諭した。これを見ているとラルフよりも五歳も若いシレーヌのほうが姉のようにも見える。
「ファティマはこれから自由に生きれるさ。私の鎖をときはなってね。だけど、ルシアは違う。私が行かねば、ずっと鳥かごの鳥だ。いや、それよりもっとタチが悪いかな? ともかく、彼女が今あの立場にいるのは、私の責任だ。政治的な道具にさせるのは余りにも可愛そうだ」
「言い訳?」
シレーヌが攻める。小さな言葉だが辛辣である。
「まあね」
その攻めがひそかにラルフの心の傷の痛みを和らげていることに、彼自身は気付いていた。シレーヌもそれを意図的にしているのだろう。ラルフは声にはしなかったが、シレーヌに感謝の言葉を送りたかった。
「ラルフさんッ!」
突然張りのある声がラルフの背後から飛んで来た。この二年間で彼が一番聞き慣れた声だ。その声にラルフはぎくりとする。声の主はファティマだ。
「ファティマ……」
ラルフは顔面を蒼白にして振り返った。口元は笑っているが、目が笑っていない。その彼の視線の突き当たるところには、髪を乱して肩で息をするファティマであった。これほど落ち着かない姿をしているファティマを見るのは久しぶりだった。
「あの……これにはちょっとした訳が」
ラルフは浮気の晴れた男のように情けない声をだした。
彼は知っている。常日頃に乱暴に振舞う女性より、普段はやさしげで落ち着いている人間が怒ったときの方が、遥かに怖いのだ。今のファティマがそうだろう。
「何処へ行くんですか?」
「えっと」
つかつかと歩み寄るファティマに情けないことにラルフは狼狽して腰を引く。かつて暗黒のラルフォードと言われた男を、今でも恐れているものがこれを見たとしたら、どう思うだろうか。
ラルフとファティマの相対距離が小柄なファティマの半歩程度になったとき、ファティマの腕がぴくりと動いた。ラルフは反射的に目を閉じる。平手打ちぐらいは覚悟したのだ。
「ラルフさんの馬鹿っ! どうして、どうして? なぜ、私に何も言ってくれないんですか! 私……そんなに邪魔ですか?」
突然、堰を切ったようにファティマのつぶらな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。ファティマはラルフの胸へ飛び込んでいた。
「ファティマ……ごめん」
ラルフは落ち着きを取り戻して、ゆっくりと乱れたファティマの黒髪を撫でてやった。不器用な男の精一杯の優しさだ。
「ごめん……ファティマには教えられないんだ。教えたら、ファティマにもひょっとすると危険がふりかかってしまう。そんなことは、出来ないよ」
「いったい……何処へいくつもりなんです? そんな危険な事、止めて下さい」
「駄目なんだ。古い友達を二度も裏切れるほど良い行いの蓄えが無いんだ。だから、ファティマ。君は十分一人で暮らして行ける。私なんかいなくてもね。いや、私みたいなのがいると、余計君を縛り付けてしまう。だから、一人で生きて行くんだ。新しい道があるよ、きっと」
ラルフは静かに諭した。我ながら卑怯だと思っても、彼にはそれしか思い付かなかった。だが、ファティマは大きく首を振る。長い髪が搖れて黒い霞を生む。
「いやです。私、ラルフさんの側にいたい。いなきゃいけないもの! ラルフさんに助けられた、あの日から! 私、危険でもラルフさんに付いて行きます!」
「おいおい……」
ファティマは二年ほど前に、ラルフに助けられた。
