セレナ達がコルア島からヴァルハナ市へ戻ると、秋は一層の深まりを見せていた。落葉広葉樹は、鮮やかに変色した木の葉をこぼし、それが街道などに一面に広がっている。そう言った木々は厳しい冬を向かえるための準備をするのだ。
大陸アルカーティスは一様に温暖である。が、大陸アルカーティスは広大であり、南北の広がりも大きい。その北部に位置するカランダ地方では冬の寒さも厳しいものとなる。カランダ市以北では雪が舞うこともしばしばである。
伝説ではアルカーティス文明発祥期、カランダ地方は極寒の地であったと言う。二〇〇〇年ほど前の地層には針葉樹の化石が大量に出土することから、それは事実であろう。
アルカーティス文明の起こりは現在のアステ・ウォールの首都、ウォール市付近であると言う。現在、大陸南部を占めるアステ・ウォール帝国は領土の大半が砂漠であるが、文明が起こった頃は豊かな森林地帯であったと言う。
そこに人が文明を起こし、入植によって森林を伐採し、肥沃な土地に田畑を築いた結果、気候の温暖化も手伝って現在は不毛の砂漠と化している。それは今も続いている事なのだ。
ふらりとした様子でラルフは現在滞在しているフェンリルの本部の地下、それはなにもないただ大きなホールとなっている所に現れた。現在は、フェンリルのメンバーの訓練の場と使われるのが主だ。
その場所には決って一人の男がいる。ジークだ。二七歳の彼は、ここにいるか、街で女性を引っかけているか、昼間から酒を呑んでいるか、その三者の内の一つだろう。少し前までは、セレナに剣術を教えたりしていて勤勉だったのだが……
「ん? 珍しいな、あんたがここに来るなんて」
この時、ジークはこの場所にいて大剣の手入れをしていた。通常の大剣とは違って、普通の子供の身長より大きな剣である。しかし、彼の鍛え上げられた両腕を見れば、それも彼ならば使いこなせそうに見えた。
「まあ……ね。一つ頼み事があるんだ」
ラルフが少し困ったような口調で言った。この二人は間違いなく世界でも最高峰の剣の達人であったが、二人は剣に付いて語り合うこともなかった。交わす言葉は極日常的なそれでしかない。また、二人に共通する点としては、達人らしく見えないところだろう。ジークは陽気な雰囲気がする青年だし、ラルフはかつては権力者を震感させた、暗殺者であるなどとは聞いたところでわが耳を疑うような穏和な青年である。
「すこし、剣の練習につき合って貰いたいんだ。ジーク、あなたの腕を見込んでの話だ」
「わからんな? 殺人を嫌い、殺人剣を捨てたはずのあんたが、いま、なぜ剣の修練に努めればならんのだ?」
ジークはそっけない表情と口調で問いかけた。が、その内容は直線的でラルフを返答に窮させた。
「別に再び殺人を犯そうという意志はない。ただ、人を護るのに、力は必要だ……残念ながらね」
ラルフは小さく苦笑をした。
「今のあんたは十分強い。強すぎる。おそらく俺で互角か、もしくは俺が劣る、アーディル程度なら打ち負かすことは簡単だろう。それでも、修練が必要……つまり、あんたの全盛の力が必要となると、相当の敵がいる、と言うことになる」
ジークはラルフの言の裏側をたどって見せた。彼はただの剣士ではない。ただ、剣の技術があるだけでないのだ。それを知る者は意外に少ない。
「そういう事。生憎、その人達と戦わねばならないことが、不幸と言えるね」
ラルフは苦笑で応えていた。
「へえ、あんたがそれほど敏感になる敵さんね。あまり、考えたくないものだな」
ジークは予裕を魅せるために笑みを浮かべたが、それでも生理的に分泌された唾液を飲み込まずにはいられなかった。ジーク達はラルフの過去を知っている。ラルフがそれを話したのだ。フェンリルに滞在するために、素性を明かさねばならなかったからだ。
「幻妖のカーミラ。私は彼女とカランダで会った。強い。もし、かつての私でも勝てるかどうか……」
そう言ってから、ラルフは我ながらたいそうなことを言っているな、と苦笑した。しかし、そう言った感情を廃して考えると、彼女は確実に彼の命を狙っているとラルフは判断していた。カーミラの目標はラルフであったからだ。カーミラが暗殺者の頂点を極めると言うことに固執していれば、必ず、ラルフを殺すだろう。それほど「暗闇のラルフォード」名は高い。
身から出た錆……か?
ラルフは一つ、ため息を付いていた。
決して豪奢な部屋ではない。あるいはカランダ国王の妃となる者の部屋にしては不思議なくらい質素である。だが、それは部屋の主であるアリアの華奢な雰囲気にとけ込むような調和を見せていた。
「ラッツウェル様?」
アリアは穏やかな歩調で若い国王に近寄った。彼は窓から外を眺め続けている。窓から入る光が、堀の深いラッツウェルの表情をさらに固く輝かせていた。
「すまぬ。少し考え事をしていた。一つ問いてよいか?」
「はい」
「余はどんな君主であろう? 力で治めるのか。徳で治めるのか。あるいは法で治めるのか。余には分からぬ」
「それは、時と場合で変化をつけなさればよろしいのではありませんか? なにも一つにこだわりなさることはないと……」
アリアはラッツウェルの少々突飛な質問に彼女らしく応えていた。また、ラッツウェルもそのような答えを待っていた。いわば、アリアはラッツウェルの思考の鏡だった。彼の思考にまとまりのないとき、彼女に質問を投げかけることによって答えを見ることが出来た。
「そうか、ならば、いま余は力を用いようとしているのかも知れぬ。力では民を幸せにすることはできぬかも知れぬ。しかし、それは後で取り返せばよいと言うことだな?」
アリアは返答に窮した。彼女とて人間で、常に正確な答えを出せるわけではなかった。その彼女の困った表情を見て、ラッツウェルは小さく微笑んだ。氷の貴公子の仮面が崩れる。もし、彼がこの立場にいなかったら、その仮面の下が本来の表情であったのかも知れない。
「アリア……あなたは余に必要な人間だ。いつも側にいて欲しい」
「はい」
ラッツウェルは、幻影のように白く細いアリアの身体を抱きしめていた。アリアはそのラッツウェルの行動に表情を驚愕で溢れさせていたが、徐々に赤身を刺した頬で返答をしていた。
二人は愛を知らぬ育ち方をした。限られた人間達としか、会っていないからだ。それも私人としてではなく、公人として会うことがほとんどであった。皇太子と大貴族の娘。そのような育ち方をしたのだ。
が、いま、ふたりは抱きしめあう互いの温もりに、いままで知らぬ熱い心の通いを覚えていた。
リヒターは小さなため息を付いて目をつぶった。
「ご苦労だった、セレナ。ファーニアの事は残念だったが……ともかく、しばらく休んでくれ」
セレナ達はヴァルハナに戻ってフェンリルの首将リヒターにコルア島での出来事を報告した。フェンリルの英雄と呼ばれたファーニアはその命をコルア島で失っていたのだ。
「しばらくしたら、アスブルクへ向かおうと思っています。どうでしょうか?」
セレナが尋ねた。ファーニアの遺言はアスブルクへ向かえと言っている。セレナはともかく、それを信じてみることにしていた。
「アスブルク? まあ、いいだろう。しかしもう冬だぞ」
アスブルクはカランダより更に北にある都市で、北カランダの中心都市だ。北カランダは年にもよるが寒さが厳しく、雪が積もる日もある。わざわざその寒さの厳しい季節に、アスブルクへ向かうのは少々リヒターには気になった。
「大丈夫です。アーディルも付いてきてくれるらしいですから」
「そうか、まあセレナの思うようにすればいいさ」
リヒターは軽く応えた。
「おや? ファティマ?」
ラルフが不意に現れたファティマの姿を捕らえてつぶやいた。それまで響いていた木刀がかちあう不規則な音が止む。最もファティマとしては彼を探していた訳なので不意というわけではなかったが、意外な場所に彼がいたことに驚きを隠せなかった。
「ラルフさん……何やっているんですか?」
ファティマは悲しげな、それでいて強い訴えを覚えさせる視線をラルフに向けていた。ラルフが剣の練習をしていると、一目で分かったからだ。
「え、いやなに、少し汗を流したくなって」
ラルフはファティマの強い視線を感じて思わずたじろいた。かつて世界最強と言われたこの男が、意外にこんな少女に一分も勝てないと言うことを知る人間は極希少である。
「そんな嘘付かないで下さい! 本当の事を言って下さい」
ファティマの表情はさして強烈なものではなかった。むしろ、困惑すらそこにあった。が、その表情は逆に見る者を許さなかった。訴える力がそこにはある。厳しさだけが強い表現ではないことを物語っていた。
「ごめん、ファティマ。でも信じてくれ、私は決して過去の私に戻りはしないよ。ただ、避けられぬものはしのがねばならないし、ファティマやルシアを護らなければならないし」
ラルフは気まずそうに頭をかいてファティマに正直な気持ちを話した。少女でありながらおそるべき慧眼をもつファティマはそれを正直な言葉として受け取った。また、ラルフがファティマに続けて嘘を付くことはないと彼女は信じている。
「お願いです。ラルフさんは今のラルフさんでいて下さい。私は、昔のラルフさんをよく知らないけど、今のラルフさんのままでいて欲しい」
「ファティマ。私は変わらぬよ。私を人として接してくれる人達がいる限り……ね」
