アルカーティスの文化レベルは低い。とは言え、鉄器が発明されて千五百年余りしか経っていないのだ。その文化の熟成にはまだ、時間的作用が働いていない。
アルカーティスにはガイア教とルドア教の宗教が存在するが、小乗的な宗教であるために、一般市民の信仰は薄い。それが幸いしてか、科学の発展は駆け足である。
羅針盤、活版印刷はまだ姿を見せていないが、早くも原始的な火薬は存在していた。もっとも、それは激しい閃光や音をたてるぐらいの物ではあったが。とにかく、羅針盤が存在しないので、アルカーティスの人々にとって、世界とはすなわちアルカーティスのみを指した。そして、その大陸には異なる技術が存在する。
魔法。それはそう呼ばれた。生命の内なるエネルギー、霊子力を引き出すことの出来る技術、それが魔法である。この大陸にはその技術がある。
だが、その技術を使いこなす者は、極希少である。元来、天性の才能を持った者が、修練を重ねてやっと使えるようになるのである。
また、伝承方法も貧窮で、師匠から弟子へ、とただそれだけである。魔法文明は社会の中で淘汰されつつあるのが現状だった。
ファティマは数少ない魔法を使える人間の一人である。が、彼女を魔道士と呼ぶにはやや語弊があり、性格には彼女は呪術士である。祝詞や真言、札や薬草を使った物を得意とするのだ。
彼女は八歳の時奴隷になった。無論、自ら望んで奴隷になる者はいないので、ならされたと言うのが正しい。その原因は伏せるとして、彼女がまず買われたのは、中流の富豪だった。その男はやさしげな人格の持ち主であったために、彼女は奴隷であったに関わらず、幼さもあり、優遇された。
が、その男はその二年後に没落した。ファティマはやはり中流の貴族に売られた。
その貴族は前の男とは正反対であり、抵抗の出来ぬファティマをまるで家畜のように扱った。辛辣な日々にファティマは悲鳴を上げる事なく、一年を過ごした。そして、その貴族も没落した。
行く宛を失った彼女はカランダの王宮に仕えた。そこで、古くは有名な呪術士、カール・ハイフェッツに出会ったのだ。彼は王宮の呪医として仕えていたのだ。この時代、医術と呪術のはっきりした分離はない。
その彼の世話係になったファティマは、老体ながらもその呪力で病を解くカールにうたれ、その知識を彼から教わったのである。そうした二年が続き、七十六歳だった高齢のカールは死の床についたのである。
ファティマは優秀な弟子だった。天性の才能と言うものがあったのだろう。その飲み込みの速さは特筆に価した。特に治療呪術に関しては目を見張るものがあった。
ファティマはやはり居場所を無くした。次に彼女を買ったのは奴隷商であった。
彼女は薄々気付いていた。自分を買った人間を、常に不幸を招いていることに。やはり、彼女の予感の通りに、その奴隷商は二年後に山賊に襲われてその命を落とした。
その時、ファティマは山賊の一人に処女を奪われていたが、ファティマは呪術を使うことがなかった。彼女は治癒の呪術を学びたいとカールに懇願したが、彼は「人を活かす呪いを活かすには、人を殺める呪いも覚えなけれればならぬ」と彼女に負の呪術を教えた。その試験に野兎を実験台にしたのだが、やはり優秀なファティマはその野兎を見事に呪い殺してしまった。その夜、ファティマは一晩中泣き明かした。
そして、二度と負の呪術は使うまいと心に誓ったのである。そして、それを彼女は守った。守り通したのだ。それが愚かであったか、賢明であったかは別にして。だが、そのかいあってか、その時彼女はラルフと出会う。暗闇のラルフォードと恐れられた男だ。だが、その「暗闇のラルフォード」はすでに過去形であった。彼女はその現在形のラルフと出会うことで、闇の八年間から光の未来への開扉を始めたのだった。
腰の周りに申し訳程度に衣服の残骸と言えるべき布きれを付けたファティマはラルフを見ておびえきっていた。無理もない、彼女にとって彼は山賊より強い残虐な男に映ったのだ。さらに彼女は下半身の痛みと恐怖で立ち上がることすら出来ない。
「……あ……あ……」
すでに声にならない悲鳴は枯れ、ただ、大粒の涙が幼い彼女の頬をつたって行った。恐怖と戦慄に精神を支配された彼女は、すでに正確な判断が付きづらくなっていた。ふわりとした感触を、いつもの数十倍の反応速度を持ってして気付く。
「え?」
ファティマは怪訝そうに目の前の男を見た。彼は、やさしげな表情で、自信の外套をあられもない姿のファティマにかけてやっていた。このとき、やっと彼女は彼が味方であることに気付いた。
「やれやれ、こんな子供にまで……どうにかしてるな」
山賊をものの数十秒で退けた青年は意外なほどに穏やかな表情で苦笑した。とは言え、彼は山賊を殺した訳ではなく、彼らの自慢の大剣をすべて彼の中剣でたたき落としてやったのである。山賊も山賊で自分達の力量と領分を知っているらしく、かなわぬとみると一目散にその場から姿を消した。
「見たところ……奴隷なのかな? 間違っていたら、許してくれ」
「はい」
「じゃあ、そこで倒れているのが、君の御主人かい?」
ラルフはやや離れたところでうつ伏せに倒れている少壮の男を視線で指して尋ねた。その男の周りにはすでに血の海が広がっており、土も彼の血を吸い込み切れないらしく、生々しく漂っていた。
「はい」
ファティマはその姿を見て軽い嘔吐感を覚えたが、それを押し殺して答えた。
「そうか」
青年は沈痛な表情でファティマを見た。無益な抵抗で命を落とした男は同情できるが、それ以上に同情するのはこの少女である。主を失った奴隷など、生きては行けない。主があってこそ、奴隷は生きて行けるのだ。主のいない奴隷などたちまち食いぶちを失って、野垂れ死ぬのだ。
青年は奴隷商の男を埋葬した。旅の途中で命を落とした者を見かけた場合、埋葬をしてやるのが慣習であった。さまよえる霊が街道に充満させないためだと言う。
「君の名前は?」
「ファティマと言います」
「ええと、姓の方は? 生まれ付いての奴隷なのか?」
戦敗国の者や、家を失った者は奴隷となる場合が多い。その場合、彼らは性を捨てなければならない。奴隷はファーストネームしか持てないのだ。完全な差別ではあるが、この時代に人権の尊重だとか言う思想はない。また、市民、農民階級は性と名の二つの名前を、貴族や聖職者は性と名と階級などの三つの名を名乗る。王族や上級貴族は四つの名を持つのだ。
「私、生まれ付いての奴隷ではありません。でも、言えません。姓の方は、言えないのです……」
「変わった人だな……ま、人に話したくない事も一つや二つ、あって当然か。しかし、それは困ったな。それでは君は奴隷のままだ」
「え?」
「私はさっき、彼を埋めたとき、金貨を五枚添えておいた。君の値段だ。安いかも知れないが、私は君を買った。奴隷をどうこうしようは、私の勝手だ。君を平民にしてやる」
ファティマは驚愕に大きな瞳を見開いて青年を見た。このような者であったことはなかった。あまりに突飛な発想は、彼女の理解の許容を越えていたのである。
「そうだ、私はラルフ=ラスティアスと言う。そのラスティアスの姓を君にあげるよ」
ラルフはこまやかに微笑んで、驚いた表情を硬直させたファティマを見つめた。
ファティマは夢を見ていた。そう、ラルフと出会った頃の夢だ。あれ以来、彼女は彼の元からはなれていない。ラルフが強制した訳ではない。彼女が、そう望んだのだ。そして、彼女が望む以上、ラルフも彼女を受け入れていた。
そんな夢を見ていたのだが、不意に中断された。馴れぬベットであったせいか、眠りが浅く、彼女は目を覚ましたのだった。星座の位置を確認すると、まだ夜半すぎであることが分かる。
「ラルフさん?」
彼女のとなりのベットで眠っているはずの、ラルフは底に姿がなかった。旅の後で疲れているから、早く眠ろうと提案したのはラルフだった。だが、今はそのラルフが忽然とす形を消している。
ふと気付くとドアの鍵が開いている。
「ラルフさん? 何処へ?」
静寂の夜の中でファティマは一抹の不安を搖れる瞳で闇に閃かせた。
ラルフ達はカランダの首都、カランダの町へ着いていた。ノープルの町から北へ進みヴァルハナの町までを九日、ヴァルハナで二日の滞在の後、進路を西へと向けて十四日でカランダの町へと到着していた。
