ファティマ・アムル・ラスティアスは歴史作家として高名であり、彼女が生きた時代の物語は現実主義で文学的価値のみではなく、歴史文献としても重要視される。
また、彼女は自身の波乱に満ちた人生を自伝書に書き留めている。彼女は世界各地を旅した女性とも知られ、その自伝書は彼女の作品の中でも、最も後世の人々に愛された書であった。
その自伝書の中に、彼女の少女期の冒険譚がある。別名「ガイア伝奇」とも呼ばれ、カランダからアステ・ウォールへの旅が描かれている。それが彼女の著書の中で特異であるのは、彼女の現実主義から程遠い内容になっているからである。
だが、それは事実を描いたものだった。それはガイアの一族、セレナ・アスリードらとの旅物語である。
ノースラント街道をセレナ達は北上している。ノースラント街道は別名北カランダ街道で、名の通り、カランダ市と北カランダの中心都市アスブルクへと通ずる幹線街道である。
大したトラブルもなく、カランダ市を経由してセレナ達は順調に旅程をこなしており、ヴァルハナ市から脱出して一ヶ月余り、アスブルク市へまもなくと言う地点へ来ていた。
このあいだ、ミナは一九回目の誕生日を向かえていた。
「おまえも十九になったんだから、化粧の一つでもしてみたらどうだ?」
同行のジークは、一向に大人の顔や身体にならないエレナをからかっていた。
「よせよせ、昔、ミナが化粧をして俺に見せに来たことがあってな。どうも子供が大人ぶっているようで、笑えただけだったな」
アーディルが真実だが、言ってはならぬ事を言ってしまったため、ミナは怒って、二人を追い回していた。
そんな滑稽劇を見つめながら、セレナは微かに笑っていた。
ヴァルハナ市を出てまもなくに、ガイアの一族に出会った彼女は衝撃の事実を知らされて、精神異常を一時きたしていたが、それ以来はいたって明るい彼女そのもので、特に変化はなかった。それ故にミナ達もあの夜の出来事を聞くことが出来ずにいた。しかし、誰も知らぬ所で、一人セレナは苦しんでいるのも事実だった。
順調に行けば、明日の夕方にはアスブルクへ着ける予定であった。
「……あ!」
セレナが思わず声を上げた。鉛色の空からちらりと白いものが舞い降りてきたのだ。
雪である。南方のライゼルで生まれ育ったセレナは雪と言うものを知らない。
「セレナ、それは雪だよ」
「雪? ああ、本で読んだ事しかなかった。ふうん、こんなのなんだ」
「昔はね、もっと降ったんだけど、最近じゃ積もることも少なくなったよ」
「積もる?」
「雪が、地面に落ちても溶けずにどんどん溜っていくんだ。地面も森も家も、みんな真っ白になっちゃうんだ」
始めてみる雪に純粋な好奇心をくすぶられたセレナは、ミナの説明に大きな瞳を輝かせて真剣に聞き入っていた。雪を知らぬ地方で育ったセレナには、雪という自然現象そのものが初めてであり一七歳と言う好奇心溢れる年齢には、冷たい風を忘れさせるだけの魅力があったのだ。
しかし、雪はしばらくして止み、その分旅程は順調に進んで、次の日の昼下がりにアスブルクの街へ着くことが出来た。
アスブルク市は人口一万七千の小都市で、北カランダ最大の都市であり、北カランダの中心である。また、ミナが生まれた街もこの街であった。
ルシアがジャッドにさらわれて二日になる。ラルフ達はジャッドが逃げた方角を北に予想し、いままで来た道を折り返していた。歩調は今までになく速く、ファティマが少々遅れがちにもなったが、それでも場合が場合だけに彼女も必死にラルフ達を追った。。
が、三日目の夜、旧アムル公国領へ差し掛かった小さな宿場町でラルフは一つの決断を口にした。
「ファティマ……一つ、お願いがあるんだ」
いつになく、ラルフの口調は静かであった。その静けさに、ファティマはとてつもない不安を覚えていた。漆黒の瞳を淡いランプの光を受けて震える。
「ラルフさん?」
ファティマは弱々しい声で聞き返していた。勘のするどい子だ。ラルフはそう思い、一拍置いた。
「何処かに逃げてくれ。私は……ルシアをもう一度、救い出さねばならない」