ラルフは目を細めた。その微笑みは、ファティマへ向けたものなのか、過去の殺人「機械」だった自分への嫌悪か。それは余りに一瞬であったために、その場の者達には察することが出来なかった。
数日が経つ。
セレナ達は旅の疲れを癒しながら、次の目的地であるアスブルクへの旅の準備を進めていた。が、その日はいつになく慌ただしさが目立っていた。
「何があったのかなあ?」
主に旅の用具や食料などを担当していたセレナとミナは事情を知らずいた。のんきそうなその声はそれを表している。
「セレナ……まずいことになったぜ」
と、アーディルが現れて低い声で言った。いつもより表情が固い。それがセレナには即座に分かった。そして、それが良き情報ではないことも分かる。
「いったい何が?」
「ヴァルハナの正規兵が動いている。どうやらフェンリルを攻撃するみたいだ。どうも今日、明日中らしい」
「嘘? 早すぎない?」
ミナが怪訝そうな声を上げた。このフェンリルの本部を叩こうには組織だった兵士を動員させねばならぬ。フェンリルのような地下組織の場合、幹部クラスの逃亡者の確保を考えると包囲するために兵の数はかなりの数になる。それを一朝一夕で編成するのは不可能に等しい。
「俺が抜けている間に、事が進んでいたらしい」
アーディルは歯ぎしりをしてつぶやいた。アーディルはフェンリルの諜報員として活躍していた。その能力は超一流である。それがアーディルはセレナと共にコルア島へ向かっていて不在だったのだ。無論、彼の代わりに誰かが諜報活動を行ったであろうが、アーディルほどの働きが出来るものはそうそういるものではない。偶然だが、その穴に事は進んでいたのだ。
「ま、フェンリルも小さな組織だが、密偵が紛れ込んで分からないほどには大きいからな」
アーディルは舌打ちした。極小さな組織なら秘密が漏れたり、密偵紛れ込むことはないが、ある程度の組織ともなると、その端末までは目が回らない。その管理能力は幹部達にかかって来るのだが、その能力はフェンリルはやや足りないらしい。
「ルシアさんやラルフさん達を呼んで来てくれ。少し予定が早まった。今日中にこの町を出るぞ」
アーディルはそう言い残すと、慌ただしい喧騒の中に消えて行った。彼もフェンリルの準幹部のような存在なので、非常事態に追われる身なのだ。
セレナは消えたアーディルの背中を追って、不安そうな表情を浮かべた瞳を搖れ動かした。
「あまり無茶はなさらぬと言う話であったはずですぞ!」
老いた男が憤慨して叫んでいた。彼の名はエルネスト・フォン・ヴァルハナ。名前が示すとおり、このヴァルハナ市に封ぜられ、この地を治める諸候で男爵の爵位を持つ。
十七年前に彼はこの地の支配者であったが、当時台頭していたリヒャルト三世によって、大軍でヴァルハナ市を包囲された際に、無益な抵抗をよしとせず、単身リヒャルト三世の元へ降伏を宣告した。市民と部下の安全を約しにして。
その潔さをリヒャルト三世はこの人物を高く評価して、この地の封臣に取り立てたのであった。それはラッツウェルの代になってもそれは続いていた。
が、彼ももう六十を過ぎて心身に衰えが見え始めていた。それが今回のドゥルジ伯の暴走を引き起こすことになった。時代は流れつつあるのである。
「ふ、無茶ではありませぬ。我が情報によるとフェンリルにはあのルシア公女が捕らわれておる。それを救い出すのに何のおとがめがあろうか」
ドゥルジ伯は薄い唇を皮肉っぽく歪めて笑った。彼には人並の戦略眼があったが、それはそれ以上の物ではなかった。
彼は生涯、ある者に踊らされていたと言うことは気付かなかった……
セレナ達はルシア達を連れて二階の会議室になっている広間へ向かった。
そこにはすでにリヒターを初めとした幹部達、それにアーディルやジークなどもいた。皆が緊張をしている。陽気なジークまでもがだ。
「セレナ、みんな集めたか?」
アーディルの問いにセレナは無言でうなづいた。緊張感は人を無口にする。そして無意識に身体中が火照り、暑さからではない汗が分泌される。
「よし、聞いてくれ。ともかくフェンリルに無関係な人間はまず、逃げて貰う。ルシアさんやラルフさん達の事だ。そして、セレナ、おまえもな」
アーディルがてきぱきとした口調で速やかに説明した。セレナはフェンリルに無関係な人間として数えられたことに、何か言葉を返そうとしたが、場の雰囲気とアーディルの真剣な声に言葉が出なかった。
「ともかく、向こうの狙いはルシアさんだ。おそらくな。それと、もしかするとセレナも狙いの一つかもしれん」
リヒターがそうつぶやいた。
ミナやルシアがはっとセレナを見つめる。見たかぎりでは彼女はただの少女である。希有なる緑の髪を除けば、だ。ただ、それが何を意味しているのか、彼女がどんな能力を持っているのか知らない。彼女自身ですら、分かっていないのだ。
しかし、彼女がある一定の人間達が狙っていることは確かなのだ。そうでなければ、彼女はアーディル達と会うこともなく、ライゼルの山奥で日々を暮らしていたであろう。
「ルシアさん、ガルドさん、ラルフさんとファティマ……あと、セレナとミナは裏口から出て、この町を出るんだ。セレナ達はそのままアスブルクへ向かえ、いいな?」
アーディルが矢継ぎに言った。人選は的確である。ミナはフェンリルの一員だが、最年少かつ、少女である。この場に残したくはなかった。フェンリルが攻め込まれたら、敗北は必死である。ミナのような少女をこんな所で死なせたくはなかったのだ。
「まってよ! 私はフェンリルの正式な一員よ? 私も残るっ!」
ミナが慌てて叫んだ。彼女にもいっぱしの責任感があるのだ。
「違うさ。ミナにもフェンリルの一員として働いて貰う。セレナを護るんだ。俺の変わりにな」
アーディルは諭すような口調でミナにつぶやいた。ミナは何も言えなかった。アーディルの言葉に逆らえない圧倒がそれにあったからだ。
「来たっ! やつらすぐ側まで来ていやがったんだ!」
突然、ドアが開けられるとフェンリルの男が血相を変えて飛び込んで来た。
「なっ?」
場が急に騒然となった。狼狽する者、驚愕する者など様々である。予想外の出来事には人間だれしも反応が遅れる。が、経験豊かな者ほど正確な判断を取り戻すに時間がかからなかった。
「ちっ、ごちゃごちゃしてる暇はないってわけか! ともかく、セレナ達は逃げるのが先決だ。ミナ、おまえはこの町の地理に詳しい。頼むぜ!」
アーディルは数瞬で常の冷静さを取り戻し、セレナ達に的確な指示を与えた。彼女らはまだ狼狽の渦中にあったが、やはり場慣れてしているラルフは冷静だった。
「行動は早いほうがいいな。脱出は時間がかかればかかるほどまずい」
緊張感の無い声が、セレナ達を落ち着かせた。
アーディルは部屋を飛び出して、一階へと走った。押し寄せる兵士達を食い止めるためだ。正確には、セレナ達が逃げるための時間稼ぎだと言ってもいい。それにリヒター達フェンリルの幹部達が続いた。
「アーディル!」
セレナは彼らの後を追って、階段を駆け降りた。次にミナ達もそれを追う。
「おまえ達は早く逃げろ、俺達が奴らを引き付ける!」
「でも! それじゃアーディル達が!」
「馬鹿やろっ! さっさといけっ!」
セレナの不安そうな声をアーディルの叱責がかき消した。すでに入口の方では戦闘が始まっているらしく、その騒音がここまで押し寄せて来る。
「セレナ! 裏口へ回るよ!」
ミナがセレナの腕を掴んだ。彼女も一人前に訓練を受けている。行動の遅れは判断の遅れ以上に危険であることを知っていた。
「でも! アーディル達が!」
セレナはアーディル達を心配して、その場を動こうとしなかった。その気持ちはミナにも分かった。実は彼女もセレナと同じくアーディルに心ひかれる少女であるからだ。
「馬鹿! アーディルの気持ちを無駄にする気? 行くよっ!」
ミナは彼女にしては珍しい険しい表情でセレナを叱責した。それにセレナは微かに身体を震わせたようだった。が、次の瞬間にはミナが力ずくでもセレナを動かそうと腕を引っ張っていた。
「アーディル! 絶対、絶対に死なないで!」
セレナはミナに引きずられながらも、アーディルの方へ顔を向けて悲痛な声で叫んでいた。が、その言葉の途中でセレナは彼に背を向けてミナと共に走りだしていた。
辛さからか、彼の思いを尊重するしたのか、彼女自身すらそれを知らない。
ただ、彼女はがむしゃらに走った。
「ちっ……」
アーディルはセレナの背中を視線で追って、苦笑した。寂しげな苦笑だった。
子供のくせに、女の表情を見せやがった。死ねないなあ……
アーディルは表情を引き締めると、戦闘が建物の中まで侵入していることを確認して、その中へ身を沈めて行った。
セレナ達はラルフを先頭に建物の中をつっきって、裏口へと出た。こちらは表通りとちがって人通りも少なく、道幅もせまい。路地も入り組んでいる。
「逃がすなっ! 追えっ!」
怒号が彼女達の耳にも飛び込んで来た。兵士達は裏にも回っているのだ。かなりの大規模な包囲だと予想された。セレナ達の胸に焦燥の熱い炎がくべられる。
「ち、こっちにもかなりの人数がいる?」
ミナの舌打ちは、いつになく毒々しかった。
セレナは愕然とした。すぐ側にまで人影がいたからだ。自分が思うよりも時の流れは早い。動きが鈍すぎる自分がもどかしい。ただ、うろたえるのみである。
が、その人影はミナとガルドが素早く動いて切り捨てていた。