すでに秋も深まっていた。時間的なものもあったが、ノープルの町に比べれば、カランダは緯度が高く、季節の進行も早い。さらには落葉広葉樹もその豊かな緑の間に含まれ、その紅葉の美しさも、秋の到来を強調していた。一〇〇〇メートル級の山々が連なるヴァルハナ山脈の峠を越えるときの絶景は今でもファティマの記憶には新しい。
カランダの町はカランダ平原の中心地として栄えている。元来はカランダ王国の政治都市であるが、西岸には大きな港を持ち、整備された街道を持つので、商業都市としても繁栄を極めている。
市民の数は六万五千を数えている。世界でも有数の都市だ。ただ、異例なのが、その数が「市民権を得た」市民であり、その城壁の外には四万人を数える奴隷や流民、難民が溢れている。それらがスラムのごとき町を作って、町の外に町ができあがっている。余りにも急速に版図を広げたカランダ王国の生み出した者達だった。だが、彼らを交えてでも十分に成り立っているカランダの町は活力に満ち溢れいてる。
そのカランダの町もさすがに深夜となって、静寂と闇が町中を支配していた。この時刻、歓楽街を除けば、後は昼間の喧騒に疲れた身体を癒す休息の時間に当てられる。だがその与えられた休息を返上するものがいた。
その青年は闇の隙間を縫い、カランダ市の北部に位置するカランダ王家の宮殿へと向かっていた。
カランダの宮殿は政治的な中心建造物だけではなく、軍事的な拠点としても役割をなす。すなわち、高い城壁があって、侵入するものをことごとく拒んでいるのだ。
「さて……」
闇の中で青年はぼんやりと高さ五メートルはある頑強な城壁を見上げた。闇に気配をとかしこみ、見張りの兵に全く悟られていないのは驚くべき事実である。彼の名をラルフと言い、かつては「暗闇のラルフォード」として知られた男だ。
彼は懐からダガーを二本取り出して、両手にそれぞれを握った。
彼は壁に寄り添うと、ゆらりとした跳躍を見せた。無論、壁を飛び越すことなどそれだけで出来ようはずが無い。彼は手にした剣を石造りの城壁の隙間に突き刺し、流麗な仕草でそれを支点にして、身体を翻して、その剣を足場にもう一度跳躍をする。それを二回繰り返して、見事にその城壁の頂点へ上り詰めた。おそるべき身のこなしである。凡庸な彼の外見からは、考えようもない能力だった。
そして、気配を殺したまま、闇に包まれた城内へと彼は自身を沈めて行く。
無意味であるほどに豪奢なベットはまるで権力を持つものが、その権力を誇示しているかのようである。そしてその部屋に散在する無意味な高級調度品もそれと同じだ。そして、そのようなものにルシアは好意はおろか、嫌悪すら覚えずにいられなかった。
平民が汗水流して稼いだ財を、私たちは生まれながらの権力者と言うだけでそれを巻き上げている。白蟻よりも達が悪いではないか……
ルシアは奮然としてそう想うことがある。この部屋の豪華さも彼女が望んだ物ではない。だが、まさかそれを取り替える訳にも行かず、彼女はこの部屋で生活の大部分を過ごさねばならなかった。
その彼女は人が三人も横たわることが出来そうなベットに身を沈め、安らかに寝息を立てていた。
室内の滞った闇が揺らいだ。そこから現れたのは細身の青年。蜂蜜色の髪とアイスブルーの瞳以外は特に特徴の無い青年だった。ただし、闇に溶け込むその気配だけが尋常ではない。
その青年、ラルフは不意に闇に隠れたその気配を解放させてそのベットに近付いた。そのベットの周りには極薄い絹のカーテンがかかっていて、ヴェールのごとく淡く視界を遮断している。そのカーテンをラルフは愚かなほど摩擦の音を立ててかき分けて入った。
「誰っ!」
その気配を明敏に察知したルシアは小さくだが叫んだ。そして次の瞬間に、救援を求めるための大声を出そうとする。だがそれよりも一瞬早く、ラルフの右腕が彼女の優美な口元を抑えた。
「別によばいに来たわけじゃありませんよ。落ち着いて下さい」
ラルフはゆっくりと諭した。驚愕に見開かれたルシアの瞳がゆっくりとだがラルフの顔を捕らえた。それを確認したラルフも静かに右手をルシアの口元から放した。
「ラルフ! 来てくれたのね!」
「え、ええ。まあ……落ち着いて下さいよ」
ルシアは小声だが歓喜の叫びをあげ、旧知の仲であラルフの胸へと飛び込んだ。かつてラルフはアムル公国の客将として仕えたことがあった。それは殺人に嫌気がさしたラルフが求めた物で、その仕事とは、ルシアの警護であった。今から五年前ほどにもなる。ルシアが十六でラルフは二十三だった。
「協力してくれるの?」
「しないつもりなら、ここには来ませんよ。ただし、今は無理です。ここから脱出できたとしても、その後の宛が在りませんから。行動は万全を整えてからでも、遅くはないでしょう?」
「冷静ね」
ルシアに抱きつかれて、ネグリジェを通して伝わる彼女の身体の感触と、微かな香水の芳香にラルフは狼狽しながらも、これから先の方向を説明した。その彼をルシアはいたずらっぽく皮肉った。
「なるべく早い内に手配致します。では」
「ラルフ」
闇の中へ消え入りそうな青年を見つめて、ルシアは少女のような不安げな表情で彼の名を呼んだ。その声は恋する少女の物であり、明敏なるものならそれに気付いたであろう。しかし、ラルフはそれに関しては愚かなほど鈍感なのだ。
そして、ルシアの願いを断ち切って、ラルフは闇の中へ気配を消して行こうとした。
「曲物め、動くな!」
鋭い声がラルフの背後から放たれた。幅広の剣がラルフの首筋からさして遠くない距離にある。
「ガルド!」
ルシアは驚愕して叫んだ。だが、ラルフは落ち着いて眉を少し潜めただけだった。
ガルドは完全にラルフの不意をつき、ラルフの行動の自由を奪っていた。少しでも彼が動こうものなら、鋭い刃が彼の首を胴から永遠の別れを強いるだろう。
また、これ程までいともあっさりと後ろを取られたラルフは自らの力の衰弱とガルドと呼ばれた騎士の力量を認めざるを得なかった。かつての彼ならば、このようなへまはしなかったはずだ。
「やれやれ、参ったなあ」
しかし、誤解は誤解であるために、更にルシアという証人がいる限り、ラルフは危機感という物を心理から遠ざけていた。だが、侵入者であることは否めない以上、厄介事はやはり厄介であった。
ガルドは油断ならぬ構えを解かずにいたうちに、視界に違和感を覚えた。ラルフの周りの夜の蒼い闇がぼんやりと凝縮し、漆黒になったと思った刹那、彼の姿は忽然ときえていた。
愕然とするガルド。これを見て驚かぬ者など人間の精神を超越している。
「幻術だよ。それに、私は敵じゃない。あなただろう? ルシアを逃がそうと腐心している騎士ってのは」
ラルフは常と違わぬ温厚な声で言った。消えたと思われたラルフはガルドから手の届かぬ位置に、穏和な表情を浮かべていた。まるで先ほどの脅迫を全く不快に思っていないかのようだ。
「あ、あなたは?」
「私はラルフ。ルシアとは旧知の仲。まぁ、『暗闇のラルフォード』と言った方が、分かりやすいかな?」
自らの言葉の放つ皮肉にラルフは苦笑いを禁じ得なかった。忌み捨て去った過去の自分が、現在の自分の存在を凌駕しているのである。これほどの皮肉はあろうか。
「あ、あなたが……」
ガルドは恐縮して声が出せなかった。ただ、それよりも彼の脳裏を支配していたのは、「暗闇のラルフォード」に対する偶像と目の前の彼との矛盾。今のラルフには、冷徹残酷な暗殺者という顔はない。人のよさそうな青年にしか見えない。だが、先ほどの幻術を見せられては、その言葉は信憑するに値した。
「ガルド。彼は味方よ。おそらく世界最強のね」
二人の間にルシアが割って入って、冷静な言葉でガルドを諭した。ガルドは未だに狼狽から覚めきっていない。彼にしては不名誉なことであったが、それも仕方が無いと言えば仕方が無い。
ルシアの言葉にラルフも静かにうなずく。彼は自身を世界最強などとは思っていなかったが、味方であると言うことは本当なので、それに頷いたのだ。更に言うと、訂正する労力を惜しむほど、最近の彼は怠け者である。
「じゃあ、近い内にまた来るよ」
その言葉は、公爵令嬢を絶対的権力の中枢から救出する決意の言葉の色と言うには余りにも緊張感の無い言葉だった。せいぜい、不倫相手の女性にかけたときぐらいの声色にも思えた。
「待って下さい」
「え?」