「ラルフさん……私、足手まといですか? ラルフさんがそういうなら、私、何処かへ消えます。ラルフさんの枷になるくらいなら、私……」
ファティマは必死にこぼれ落ちる涙を瞳にとどめようと努力しながら、詰まった声で言った。ラルフはファティマを直視して、心の痛さに眉を潜めた。彼女の聞き分けの良さが、逆に彼の心を突き刺して止まないのだ。
「すまない、ファティマ。彼は、ジャッドは強い。誰かを護りながらの戦いでは、もはや私では勝てない」
ラルフは苦しそうにそう告げると、一瞬のためらいの後、ファティマを優しく抱きしめた。
「ラルフ……さん……」
堪えきれなかった涙が溢れる。くもった声がファティマの可憐な唇から漏れた。
ラルフはファティマの柔らかく、暖かい身体にひとつの郷愁を感じていた。それは、彼が初めて愛と言うものを感じた、ソフィアという女性と同じ香を、ファティマに感じていたのだ。ファティマの優しさが、人として精神を持たぬ人生を大部分過ごした、ラルフに何等かを刻み込んでいたのだ。
「ラルフさん……また、また会えますよね……きっと」
「ファティマ、私はまたおまえに会いたいよ。だから、必ず……」
翌朝、ファティマは西へと旅立った。ノープルから出ているカランダ市への街道を通り、カランダ市へと向かったのだ。カランダ市は彼女にとって危険な街であったが、この時南方のアステ・ウォールで動乱の噂が走り、直接南方へ向かうのは危険に思えたからである。
彼女はここで一端はカランダ市へ向いカランダ市から海路南へ向かって、ホーエンツ大公国から、アステ・ウォールを目指すことにしたのだ。
その判断をラルフは了解し、いずれルシアと共にアステ・ウォール市へ向かうことを誓った。
また、ファティマにはシレーヌが護衛の意味をかねて同行することになった。
「久しぶり、エヴァのおばさん!」
とある中流階級の邸宅の前でいそいそと掃除をしていた中年の女性にアーディルは声をかけた。
「おや! アーディルじゃないか。久しぶりだね。どうしたのよ? 突然」
初め怪訝そうな顔をした、エヴァと呼ばれた女性はアーディルの顔を見て、自身の記憶巣から彼のプロフィールを捜し出し、大声で歓喜の声を上げた。
彼女はフェンリルの元指導者カゼル・ラッセルベントの妻。エヴァンゼリン・ラッセルベントである。
「いや、まぁ説明すると長くなるから……」
「そうか、ヴァルハナのフェンリルは壊滅したか」
かつてフェンリルを創始し、それをまとめた男、カゼルはアーディルらの話を聞いてつぶやいた。
「あまり、ショックじゃないみたいですね?」
「当然さ。俺はフェンリルを辞めた男だぞ。今更、どおってことねぇさ」
「あんたらしいね」
アーディルとカゼルは顔見知りだ。アーディルは竹を割ったような性格のカゼルが気に入り、フェンリルに入った。二人の間には倍以上の年齢差があったが、時には友人のごとく過ごす日々もあった。
「どうしてこんな季節にアスブルクなんかにきた? ただ寒いだけだろう?」
カゼルは怪訝ぞうに聞いた。ただ、ミナの帰郷だけとは思えなかったからだ。
「あの子の髪を見てくれ。あんたなら、わかるはずだ」
アーディルは声のキーを一つ落としてセレナを見た。少し後ろの方で控えていた彼女はためらいながらも室内には不似合いなローブをはずす。
「ほう……こりゃまた、べっぴんさんだな、アーディルよ」
「あのな」
「わかってるよ。ガイアの一族だな。ファーニアと同じだ。あいつに会ったのか?」
カゼルは義理の娘、が、愛情は実の娘と変わらぬファーニアが行方不明になったことを知っている。が、彼は彼女が北海の孤島、コルア等で無残な最期を遂げたことを知らない。
アーディルたちははっとなって、ファーニアの姿を思い出した。
「今回のことはそのセレナのことが主なんだがな。あんたにも、一つ知らせなきゃならないことがある」
「カゼルさん……ファーニアさんは……」