それはファティマは元来奴隷身分で、ある街の奴隷商人が山賊に襲われたときに、偶然ラルフがそこにぶらりと現れたところだった。ラルフは商品の仕入のために、その街にきていたのだ。戦利品として、金品と共にまだ幼かったが、可憐だったファティマをさらおうとしていた山賊達に、ラルフは見るに見かねて剣を抜いたのだった。山賊とラルフでは剣の腕に雲泥の差がある。たとえ複数であろうとも、ラルフの敵ではなかった。それ以来である、ファティマがラルフにぞっこんしているのは。
「大丈夫です。私、少しだけど魔法使えますし」
「魔法ね……そういえば、そうだっけ。……まあ、仕方が無いか……」
ファティマの熱願を断わる意志の強さを持たないラルフはしぶしぶそれを承諾した。もともと、いい加減な性格を持っているのですぐに自分の意見を変えてしまう質があるのは否めない。シレーヌに悩みを打ち明けたころの苦悩は何処へやら。
「さて、やっかいなことになったぞ」
ラルフは苦笑いしながら、心の中でつぶやいた。
カランダ王家の王宮は壮大である。その規模はこのアルカーティスでも最大でノープルの町程度なら十分、その敷地内に入りきってしまう。並外れた巨大さだ。その中心に白大理石を基調とした豪奢な宮殿がある。リヒャルト三世が建立した宮殿だ。その威風はカランダの経済的な協力さを誇示しているかのようにも取れる。
その中の一角を一人の女性が歩いていた。長い黒髪は素直に腰までのび、プラチナの輝きとも取れる光沢を放って、豪奢だ。全体的に華奢な身体を白い衣服で包んでいる。豪華ではないが、彼女の清楚さを強調してるかのようだ。
彼女の名はルシア。アムル公爵家最後の血統となってしまった彼女は実に不愉快な毎日を送っていた。だが、黄色人の血が強いのだろう、彫りが余り深くはない顔立ちはそれでも何処かしらやさしげである。
本来、彼女は敵国の王族として扱われるので本来は縛り首にて処刑される立場にあるのだが、彼女はそれを免れていた。王弟ラウエルの婚約者として。
実際にはその婚約はアムル公国滅亡より後にかわされた契約なのだが、事実それは世間に広がっていない。故にその婚約に異を唱えるものは少数派だった。
「ルシア。あなたはいつまで私をじらすのだ?」
突如、現れた青年が彼女の前に立ちはだかった。王弟ラウエルとは彼の事である。容姿は兄王ラッツウェルに酷似しているが、全体的に線が細く、顔はもっと細い。蒼氷石の瞳の輝きは強強烈で兄王のような深さがない。狡猾な印象のみだ。
ルシアはいま、最高に嫌う人物に出会って、露骨に嫌な顔をするのを隠さなかった。
「妹を我が国から追放し、父を殺し、あまつさえ、私をどうするつもりなのです!」
露骨に、辛辣な言葉を吐くルシアに狼狽したのはラウエルではなく、ルシアの従者として従っていた若い騎士である。彼はガルドと言い、三十一歳の若い騎士だ。彼はラッツウェルとルシアに忠誠を誓っている。この時代、武士道はなく、騎士道精神が主なので、二君に忠誠を誓うのもしばしばだ。
しばらくルシアとラウエルは視線を合わせ続けた。ルシアは憎悪の光を、ラウエルは嘲笑の光を放って。ラウエルにとってルシアと言う女性個人はさして重要ではなかった。彼の欲するのは、彼女と結婚するに当たって付いて来る付属である。
視線を合わせ続けることに耐えられなくなったのか、ルシアはなにかいいたげな表情だったが、その場から無言で立ち去った。慌ててガルドがその後を追う。ルシアは黒髪から放つ女性特有の芳香を放ってその場を立ち去った。その彼女を後ろから負うのはラウエルの彼女に対する嘲笑混じりの哀れみだった。その視線を痛いほど彼女は感じながら、その場から一刻も速く立ち去ろうとした。
だが、ふと一人の人影が視界にはいる。
「ずいぶんとストレスが貯っておられるようだ。そう毎日張りつめて生活しているのはお疲れになるでしょう? よければ私が自由の横臥と言うものをお教え致しますが……」