「アーディルは私に道案内をしろっていったケド、これじゃあバラバラに逃げた方がいい?」
ミナが独り言のようにつぶやいた。追われる方が散解すれば追う方もそれぞれに戦力を分けねばらならぬ。そうすれば包囲に隙が出来て逃げやすくなる。ミナの判断は正しい。
「そうですね。相手の目をくらますためにも」
ガルドは先頭にたって兵士達の動きを確認しながらつぶやいた。
「よし! じゃあ、私とセレナ。ルシアさんとガルドさん、ファティマとラルフさん。この三組にわかれよう!」
ミナは素早く言うと同時にセレナの腕を掴んでいた。走れと言う合図である。その瞬間に、他の四人も走りだしていた。
動きやすいようにミナの服は腿や肩が露出しているものだ。そこから伸びる四肢は美しい筋肉の躍動を露にしていた。上気し、汗にまみれるその姿は美しい。
「はあっ!」
小振りな身体の彼女にしては大きめの長剣を振るっている。バランスは悪いが、これは彼女の父の形見だと言う。自分に似合う剣を使うことが剣士に取って重要だが、彼女はかたくなにこの剣にこだわっていた。剣士として生きる限り、この剣を持ち続ける、と……
彼女はすでに数人を斬り捨てていたが、それにもまして包囲の壁の厚みは増している。これは相手がガイアの少女であるセレナを狙っているとの暗示であった。
ならば、俄然ミナの責任は大きくなる。彼女は親友セレナのために、フェンリルに残ったアーディルのために、鮮やかな剣を振るった。
「あっ! ミナあぶないっ!」
一瞬の隙を付いてミナの背後から兵士が迫っていた。セレナの悲鳴にも似た声がミナにも届く。彼女は即座に反応しようと思ったが、思ったよりも反応が遅い。疲れだ。が、その瞬間にその兵士は炎に包まれた。兵士は驚いてあとずさる。
ミナが愕然とするとセレナは胸の辺りに印を結び、必死に呪文を唱えていた。そのセレナが右手振りかざし、彼女の後ろから彼女を捕らえようとしていた数人の兵士に向ける。その彼女の腕の延長上に激しい炎が起こって、兵士達を狼狽させた。
「セレナっ! やっるうぅ!」
ミナが口笛を吹いて瞳を輝かせた。
包囲の密度が高いのがセレナとルシアを追う組だった。これは明らかにその二人を狙っていると言うことだった。ガイアの少女と逃亡中のアムル公国の公女。確保する人的価値は高い。
そのルシアを守りながら走るのがガルドであった。恵まれた体躯を持つ騎士はこの逃亡戦はかえって不利となった。彼はミナやラルフと違い、フットワークを得意とする剣士ではない。故に一所の戦いならば得意なのだが、相手を巻きながら移動しながらの戦闘は不得手であった。
ガルドとルシアの逃げ足よりも、包囲の動きの方がやや速い。彼らは徐々に追いつめられて行った。
「くっ! どうすれば?」
ガルドは焦燥を覚えていた。が、焦りは誤断を招く。彼はそれを知っていたが、窮地に立たされている人間には焦りを完全に取り払えることは不可能に等しい。暗殺者と呼ばれる人間はどんな状況であっても冷静を保てると言うが、彼らはすでに精神を機械化された人間なのだ。どんな場面にも臆さない。強いては我が命をも省みない。それを人間と呼べるかどうか。
しかし、ガルドは一流の騎士であった。が、しかし彼の存在する領域は「人間」を超越していない。人間である限り、彼にも失敗はある。有能であれ、万能たりえぬのだ。
「ガルド!」
ルシアが悲鳴を上げていた。彼女らは完全に包囲されていた。袋小路に入ってしまっていたのである。その出口には十重十二重の包囲があった。
ガルドは絶望した。彼が如何に勇武を誇ろうとも、これを脱出することは不可能だった。そして、自らの愚かさを呪った。ルシアを護りきれなかったことを恥じた。そして、この敵中に突撃し、せめてルシアの逃げ道を作ろうと試みた。が、
「ガルド! 降伏しましょう! 生きてこそ、明日があるわ!」
ルシアの声だった。燐とした彼女の声はガルドを打ち抜いた。ガルドは申し訳なさそうな顔をルシアに向けた。そこにはルシアの微笑みがあった。すべてを許容するそれがあった……
逆に包囲の密度が小さかったのがラルフとファティマを追う兵士達だった。さらにラルフは脱出の戦闘の経験が豊富だった。彼は元暗殺者である。
と、ラルフが急に立ち止まる。相手を撒くためには動き続けるのが最良であるはずなのに。
「ラルフさん?」
ファティマが怪訝そうな顔でラルフを見上げた。
「ファティマ。悪いけどここからは独りで逃げてくれないか? 私は……残った人達を少しでも助けて来る。アーディルやジーク、彼らはきっとこの時代に必要な人間なのかも知れない。ただ、これは私の勘でしかないけど」
「ラルフさん……」
ファティマが不安そうな顔でラルフを見つめた。ラルフは気まずく思ったのか、視線を外してしまう。
「わかりました、私は大丈夫です。そのかわり、アーディルさん達を助けだして下さいね」
ファティマは不安そうな瞳の表面に強がりの光を乗せてラルフを見つめた。脆弱な光だ。ラルフはそう感じた。が、脆弱かつ強靭に見えるのはファティマが硬い意志を持っているからだろう。ラルフの心は複雑に絡んだ。
「ファティマ、おまえの才能を信じるよ」
ラルフはそういい残すと、ファティマの前から消えた。
ファティマは前を向いた。いつも助けてくれた彼はもういない。ここからは、独りで脱出せねばならない。ファティマは生唾を飲み込み、懐から祝詞を刻んだ呪符をとりだした。
セレナ達は疾走した。脱出に一番必要な力が速さであることは彼女達も知っている。もたもたすれば数で劣る彼女らは囲まれてつぶされるだけである。
ミナが先頭になってその巧みな剣術によって血路を切り開いて行く。十八歳の少女とは言え、細腕の筋肉はしなやかで剣の裁きは大の大人も顔負けである。
後背はセレナが請け負い、閃光状の炎を放っては追撃の手を怯ませている。魔法とは一般に希有なる存在なので、訓練を受けた兵士達とは言え、魔法を相手取るのには苦戦を強いられる。セレナはミナの後背の憂いを取り除くことによって、ミナの血路を開く速度を早めた。
が、魔法は極度に精神と体力を消耗する。魔法の源は魔力。魔力は生命の源、魂の直接の力であるからだ。生命エネルギーがすり減れば、無論体力も衰える。
セレナは山育ちだったので脚力、体力ともに一般の少女から群を抜いていたが、やはり逃亡戦と連続した魔法の使用で徐々に動きが鈍り始めていた。
それによって彼女らを包む包囲はその密度を増し、二人にかかる負担は更に苛烈になっていた。
「セレナ! もうちょいだから。がんばって!」
ミナが励ましながら剣を振るった。彼女も血路を開くだけでなく、セレナの護衛にも回っている。それだけセレナの消耗は激しい。ミナも相当疲労している。
疲労は判断をにぶらせ、身体から俊敏さを奪う。つまり、決定的な隙が生じるのだ。
この時がまさにそうである。
「ミナッ!」
セレナの金切り声がミナの耳にも入った。彼女はいましがた一人の兵士を切り捨てたところであった。が、その背後にもう一人の兵士が迫っていた。普段の彼女ならば返す刀で斬り伏せていただろうが、疲労が剣を数倍に重くしていた。
反応の遅れたミナの肩に兵士の剣が突き刺さった。その剣はそのまま袈裟に斬りさいていく。
「うっ……あっ!」
一瞬遅れて熱い衝撃が背中にはしり、ミナは低い声でうめきを上げる。さらに数瞬遅れて鮮血が彼女の背中を染めた。出血の量からは軽傷だとは想像できない。セレナは絶望に打ち砕かれた。
「ミナーッ!」
悲鳴のような絶叫がこだまする。それと同時にセレナは印を結んでミナを斬った兵士に向けていた。その刹那に業火が兵士を包み、彼はよろめきながら後方へ下がって行った。
よろめいたミナがセレナに倒れ込んでくる。セレナはそれを慌てて受け止めたが、ミナの後背はおびただしい流血にぬらぬらと光を放っていた。
「ごめん、セレナ……もう……駄目かも……」
ミナの声はいつもの美声を失っていて、低く枯れ果てていた。焦茶の瞳は常の強い光を失っている。息が荒く、喉から空気が漏れるような音が聞こえた。
「ミナッ! しっかりしてっ!」
セレナは涙ながらに叫んだ。悲痛な叫びは皮肉にも彼女らを追う兵士達をよびよせる。動けなくなった二人を挟み込むように兵士達が集結する。ここは狭い路地だ。逃げ場など無い。否、セレナは逃げる気力も失せて、ただ鮮血にまみれるミナを抱いていた。
徐々に包囲が狭くなる。セレナは泣いている。ミナの瞳は虚ろだ。
その刹那。セレナの長い緑の髪が風もなくざわめいた。突如、彼女の身体から赤い半透明のオーラが放たれる。セレナはミナを抱いて立ち上がると兵士達をにらみ付けた。ただし、彼女の瞳はいつもの美しいライラックではなく、燃え盛るヴァーミリオンの輝きだった。紅の瞳が輝きを増す。と、辺りは熱くない緑の炎に包まれた。そう、セレナがハインリッヒに捕らわれたときのガイアの力だ。兵士達に恐慌が訪れた。
次の瞬間、セレナから強烈な衝撃波が全包囲に渡って放たれた。辺りの兵士達が木の葉のように飛ばされる。セレナに一番近かった二人はそのまま絶命していた。
セレナは空を見た。その途端にセレナの身体は宙に浮き、上空を漂う。
「セレ……ナ?」
ミナがもうろうとした意識の中でセレナをみた。彼女が見たものはセレナの顔をしたセレナではなかった。そう彼女は、感じたのだ。
セレナ達は赤い光球に包まれて、晩秋の空を閃光となって駆けた。