セレナはすっと前に出て、カゼルに皮袋を渡した。コルア島で発見したファーニアの遺骨の袋だ。あれ以来、ずっとこの皮袋はセレナが持って譲らなかった。
「そうか……やはりな、あの子は不幸な子だ。まず、俺に拾われたことが不幸だったのかもしれん。せめて人並みの幸せを、と思った追ったが、やはり宿命なのかもな」
カゼルは遠くを見てわずかに瞳を濡らした。実子のおらぬ彼にとってファーニアは自らの子ほどかわいかったのだろう。しかし、彼女は彼の思う所ではない所で死んだ。
「俺は君に何も答えてやれない。明日、ルドア神殿行くがいい。どうせ、ファーニアもそういったのだろう?」
「あ……はい。あ、この剣は、ファーニアさんの……」
「いい、あいつが君にそれを渡したのだったら、君に必要なものなのだろう。もう、俺には剣はいらんよ。たとえ、ファーニアの形見であったとしてもね」
カゼルは笑った。どこか空虚ではあったが、偽りのない笑みだった。
「アーディル、やすくていい宿を紹介するよ。4人も世話するにはうちは狭すぎるからね、ごめんね」
エヴァがそう、挟んだ。アーディルがふと気づくと彼女の足元に4・5歳の女の子がいる。人見知りするのか、エヴァの後ろに隠れたままだ。
「エヴァさん、この子は?」
「アーディルよ、すまんな。もう俺はお前たちの力にはなれん。こうして身を引いて見ると、小さな幸せに喜びを感じるようになった。この子はカチュア。この間引き取った養女だ」
カゼルは微笑みを浮かべていた。四十後半の男にしては屈託がなさ過ぎる笑顔だった。
セレナたちはその夜、エヴァの紹介による宿で旅の疲れを癒す休息を取り、次の朝早く、町の北東に位置するルドア神殿を目指した。ルドア神殿はアスブルク市内からわずかに離れているが、徒歩でも二時間ほどの距離だった。
ルドア教は太陽神ルドアを奉るアルカーティス二大宗教の一つである。なお、二大宗教の他者ははるか南方に位置するアステ・ウォールのガイア教である。そもそも、この二大宗教は、祖を同じくしルドア教にしろ、ガイア教にしろ太陽神ルドアと大地の神ガイアを経典の中で崇めている。この二つの宗教が分離した年代は正確にはわかっていないが、およそ二〇〇〇年前であるともいわれる。
ルドア教は北の民に信仰された。それはかつて北アルカーティスは冬の大半を氷と雪に覆われる地域であったからだ。その北国にとって太陽の光とは、一番重要なものであったに違いない。
そのルドア教の総本山の神殿へ、彼女たちが訪れていた。
「いけません、巫女王様はお忙しい身。突然訪れになられましてもこまります」
本殿にすすんだセレナたちは巫女王たずねるべぐ、若い神官に巫女王の所在を尋ねていた。その神官も女性でおそらくは神に身をささげる身分、巫女であるのだろう。年はセレナと同じくらいか、それより少し上にすぎない。恐らく十代であろう。
「よろしいのですよ」
本殿の奥からやわらかな声がかけられた。続いてその声の主が現れる。豪奢とはいえぬが、粗末ではない白い衣を纏った不思議な女性であった。
十代といえば、なるほど、とうなずけるであろうし、三十路を超えている、といえばそんなものか、とも思うだろう。ただ、海のように深く、湖の水面のように落ちついた瞳が印象深かった。
「レイシア様!」
セレナ達を応対した若い巫女は驚愕して彼女の名を呼んだ。実は、彼女のような下端の巫女では巫女王レイシアの姿を見ることは希である。
「あなたたちがここを訪れることは、お告げからわかっておりました……」
レイシアは静かに言った。彼女のいうお告げとは霊的な予知能力だといってもよい。巫女ならば大なれ小なれそれを持ち、その能力の大きな者が高い位の巫女になるというのが一般的である。あまり、年齢や経験はそれには問われない。
「あ、あの、私」
セレナが急いで外套のフードをとり、その緑の髪を外気にさらした。普段は彼女はその髪を隠している。染めればよさそうの物だが、彼女はついにその紙の色を塗り替えることはなかったのである。それが運命に対する彼女の矜持ともいえた。
「その髪の色は……」