冷静さをとりもどしたガルドが闇に溶け込もうとするラルフを呼び止めた。
「無理を承知でお願いします。なるべく、早急に手を打たねば取り返しの着かないことになりそうなのです。聞いた話なのではありますが、ルシア様とラウエル様の婚姻の式が近い内にも行われると言うのです……」
「そんな! 私は何も聞いていないわよ!」
ルシアが憤慨して叫んだ。但しまだ理性が支配していて大声にはなっていない。
「大丈夫。すぐに、手配致しますよ」
やはり緊張感の無い声だったが、ラルフは力強くルシアに応えていた。
ラルフは闇から闇へと伝って、自分達が宿泊してる宿にたどり着いた。そして寝静まり返った宿の中の自らの部屋を捜し当てる。
「あれ?」
彼は思わず声をあげた。鍵がかかっているのだ。自分は閉めたような記憶はない。何しろ、彼は自分の家でも外出するときに鍵をかけ忘れて、ファティマに叱られるような人間なので夜更けの一時の外出に鍵などかけようか。
「部屋を間違えたのかなあ?」
独り言をつぶやきながら、のんきそうに彼は小首を傾げた。
すると、覗き窓が開いて部屋の中の明りが漏れて来る。そこには、つぶらで澄んだ深い蒼色をしたファティマの瞳があった。
「やあ、ファティマ、起きてたのか?」
「こんな遅くに何処へ行ってたんですか?」
「ええと。話せば長くなるな」
「……女の所じゃないですよね」
ファティマの低い声には十二分に嫉妬が含まれていたが、疎いラルフは気付いていない。愚かな彼はそのまま応えた。
「え? よく分かったね」
余りに愚かであろう。別に恐れるべき事ではないかも知れないが、恐れるべき愚かさである。確かに、ルシアは女性である。しかもすこぶる付きの美人ではあるが。
「そうなんですね。もうっ! 知らないっ!」
ファティマは最後に寂しさと怒りを含んだ瞳でラルフをにらみつけ、勢いよく覗き窓を閉め、鍵を開けずにドアから荒っぽく立ち去った。
「あ、おい……ファティマ、開けてくれよぉ」
情けない声が廊下に締め出されたラルフが情けない声を出す。未だに事態を理解していないらしい。
だが、そのまま眠りに着いてしまったラルフは次の朝、遅い朝を向かえ、それがベットの上であることに気付いて不思議そうな顔をした。次の瞬間、やや怒った顔のファティマが視界に入り事の次第を涼解した。
ラルフはベットから降りて微笑みながら「ごめん」と言った。ファティマは文句の一つや二つをいいたげであったが、ラルフの人のよい笑みにつられて、微笑みで返してしまった。だが、それはそれでいいと思う彼女である……
ヴァルハナ市はカランダ市と並ぶアルカーティスにおいて最重要都市の一つである。 人口四万七千はカランダ市に並んでカランダ王国第二の都市であり、交通の要所と言うわけで商業を中心に栄えている。なお、この数も市民権を得た人口であり、やはりカランダ市と同じく二万人を越える難民、流民を抱えていた。だが、リヒャルト三世の統一事業のために、カランダは空前の好景気に涌いている。人口の半分以下の難民も貴重な労働力の足しとして重要な存在だった。難民が難民としてでも生きて行けれる理由はそこにある。多数の人は半奴隷的であったとしても死よりは生を選んでいるのである。
そこには特殊な組織が存在していた。
その組織の名は「フェンリル」。
ラルフ達がカランダ市へ入ってほぼ時を同じくして……
セレナを保護しつつ街道を北上し、アーディルはヴァルハナの町へと到着していた。旅馴れぬセレナのためにライゼルからは二十三日間の時を要し、秋は本格を見せ始めている。
ヴァルハナ市はアルカーティスの東南岸一面を覆うオリハ海に望んでいる都市だ。オリハとは古代語で「太陽」を意味し、オリハ海は太陽ののぼる海として知られる。また、静かな海と知られるオリハ海は満月の夜、その海面一面が銀色の金属のごとくとなり、それがプラチナすなわちオリハルコンに酷似しているから、オリハ海と言う名が着いたとも言われているが、どちらが真実なのかは誰も知るところではない。
ヴァルハナ市は後背になだらかなヴァルハナ山脈を一望できる。どの峰峰も二〇〇〇メートルを越さない山脈だが、北部の標高一八六〇メートルのオレル山は冬にはその山頂に雪を戴く。また、温暖なアルカーティスでは雪の降る地域は少ない。完全ではないが、雪の積もる地域とは、カランダ北部以外では考えられないのである。
一三〇〇年前氷河期が終わり、それ以来大陸は徐々に温暖、乾燥化へと向かっている。それが一番顕著に現れているのが、南方のアステ・ウォールである。
夕暮れにヴァルハナ市に入ったセレナ達はその足で一晩の宿を得た。アーディルなどは直接フェンリルの本拠へ向かっても良かったのだが、旅馴れぬセレナの体調を考えるとまずは一晩休息を取ることが賢明だった。
翌朝、早い時間帯に朝食を取った二人はすぐに宿を退き払って行動に出た。
セレナは旅装束の上にくすんだ外套で身体を包み、フードも深々と被って外からその素性を悟られないようにしていた。セレナは見ればはっと気を引かれるような美少女だ。それに初夏の浅緑を思わせるような緑の髪は神秘的な魅力を秘めている。それだけならばよいが、その緑の髪はあまりに特異な存在だった。一般人は知らぬ者が多いが、それを知る者に出くわしたときには厄介になる。
とはいえ、その陰湿な姿は別に人々の視線を買うような物ではなかった。旅の占い師と言った風情があったからだ。その側に寄り添うアーディルも線はやや細いが、しなやかな筋肉は猫科のそれを思わせ、十分用心棒の剣士に見えた。
二人は繁華街を抜けて、裏路地へと足を運んだ。無論、アーディルの先導でである。やや貧相な町並みに出て行くと、その街に合わせるようなガラの悪い連中もしばしば視線に入ってきた。
アーディルはさっそうとセレナを誘導し、その貧相な街には不釣合いなやや大きめの宿屋の裏口へと回った。
「ここだ」
アーディルは極最小限の言葉で説明した。そして、開けっ放しの裏口へと入っていく。
その刹那、大柄の鷲がアーディルに襲いかかった。いや、セレナにはそう見えたのだ。が、その大鷲はアーディルに襲いかかる寸前にその勢いを弱め、彼の肩にゆっくりと止まった。
「カトゥルじゃねぇか。久しぶりだな。ジークはどこだ?」
アーディルは親密な者だけに見せる青年のさわやかな笑顔を見せてその鷹に話しかけた。
「アーディル……それ」
「ああ、大丈夫。こいつは人には襲いかからねぇよ。敵と見なさない限りな。大丈夫、おまえも敵とみてないよ、こいつは」
狼狽するセレナを見てアーディルは鷹を撫でながら笑った。
「カトゥル? カトゥル?」
裏口の奥から音楽的な美しい女性の声が聞こえてきた。それに数瞬遅れて一人の女の子が飛び出してきた。年の頃はセレナと同じくらいだろうか。十七、十八と言ったところだ。特徴的なのは、動きやすいように施された腕や腿の露出する服で、その露出した部分は、元は白い肌なのだろうが、日焼けしてきれいな小麦色をしていた。そして、活発さを誇示するかのように赤みがかった茶髪はポニーテールでまとめられていた。
「あれ? アーディル!」
その少女は瑠璃色の瞳を一段と輝かせると、突然アーディルに飛びついて抱きしめた。驚いた鷹、カトゥルはアーディルの方から急速発進を強いられた。
「アーディル! アーディルだよね! ひっさしぶりっ! いつかえってきたのよ!」
「うわわっ! よ、よせよ。ミナっ」
その少女、ミナはさして大柄ではないが、しなやかな筋肉が健康肌の裏側にあるらしく、勢いが感じられた。その勢いに、ろくな身構えをしていなかったアーディルもふらつく。アーディルがたしなめるが、ミナは歓喜にはしゃぐのを止めようとしない。
「アーディル……その人は?」
セレナの澄んだ声にしてはやや低めの声が大ではないがアーディルの耳に飛び込んだ。明らかにそれには嫉妬の色が浮かんでいたが、セレナ自身がそれに気付いていなかった。アーディルも彼女と同じである。意外にもそれを敏感に感じたのはミナだった。
「ああ、こいつはミナ。えっと、ジルの孫に当たる。一応フェンリルの一員だ」
「んで、アーディルの女なんだよね」
ミナはいたずらっぽく微笑んでアーディルの方を向いた。ただし、視線だけはセレナの方へ向けて。セレナの反応を楽しもうかと言う、彼女の性格の屈折した部分が出たものだったが、深くフードに包まれたセレナの表情は読み取ることが出来なかった。