ファティマは実に巧妙に逃げていた。
彼女に戦闘の経験はない。しかし、知性に長け、機転の効く彼女は実に効率的に自らの使える技術を投入していた。
彼女は呪術師である。「祝詞」と呼ばれる魔力を文字化したものを操れるのだ。彼女はそれを紙製の札に刻んで使っていた。そのほとんどが結界や防御壁用ののものである。
それを彼女は逃げながら壁に張り付けたりして、追い手の動きを封じたりした。結界を張られると、そこには不可視の壁ができる。そのため、追い手は結界の向こう側にいるファティマを追うことが出来ないのだ。
防御用の結界といえ、触れば衝撃が来る。兵士達はたった一人の少女に悪戦苦闘していた。逆に手加減をしていたのはファティマの方である。呪術の修行の時に野兎を殺してしまって以来、彼女は呪術で何者も傷つけまいとしてきた。このときの彼女もそうだった。呪符に込める魔力を最小限に抑えていたのである。それを高まいなる精神とみるか、暗愚なる精神とみるかは人それぞれの価値観によるが……
そんな彼女の効率的な逃亡戦と、包囲する兵士の密度の薄さから、ファティマは意外なほど簡単に清閑たる場所へと逃げ込めた。
静まり返った路地に駆け込み、乱れた息を整える。体力面では普通の少女となんら変わりのない彼女である。長く走れば息も上がるし、駆ける速さも落ちる。
その路地でファティマは胸を抑えて息を整えていると、急に背後に気配を感じた。驚いたファティマは冷たい汗を全身から噴出してファティマは振り向く。
「なーにやってんのよ。騒々しいと思って野次馬しにきたら……やっぱり、フェンリルの事?」
「シ、シレーヌさん!」
ファティマは表情を驚愕から安堵に変えて、拍子抜けた声で気配の主の名を呼んだ。
シレーヌは放浪の女剣士である。旅をしては拠った都市で仕事を見つけては、また流れる。そんな暮しをしている。ファティマはラルフと暮らしていたノープルの町でシレーヌと出会い、ルシア救出に彼女も一役買っている。
「で、追われているの? ま、ともかく私の宿にきなさい。かくまってあげるから。あれ? ラルフがいないね?」
「ラルフさんは他の人達をたすけるために、フェンリルに残ってます」
ファティマは喧騒が風に乗って流れて来るのを聞き、表情を不安そうに曇らせた。
「そう……大丈夫よ、あのラルフがやられるくらいなら、いまごろファティマはとっくにつかまってるんじゃなくて?」
シレーヌはファティマを安心させるために、おどけた口調で彼女の髪を撫でた。
「ちっ! 後から後からきやがる!」
喉に引っかかった唾液を吐き出しながらアーディルが叫んだ。
乱戦は未だに続いていたが、確実にフェンリルの者達は捕らわれたり、切られたりして数が断然と減っていた。
ジーク、アーディルなどはその勇武でかなりの数を斬っていたが、個人の活躍で戦局全体をひっくり返すには力不足だった。否、個人を持って全体を撃ち破るなど不可能である。
「アーディル!」
突如、頭上から声がした。驚いてアーディルはその方向を見る。
吹抜けになっているロビーの二階にはラルフの姿があった。
「来い、君はここで死ぬような人間じゃない。待っている人がいるだろう!?」
ラルフの叫びがアーディルを貫いた。
「待っている者……セレナか?」
アーディルはかるく過去を振り返ってつぶやいた。意外に近いものだ。セレナと出会ってからまだ三カ月とない。しかし、彼の思考の中で彼女の占める割合は、大きいものとなっていた。それは彼の妹、ティナのかたせみではなく、セレナ自身が存在していた。
「よしっ!」
アーディルは切りかかってきた兵士を袈裟がけに斬ると、懐からロープを取り出して頭上の天井から垂れ下がる飾り物へと投げつけた。それはさきに分銅が付いていて、絡め取るように飾り物から垂れ下がった。
そこにアーディルは自慢の跳躍力をもって飛び上がり、ロープの中腹に捕まる。同時にそれより下を剣で切り落として自らは体重をかけてロープを振った。
振子の力を利用したアーディルはもう一つの同じ様なロープをラルフにめがけて放つ。ラルフはそれをきれいに受け取って、思いきり引いた。ロープの張力はアーディルを引き寄せ、彼は見事にラルフの側にたどり着いた。
「やるね。まるで曲芸を見ているようだ」
「曲芸ね。仲間を放って逃げるのは気が引けるな」
ラルフの率直な意見にアーディルは苦笑いで答えた。
「ルシアたちが捕まったようだ。セレナ達はまだわからないけどね。で、ルシアたちを助けるために、一役買って欲しいんだ。その身のこなしを買ってね」
「策士だな。ここで俺とあんたが逃げ出せれば、他の奴は捕まってもどうとでもなるってわけか。あんたにしては自信過剰気味の判断だ」
「慣れてないことはあまりするものじゃないな」
アーディルの皮肉をラルフは苦笑いでかわした。
が、アーディルとラルフの能力を考えれば、ただ単純に逃げたり、戦うよりは効率がよい。アーディルは隠密行動のプロであったし、ラルフとて世界随一の暗殺者として馴らした青年である。もし、ルシアなどが捕らわれたところで、大した問題ではないと思えた。
ミナを抱いたセレナは数瞬をヴァルハナ市の上空を飛び回ると、町外れに近い路地の奥にある小さな広場に降り立った。
ミナはその一部始終を驚愕した表情で見、セレナの豹変ぶりに驚愕していた。彼女はガイアの一族の存在を知っていたが、それが何を意味するのか、どんな能力があるのかは知らなかったからだ。
地上に降りたセレナは徐々に紅い衣を失って行き、瞳に燃えるヴァーミリオンも見事な時間的グラディションで元のライラック色へと戻って行った。
その劇的な変化にミナは背中の傷を忘れていたが、セレナの名を呼ぼうとしたときにその激痛が彼女を襲った。
「ぐうっ!」
そのうめきにセレナも我に帰った。
「ミナ! 大丈夫? ここは……?」
「セレナ……一体……あなた……何、者?」
ミナが喘ぎながらセレナに尋ねた。気が付けば出血がおびただしく、視界は霞み、身体は鉛のように重い。
「血液が流れ出るのだから、軽くなってもいいものなのに」
元気な彼女なら、そう皮肉を言ったものだろう。だが、このときは唇を動かすことですら、億劫に思えた。
「え? 何? それより手当しなきゃ!」
セレナは我も忘れて治癒魔法の呪文の詠唱に入った。魔法が作動すると同時にミナは淡い柔らかな光に包まれているような安楽を覚えた。そして、自然に意識が遠のいて行く。それが魔法の効果なのか、命が燃えつきようとしているのか、彼女には分からない。
「ミナ! 死んじゃ、死んじゃ駄目だからね!」
セレナの声が彼女の耳には遠く霞んでいた。
シレーヌは二人部屋を一人で借りていた。ヴァルハナ市の中心市街からは離れた安宿である。部屋は質素ながらも清潔に保たれていた。長年流れ者をやっていると宿の選び方もうまくなるのだった。
「シレーヌさん、他の人達を捜してみます」
「え? そんなコト出来るの?」
「ええ、でも魔力の強いセレナぐらいしか、察知できませんけど」
ファティマはシレーヌに断わりを入れると、腰に付けた薬草袋の一つから、なにがしかの葉肉をつぶした染料を取り出して、それで床に幾何学的な文様を描いた。何かの薬草の香がした。が、シレーヌには薬草の知識は乏しい。
ファティマは文様の中央に座ると、座禅を組んで、それぞれ四つの呪符を前後左右の床に張り付けた。
「少しはなれてて下さい。危険ですから」
ファティマが注意を促すと、シレーヌは慌てて部屋の隅へ退いた。
シレーヌも十四の歳に両親の不幸があり、こういった流れ者の生活を八年近く続けている。二十三の女性にしては肝が座っているが、さすがに魔法となると怖さが先立つ。それは人が神や霊等の不可視のものを恐れる心境に近い。
ファティマはシレーヌが退いたことを確認すると、瞳を閉じて精神を丹田に集中させた。じっくりと気を練り、それを全身に潤滑させて行く。
風もなくやわらかなウェーブを描くファティマの髪が搖れる。動きは大きくないが、黒い霞のようだ。
それを見てシレーヌは生唾を呑んだ。彼女にはファティマから放たれる膨大な「気」の奔流が見えていた。それは呪術の心得のないシレーヌにも肌で感じられる。
「ひょっとして、このコ、凄い才能を秘めているんじゃ……」
シレーヌはつぶやこうとしたが、喉の渇きが悲鳴をあげて、それは声にならなかった。
その刹那に、ファティマは大きな瞳を開いた。同時に気の奔流も収まる。
「見つけました。ここからすぐです。でも、ひどく弱々しい」
「おちついて。この近くね? すぐ行きましょ。でも、ファティマはフードか何かで顔を隠した方がいい。見つかると厄介だし」
「はい」
刹那であったのか、長いときであったのか、ミナには知る事が出来なかった。長いか短いか判断は付かないが意識を失っていたらしい。遠くなった耳でセレナの呪文の詠唱が聞こえる。血液が多量に流れたおかげで、身体中の器官の能力が衰えているのだ。
「セ、レナ……だめよ……それ以上魔法、つかっちゃ……セレナ……が死んじゃ……う……」
ミナは気丈に言ったつもりだった。が、やはり、舌がうまく回らずに弱々しい声となってしまった。
「ごめん、ね……ちゃんと、ちゃんと魔法を修行、しとけば、すぐ、なおして、あげれる、のに」