若い巫女が濃い蒼の瞳を揺らした。彼女も巫女である。セレナの髪の色を見て、それに隠される意味を悟ったのであろう。
「わかっております。あなただけ、私と共に奥へ。あなたはそのほかの方々を客室へお連れしなさい」
空は変容する。目にみえて変容する。大地も目にみえず、時には目にみえて、変容する。しかし、宇宙は変容しない。恐らく人が人として一生を終える間に、星空は一年という周期を悠久に刻み続けるだろう。
人の心は変わらぬのか……
ラルフは満天の空を見上げて自問した。
彼は今、北へと向かっている。ルシアを奪われ、ファティマを遠ざけ、彼は今、ガルドとともにルシアを奪回すべく動いている。シレーヌはファティマの護衛として彼女と連れ立ったために、この地にはいない。
今、彼が眼下に収めるのは、ついこの間までファティマと安息なる日々を過ごしたノープルの町である。
ついにこの剣を再び握るとは……
ラルフは心の中でつぶやいて、手にした剣を鞘から抜き放った。そこにきらめくのは、通常の剣の白銀の煌きではなく、光を吸い取るかのごとくの漆黒であった。夜陰に紛れ、剣を振るうとき、白銀の刃では光を反射してしまい、自らの居場所を悟られることになる。闇夜での暗殺をもっとも得意とした「暗闇のラルフォード」は漆黒の剣で、闇の中ですべての狙った命を奪った来たのである。
殺しを止めた暗殺者のラルフが、かつての自らの最強の剣を再び握るのである。果てしない葛藤が彼の心の中にあった。しかし、ルシアをジャッドに奪われた今、彼は過去の彼を取り戻さねばならぬ。なぜなら、「疾風のジャッド」は「暗闇のラルフォード」と同等の力を持った暗殺者であったからだ。
「ラルフォードはこの地を訪れるか?」
「来る。奴はこの地に来る。奴は自らの誇りではなく、ルシアを助けるという甘い目的のために来る。それ故、奴は必ず逃げぬ」
しかし、とジャッドは思う。一瞬、ラルフは暗殺者ならぬ力を発揮した。カーミラを一時的に退けた、あの力だ。人の中で、通常を超える力を出す一瞬がある。主にそれは感情の高揚から発せられる物だが、逆に感情による能力の低下を恐れた暗殺者が持つ力ではない。しかし、あの時、確実にラルフには感情の力が加わった。
冷酷と残虐で「暗殺者」の見本とされた男が……
ジャッドはラルフにシグナルを送っていた。かつて暗殺者たちが組織だった活動をしていた時代があって、その名残として暗殺者だけの暗号ににた通信手段があるのだ。そこにはこう書かれていた。
ルシアは健在である。旧アムル市内に我らはいる。
と……
ラルフは旧アムル市へ足を向けた。罠かもしれぬ。ラルフはそう考えたが、やはり彼には足踏みをすることは許されなかったのである。
が、その時運命は動いていた。すでに数奇なる歯車は、彼をもてあそんでいた。
セレナは常に不安を抱いている。彼女は自身でそう思うことが多くなっていた。何しろ、故郷を追われて以来、安息なる日々は数えるほどにしか過ぎない。
「ガイアの一族とは、恐らく通常の人間ではないでしょう」
レイシアはそうつぶやいた。特に感情や意図を込められた声ではなかったが、セレナは素性を見透かされたと思い、驚愕に目を震わせた。シンシアの声を思い出したのである。
「あなたは、何かお知りのようですね?」
セレナの過剰な反応を見てレイシアはセレナに問い掛けた。
セレナは沈黙した。答える勇気がなかったのである。だが、
「私は人間ではないと言われました。あるガイアの一族の人に」
「あなたが人間ではない……と?」
「はい」
レイシアはしばらく沈黙して考え込んでいるようだった。レイシアには一つの恐ろしい考えが、脳裏に浮かんでいた。それはルドア教の神官であっても、極一部の高位の物しか知らぬ、伝説の一部であった。伝説は伝説である。レイシアはそう思っていたが、もし、ガイアの一族がその伝説に準ずるならば。
レイシアはついにそれをセレナに話すことはなかった。彼女にはその勇気がなかったのである。そして、その結果セレナは近い将来に絶望を覚えることになる……