「誰の女だって? 勝手に言ってやがれ……」
アーディルはいささか僻易として額を左手で抑えた。いつものミナの気まぐれであることを彼は知っている。悪気はないのだが、人の反応に異常な好奇心を抱いてしまう彼女の悪癖なのだ。はた迷惑な悪癖ではあるが。
「で、誰? まさか引っかけた女じゃないよね? 新入りには見えないし……」
何処までが冗談で、何処までが本気であるか察することの出来ない声だった。実際、彼女はアーディルが好きなのかも知れない。嫉妬の感情が微々たるだが含まれていた。
「ああ……セレナ、もういいよ。大丈夫、ここには、おまえをどうこうしようって人間はいないさ、特にコイツなんかはね」
やや忌々しそうな視線をミナに送って、セレナを促した。
セレナは数瞬をためらいに費やしたが、さほどの時を要せずにそのフードを外した。
ミナは思わず飲まれた。
そこから現れたセレナの素顔とは、彼女の想像した物をはるかに凌駕していた。それも、正の方向に。紫紺にライラックを重ねた深く澄んだ瞳。適度な高さと細い形のいい鼻梁。薄く、女性的な膨らみを持つ桜色の唇。それだけで非凡たる美形であるのに、卵型の顔を包むのは浅緑より鮮やかなエメラルドの髪。
ミナは同姓愛好の趣味はなかったが、それでもセレナの美に息を飲まずにいられなかった。いや、同姓であるが故だろう。常識を越えた美には異性よりも同姓の方が敏感である。
更に彼女は緑の髪の意味を知っていた。
「あなた、ガイアの一族?」
雰囲気に飲まれてしまったミナの声はいつもの音楽的な美しさを失って、僅かにかすれかかっていた。嫉妬を越えた何かを彼女は覚えていた。
「え……ええ」
「ガイア」と言う単語を聞いたセレナは途端にライラックの瞳を曇らせた。視線を地面にたたきつけ、表情に影が差し掛かる。彼女は過去のコートを脱ぎ捨てるにはまだ外界は寒すぎる。
「あ」
ミナは自ら放った言葉の意味に、ようやく気付いて右手を口に当てた。ガイアの一族は過酷な宿命を背負って生まれて来ることを、彼女は知っていたのだ。少なくとも、フェンリルのような地下組織を頼らねばらならいセレナはすでに何かのトラブルを抱えているに違いないのだ。
だが、彼女の口からは陳謝の言葉は漏れなかった。彼女程度の人間からの陳謝などチープな同情でしかない。それを彼女は知っていた。
ミナは深く澄んだセピアの瞳をセレナに向けた。やや釣り上がりがある彼女の瞳は端正な彼女の表情を引き締める役割を持っている。そして彼女は不意に微笑んだ。
「あなた、名前は?」
「え? えっと、セレナ・アスリード」
「セレナね。私はミナ・リニファ。で、ちょっとちょっと」
ミナはセレナの外套を掴むと、半ば強引に無造作においてある荷物の影へ連れ込もうとした。
「あ、おい。なにするつもりだよ?」
アーディルが慌ててミナを制する。ミナのいたずら癖には僻易とさせられている彼故にセレナのみを心配したのだ。
「あ、ダメダメ、アーディルは向こう行っててよ。女の子だけのナイショ話なんだから」
ミナはいたずらっぽい微笑みを浮かべて、手先でアーディルを追いやるような仕草をした。アーディルは呆れと驚きを抱擁させた表情で、頭を掻くと、二人からはなれて行った。
彼は知っていたのである。ミナが興味をもった人間は本当に彼女が気に入った人間でしかないのだ。人はそれを我がままとも言うが。ともかく、ミナは直感的にセレナを気に入っていた。論理を越えたそれだ。
「ねぇねぇ、あなた、アーディルの事好きでしょ?」
ミナは声のトーンを落としてはいたが、余りに単刀直入な言葉にセレナは返答に窮した。ただただ狼狽して言葉を捜すが、慌てているので、それもうまく行かない。
「やっぱりね。そーだと思った。アーディルってなかなかもてるからね。まあまあ美形だし。ま、アーディルの女だって言うのは冗談よ。でも、私もアーディルが好きなの。ライバルね。でも、あなた気に入ったから、仲良くしましょ」
「それって矛盾してる」
セレナは呆然としてミナをみた。
「そうだけど、私はアーディルが好き、でも、あなたも気に入った。正直、自分でも変だと思うけど、別にいいんじゃない? 自分に正直ならね。恋敵は親友。つなげないものかしら?」
ミナは笑った。セレナも思わず苦笑せざるを得なかった。破綻をきたしたようにも思える彼女の性格は、実際の所は自分に正直な子供のような性格なのだ。「アーディルが好き」と正直に言えるそれはセレナに取ってうらやましかった。
すなわちミナは恋敵である。セレナは正直に「アーディルを好き」とは言えなかったが、確かにアーディルに思いを寄せている。だが、ミナにはありとあらゆる憎悪を向けても、すぐに受け流されそうな気がした。それも出来そうにない彼女だが。
「わかった……でも、譲らないからね」
セレナは微笑みながらミナに手を差し向けた。ミナもそれに応えて握手をする。
「やっぱりね。思った通りだよ。いままで同年代の女の子がいなくて、困ってたの。よろしくね」
いささか妙な形ではあるが、二人の間は親密になっていた。その不思議な会話は長く将来に渡ってセレナとミナの友情の根底となるが、そのだしに使われたアーディルがその会話を聞いたら、どんな表情を見せるだろうか。だが、アーディルはこの先その会話の内容を知ることはない。
「たしかに……緑の髪だな」
金色の髪を短く刈り込んだ壮年の男がセレナの髪を見つめてつぶやいた。セレナはその声に不安と不満をもった表情で応えていた。
「いや、すまん。我々は君を特別扱いしない事を約束しよう。なに、悪の権力者から、かよわき乙女を守る騎士になるのも悪くはないさ」
三流の冗談を放って和ませたのは、フェンリルの指導者、リヒター・バイエルラインである。
リヒターはしゃくれた顎とたくましい体躯が印象的な三十代中盤の男だった。彫りの深い奥にはときどきぎらりと光るオレンジ色の瞳を有しており、その眼光は見つめられたものの蔵腑を貫くかのようだった。
「それで、私は何をしていればいいのですか?」
セレナはややリヒターの威圧に怖気付きながらも質問をかわした。セレナはたいして人見知りをする様な人間ではなかったが、さすがにリヒターの威圧を浴びた一七の女の子には平常を保てとはやや、無理なのであろう。
それに気付いたのか、リヒターは小さく苦笑し、バスの声でセレナに諭した。
「まあ、あせることはない。もちろん、フェンリルの一員として働いて貰おうと思う。我々もさほど余裕があるわけでもないんでね。とりあえず、今の所の処遇はアーディルに任せるとするよ」
リヒターはセレナの横に控えていたアーディルに視線を向けて言った。アーディルはその言葉に無言だがうなずいて応えた。
アーディルはセレナを連れて、その建物の地下へと向かった。このころの建築物で地下があると言うのは、あまり見られず、その特異さにセレナは好奇心を示したようだったが、特に口にまでは出さなかった。
「リヒターって男はどうも俺は苦手だな。あの瞳の奥を覗くことができねぇ。何か、裏がありそうな男だ」
「え?」
セレナはアーディルの意外な言葉に目を丸くして聞き返した。
「セレナは知らないだろうけど、フェンリルは三人の指導者から始まったのさ。まあ、十年くらい前の話だから、俺もよくは知らないが。そいつらのひとりだったんだよ、リヒターは」
「じゃあ、後の二人は?」
「カゼルって言う人と、あのジルのじいさんさ。実際的なリーダーはカゼルだったんだ」
アーディルは瞳を細めて過去を見た。アーディルはその自分自身の姿を見たならば、皮肉を言うしかすべが無かっただろう。過去がよく見えるときの現在は現在が思わしくないと。
「三年ぐらい前かな。俺がフェンリルに入ってすぐだったよ。カゼルとリヒターに意見の食い違いが生じたのさ。結局は、カゼルがフェンリルから去った。カゼルを指示していたジルも高齢を理由にして一線をしりぞいちまった。で、リヒターがのこったってことさ」
「どうして、リヒターさんをよく思わないの? ちょっと怖いけど」
「別にそういう訳じゃない。ただ……カゼルの瞳に比べれば、奴の瞳は濁って、心が読めねぇ。つまるところ、奴は大将の器じゃないかもしれないな、と思うだけだよ。ま、誰にも言うなよ。俺の立場も危なくなるからな」