現れたのは「愚鈍王子」として名高いミハエルだった。彼も王弟で末弟であったが、三兄弟の中で一番人望の薄い人物だった。「愚鈍王子」と言う名の示すとおり彼は暗愚な人間だった。昼も夜も後宮の女達と戯れ、欲の欲するままに行動すると裏でささやかれていた。長けているのは容姿だけで、あとは最低という専らの評判もある。
その男の好奇の視線が自分に突き刺さっていることを悟ると、ルシアは慄然を禁じ得なかった。
この男は私を後宮の女と同じ目でみている……
ルシアは居ても立ってもいられなくなって、その場からさっそうと立ち去った。
「ふ、噂に違わぬ頑固者よ」
ミハエルは小さく笑みをこぼしてぽつりとつぶやいた。そして、鈍速だが、しっかりと兄、ラウエルを見つめた。
ラウエルは兄弟でありながらも、いや、兄弟であるからこそ、ミハエルにこの上なく嫌悪を抱いていた。無能以上に愚鈍な男。それがミハエルの称号であったからだ。その愚鈍たる男と血がつながっていると言うことにラウエルは鳥肌が立つ思いであったのだ。
「どうも兄上はあの女に入れ込んでいるようだが……夜に退屈を覚えたのならば、私の後宮の女を選りすぐって、兄上に差し上げるが」
ミハエルは全く知性の見られぬ瞳を彼の兄に向けて話した。
「ち……」
ラウエルは自らがもつ嫌悪感を隠さずにいなかった。彼は露骨に舌打ちし、軽蔑の視線を残してミハエルに背を向け、足早にこの場を去った。だが、一方のミハエルはラウエルの非礼に対してもぼんやりとした表情のままだった。それが彼が愚鈍と呼ばれる要因の一つであろう。
だが。
その場にミハエルを覗いて誰一人としていなくなったとき、壮大な庭園に向けてミハエルは兄ラウエルの瞳をはるかに凌駕する凄絶な眼光を放っていた。
「ルシアとの入籍から、アムル公国の正当後継者の地位を継ぎ、兄王ラッツウェルにはむかうか……ラウエルよ」
誰にも聞き取れぬ程低い声でつぶやいた彼は、普段の彼ではなかった。瞳の色は知性に満ち溢れ、点を貫くような慧光をきらめかせている。
彼は愚鈍ではなかった。愚鈍の仮面を被った隠れた知者であった。何故、それを表にださぬのかは、誰も知るところではない。ただ、その彼の本質を知るものは、今の所、彼自信を覗いて誰も知らぬのであった。
だが、彼も神の身ならぬので自らの運命の行き先を知る由もなかった。彼はラウエルの野心を見抜いたのだが、まさか、その言葉が正に自分に当てつけたものになるとは、彼は思いも寄らなかっただろう。同時にルシアとて夢にも思わぬ未来であった。
「やれやれ。全く肝を冷やしますよ」
「平気平気。向こうだって本気で言っているわけじゃないと思う。まあ、何か企みがあるのよ。きっと……」
ラウエルと不機嫌な会話をかわしたルシアは、すでに陽気な彼女の本質へととって変わっていた。彼女の長点は、嫌悪をすぐに忘却できることだ。その彼女は現在、このカランダの宮殿の中で唯一、気を許すことの出来る人物と、彼女の屋敷で会話を楽しんでいた。その者の名はガルドである。
「だからと言って、少しは自重して下さいよ。私も迷惑がかかるのですし……」
彼は三十一歳の若い騎士で、オレンジ色の髪と水色の瞳が特徴の精悍な青年である。剣の腕は確かで、ルシアのボディガード兼監視役と言ったところだ。が、その裏では彼はルシアに忠誠を誓っており、今ではルシアをこの宮殿から脱出させるために、いろいろと働き掛けをしている。が、彼もしょせんは一介の騎士、今の所目星い動きはない。
「あなたも世渡りがうまくなったわね。まあ、そうね。すこしは自重するわ」