セレナは蒼白になり、息も絶え絶えになっていた。脱出の時から魔法を使いっぱなしなのである。無理もなかった。魔法は決して無尽蔵なエネルギーではなく、彼女の体力・精神力を消費してさまざまな効果をもたらす。これ以上ミナの治療を続ければ確実に彼女は体内の生命力を使いはたし死にいたる。しかし、セレナにミナを見捨てることはできなかった。
「あっ?」
誰も来るはずの無い古びた路地に人影が立っていた。二人である。逆光で顔が確認できない。セレナは愕然とした。魔法の使いすぎで意識がもうろうとして判断が正確にできづらくなっていた。
セレナはとにかく剣を抜いた。魔法など、使う余裕などあるはずはなかった。未熟な剣で自らとミナを護れるはずが無かろうにも。
「セレナッ?」
その人影は彼女の名を呼んだ。セレナにはその声がひどく懐かしく聞こえた。その声を聞き始めたのは、つい最近の事であるのに。
その人影はセレナの魔力を追ったファティマ達であったのだ。それをようやく確認したセレナから緊張が一気に崩れ落ちる。それと同時に精神の崩壊が急速に行われた。がくりと力を失ったセレナは気を失って倒れ込もうとする。
「セレナ! しっかり!」
ファティマは慌ててセレナを抱き止め、優しく抱擁した。
「そっか、ミナが怪我したんだ……それで限界以上の魔法を」
セレナが護ろうとしたものは横たわるミナだった。彼女は血の気の失せた冷たい表情で、意識がなかった。ただ、セレナの捨身の努力の成果か、傷口はかなり癒えていて、出血は収まっていた。
「大丈夫なの、二人とも?」
「え? ええ……まあ、セレナの方は精神疲労で意識を失っただけです。ミナの方は……何とも言えません。セレナのおかげでなんとか一命は取り留めていますが、なにしろ血の量が足りませんから」
シレーヌが心配そうに尋ねると、ファティマは注意深い表情で答えた。だが、ファティマはセレナが護ろうとした意志を受け継いで、ミナの命を助ける情熱に燃えていた。
翌朝、セレナの意識は戻った。もともと魔力を過剰に放出しただけであったので、若いセレナの回復力があれば、大した問題ではなかったのだ。
ただし、頭の芯がズキズキと痛み嘔吐感が耐えなかった。その症状はまるで二日酔いだったが、飲酒の経験のない彼女には二日酔いの苦しみなど知らなかった。
一方、ミナだがまだ冷たいままで寝かされていた。ファティマの呪符でミナの回復力は倍増していたが、それでもまだ生死の境をさまよっている状態と言えた。
そして日も高くなると、外が騒がしくなってきた。
「おい、中央広場で何かあるらしいぜ、衛兵が人を集めてやがる」
「なにしろ、アムル公国の公女捕まったらしいぞ」
そんな話を聞いたファティマは焦燥に駆られた。アムル公国公女ルシアは彼女の姉である。血縁から行けば、ファティマもアムル公国の公女である。ただし彼女にはその印象は薄い。ファティマは幼い間にアムル公国を追放にあっているからだ。しかし、ルシアは彼女にとって姉であり、そしてこの世に残された唯一の血縁であった。
「落ち着きなさいよ。絶対裏があるに決まってるでしょ」
落ち着かず、人の流れに混じって街頭に飛び出そうかと言うファティマをシレーヌはたしなめた。
「でも、姉さんが捕まったなら……私、どうすればいいんです?」
ファティマは狼狽してシレーヌを見た。やはり凄絶な呪術を使えようとも彼女は十六の少女なのだ。
「分かった。私も一緒に行ってあげる。ただし、セレナとファティマはフードを深く被ってね。正体がバレると事よ」
シレーヌは慎重に街の様子を探ると、指示を下した。ファティマはミナにもう一度回復の呪符を張り替えると、フードの用意を始めた。
普段は人々の往来でにぎわうヴァルハナ市の中央公園のさらに中央にある広場の一角の高台に、ルシアはいた。いた、と言う表現には語弊がある。両腕を後ろで縛られて、大きな丸太にくくり付けられている。
肌は常の白さより更に白く、青白い不吉な輝きを持っていた。瞳は固く閉ざされて、意識が無いことがはっきりしていた。
その周りにざわめく人の波が押し寄せ、その中にセレナ達も混濁して流れ着いていた。
その広場にたどり着いたとき、ファティマは一瞬、呼吸をするのを忘れてしまった。ルシアの姿を見たからだ。彼女の顔からはまるで生気が感じられなかったからだ。ファティマはその何分の一か顔を青ざめて実姉を見上げていた。
「姉さん……」
ファティマは苦しげにつぶやいた。
ルシアは拷問を受けたのだろう。外傷は確認できなかったが、それがファティマには分かった。ルシアの活力はひどく失われていた。
「ファティマ……落ち着いてよ」
「わかってます」
シレーヌがファティマの気持ちを察して忠告した。もし、ファティマが自制心の弱い者なら、この場でルシアの元に駆け出したかも知れない。が、彼女は忍耐力、状況分析力に長けた少女であった。
と、若い貴族らしき男が壇上に上がって、ルシアのとなりに立った。ケッツァー・オブ・ドゥルジ伯である。彼は歪んだ笑みを浮かべると、演説を始めた。
「ここにおわすのは故アムル公の長女ルシア公女であられる。が、この状況を見ておわかりのように、彼女はカランダ城を無断で逃亡した。これは明らかに反逆罪である。処刑は免れぬであろう」
その演説を聞いたファティマは豊かな髪が小刻みに振るえたような気がした。戦慄が背筋を悪寒となって嘗め上げて行く。
「だが、私はそれが反乱分子フェンリルに唆されたことであると信じたい。そこで我々はフェンリルのアジトを検挙した。……しかし、首謀者は見つからぬ。が、私は一つの情報を得ている。フェンリルを操っていたのは、伝説に語られるガイアの一族だと言うことを」
セレナはそれを聞いて愕然とした。
「その者はまだ捕らえておらぬ。その者は三日以内に出頭せよ。出頭せぬ場合にはやむを得ず、ルシア公女を処刑する」
セレナは愕然と、ドゥルジ伯の演説を聞いていた。フェンリルに居たガイアの一族は彼女の知る限り、彼女自身一人である。しかし、彼女はフェンリルに護られていた一人でしかなく、フェンリルを操っていたことなど無い。
「また、ガイアの者は緑の髪をしている。捕らえたものには恩賞を与えよう」
ドゥルジ伯は皮肉っぽい笑みを端正な顔に浮かべた。それで演説は終わりであったらしい。彼は壇上をさり、それと同時に集まった人々も徐々に散り始めていた。
「なかなかの策士ね。ルシアさんを処刑すると脅しておいて、ガイアの一族であるセレナを釣ろうってわけか……」
シレーヌは忌々しそうに言った。女剣士と言うためか、剛胆な性格のためか、策士という人種は好きになれない彼女である。
「ファティマ……私、どうすれば……」
セレナはファティマを見た。助けを乞うような瞳を向けて。
「セレナ。絶対、出てっちゃだめだからね。大丈夫。姉さんはきっとラルフさんが助けてくれる」
「ずいぶん勝手なことを言ってくれるな」
木陰から広場を見つめていたのはアーディルであった。かなりの距離をおいていたが、視力、聴力ともに抜群の力を持つ彼にはルシアの姿ははっきりと捕らえている。
「しかし、あのドゥルジ伯の目的はルシアではなく、セレナみたいだな」
ラルフもその隣にいて、率直な声を上げた。
「ま、ああ言う奴は言ったことは実行するからな、ぼんやりしていると、本当に処刑しかねない。人のいいセレナものこのこ出て行くかも知れないしな。ま、ここは俺に任せてくれ。こういうのは得意だからな」
アーディルは不敵に微笑むと、悪巧みを思い付いた少年の表情で片目を閉じてみせた。
静寂たる夜。この時代、人為が生み出す光エネルギーは極脆弱で、月の蒼さにも勝つことはできない。だから、人は夜の闇の中で眠るのだ。暗黒の元で人は活動は出来ぬ。それが一般論である。
が、それを覆すものもいる。闇に躍動し、陰影を渡り歩くことの出来るものは魔の者だけではない。
ヴァルハナ市の中央からやや北よりの位置にヴァルハナ市を治める大守の城がある。それは三日月に照らされて、白亜の城壁は淡い青に包まれていた。
その壁に影が走る。それは闇の中でさほどのコントラストではない。よほど注意深く無ければ見過ごしてしまうだろう。
その影は二つ。アーディルと、ラルフだった。二人は短剣を器用に使い、壁をよじ登っていく。花崗岩を主な原料とした城壁は、風雨にさらされて表面が脆くなっている。剣で岩と岩の繋ぎ目を突き立てれば刺さる。
そうして、彼らは三階の窓から気配を殺して忍び込んだ。
「しかし、大胆だな。ルシアが捕らえられたのが昨日……助けだそうとするのが、今日……」
「だからいいのさ。奴らだって油断している。それにこの城は、偵察に何度か来ている。見取図は頭の中に入っているさ。警備の位置なんかもね」
闇の中でラルフが小さくつぶやくと、アーディルは不敵に笑って歩き始めた。造作もない歩き方に見えるが、足音がしない。隠密、偵察等に優れた能力を発揮する彼には、気配を外に出さない特殊な訓練を受けている。それはラルフも同じだった。彼も暗殺の際に、「敵に気付かれない」は最も重要なことだったのである。
二人はそのまま廊下を歩き、ルシアの捕らわれている部屋を捜した。この辺りは客間である。ルシアほどの高位の身分の者となると、捕らわれの身となったとしても、それなりの待遇は処すはずだった。
いくつかある部屋の中からルシアの部屋を捜すことはたやすい。警備されている部屋がそれである。
二人はそれを見つけた。警備は二人である。屈強な兵士と夜目にもよくわかった。が、闇の中ではアーディルとラルフ、この二人に勝るものはいない。