少し冗舌になったな、とアーディルは苦笑いをして、地下室へと足を運んだ。
地下室はただ広いだけの無機質で無愛想なホールだった。ただ、壁の一部は地上に出ているのだろう、たくさんの小窓があって、人が生活するに十分な光を確保していた。
「ジーク。頼み事がある」
「おや、アーディルか。久しぶりだな。いつかえってきた?」
「今日だよ」
壁に背を預け、セレナの肩までぐらいはありそうな大剣を手入れしている男がいて、彼にアーディルは親しげに話しかけた。黒髪と赤銅色の肌で覆われた、精悍な顔立ちの男だった。端正ではないが、アーディルにも劣らぬ位の魅力を秘めていた。特に、ラベンダー色の澄んだ瞳が印象がセレナの脳裏に映った。
「おや、また引っかけたのか?」
男は苦笑いをしながら立ち上がった。大きい。小柄なセリアはそれだけで圧倒されて、見上げた巨人は天井を突きそうにも見えた。
「ちがうよ。どーしてそっちの方向にもって行こうとするんだ。よく見ろよ」
「ふむ、なるほどな。ガイアの一族か」
「ああ」
アーディルは目の前の大男がセレナにとっての禁句を言ってしまったので、チラリとセレナの感情を表情から読み取ろうとした。が、彼の心配も杞憂に終わった。セレナは大男のたくましさと巨大さに圧倒されていて、それどころではなかったのだ。
「ああ、セレナ。この人はジークフリート・ハノヴァー」
「よろしく、セレナ。ジークって呼んでくれ。みんなもそう呼んでる」
「あ、はい」
セレナはやっと落ち着きを取り戻したらしく、ぎこちなく返答した。
そんな彼女をアーディルとジークは苦笑した。
とは言え、ジークは二メートルを越えそうな長身の男である。全身は赤銅色に包まれた無駄のない筋肉で覆われている。これを見て驚かぬ者など、人として精神が崩壊した者ぐらいだろう。
だが、その大男に似合わぬ物があった。精悍な顔立ちの奥に潜むラベンダーの澄んだ瞳。それだけが少年のそれのように輝いていた。
「ジークの剣の腕はフェンリルでも一、二を争う。そこで、ジーク、セレナに剣を教えてやってくれないか?」
「え?」
異口同音が見事に重なって二人の口からでた。見事なハーモニーにアーディルは思わず苦笑したが、気には留めず、続けた。
「とりあえず、セレナは俺が責任をもって守るつもりだ。けど、それも限界がある。俺が常にセリアの側にいられるわけじゃないし、他の場合だってたくさんあるはずだ。一人で、自分をまもらなきゃいけないときがな。その時に、まるっきり何もできないんじゃ、困る。せめて半人前の剣術ぐらいは心得て貰わないと」
「なるほどね。じゃ、おまえが自分で教えればいいじゃないか」
ジークは一応は納得してみせたが、まるで厄介物を他人に押し付けるような口調で言った。あまりそれがセレナには快くない。
「俺の剣は我流だし、特殊だからな。人に教える剣じゃない。それよりもジーク、あんたのほうが剣術の知識は豊富だから、セレナにもぴったりの剣術を教えることが出来るだろう?」
アーディルの正論に、ジークは反論が出来なかった。
ジークは現在二十六歳でもうすぐ二十七回目の誕生日を向かえることになっている。フェンリルへ入ったのがアーディルとほぼ同時期であったが、それまではフリーランスの冒険者として各地を放浪しており、実戦経験も豊富で、判断力と剣術に長ける男だった。その業界あたりでは彼の名はすでに天下に轟く、程ではないが、そこそこの有名さである。
「仕方が無いな。女の子に教えるのは苦手なんだよ……」
ジークは無造作に後ろ髪をかき回しながらぼんやりと訴えた。
「まあ、よろしくたのむよ」
アーディルは小さく微笑むと、二人に背を向けて、地下室から去ろうとした。
「あっ! アーディル。何処行くの?」
唯一にして絶対の親密と信頼を置いている青年が去ろうとすると、セレナは慌てて彼を捕まえて、不安げな声でつぶやいた。
「って、俺もおまえのおもりだけが仕事じゃないからな。ジークがいるじゃないか」
「でも」
「心配するなよ。そうだ、耳貸せ」
アーディルがニヤと笑うとジークに一瞬視線をやって、セレナだけに聞こえる声で言った。
「俺はおまえを俺が信頼している人間にしか預けねぇ。ジークはその中でも最高級品だ。ただし、これは言うなよ。あいつがつけあがるからな……」
厳然たる雰囲気がその一室を支配していた。
そこにはカランダ王国の重臣の貴族達や、軍の幹部達が集い、全く娯楽性に欠けた表情をしながら向かい合っている。そして彼らを統率する位置にあるのが、国王ラッツウェルであった。彼だけが、優美なその姿で殺風景なその場を彩っていた。引き締まった二十八歳の男性的な美しさは名工の彫刻を思い出させる。
「やはりここはフェンリルとか名乗る反乱分子を大きくならぬ内に、壊滅的ダメージを与えた方がよろしいと存じまする」
そう提案していたのはカランダ宰相ラウグル・フォン・オーベルハイム公で、アリアの父であり、このままラッツウェルがアリアと結婚をするならば、外戚となる人間だった。初老を越え、老いがその表面を覆っており、刻まれたしわや色が落ちてきた髪は狡かつな印象を与えている。
ともかく、現在の所このオーベルハイム公がカランダの国政の主権を握りつつあると言ってもよい。彼と、彼に組する勢力の力には誰も太刀打ちできるものではない。彼に逆らって没落した貴族が如何に数多い事か……
「この意見に賛成の方はご起立願いたい」
基本的にカランダの政治方針は専制君主政であるが、こう言った評定の場では民主政治に酷似した光景がみられる。この場合国王、ラッツウェルは立たず、諸候の意見をまとめる最後の役割として鎮座が義務とされる。
小さくざわめきが起こり、皆が次々と立ち上がった。だれしもが危険な男の激鱗を剥いて中の肉をかき回し、怒り狂う竜となすことを恐れたのである。
が、それは一人をのぞいてであった。
「む。卿はなぜ立たぬ?」
それはいささか妙な質問であった。オーベルハイム公の視線の突き刺さる方向には、暗いブルーの髪の青年が静かに座っていた。まだ若く、ラッツウェルよりも若いだろう。せいぜい二十代半ばか。
「妙な質問ですな、オーベルハイム公。公は『賛成の方はご起立願いたい』と申されたはず」
青年は静かだが意志の強そうなモスグリーンの瞳をオーベルハイム公へ突き刺していた。若く活力に満ちたその視線は、自らの権力に溺れつつあり、自制をややうしないつつある老いたオーベルハイム公を狼狽させた。
「ハインツ伯か。それともハインツ中将と呼ぶべきか? 卿には何か意見がありそうだな。申して見てくれぬか」
ラッツウェルが興味の視線をその青年へ投げかけた。
彼の名はグスタフ・ド・ハインツ伯爵。と言うよりは彼は貴族と言うよりは軍人と呼ぶにふさわしく、今回の評定にも軍幹部として参加している。若くして中将と言う元帥、大将に並ぶ地位を得ているのはやはり血統を武器にしたところがあるが、他の貴族将官と異なるところはその軍事的才能だった。
彼の父は先王リヒャルト三世に仕えた良将でその時、彼の血族は爵位をリヒャルト三世から賜っている。ハインツの父は戦術、戦略に長けた軍人でリヒャルト三世の覇業も、彼を除いてはなしえなかったであろう。
だが、彼もオーベルハイム公の奸計によって死を与えられた者の一人だった。彼の軍事的有能と名声を将来的に政敵となると見たオーベルハイム伯は辺境で起こった反乱に対し過小な兵力を彼に与えて、討伐軍としたのである。
そこでハインツの父は戦死を遂げた。
だが、瓦解した討伐軍の残骸を集約して、たった四百の敗残兵力で三千を数えた反乱軍を鎮めたのが、グスタフ・ド・ハインツだったのだ。時に彼は二十二歳であった。 その非凡たる才能を見た軍務尚書ゼフルト元帥は彼を少将に昇進と共に三個師団一万二千の兵を与えて中央警備隊指令官に命じていた。
それより3年の時が流れてハインツは中将に階級を上げている。特に功績を立てた訳ではなかったが、事務能力を人並にこなしたことで階級を一つ上げていたのだった。
「恐れながら申し上げます。小官が愚考致しますにはフェンリルはあえて泳がせ、その存在を存続させる方がよろしいかと」
ハインツはオーベルハイムの毒入りの視線をすずやかな表情で受け流し、否、意識の外へ迫害してラッツウェルを直視した。
「ほう、その意義とは?」