「ともかく、私があなたに教えられることは少ないでしょう。ガイアの一族の謎についてはやはり、ガイア教徒たちをたずねるべきです。ガイアの故郷は南、アステ・ウォールです。もし、あなたが真実を求めるならば、そこへ行くべきでしょう」
レイシアが続けた。
「はい」
「それと、これを持っていきなさい」
レイシアはセレナに目で待てと合図し、奥へ消えた。さほどの時間を置かずしてレイシアは戻ってきた。彼女は手に小さな箱を持っており、それは黒漆で塗られた豪奢な物だった。彼女はセレナの前でこれを開ける。
「これは?」
「ガイアの鏡。あなたの持っているガイアの剣と関連のある代物かもしれませぬ。こ
れは代々このルドア神殿に伝わる宝鏡。ガイア伝説にまつわる物だと言われています」
「そんな大事な物を私に?」
「もしあなたがガイアの伝説を解明しようという意志があれば、お持ちなさい。ガイアの剣を持つあなたがこの神殿に訪れたということは、きっとこの鏡もあなたのもとへ渡る宿命を背負っていたのではないでしょうか? 私はそう考えています」
「レイシア様……私にはそんな強い意志は……」
セレナは戸惑った。レイシアの言葉に重圧を感じたのだ。
「もってお行きなさい、セレナ。鏡がそう語っているのですよ」
レイシアは鏡にセレナを映した。当然、セレナは鏡面を覗くことになる。そこにはやはり、セレナの写しがあった。ただ、小さな鏡面の中に途方もない深さがあるように彼女は違和感を覚えていた。
「ガイア教の神殿にはガイアの宝玉が伝わっているそうです。伝説では剣と鏡と玉。この3つが交わりし時、古の封印は解かれる、とあります。それが何を意味するかは現在には伝わっておりませんが……」
セレナはその鏡を受け取る決意をした。腰に携えたガイアの剣から、亡きファーニアの声が聞こえたような気がしたからだ。
荒れ果てた廃虚。かつてここはアムル公国の王都として栄えた土地。しかし、先代のカランダ王リヒャルト3世の前に小国は滅びた。かつて豊饒を極めた土地には塩をまかれ、不毛の大地と化した。アムル家は一族を皆殺しに去れ、アムル公国は永遠に失われたかと思われた。しかし、歴史は希有をたどる。
異例として敗国の一族として生き残ったルシア・フォルグルト・アムル。彼女は今再び囚われの身であった。囚われることが彼女の宿命であるかのように。
「あなたはずいぶん私のことが嫌いであるらしいな」
「当然」
ルシアは多分に苦々しさを含ませた応答をした。彼女の前にいるのはラッツウェルの弟、ミハエルであった。カランダの王宮から行方を暗ました彼は今、旧アムル公国の領内に居たのである。
「あのジャッドとかいう暗殺者を使ったのはあなたでしょ! あの陰気臭いラウエルにでも頼まれたの?」
「やれやれ、しばらく見ないあいだにずいぶん面白い娘になったものだ。なぜ私があのおろかな兄に荷担せねばならぬのだ? あのような小物は歴史は必要としておらぬのだ」
「それなら、あなたもそうでしょう? 愚鈍王子ミハエル」
「愚鈍王子か。なかなかしゃれた名前だと思うのだがな」
「私を誘拐した意図は何よ?」
「私が必要としたからだ、あなたを」
「何故? 私を?」
「結婚してほしい」
「は?」
ルシアはミハエルの唐突な声に、少々間抜けな声を出してしまった。
「ちょ、ちょっとあんた、頭大丈夫?」
「さあね? 私は十分まともな考えで居るよ」
ミハエルは余裕の笑みすら浮かべた。その行為は唐突かつ不条理で伏線のない非常識な物で、「愚鈍」と形容される彼の行動として予想された。しかし、その時ルシアはその慧眼をもってミハエルの瞳の奥にある理知を読み取っていた。
「あなたの目的は何? あなたの目的は『私』ではないわね?」
「さすが……無論、あなたがいうようにあなた個人を私は必要としていない。必要なのは、あなたの立場だ。ま、最もあなたぐらい美しいと個人としても興味はないこともないが、それはこの場合、二の次かな」