二人は息を合わせると、二人の兵士を急襲した。闇から音もなく現れ、突如眼前に迫る。それと同時に拳を溝落ちに的確に入れていた。無論、開いた手で口を塞いでいる。叫びを上げられてはたまったものではない。
兵士はどうと崩れた。アーディルが小さくガッツポーズをとって、彼の青いバンダナから針金を取り出した。鍵抜き用の奇妙に曲がった物である。
「鍵は開いてる様だけど?」
「不用心だなあ……ま、ツイてるけど」
アーディルは拍子抜けして苦笑いをした。
二人は慎重に部屋へ入った。部屋の中にも兵士がいるかも知れない。油断は禁物であるとはよく言ったものだ。が、部屋の中はがらんとして誰もいなかった。ただ、ベットと僅かな家具や調度品があるだけだった。
が、ベットには何よりも勝る調度品があった。神が女性に与えた芸術とはこのことだろう。美しいルシアはそこで寝息を立てていた。
「ルシア……」
ラルフは耳元で彼女名をささやき、肩を揺らした。
「う……ん」
すこし肩を震わせながら、ルシアの瞳が開く。やがてそれは焦点を捕らえ、ラルフの顔を映し出した。
「ラルフ、来てくれたのね?」
「よばいじゃありませんけど、ね」
ラルフは小さく微笑んだ。それにつられてルシアもくすりと笑みをこぼす。夜陰に紛れても彼女の憔悴は痛々しかったが、気丈さが失われていないことにラルフは安心していた。精神的に彼女はまだ屈していない。
「ガルドさんは?」
アーディルが尋ねた。ルシアが捕まっていると言うことは、ガルドも捕まっている可能性が高い。
「多分地下の牢屋だと思う。フェンリルの捕まった人達も……多分」
「わかった……ラルフさん、あなたはルシアさんを連れて逃げてくれ。俺は地下へ行ってガルドさん達を助けて来る」
アーディルはそういいながら、駆け出した。
「一人で大丈夫か?」
「俺を誰だと思っている?」
アーディルは一瞬振り返って、不敵に笑った。が、次の瞬間には彼は駆け出し、城内の闇の深淵へと消えて行った。
影が揺らめく。それは一瞬だった。目の前に人影が現れたと同時に意識が飛んだ。闇へ落ちる感覚はむしろ快感でもある。
「く、くせも……」
もう一人がさけびを上げようとした。が、それもままならなかった。手で口を抑えられてその瞬間後に後頭部をしたたかに壁に打ち付けられた。わずかの抵抗も出来ずに気を失う。
「ふぅ」
アーディルは息を抜いた。地下牢の入口を取り締まっていた兵士の二人を瞬時に気絶させたのである。二人を相手に戦うのは彼にとって取るに足らないことであるが、他の兵士達に騒ぎを知られることが一番厄介だった。
ひとまず敵に気付かれる事は回避できた。彼は気絶した兵士達の周りを調べて、牢の鍵束を手に入れると、奥へと侵入した。
地下牢は冷たい空気が立ちこめている。それは何処の地下牢でも同じだろう。ただ、乾いた季節であるのが幸いなのかも知れない。湿気が多ければ石造りの地下牢はたらなく湿る。
アーディルは地下牢を慎重に歩き、中の気配を探った。一段と大きな牢に多数の気配を感じる。皆、眠っているのか……
「……ジーク」
アーディルは掠れた声でつぶやいた。彼の悪友ジークフリートの通称だ。
「アーディルだな? 待ちわびたぜ」
牢から声が帰ってきた。ジークの声だ。アーディルは安息を一つついて、鍵を調べて、開けた。ぞろぞろとフェンリルの団員たちが流れて来る。昨日、捕まった者達ばかりだ。十数人になる。
「これだけか?」
「ああ……たぶんな。あと、ガルドがもう少しむこうにいる」
「後は、逃げたか、死んだか……か」
アーディルは小さくつぶやくと、気配を殺して走り、ガルドを牢から解放した。
「ヴァルハナのフェンリルはもう終わりだな。ここから逃げ出せたら、後は個人の裁量に任せる。解散だ」
ジークはそっけなく言った。彼もフェンリルの幹部の一人だったが、実際には寄り所を求めてフェンリルに寄っていただけでしかなかった。愛着も、別惜もほとんど無かった。フェンリルの理念も彼にはどうでもいいことだった。
「脱出するときに俺とジークで奴らの目を引き付ける。ガルドさんは逃げる方の指揮を頼む」
アーディルが小声で指示を出した。一同がうなずいて行動に移る。
急に城内が騒がしくなった。その時にはもうラルフ達は来た道から脱出している。脱出した後の行動はすでにアーディルと打ち合わせてある。
急に喧騒に包まれたことに彼らは不安を覚えたが、アーディルの能力を信じて自身達は闇夜の中を遁走して行った。
騒ぎを起こしたのはアーディルとジークだった。
たいまつを手にいれた二人はわざと警備の目の厳しいところで見つかったのである。あちこちから兵士達がつめより、逃走する二人を追いかけて行く。が、ぬかりのないアーディルは巧妙に計算し、見事に逃げ道を残して追い手を撹乱させた。
その隙にゆうゆうとガルドに率いられたフェンリルの団員達は夜陰に紛れて城内を脱出した。
「そろそろいいんじゃねぇか?」
逃走劇には不慣れなジークが不安そうにアーディルに尋ねた。アーディルは平然としたままで、駆けながら答えた。
「そうだな、そろそろ頃合だろう」
アーディルは愛用の皮ジャケットの裏からいくつかの小さな壷を取り出した。大人の男の手ならば、片手で十分握れる大きさの素焼の壷だ。が、中には何かが詰まっていて意外に重い。
「ジーク、こいつを投げろ」
アーディルはそのいくつかをジークに渡して簡単に指示した。が、ジークには何が何だか理解できていない。そうする内にアーディルはその小さな壷を追っ手の兵士群へ投げつけた。そのコントロールは曖昧でそれらは床や壁に当たって割れた。ジークも慌てて彼にならう。やはり、それらも床や壁に当たって砕け散った。
「よしっ!」
アーディルは持っていたたいまつを壷を追う様に投げつけた。それは孤を描いて壷が落ちた場所へととんで行く。
それが地面に落ちた瞬間、ジークはアーディルが魔法を使ったのかと思った。
床や壁一面が炎で包まれたのだ。数名、炎に巻き込まれた兵士が悲鳴を挙げて恐慌に走っている。それほど強烈な炎が瞬時に発生したのだ。
「よし、逃げるぞ!」
アーディルがにやりと笑って走りだした。
「いったい何をしたんだ? あの壷に何かが入っていたのか?」
「火薬さ。正確には椰子の油と火薬の混合物だな。持続性はないが、可燃性はめちゃくちゃ高い。魔法のまねごとみたいなもんだけどな」
火薬の存在はこの時代、あまり普及していない。火薬自体がまだ発展途上なのだ。火薬の存在を知らぬ者も多い。
原始火薬は硫黄等を中心に天然鉱石や木炭を主成分とするもので、発火性が高くとも、爆発には至らない。しかもすぐ燃え尽きてしまう。あまり実用性の無いものだった。南方のアステ・ウォールでは大きな音を出す技術が開発されたが、アーディルはまだそれを知らない。
「ともかく、やるじゃないか。見直したぜ」
「ふん、俺を誰だと思っている? アーディル様だぜ!」
若い青年は小生意気な少年の笑みを浮かべて答えた。
ヴァルハナ市の城内で起こったことを知らずにセレナ達はその夜を眠りで過ごした。無論、アーディル達がそんな活躍を見せたことなど知る由もない。彼らの消息でさえ、不明なままなのだ。
セレナは差し込む朝日にうなりながら目を覚ました。朝は苦手な方ではない。一度ベットの上で身体を一捻りして身体を起こすのが彼女の無意識な習慣だった。
それが終わる刹那に、彼女は誰かに視られている感触がした。
視線に驚いて身を起こすと、やさしげな微笑みがあった。
「ミ、ミナ!」
セレナは表情を驚愕から歓喜に劇的に変化させた。さらに歓喜の表情はぐしゃぐしゃに崩れ、こぼれ落ちた涙が朝日を受けてきらきらと輝いていた。ミナが小さく微笑んでいる。
「ミナァッ!」
セレナは思わずミナに抱きついていた。親友の生還に何も戸惑うことはなかった。
「いた、いたたた! セレナ、勘弁してよ。まだ傷が治ってないっ!」
ミナは苦笑しながら、苦しげにうめいた。傷口は塞がったとは言え、それは表面上だけの事である。皮膚の裏にはまだ回復し切れていない組織が激痛を神経に伝える。
「でも、アリガト、セレナ。あなたがいなかったら、もう死んでたかもね」
「ううん。感謝ならファティマにして。私、何も役に立てなかったもの」
「でも知ってるよ。セレナが必死に治療してくれたの。微かだけど、意識があったもの……うれしかった」
ミナはいつもの陽気さを取り去った素直な微笑みを向けていた。セレナはまだ涙を止めきれずにいた。朝日の光を受けた絹の頬を伝う滴は至高の宝石のごとくである。
「でも……よかった……よかった……」
セレナは感涙に言葉を詰まらせていた。この感動に言葉はいらないと思った。訳も何もかもなくて、それでもミナが死なずにこうして話せることが嬉しかった。
ファティマの治療術とミナの人並はずれた回復力のせいか、ミナの傷口は目に見えて回復して行った。
シレーヌが街に出て、城に何か騒動があったという情報を得ることが出来た。セレナ達はそれをアーディル達の仕業であると確信し、街を出ることにした。
ミナの怪我の具合いを見ると、少し不安であったが、行動は早い方がいいと判断した。ミナもそれに賛成だった。