「はい。最も大きな理由として反乱分子は目に見えぬように細かく砕くよりも多少大きくとも目に見えるサイズにして置くのがよろしいかと」
ハインツは自分の言葉にも大した興味を示さぬような口調でラッツウェルに進言した。
会議の場が動揺して波のごとくざわめきたった。ハインツの意見に感銘して、ではなく彼がオーベルハイムに異論を唱えたことに彼らは狼狽し、愚かな小羊を遠巻に、ある者は心配をし、ある者は嘲った。
「一理はあるが、もしフェンリルを野放しにすることによって、フェンリル事態が肥大し、我らの手に負えぬようになったらどうするのか?」
これはオーベルハイムの質問だった。口調はどうにか感情を抑制し切れていたようで、僅かに怒りに振るえていただけで、明敏な者で無ければ気付かなかったであろう。
が、その明敏たる者の一人であるラッツウェルはオーベルハイムの不快を読み取っていた。その上で、にやりと笑みを浮かべてハインツを見た。
「その点の心配はございませぬ。フェンリルは反乱分子。ただし、その勢力は極脆弱でございます。なぜなら、陛下が善政を続け賜る以上、我らが手を焼くほど肥大することは在りませぬ。……ただ、陛下が政治の情熱を失い、自らのエゴイズムに溺れなさる様になられるならば、今の内にフェンリルを叩いて置いた方がよろしいでしょう。もっとも、これは国政を司る、全ての者に言えるでしょうが」
一同がざわめきたってハインツの若々しい身体を狼狽の視線を持って串ざしにした。今度はオーベルハイムを恐れてではなく、ハインツ自身の言葉に彼らは雷に打たれたかのように硬直したのだ。
ラッツウェルは驚愕に瞳を揺らした。ここまで物事を直接口にするものは少ない。なぜなら、そのような者は常に周りから粛正される立場にあるので、絶対数が増殖しないのだ。だが、ハインツは澄ました顔でラッツウェルの瞳を直視していた。
ラッツウェルは無言でうなずいた。このとき、ハインツの真意を悟れた者はラッツウェルただ一人であったであろう。彼はハインツと言うこの厚顔な青年に興味を持たずにいられなかった。だが、確かに厚顔でも彼は無恥ではあるまい。ラッツウェルはこの青年の存在意義の大きさを無意識に悟っていた。
「よく分かった。予も卿の意見には賛成をする。予は予のできうる限りは善政をしき、民のためにつくすつもりである。それならばフェンリルは生かしておき、その勢力を見張りながら、衰弱死させるのが良案だと言うのだな?」
「御意」
ハインツは恭しくラッツウェルの理解に敬服の意を表した。
おそらく、ハインツはラッツウェルの気性を知っていて、無謀とも言える発言をしたのだろう。もし、ラッツウェルが器量の狭く、偏狭な視野しか持たぬ国王ならば愚かな質問は控えたであろう。だが、ラッツウェルは違った。部下の正しい意見を受け
入れるだけの器の持ち主だ。ハインツはそう思い、背信めいた進言に踏み切ったのだ。
「予はハインツ中将の意見を用いたい。誰か反対するものはおらぬか」
ラッツウェルが宣言した。それは質問ではなく決定の意を表した言葉だった。
諸貴族達はオーベルハイムの陰謀と権力を恐れる余りに彼を支持しているが、その支持も絶対権力の象徴である国王ラッツウェルにまでは刃向かうことが出来ないでいる。凡庸が凡庸たるところだ、と皮肉られるのも無理もなかった。
専制君主国家の会議らしく、会議は絶対権力者の一声で短時間の集結を見せ、ラッツウェルはカランダ城の奥深くにある、彼個人の生活空間である箇所に帰っていた。
豪者な廊下を一人で彼はあるく。とある重臣が「お供の護衛者を御連れ下さいませ」等と進言したが、「この宮殿奥深くまでか。それに絶対権力者である予は一人で歩くことも許されぬのか」とラッツウェルは苦笑したものだった。
ラッツウェルはよく訪れる部屋のドアを開けて中に入ろうとした。
「陛下、アリア様は現在おやすみになっておられますが・・」
ラッツウェルが入室しようとしたのは、近い将来妃となるアリア・フォン・オーベルハイムの私室で彼がよく訪れる部屋の一つであった。だが、端から声がして、ノブに手を差しだしたラッツウェルはそれをひねることを中断させられた。
「何? まだ早いではないか。何かあったか?」
「はい。どうやら風邪をお召しになったようで……今朝から、微熱が続いております。医師の話では特に問題は在りませぬようですが」
ラッツウェルが怪訝そうに尋ねると、控えていた中年の女奴隷が応えた。宮の雑用の八割は奴隷がこなすこととなっている。彼女もそんな奴隷の一人だった。
「そうか。ならばしかたあるまい。ゆっくり養生するように伝えよ」
ラッツウェルは小さくうなずいて奴隷を見た。中年の奴隷は恭しくこうべを垂れて主君の意を受け入れ、敬意を払ったのだ。いや、敬意と言うよりは長年の生活で身体に浸透した結果なのかも知れない。
ラッツウェルはアリアと先刻の興味ある青年、ハインツの事について談議がしたかったのだ。アリアの知性と優れた感性にはあの青年はどう映るのだろうか。彼女が彼を知らねば、直接合わせるのも悪くないと思うほどなのである。少なくとも、現時点でオーベルハイム公勢力に敢然と立ち向かう彼の存在は貴重である。
自室の前まで歩いてきて彼はいつもと風景が違うことに気付いた。それは些細なことであったが、それは重要な部分であったのですぐに気付くことが出来たのだ。
「おまえはいつもの奴隷と違うな」
それがラッツウェルのいつも見る風景と異なるところであった。
「はい、前任の者は骨折ってしまって休養中でございます。もう一人は何やらあしき病にかかったとかで」
その奴隷は若い女の奴隷だった。宮に奉仕する奴隷はたいていが女性であった。仕事のほとんどが食事の支度であったり、掃除であったりするので、男性より女性がむいていたし、ラッツウェルなどは「調度品としての人間ならば、男より女の方が断然いい」等と、自らも下手な冗談だと酷評していた。とかく伝統的に宮の奴隷はほとんどが女性であった。女奴隷が余り反抗的ではないと言う一般的な観念があるからか。
「前は二人であったな。となるとおまえは二人分の働きが出来るのかな?」
ラッツウェルは少々意地悪な質問をした。無論冗談であったが、氷の彫刻のような美形からか、公人として厳格で冷徹な印象を強く持つので、その奴隷は大いに緊張の液体を口内で分泌させられた。だが、余り知られていないことだが、ラッツウェルは私人としては、おおらかで柔らかな人物であった。が、それは実際の所、アリアなどの極近くの人間にしか知られていない事実だった。奇妙なことに兄弟であるラウエルやミハエルでさえ、それを知らない。もっとも、彼らは兄弟とはいえ、プライベートよりも公式の場で顔を合わせることの方が圧倒的に多いのではあるが。
「も、申し訳ございません。なにぶん新任なもので、慣れぬ所も多く陛下のご期待に添えぬかも知れません」
「ははは。よい。少しからかってみただけだ。すまぬな。仕事はおまえのできることを一つ一つこなせばよい。無理をすれば、何処かに破綻が生じる。それより面を上げよ。覚えておかねばならぬからな」
恐縮して身体を縮める若い奴隷をこのましげに微笑んでラッツウェルは優しい声をかけた。奴隷は意外な言葉に弾かれたように顔を上げた。
若い。そしてなにより美しさが目立った。奴隷らしからぬ容姿だった。
ラッツウェルはその奴隷の美しさに視線を奪われたが、それもやはり数瞬のみであって、次の瞬間には元の広い視野を取り戻していた。美麗ではあったが、女としてはまだ幼く、その美しさも「一般」をはるかに越えるものではなかった。
「おまえ、名前は何という?」
「はい、カテローゼと申します」
「ふむ、カテローゼか。奴隷などにはもったいない美しい響きだ。いや、悪い意味ではない。両親に感謝せよ。よい名を授かったな」
ラッツウェルは音楽的な響きすら錯覚するような美しい笑い声をあげて笑った。今年、十五になったばかりのカテローゼはラッツウェルの笑いに対して反応に窮した。当り障りの無い反応という大人の技術を持たない彼女は、やはり少女が少女たる所なのだろう。
やはり、そのぎこちなさを持って仕事をする様は今までの熟練した奴隷達よりもはるかに非効率、非迅速であったが、額にうっすらと汗を浮かべて掃除などにいそしむ姿はラッツウェルの心を和ませた。