ルシアはまぶしい笑顔で笑った。二十二歳とは思えぬ無邪気な笑顔だ。しかし、その裏に何が隠されているのか、ガルドの慧眼を持ってしても計り知れない。だが、最近彼が思うところは、彼女は単に自由を求めているかのようだ。余りにも単純な考えであったために、ガルドはその見解に信憑をおいていなかったのだが。
セレナはジルの家でしばらく家事の手伝いをしていた。アーディルは昼間は町に出かける日が多かったが、ジルはほとんど家にいて、セレナの相手をした。セレナはしばらくの間で二人にとけ込めていた。そして、彼女は小さな事で笑顔を取り戻したのだ。
それは、セレナがジルの小屋に来てすぐの夜だった。何もしないことに耐えられないセレナは、夕食の準備を志願し、簡単な野菜と羊肉のスープ等を作った。それはステップ気候のこの地方のありきたりな料理である。
「ほう! これはうまい」
そのスープをすすったジルは思わず感嘆の声を上げていた。それほどに、そのスープには彼の舌を踊らす能力があった。
「うん、こいつはなかなか……」
夕食時には帰って来るアーディルも相づちを打った。彼らがいままで男の手で作った簡素な料理で暮らしていただけではない。何処に出しても恥ずかしくないくらいの代物だった。
「あは。よかった、口にあって」
意外な、と述べるのはセレナに悪いだろうか、とにかく、彼女には料理の才能があることは確かだった。自らの料理の味を知っていても、他人に食べさせたことのない彼女は、簡潔だが、意味深な二人の言葉を聞いてひとまず安心して、表情をほころばせた。
どんよりと曇ったままだった彼女の表情から、微笑みの太陽がこぼれる。それをアーディルは見逃さなかった。
「あ……その顔、すげー可愛い」
「え?」
アーディルの唐突な言葉にセレナは狼狽して彼を見やった。
「いや、暗い表情してるより、さっきの笑顔の方がずっと可愛いな、ってな。ひどいことがあったのは分かるけど、せっかくの笑顔を忘れちまうのはもったいねぇよ」
アーディルは苦笑いしてセレナを見つめた。
セレナはほほが紅潮してくるのが分かった。幸い、証明は淡いランプなのでそれが悟られることはない。それでも彼女はトレイで顔の下半分を隠すと、調理場へぱたぱたと逃げるように駆けて行った。
「おいおい、あんまりからかうような事は言うものじゃないぞ」
「別にそういう訳じゃないけどなぁ」
セレナが消えて、声を低くしたジルがアーディルをからかった。当のアーディルはただただ、頭をかくだけしかできなかった。
そうしたことから一週間ほどの時は流れ、時間と共にセレナは元の明るさを取り戻して行くことが出来た。彼女はその間に十七回目の誕生日を向かえた。その若さ故、過去を割り切れることが出来た。が、若さ故に将来の不安は強大だった。
ガイアの一族……
このキーワードが彼女の頭に根付いてはなれなかった。そのために、彼女は一人になると思い表情で、物思いにふけることが多かった。普段は明るくしているために、アーディル達はそのことを知っていても、不問にすることにした。完治していない傷にナイフを差し込む事など彼らにはできなかった。
だが、事態と言うものは刻々と変わって行く。
「セレナ。ここを離れなきゃならない」
「え?」
「ハインリッヒの軍がやたらとかぎ回っているんだ、もっと安全なところに移った方がいいと思う」
アーディルはその偵察のために、毎日のごとく町に出ていたのだと言う。
「私を、捕らえるために?」
「まあ、そういう事だな。馬を用意した。……フェンリルの本拠地へ行こうと思う」
「フェンリル?」
聞き慣れない言葉にセレナは怪訝そうに聞き返した。アーディルは少し間を置き、
「フェルリルってのは、反カランダの反乱組織だ」