ミハエルは相変わらず軽薄な笑みを浮かべていたが、今はもう愚鈍たる口振りではなかった。ミハエルはルシアとの会話を同レベルの知者との会話とみなして楽しんでいる。
「でもどうするつもり? 今更ラッツウェルに刃向かったところでヴァルハナ戦役で彼は大きな力をつけたわ。もはや国内で反旗は難しいと思うけど?」
「さてね。それはあなたにとってどうでもよいことではないか? あなたの夢はただ一つ、アムル公国再興だろう?」
セレナたちはアスブルクから南へ向かう定期船に乗って出港した。トバ海を南に下り、カランダ市を経由してアルカーティス北側の大湾、カイン湾に入る。カイン湾の一番奥深くにアステ・ウォールの領土とされるが、事実上独立国家として営むホーエンツ公国の首都、カイン市に到着する。
順調に行けば二ヶ月はかからぬ行程であった。多少検問がうるさくとも、地上を歩くよりははるかに早かったし、かつ安全であった。地上を進めどもやはり、関所は数多くある。
アスブルクの港を出て十七日、船は順調に進み、カランダ港へ到着していた。この船は旅客のみならず、貨物も運ぶため一日はカランダ市に滞在せねばならなかった。
偶然にその日、港はラッツウェルとアリアの結婚式でとんでもない賑わいとなっていた。その群集に紛れて、セレナたちも絶世の美男子と美女という夫妻の誕生を見るべく、野次馬になっていた。
「すっごーい。きれー・・・・・」
人垣の谷間からアリアの姿を見たセレナは率直でこれ以上的確な言葉は見付からない言葉をため息交じりに吐いていた。
「ほんと……でもあの人、すごい、薄いっていうか……その、幻みたいだよね」
ミナが言った。アリアは薄く入れた紅茶色の髪といい、白く透き通った肌といい、色彩に乏しい美女であった。また体も病的なほどに細く、この時彼女はミナと同じく十九であったが、生気ははるかにミナに劣っていた。別の物語であるが、アリアは病にまもなく倒れ、闘病の中二十二の年で没する。
しばらく儀式を交わした二人は豪奢な船に乗って港を出た。一種の新婚旅行のような物だ。この時代、貴族や王族の高貴な身分のみ、そういった風習があったのだ。
「こら、二人とも。憲兵の数だって多いんだから、あんまり目立つなよ」
人込みの中からすり抜けるようにアーディルが現れ、二人をたしなめた。確かに、セレナたちはこの国ではお尋ね者も同然である。
「大丈夫だって。こんなに人が居ちゃ、わかんないよ」
ミナは相変わらずお気楽な声で笑った。
「あれ?」
「セレナ? どうしたんだ?」
アーディルが怪訝そうにセレナの顔を覗き込んだ。すると、見る見るセレナの表情が変わる。アーディルが不思議にセレナの視線の方向を見ると、そこには南へ向かったはずの二人が居た。ファティマは優れた占術により、セレナ達の動向を占っていたのである。如何に彼女が優れた呪術師であれ、奇跡に近いめぐりあいではあったが。
「ファティマ、シレーヌさん!」
セレナは人ごみの中から魔法使いの存在を感じたのであった。それがファティマだったのだ。ファティマらもセレナたちに気づいて駆け寄ってきた。
「カランダに行けばあんたたちにあえるんじゃないか、と思ってね」
シレーヌが微笑みながら言った。ラルフたちと別れた後、彼女は南より北へ行く事を思い付いたのである。二人はフェンリルのメンバーというわけでもなかったし、もしファティマの身分がジャッドらに知られたとしても、まさかカランダ国内に行方を暗ませているとは想像がし難い。逆をついたのである。
「でも、どうして? ラルフさんたちは?」
セレナがラルフやガルドがいない事に気づいてたずねた。特にファティマとラルフはほとんどセットで居た印象が強いので、違和感を覚えていた。
ファティマは彼女らしく理路整然といきさつを話し、ラルフたちと別行動をしている事話した。そして、ルシアがジャッドという暗殺者にさらわれた事も。
「ファティマも大変だよねー。どう? 私たちと南に行こうよ。旅は道連れってね」
ミナが気楽に言った。いろいろと深刻な事を抱えるセレナやファティマにとって、ミナのお気楽主義は意外に精神的な助けになっていた。意外といっては失礼かもしれないが……