その心の緊張を解した彼は椅子に座り込んで考え事をしていた。
と、陶器が重力の力を得て地面と接吻を強いられその不可に耐えかねて砕ける音がラッツウェルの耳を捕らえた。それに極僅かな時差をおいて絹を裂くような少女の悲鳴が聞こえる。
「どうした?」
ラッツウェルは怪訝そうに立ち上がり、音源を調べるべく、音の飛んで着た方向に視線をやった。
原因の追求は至極簡単だった。深紅の絨毯の上に、更に赤いバラの花火らがいくつか飛び散っていて、それらのすぐ側に、陶器のかけらが大小様々に散乱していたのだった。一目で花瓶が落ちて割れたのだと分かる。
「……も、申し訳在りません!」
暫し愕然としていて反応の無かったカテローゼは不意に我を思い出し床にひれ伏してややひろめの額を地面にすり付けた。救われぬ失態だった。なぜなら、この花瓶は彼女一人の生命よりも高価である。後世の自由主義者が忌み嫌った事ではあったが、現在に於てそれは一般的事象であった。すなわち、カテローゼの失敗はすぐさま彼女がどんな処断をされても仕方が無いのだ。
「予は陶器とか美術品などの価値は分からぬのでな。この花瓶がどれくらいの値段がするのか分からぬ」
意外にもそっけのない声でラッツウェルはかつて花瓶であった陶片を見つめた。実に彼は生涯を通して物欲には感心がなかったと、後世の歴史家は伝えるが確かにそうであったであろう。この部屋の調度品も最高級の物ばかりであったが、とかく彼の興味を引くものはなに一つとしてなく、それらはすべて先王リヒャルト三世の遺品というだけだった。
「まあ、おまえがいくら謝ったところで花瓶は元には戻らぬ。さっさとかたずけよ。時間は何よりも大切だぞ」
ラッツウェルは余りに感心の無い声で行ったために、逆に恐怖心の塊と化したカテローゼの精神には冷酷に聞こえた。だが、カテローゼは恐る恐る陶器の破片をぎこちなく拾い始めることが出来た。
「そうだ。気を付けよ、破片で手を切らぬようにな」
拾い集めようとするカテローゼの元から立ち去ろうとするラッツウェルは急に振り向いて彼女に聞かせた。今度はやさしげな感情を十二分に含んだ口調で。
驚いたカテローゼは一瞬職務を忘れてラッツウェルを見た。そこには穏やかに微笑んだラッツウェルがいて、彼女は自分の誤解に恥じた。ラッツウェルは冷酷な人間ではない。地位という責任が彼をそうさせているだけで、それを取り除けば、極柔和な青年なのだ。
カテローゼはラッツウェルの本質に気付いて感動を瞳に浮かべていた。胸の奥に熱いものがこみ上げていたが、彼女の精神が奴隷という鎖でつながれている限り、それは自制できた。彼女はラッツウェルに惚れていた。
その刹那、ラッツウェルの背後にかなりの高速で影が接近した。それに気付くことが出来た英明なカテローゼは力一杯叫ぶ。
「陛下ッ!」
その絶叫がラッツウェルの精神を高揚させ、彼は背後から襲いかかる圧倒的なプレッシャーを感じ、剣を引き抜きながら振り向いた。
金属と金属が高速でぶつかり合う、独特の乾いた音が響く。ラッツウェルはその接近した影の黒いやいばを剣で受け止めていた。迅速な判断だ。彼も剣術は一流の腕を持っているのだ。
「暗殺者か!」
「陛下!」
カテローゼは本能的に走りだし、自らの肉体をラッツウェルの盾とすべく彼と暗殺者との間にいれようとする。
「カテローゼ! 逃げよ! 早くっ!」
ラッツウェルが叫んだ。その間にも剣撃は幾度も交わされている。
その声にカテローゼは飛び込むタイミングを失い、おろおろと右往左往した。
ラッツウェルは戦慄していた。彼はやはり一流の剣士でもあったが、目の前の暗殺者は一流や二流などと言ったそんな概念的なレベルをはるかに凌駕していたのだ。今受け切れているのが不思議なくらいだった。
「カテローゼ! 早く逃げよと言っているだろう! 早く助けを呼びに行け!」
ラッツウェルは嘘を言った。今ごろカテローゼが走って助けを読んでも彼は暗殺者のやいばに倒れるだろう。だが、カテローゼを逃がすために彼女に使命を与えることは彼女を動き安くさせることができた。彼はそれを知っていたのだ。
だが、彼自身にもなぜカテローゼを救おうとするのか。分からなかった。本能的な判断だったのだ。それはおそらく彼の天性の優しさなのか。人としての徳なのか。
「は、はいっ!」
カテローゼは弾かれたように駆け出した。細身の身体でありながら、駆ける速さは人並以上だと言っていいだろう。だが、応援を呼ばれるのをまずく思ったのか、暗殺者はその数倍の速さを持って目標をラッツウェルからカテローゼへと変えて、疾走した。
「く、くそっ!」
ラッツウェルも全力をもって駆け、それを阻止しようと必死に切りかかった。だが、それは暗殺者の黒いやいばに阻まれた。逆に無理な体勢からの剣はそのやいばに弾き飛ばされた。
「しまったっ……」
ラッツウェルはかすれた声でうめいた。ここまでか……ラッツウェルは所詮自分がこの程度の男だったのかと、覚悟を決めた。だが、
「なるほど」
暗殺者の黒ずくめの服から澄んだ声が漏れた。女の声だ。ラッツウェルは驚愕してその暗殺者を見つめた。と、黒ずきんがはずれ、端正な黄色人風の女性が現れた。まだ若く、ラッツウェルよりは年は下に思えた。
「どういうつもりだ?」
ラッツウェルは我にかえって尋ねた。
「無礼を申し上げ申し訳ありませぬ。ただ、あなたを……陛下をお試ししたかったのでございます」
「予を? 卿は何者だ? いったいどういうつもりなのだ?」
「はい。私が仕えるに値する主君かどうかを、お試ししたのです。もし陛下があの奴隷を盾にして私から逃げようとした者ならば、斬っておりました。しかし、あなたは……」
その女暗殺者は羨望の眼差しをラッツウェルに向けた。
「くっ……ふふ。面白い奴だ。つまるところ私は卿の目にかなった主君であると言うことだな? いいだろう。無礼は卿の功績に変えてもらおう」
「ありがとうございます。私の名はカーミラ。幻妖のカーミラ」
ラルフ達は宿を引き払わずに金貨を二枚置いて部屋を出ていた。これから起こることを考えると、足を少しでもごまかしておいたほうがよいからだ。
ラルフがカランダ城に忍び込んだ次の朝、ファティマと会話があった。
「ラルフさん。昨日はいったい何処へ?」
「うん、ちょっと王城へね。そこに依頼主がいるんだ」
たいそれた事なのだが、ラルフはまるで友人の家を訪れたかのような口調でつぶやいた。ファティマもそのせいか、瞳を少し驚かせただけだった。
「で、その依頼って何なんです?」
「うーん、作戦名は『結婚式をぶち壊そう大作戦』さ」
ラルフは胸を張って言ったが、それは余りにも文学的にも芸術的にも響きのよい代物ではなかったので、ファティマは唖然として二の句が告げなかった。
「ううん、まあそれは冗談として、もう少し人手がいるな。なにしろ、城に幽閉されている御姫様を救いだし、逃避行を演じなければならないからな」
自らの言葉に恥ずかしさを感じたラルフはせきばらいをしてなんとか場を取り戻すと、もっともらしい表情でファティマを見つめた。
「で、その救出する御姫様は?」
その質問の応答がファティマに強烈な衝撃を与えようなどと、彼女は想像すらしなかった。ラルフから返された固有名詞は、ルシア=フォルグルト=アムル。
ラルフは冒険者達が集うギルドに顔を出したが、これと言って腕の立つ者が見つからなかったので、少し気落ちしながら通りで待つファティマの元に帰っていた。
と、聞き覚えのある声が二人にかかり、若い女性の声であったので僅かにラルフの方が速く振り向いた。その声の主はシレーヌだった。彼女とはこのカランダ市までは同行していたのだが、この街で仕事を見つける、と彼女は二人の元を去っていたのである。
「やあ、余り景気は良さそうじゃないね?」
「そうそう、こんな大きな町だから、何か面白い仕事があると思ってたのに……つまんないものばかりよ」
ラルフの意外な洞察にシレーヌは少し驚いたがそぶりはみせず、ため息混じりに愚痴をこぼした。このとき、ラルフの言葉にファティマが英明に彼の意図するところを察知し、シレーヌを巻き込もうとしていることが分かった。
「じゃあ、私が面白い仕事を持っている。受けてみないか? まあ、少し危険な仕事だけどね」