翌朝、四人は身分を隠してヴァルハナ市を出発し、西へと向かった。ヴァルハナ市からカランダ市へ向かうカランダ街道を西へ向かい、一日を歩いた。ミナの傷をいたわっての事だったので、ペースはさほど速くはなかったが、初めの宿場町である、カズナの街に付いていた。人口は一千ちょっとの街でヴァルハナ市の衛星都市の一つである。辺り一面は農耕地で、ヴァルハナ市の消費に応える生産都市である。
その街で一軒の大きな宿屋でセレナ達は意外に早くアーディル達と出会うことが出来た。
「アーディル! よかった! 無事だったのね?」
「おまえたちこそ、よく無事で」
セレナは酒場でアーディルの姿を見ると、無意識の内に彼の身体に抱きついていた。
アーディルもそれを自然に受け止めていた。
「やれやれ……まいったな」
その空気が恋人のそれであったために、ミナは小さくため息を付いた。彼女もまた、アーディルに恋心を抱く少女であったのだ。しかし、この光景を目の当たりにして、傷つくよりも先に諦めがきてしまうのが考え方によっては幸福だった。
「ラルフさん……」
ファティマはラルフの姿を見つけてその名を呼んだ。僅かに瞳が濡れているのは、気のせいではない。
「悪かったな。一人にして。でも、良かった」
ラルフは罰の悪そうな表情をして頭をかいた。ぎこちない優しさをファティマは明敏に感じていた。それを見ていたルシアは小さくため息を付いて、不器用な二人を見ていた。姉の存在も恋心にゃ、かなわない……か。つぶやきは心の中で、ルシアは軽く微笑んで、慣れぬ安酒をあおった。
再会の感動が止まぬままに一夜は過ぎた。
眠りから冷めた彼らにはすでに今日の行動を決定しなければならなかった。なにしろ、彼らはいまやお尋ね者となっているのである。さほど悠長にはできない。とは言え、マス・メディアの発達していないこの時代では指名手配されたと言っても、普通の旅には支障がなかった。ただ、関所などは身元ごまかさせねばならなかったが。
「で、これからはどうするんだ?」
何処か悠長な声で尋ねたのはラルフだった。冷静なのか、緊張感と言うものが精神世界から欠如しているのか、妙に落ち着いている。
「そうだな。セレナがルドア神殿へ行くって言ってるから、そこへ行ってみるか。カランダ経由でアスブルクへ向かうことになるな」
アーディルが簡単に予定を立てた。
「カランダへは戻りたくないわ」
反感の声を上げたのはルシアだった。もともとカランダ城内に三年以上も軟禁の状態に置かれてながかった彼女である。そしてカランダにはラウエルが居て、論理を越えて生理的に彼に近付くことは彼女に取って苦痛だった。
「まあ、そうだろうね。じゃあ、私たちはここから南へ向かって、予定よりは早いが、アステ・ウォールの方へ向かおうと思う」
ラルフがルシアの意見に同意していた。
「じゃあ、ここでお別れか」
「ああ、じゃあ動くのは早い方がいい。俺達はお尋ね者だからな。縁があったらなら、また会おう」
アーディルは自嘲気味に笑った。もともと、フェンリルにいた時点でお尋ね者に近い状態ではあったし、ラルフ達とてルシアをカランダ城から「誘拐」しているのだ。さほど状況は変わっていないと言えば、変わっていない。
最後まで別れを惜しんでいたのはセレナ、ミナ、ファティマの三人の少女だった。
「ファティマ、元気でね」
「セレナも。これから寒い地方でしょ?」
「ありがとね、ファティマ。傷も十分良くなってきたのファティマのおかげだよ……また会おうね」
同世代の少女ですっかり意気投合してしまった三人は、少し瞳が潤んでいたのは気のせいではあるまい。だが、ファティマは近い将来にセレナ達を頼ることになる……
セレナ達はヴァルハナ市からカランダ市を結ぶ、カランダ王国で最も重要な街道のひとつカランダ街道を西へと進んでいた。
山脈を越えると散り始めた広葉樹の森はやがて常緑の混合林へと変わっていく。その変遷は旅するものしか味わえぬ、趣が深いものである。
そんな情緒を味わいながらセレナ達の足は軽かった。誰もが無事に再会できたことが精神に活力を注いで止まなかったのである。
数日が過ぎて、その日も森に囲まれた小さな宿場町に彼女らは宿を取った。大きな街では検問の恐れもある。それもここまでは杞憂に終わっていた。
アーディルやミナは目立つこともないし、セレナの髪はフードなどで隠すことが出来るが、どうにもジークの巨体は目立って仕方がなかった。
それでも大したトラブルは起きずに、ここまでは順調だった。
その宿場町の町外れの宿屋にその一晩の宿を取ったセレナ達はすでに眠りの深淵にいた。昼の間は距離を稼ぐために歩きずめだから、夜はその体力を回復させねばならぬ。が、セレナはその日、眼が冴えていた。
眠れぬ苛立ちに彼女はふと、ベッドを立った。
「セレナ? どうしたの?」
同室のミナが気付いて眠そうな曇った声で尋ねた。
「ううん、眠れないから星を見てこようと思って……」
「気を付けてね。変な人がいるかも」
「だいじょうぶ」
ミナらしい心配のかけ方にセレナは苦笑すると、静かに宿の裏口へと足を運んだ。
そこはすでに森の入口になっていて、闇が眼の前に迫っている。そこにあるのは漆黒の闇と、虫達の交響団の演奏である。そこはすでに森の茂りが空を覆っていて、星は覗けなかった。
セレナは森の奥へと足を運んだ。
危険だとは思わなかった。山育ちの彼女にとって、夜の森の闇も慣れ親しんだものである。よく肝試しに出かけたものだ。その時には森の小動物が自然の脅かし役になってくれる。これだけ人家に近い森では獰猛な大動物に出くわすことはない。
森の精霊が彼女を導き、獣道を進んだ彼女は人為的であろう、少し開けた広場に出た。切株がいくつかならび、きこり達の憩いの場なのだろうか、そんな雰囲気があった。そこでは空が見える。セレナはここで星を占おうと思った。
が、そらは異様に速く流れる雲が星の輝きを彼女に伝えてくれそうになかった。雲のちぎれから、時折月光と星の輝きは地上の彼女の元へ到達するが、それでは星を占うことはできない。彼女は少しため息を付いて、宿に戻ろうとした。
その刹那。風もなく森の精霊達がざわめくのが聞こえた。木の葉が激しく擦れあっているのだ。圧倒的な力が迫っている。セレナは明敏にそれを感じた。全身に緊張が走り、夜の凍えからではない震えが全身を回る。恐怖心が生理的に唾液を分泌させて、しかし、それでも喉は渇きを訴えていた。
滑るように気配が流れてきた。セレナは恐怖に支配されながらも、精神を恐慌には走らぬように自制心を自ら高めていた。油断なくその気配をにらみ付ける。何か、人知を越えたものが迫っているのか。精霊や霊魂の類ではない。
その気配は流動的に変化して実体化した。人である。
セレナは驚愕した。その異質なる人を見てだ。それがあまりに人を超越した存在であったからではなく、その人は緑の髪をしていた。そう、セレナと同質の髪だ。しかも、彼女は霊魂ではあらぬ。彼女は生きている人だった。
「ガイアの一族……いや……」
「な、何?」
その突如現れた緑の髪の女、妖艶なる衣服に包まれた彼女は嘗めるようにセレナを見つめて暗く沈んだ声でつぶやいた。
「あなたは誰っ?」
セレナは冷静さを失って、叫んでいた。生きているガイアの一族に出会ったのは、これが始めてである。動揺するのも無理もなかった。しかも、眼の前の女からは少しも敵意を感じぬが、それ以上に感情の欠如を感感じた。
「私の名はシンシア……おまえは知らぬだろうがな。私と共に来るがよい……我が妹よ」
「え? 今、今なんて……」
セレナは愕然とつぶやいた。自らの耳を信じるならば、彼女は姉になる人物なのか。だが、彼女は両親との間の一人娘として育ってきた。俄かに信じることは出来なかった。
だが、緑の髪を除いたとしても、目の前の女性はセレナ自身も疑うほど、その容姿は似通っていた。
「仲間を捨てよ。おまえは人間ではあらぬ。我らは魔族、人とは相慣れぬもの」
きわめて冷静な声。「魔族」、セレナの胸に無形の槍が貫いて行った。
「ばかな! 魔族なんて伝説上にしか現れないのよ!」
セレナは動揺しながらも必死に否定した。セレナの知る魔族とは人間の姿形をしているが、人とは待ったく別の種族である。彼らは変身能力や人間をはるかに超越した力を使う。しかも性格は冷酷で残虐とされる。しかし、それは伝説であって架空の創造物にすぎない。
「ガイア自体が伝説ではないか。おまえはまだ気付かぬだけだ」
シンシアは即座にセレナの言葉を否定した。あまりに冷静な声はセレナに反論の予地を与えなかった。
「よかろう……ガイアの一族の真の力を見せてくれよう」
シンシアはゆっくりと笑みを浮かべると、その姿がぼやけた。セレナは愕然として眼を凝らしたが、幻霧のごとくぼやけて彼女の姿は捕らえられなかった。それは見るまに変化し、巨大化して行った。やがて蜃気楼の様な幻はゆるやかに煙が風に流されるように消えた。
セレナは絶句した。わなわなと振るえる身体は恐怖よりも驚愕からくるものだ。彼女の眼の前には、人の数倍の大きさを持つ毒蜘蛛の姿があった。それが奇怪であるのは、胴の部分の全面、すなわち頭部にはシンシアの美しい姿がある。そして、全身の色と言えば、セレナの髪と全く同じ、ガイアの象徴である緑だった。
「これではっきりしたであろう。我らは魔族。魔族は伝説上だけの物ではあらぬ。人間との争いに破れたわれらはアステ・ウォールのガイアの塔に封じられ、歴史から隠滅されたのだ。しかし、これからは違う。封印は解ける。魔族が再びこの世界を支配するときがくるのだ。そして、我らがイアの一族はその魔族の王となる資質を持っている」