反カランダの地下組織フェンリル。その存在は十年前に発足している。とは言え、先王リヒャルト三世も現国王ラッツウェルもそれほど醜悪な政治をしているわけではない。いや、支配は比較的寛大であると言えよう。但し、征服地の税は高い。だが、それは一般的なことであった。
フェンリルの主な構成員は祖国をカランダに奪われたものが多く、アーディルのような個人的私根から働くものは少ない。もっとも、王の政治が民衆の指示を得るに十分であるために、その組織は小数である。
「フェンリルはここから、ずっと北のヴァルハナの町に本拠地がある。そこなら、セレナ一人ぐらいはかくまってもらえる。俺もなるべくなら、安全なところでセレナを守りたい」
「……でも」
「心配は無用じゃ。フェンリルにはおまえさんをひどい目に合わす人間はおらんよ。創始と共にフェンリルで活動しているわしが言うのだ。嘘ではない」
ためらうセレナにジルが笑いながら諭した。今のセレナは少々人間不信に陥っている、アーディルとジルを除いて。それも仕方の無いことだった。
「もちろん、セレナが決めてくれ。俺はより安全な方を提示しただけさ」
「うん、アーディルがそう言ってくれるなら、そうする。私……何も分からないし」
セレナは戸惑い気味だが、すぐに決断を下した。アーディルはその言葉を聞いてほっと胸をなで下ろし、決断をすぐに行動へ移した。彼のように緊迫した人生を送っていると、決断は即行動である。一瞬の遅れが命取りに成りかねないからだ。無論、拙速より巧遅を唱える者も多い。しかし、迅速な判断を要するときも多々なのだ。今がそれである。
「ミナの旅装束があったはずだ。多分、大きさもちょうど良いと思うから、それを着なさい」
ジルがそう進めた。ミナとは彼の孫娘である。彼女もフェンリルの一員だと言う。
セレナ達は早急に準備をまとめ、小一時間で出発にまでかぎつけた。無論、そこまで慌てる必要もなかったが、旅慣れたアーディルにとって、旅の準備など、それぐらいの時間で十分できる作業であった。実際、セレナなどはおろおろ彼のすることを見守っていただけである。
「ジルさんは行かないんですか?」
「ああ、わしはここで見張りをする役目なのでな。まあ、年老いた老人にはその程度しか仕事もあるまいしな」
ジルは皮肉っぽく笑った。かつて剣豪と言われた彼も老い、齢は六十五を数えている。年と共にその衰えは隠せなくなっているのだ。だが、アーディルなどは「あのじいさんの剣と口の悪さは俺もかなわないね」と評している。
「アーディル。セレナを頼んだぞ」
「誰に向かって言っている? 大盗賊アーディル様だぜ、俺は」
アーディルは不敵に笑った。常に何処までが冗談で、何処までが本気であるか不明な男である。だが、そこに不思議な魅力を漂わせるのは、彼のある意味才能だろう。
「セレナ。気を付けるのじゃぞ……おまえさんを狙っておるやからは無数におる……特に……何処かの自称大盗賊の女の子の心を盗むのを特技としている奴にはな」
「ジル、あのなあ……」
ジルの皮肉は辛辣である。アーディルも反論のしようがなくて、ただ不機嫌な視線を青年をからかうことに精を尽くす老人に向けた。
一方、セレナの方もまんざらではなさそうに、頬を僅かに赤らめてくすくすと声をたてて笑っていた。彼女は今、有名な古代の詩人の言葉を思いだしていた。「恋に時間の観念はない」そんな詞だった。確か、アステ・ウォールで生没した詩人だった。
風は想いを乗せて大陸を巡る。ラッツウェルの野望。ラウエルの野心。ミハエルの先見。アリアの心。ルシアの願い。ラルフの決意。ファティマの愛。アーディルの求心とそれに捕らわれたセレナの恋……
想いは螺旋の風となって、広大なこの大陸を駆ける。