ラルフが微笑んでシレーヌに語った。シレーヌは少し考えていたが、彼女の記憶層にはノープルの街でのラルフとの会話を鮮明に記憶しており、その事情と仕事の内容が容易に察することが出来た。
「いいわよ。面白い仕事に危険が付きまとうのは当然ね。報酬と、私の好奇心が満たされれば、受けるよ」
この場合彼女の好奇心は満たされているのだろう。瞳が爛々と輝いている。ラルフはしたたかなシレーヌに苦笑を浮かべたが、正当な報酬を払うことを約束して、そのかわりにシレーヌと言うきわめて有能な剣士を味方にすることが出来た。
ラルフがルシア救出に使った作戦は実に巧妙な心理作戦で、作戦形式事態は実に単純なものだった。とは言え、実行段階ではラルフの隠密行動力がきわめて優れているためであって、その能力に欠如した者ならば、その作戦は決行以前に破棄されるだろう。
それとは、ラルフが城内に気付かれないように侵入し、ガルドとルシアに脱出を促す。それから時差を置いてラルフはへまをやらかし、警備兵に見つかるのだ。それでも彼は奥に侵入をしようとする。すると警備はやはりラッツウェルとラルフに集中するわけで、ルシア達はいつもの数倍の薄さの警備の中をゆうゆうと脱出したのである。
「暗闇のラルフォード」と言う名が指すようにラルフにとって闇は味方であった。
ルシア達が逃げ出したであろう頃合にラルフは警備の包囲網を難なく抜け出して、城壁の近くへと走っていた。もう、離脱は造作もないことだった。
「暗闇のラルフォードはさすがに伊達じゃない訳ね」
妖艶な声が闇に響いてラルフの足を止めた。そしてその声はラルフの記憶層の奥に封じられたものだった。愕然としてラルフは振り返る。
「幻妖のカーミラ! 君がどうしてここに?」
「ふ、知れたこと、私はラッツウェル様に仕えている」
「何? それで、私を殺しにきたか?」
ラルフは油断なく構えた。だが、額に汗がにじむ。それはかつての彼には感じられぬ事だった。今の彼は実力の著しい低下と、そして死んではならぬ、彼の帰りを待つ者のために、脱出を急がねばならぬと言う使命感があった。
「ちがうな。おまえを確認したまでだ。今のおまえなど今の私の足元にも及ばぬ。違うか? 我が師よ」
カーミラは辛辣な口調で言った。ラルフもカーミラも若いが、かつては彼と彼女の実力差は圧倒的だった。そこに師弟関係があったのだ。だが、今はそれが逆転している。技量だけではない。人を殺すことを止めたラルフ、人をあやめつづけたカーミラ。この差は大きかった。暗殺者としての実績のあるラルフはそれが分かる。
「この場は退いてやる。だが、ラルフォードよ、人斬りの本質は人斬り。おまえが何があって殺人をやめたか知らぬが、人の本質とは変わらぬ……戻るがよい修羅に」
カーミラは寒気を覚えるほどの妖艶な笑みを浮かべて幻のようにそこから消えた。ラルフは数瞬間を呆然とすごしたが、追われる身という自覚が彼を呼び覚まし、闇へとけ込むように跳んだ。
城内を脱出したルシア達はそこで待ち受けたシレーヌの案内でカランダ市を包み込む城壁へと走った。そこではファティマが待ち受けていて、脱出の準備をしているはずだった。市内はこの時間、外とは門で閉ざされている。脱出の方法は高い城壁を越えなければならないのだ。
「シレーヌさん!」
ファティマの声がしてシレーヌは闇の中を駆けた。
「ごくろうさん。後はラルフね」
シレーヌは一息付くとガルドとルシアをみた。闇の中でははっきりとは分からないが、ガルドは三十前後の立派な体躯の男で夜目にもたくましく映る。ルシアも長身でシレーヌよりも少し低いくらいだが、女性にしては高い。そして線が細く繊細なイメージがあった。月明りにしなやかな黒髪が神秘的な光沢を放っている。
「すまない。遅れてしまったようだね」
と、気配が感じられてそこにはラルフが立っていた。僅かに微笑みを浮かべて、たたずんでいる。おとり役を演じなければならなかったラルフを一番心配していたファティマは安堵の吐息を吐き出して、ラルフを見つめていた。
「おや? ロープがないように見えるけど……」
「目立てば巡回の兵に怪しまれるでしょう? それっ」
ファティマは壁を調べて何かを引っ張るような仕草をした。すると、不思議にもロープがするすると降りて来る。マジシャンよろしくファティマはロープを天から降らしたのだ。
「すごいな。どうやってやったんだ? 魔法かい?」
「ちがいますよ。ホラ、よく見て下さい。釣り糸です。あらかじめ城壁の上にロープを用意しておいて、釣り糸を引っかけて垂らすんです。そうすれば巡回の兵に見つかることもないでしょう?」
「へぇ、なるほどね。あったまいい! ファティマ」
シレーヌが感心の声を上げた。その声に弾かれたのはルシアだった。
「ファ……ティマ? ファティマ?」
壊れたオルゴールのようにルシアはファティマの名を連呼した。そして夜の闇の中をゆっくりとした歩調で彼女に近付いて行く。足取りには異常な緊張感が漂った。
ファティマはそのルシアを見て戸惑ったように視線を地に落とし、やはり緊張を貯えていた。が、彼女は急に意を決して視線を上げ、ルシアの美しい顔を直視した。
「……姉さん」
その言葉は衝撃的であった。か細く、小さなつぶやきでしかなかったが、ファティマの声は重大な内容を秘めていた。その言葉に見えない雷に打たれたかのようにルシアは弾かれた。
「ファティマ? 本当にファティマなの?」
「そう……姉さん。もう会えないと思ってた。会うことなんてないと思ってた……」
ファティマは戸惑いを隠せぬまま、小さな声でつぶやいていた。
彼女の声に一番の戸惑いを見せていたのはラルフかも知れない。
「ファ、ファティマ?」
「ごめんなさい……ラルフさん。私……私……」
ファティマは悲しげな視線をラルフに向けた。今まで黙秘を通した彼女の出生とはそれだったのである。八年前、国外追放に遭った幼きアムル公国第二公女……それがすなわちファティマなのだ。
ファティマは国外追放になり、アムル公国が滅んでからその出生を語ることを避けた。その血筋を知られることになれば、アムル公国復興への御輿にされかねない。それは国を出る前に母に諭された言葉であり、幼いながらもファティマはそれを理解し、かたくなに守ってきたのだ。
ルシアは緩慢な動きから突然俊敏に動き、二度と放さぬかのようにファティマを抱きしめた。強く、強く抱きしめた。瞳から涙が溢れて止まなかった。
「ごめんね、ごめんね、ファティマ。本当なら合わす顔なんて無いよね。私の変わりに、追放にあったんだものね。辛かったでしょう? 憎んでいるよね、私の事。ごめんね……ごめんね……私何を詫びたらいいの?」
「姉さん、れは違う……確かに辛いこともあったけど、それは姉さんも同じ……私が追放されなくて、奴隷にならなかったらラルフさんに会えることもなかった。こうして、また姉さんと会えたんだもの……もう、過去なんて関係ない……ね」
ファティマは涙ぐみながら、身体を小さくしてファティマの小さな胸の中で泣くルシアを優しく諭した。ファティマは少し気兼ねしてラルフを見たが、ラルフはファティマの黙秘を当然として微笑みで許容していた。確かに、驚きは隠しきれていなかったが……
「お二人さんには悪いんだけどさ。時間が押している。早いこと脱出してしまわないとまずい」
憎まれ役を買わざるを得なかったシレーヌが二人を諭した。
「え、ええ。ごめんなさい。さ、行きましょう。で、ラルフこれからは何処へ逃げるの? やっぱりアステ・ウォールへ?」
「ええ、まあ最終的にはそうなるでしょうけど、まずはフェンリルへ身を潜めます」
「え? まさか、フェンリルにそれほどの力が……」
「無いでしょうね。けど、アステ・ウォールも同じです。むしろ、あなたがアステ・ウォールへの逃亡が公然となればカランダは良き口実を得ます。今のアステ・ウォールには統一してカランダに対抗できる力はないでしょう」
「それならば、フェンリルへか」
ガルドが年長らしく落ち着いた声でまとめた。ラルフがうなずき、ルシアもそれにならった。ファティマはラルフの判断に全てを委ねている。シレーヌも賛成を示した。
ルシアはカランダからの離反を示した。このことが時代の扉を開くことになろうとはルシアもラルフも知る由が無い。ただ、人の目には見えぬ所で、時代の激流が音を立てて流れ始めていた。