「ん、そうね。アーディルたちなら信頼できるし……」
「シレーヌさん?」
「ファティマには悪いけど、私にはやりたい事もあるんでね」
シレーヌがあまり見せぬ遠い表情を見せた。常に目の前に起こる事を冷静に処理する彼女にはあまりないことだった。ファティマはそれを明敏に察知し、怪訝そうな顔で見つめた。
「悪いけど私はラルフたちに合流する。あ、心配しないでよ。剣士として遣り残した事があるからよ。ま、ラルフの足手纏いにはならないようにはしないといけないかもね」
「シレーヌさん」
「それと、ラルフが浮気しないように見張っててあげるから」
シレーヌが冗談交じりの声で言った。ファティマは声には出さなかったが、驚愕した瞳をシレーヌに向け、次の瞬間には微笑みをこぼしていた。
「ね、そういう事でファティマを頼むね。アーディル」
「ま、断るわけにはいかないよな。知らない仲じゃないんだ。事情も事情だし」
アーディルのその答えに喜んだのはセレナたちかもしれない。三人の少女の仲は事情と時間を超えて、奇妙な連帯感と友情が芽生えていたのだ。
こうして、ファティマはセレナらいっこうに身を委ね、シレーヌは独り戦いの場に走った。彼女の中でジャッド、カーミラとの戦闘で過去が現在に逆流していた。彼女もまた、ラルフと同じく過去を時間に隠蔽した人間であったのだ。
乗客にファティマを加えたセレナたちの乗った船はカランダ市の港を出、トバ海とカイン湾の境目を滑るように南へと走った。このあたりでは冬に季節風はほぼ北から吹きぬける。帆船が主流であるこの時代の船なら快適な速度を保つ事ができた。アスブルクから乗った乗客はほぼカランダで降り、カインへ向かう乗客はあまり姿がなかった。
広い甲板の上でセレナは静かに歌を口ずさんでいた。母に幼少のころ教わった歌だ。母が言っていた。母が生まれ育ったはるか南方の歌であると。南方でしかも古い言葉なので、歌詩の意味のほとんどはセレナは理解していなかった。
その旋律は船首にいるセレナから船尾までゆっくりと悲しく流れていた。それを耳にしたファティマは、感情に誘われるまま、セレナの方へ歩いた。その気配をしったセレナは歌を止め、少し恥ずかしそうな顔でファティマを見た。その彼女の瞳はわずかに濡れて輝きを増していたようであった。
「悲しそうな歌ね」
「うん。母さんが教えてくれた歌……」
ファティマははっとなった。セレナが瞳を濡らしていたのは歌からではなく、死んだ母親を思い出しての事だと知ったからだ。ファティマはすまなそうな視線をセレナに向けた。セレナはそれに気づいて、
「ううん、もう過ぎた事。気にしないで」
セレナは過ぎ去った悲劇の過去よりも、これより迎える将来の方がはるかに不安に満ちて存在感がある。ガイアの謎。自分が何者であるかを確かめるために、彼女は旅を続けている……
ラッツウェルがカランダの王宮に戻った直後、異変が伝えられた。王宮のアリアの私室で激務に明け暮れる日々から開放されたひとときを過ごしていたときであった。
「陛下。ハインツ伯爵がお目通りを願いたいと仰せです」
「ハインツが? うむ、通せ」
臨時でラッツウェルの身の回りを任されたカテローゼは、期待以上の働きをして、いつのまにかラッツウェルの側をずっと離れないでいた。そして、まじめて献身を惜しまぬ彼女をラッツウェルは快く思い、ずっと側に置いていたのだ。
「陛下……一大事が起こりました」
ラッツウェルの了解を得たカテローゼはすばやくその意をハインツに伝えた。
「一大事か、あまり重要そうな顔をしておらぬな?」
ラッツウェルは苦笑した。ハインツが狼狽する表情を見せていなかったので「一大
事」と言われても、現実味にかけていたのである。
「はあ、しかし、反乱が起こったのです」
「反乱? どうも予は反乱にすかれるらしい。後世の歴史家に『反乱王』等と不名誉な名前がつけられそうだな」