シンシアは矢次に衝撃の事実を話した。
「……嘘……嘘よ……そんな……」
「嘘ではあらぬ。人間などとの戯れなど忘れて、私と共に来るのだ」
わさわさと毒蜘蛛がセレナに近寄った。巨大でかつ不気味なその魔物はセレナに強烈な拒絶感を与えた。
「違う! 私は人間よ! あなたなんかと違う!」
真実の恐怖に駆られたセレナは理性を失っていた。即座に呪文を唱え、火球を造り、毒蜘蛛へ投げつけた。とっさではあったが、申し分ない威力だった。
「愚か者が!」
毒蜘蛛は素早く障壁を作って、その火球をはじき返した。まともに跳ね返った火球を避けるためにセレナも魔法で障壁を造ろうとしたが、一瞬間に合わずに火球の衝撃を受けて後方に吹き飛ばれた。軽量の彼女はかなりの距離を飛ばされて、木の幹にたたきつけられる。
「こ、このぉ!」
肺の空気が押し出されて、一瞬むせかえったが、気丈にもすぐさま呪文の詠唱に入って更に強力な魔法を繰り出そうと精神を集中させた。
「力に目覚めぬお前には無駄だ!」
シンシアの瞳が朱色に染まって行く。そう、ライゼルでセレナが捕まった時、ヴァルハナでミナを助けた時、セレナの瞳がそうなったようにだ。その刹那に衝撃波は放たれて、セレナの身体を打ち付けた。
「あぐっ!」
セレナは再び吹き飛ばされて、先ほどの幹にたたきつけられる。魔法のための精神集中と詠唱も途切れてしまう。
が、セレナは立ち上がった。もはや冷静な判断力もない。セレナの瞳が急激に燃え上がるヴァーミリオンの輝きを放った。それはシンシアと同等の物だ。
「その瞳……本来の力には程遠いが、覚醒は始まっているという事か」
シンシアは興味深くつぶやいた。その時、セレナは強大な力を放つ。ヴァルハナでは兵の大群を薙払い、二人を死に至らしめた衝撃波だ。
しかし、それはシンシアが二度めの放った衝撃波で難なく相殺された。
「その紅き瞳。緑の髪。それを持っているおまえがどうしてガイアの一族ではあらぬと言うのだ。そして、ガイアの一族とは魔族。私のように醜い魔族のだ。私と来い。そして共に魔族の支配する世界を築き上げるのだ」
シンシアは高らかに笑った。
ぽつり、ぽつりと雨があたり始めた。冬の凍てつく雨だ。その雨は時間と共に激しさを増していく。雨に当たるたびにセレナの身体は冷えていき、冷静さを取り戻す。
その冷静さを取り戻すことはなによりも残酷だった。
「そ……んな……」
「人間どもから離れぬか? だが、真実は変わらぬ。おまえがどうあがこうとも運命はガイアの血が支配するだろう。いずれ私は再度おまえの前に姿を表すだろう。それまで好きにするがよい。せいぜい、残された時間を『人間』として過ごすがよい」
シンシアは現れたときのように幻のごとく消えた。が、それは幻ではない。セレナの幻覚ではない。そうであって欲しいセレナが皮肉にも一番分かっていた。
雨は更に激しさを増し、森の木々の葉を雨粒が打ち付け、静寂の夜はうってかわって雨音に支配された。セレナはその身を切るような冷たい雨に無防備に当たり続けながら、泣いていた。涙と雨が彼女の美しい顔をぐしゃぐしゃに汚していた。
「セレナーっ!」
ミナの大声量でも決して損なうことの無い美声がセレナの耳に飛び込んで来た。セレナはただ立ちすくんだまま、首だけを声の方向へ向けた。
森の闇の中からミナを先頭に、アーディル、ジークが飛び込んで来た。さきほどの衝撃波が激突する轟音を聞きつけて心配になったアーディル達が駆けつけたのだ。
「アー……ディル」
彼らの耳には届かぬか細い声でセレナは彼女の愛する男の名を呼んだ。それは絶望と冷気で震えた唇から漏れた微かな吐息だった。
ゆっくりとセレナの身体が崩れていく。
「セレナ!」
アーディル達は慌てて彼女に駆け寄り、彼女の身体が地面に落ちる前に受け止めた。
「セレナ! 何があったんだ!」
彼女を受け止めたアーディルが真剣な表情で尋ねた。真剣であるのは彼女を心配しているからだ。それがセレナには切実に分かった。それが、悲しくて仕方がなかった。セレナはアーディルを愛している。アーディルもセレナに仲間以上の感情を抱いている。セレナがアーディルに自身の心の内を告白すれば、アーディルもきっと受け入れるにちがいなかった。
それがセレナに取って苦痛のほかならなかった。自分は魔族なのである。人とは愛慣れぬ、そうシンシアのように醜く変身する魔族なのである。そして、それが本当の姿なのかもしれない。それをアーディルに知られたなら……そうでなくてもそれをかくしてアーディルと共に生きて行けるのか。
「わああああっ!」
セレナはアーディルの腕をふりほどくとミナの胸に抱きついた。そして、泣きじゃくった。全ての感情が溢れていた。が、その感情はあまりに混濁していたために周りの人間はセレナに何が起こったのか、悟ることが出来なかった。
「セレナっ? いったいどうしたのよ!」
ミナがセレナを抱き止めながら尋ねた。アーディルだけではない。皆が自分を心配しているのだ。セレナはとてつもない暗闇の圧力がかかっているのが分かった。
「セレナっ?」
セレナは突然ミナをふりほどくと宿の方へ駆けた。闇の中を逃げるように疾走したのだ。夜目が効き、昔から森や山道にはなれているセレナの足は速かった。突然の行動を起こしたセレナを追いかけたアーディル達が彼女に追いついたのは、彼女が自分の部屋に入ってしまってからだった。
セレナは部屋の鍵を占めるとそのドアにもたれた。濡れた服と濡れた髪がまとわりついてきた。自分がどんな惨めな姿であるかを最確認する。
「セレナ! 開けてよ!」
「いったい何があったんだよ!」
扉を激しく叩く音がして、ミナやアーディル達の声がセレナの身体に直接伝わってきた。セレナは乱れた姿のまま、扉にもたれていた。アーディル達の真剣に心配する声も、今となっては彼女の心に毒針を差し込まれるようなものだった。
「……ごめん……ミナ……アーディル……今は……独りにして欲しいの」
セレナはやっとの事で自分の意志を言葉にした。ひどく掠れてひどい声だった。涙が喉を乾かせているのだ。
ミナはセレナのすすり上げるような声を聞いて、扉を叩くのを止めた。真実は彼女が知る由もなかったが、少女の直感としてセレナの心理状態を微かながら悟った。無論、彼女に全てを知ることなどはできない。
「アーディル、今晩は独りにしてあげましょ……何があったわからないけど、ひどく錯乱してるみたいだし……明日落ち着いてから……」
ミナが静かに動揺するアーディルを宥めた。取り付く島もないセレナの様子からアーディルもミナの意見に従った。かつて、セレナは自殺未遂を起こしたことを思いだして彼は少し背筋を寒くしたが、今は強引に出るほど自分に権利はないと言い聞かせた。
「……」
夜の沈黙の中でセレナはうなだれていた。今でも脳裏にシンシアの言葉がこだましている。
私は魔族……人間とは相馴れぬ者……私は醜い化物になる……そして、人間達を、アーディル達を滅ぼす……
セレナはよろよろと歩きながら、雨に濡れた衣服を脱ぎ捨てた。寝衣を脱ぎ捨てればもう全裸である。その全裸に冬の冷気が彼女の全身を虐めていく。その痛むような寒気も内面からの激痛に比べれば生優しいものだった。
アーディル……アーディル……アーディル……
セレナは心の中で愛する者の名を連呼し、ふらりとベットの上に身体を投げた。冷気から身を護るために毛布にくるまる。
おまえは魔族……人とは相馴れぬ者……人間を滅ぼす……
シンシアの言葉が脳裏をかけめぐる。その刹那にセレナは両手で緑の美しい髪をかきむしった。無惨に豊かな髪は乱され、負荷に耐えかねた髪が切れたり、抜けたりする。そのまま、セレナは毛布に顔を埋めて鳴咽した。激しく鳴咽した。
ちがう! 私は人間よ! 人間の心を持ったセレナ・アスリードよ! そしてきっとガイアの伝説の謎を解きあかしてみせる! 魔族に人間を滅ばせたりはしない! アーディル達を傷つかせるものか! ファーニアさん達のような何も知らぬ者をこれ以上死なせるものか! 私に特異なる力があるならば、きっと争ってみせる! 魔族達と! そして、打ち砕いてみせる! すべてを!
セレナは鳴咽の中で決意をしていた。それはガイアの力……すなわち魔族の力を否定して、自らをガイアの一族であると肯定していた。自らを魔族の力が眠るものとして認めたのだ。しかし、それは魔族のためではない。「自らが生きている」人間達のために。彼女の仲間達のために……善と悪しか存在せぬ単純な二元論だったのは、彼女がまだ未熟であるせいである。いま少し事を完全に知るには、彼女の経験が足りなかったのである。
それは悲壮な決意だった。自らの力を認めるためには、彼女は自身が魔族であると認めなければならなかった。それが今は現れなくても、近い未来に現れるだろう。それはアーディルへの愛との決別を意味していた。それをアーディルは知らぬ。シンシアのように醜く化ける女を誰が愛するものだろうか。
セレナはアーディルへの愛を諦めねばならなかった。しかし、彼女は知っていた。それもとうてい出来ぬ事を。彼女が初めて愛した男は最後まで愛する男のような気がするのだ。それは辛いことだった。だから、彼女はとめどなく泣いたのである。
悲壮な彼女の決意は、彼女に愛を砕かせ、苦抱かせたのである。