ラッツウェルは苦笑いしてつぶやいた。この時点ではまだ彼には余裕が残されていたが、反乱の首謀者の名を聞いたときは、冷静で名の知れるこの王も、プラチナの瞳を驚愕に見開かせた。
「ミハエルとルシアが婚姻を交わし、アムル公国復興を宣言しただと?」
「くっくっく。兄……いやラッツウェルの驚く顔が目にうかぶ」
「しかし、驚かせるために反乱を起こしたのでは……」
「わかっておる、そちらの方もちゃんと予定どおりに事を運べるのだな?」
「わかりませぬ。俺とラルフォード。奴の力がかつての奴の力に肉薄しておれば、俺は奴と闘う。もし、奴の力がかつての力にはるかにおよばねば、俺の知ったところではない。もしそれならば、奴はただの役立たずに過ぎぬ」
「彼の者とは闘わねば本質が分からぬと?」
「ま、そういう事です」
ミハエルの問いにジャッドは失礼ともいえる態度で片目をつむって見せた。
問題はカーミラの動きだな。奴は復讐に先が見えなくなっている。そんな詰まらぬ事でラルフォードを殺させては、世の中が楽しくなくなる。
ジャッドはにやと笑って、気配をその場から瞬時に消した。
「ラルフをおびき寄せるつもり? 彼を利用しようって言う考えは私が承知しないからね」
「おびき寄せる? 違うね、ほっといても彼はここに来る。それはルシア、あなたがここに居るからだ、多分、この展開には彼も驚いている事だろうがね」
ルシアは自身の夫を醜忌の瞳で睨み付けた。彼女は彼と結婚したが、その間には愛情のかけらさえもなく、ただ「政略」の二文字だけが漂っていた。彼女もまた、暗殺者たちとは違った意味で、「愛」を捨てた人間であったのである。たが、彼らと彼女との違いは決定的に違う物があった……
王宮から失踪し、突如東方の辺境の地、アムル公国で唯一のアムル公国の血をひくルシアとともにミハエルがカランダ王国に反旗を翻した事は、カランダ市の政府はおろか、市民さえも驚きであふれていた。
「あの愚鈍王子が……」
数日間、それが流行語となって人々の口から耳へと流れてた。
ラッツウェルの対応は早く、その知らせの真偽を確かめそれを真だと確認すると、すぐさま軍議を開いてた遺作を練らせた。
その軍議ではラッツウェルの要望もあり即断が求められた。
討伐軍の総大将は王弟ラウエル。彼はそれを自ら進み出た。名目は、婚約者ルシアを奪われたという物だったが、彼にとってそれは口実のみで、実際彼は血のつながった弟を非常に嫌悪していたのだ。自らが有能なだけ愚者と呼ばれる弟が嫌悪の対象だったのだ。そして、彼に与えられた兵力は三万余。一度は滅びた公国への制裁には十分すぎる兵力であった。
軍議が終わり、任務を与えられなかったハインツは、彼の一面である怠け者の一面を出し、ほっとしていた。彼は今や大将の階級にあるが、出世を望んだ事は一度もない。階級が上がれば給料が増えるのはよかったが、仕事が増えるのは彼にはたまらなくうっとうしい事だった。しかし昇進の辞令を断るわけにはいかないので、仕方なく昇進している彼であった。
「ハインツ閣下! 正門に亡命者が陛下に面会を求めておりますが……」
「報告はもっと正確にするように」
若い騎士が駆け寄ってくると、ハインツは小首をかしげて彼に耳を向けた。
「はあ、しかしその者が言うには『朕は皇帝である』と」
ハインツは怪訝そうにもう一度聞き直した。
この大陸で皇帝を名乗る物は唯ひとりのはず。そう、アステ・ウォール帝国の皇帝のみだ。ここ数年前に世代交代があったと聞くが、権力争いに忙しい彼の国では、皇帝は頻繁に交代させられるので、いちいち覚えていてはきりがない。ハインツは現在の皇帝の名を思い出す事ができなかった。
しかし、その皇帝が亡命者としてカランダの王宮を訪ねている? ハインツの先見を持ってしても、この時ばかりは未来を予測する事ができなかった。
「討伐軍の司令官はラウエルだと? ふん、あのような小物では俺の相手にはならぬ。何故ハインツが出てこぬ?」
ミハエルは不適に微笑んで部下の報告を聞いていた。彼の部下であるジャッドは多数の暗殺者を部下として持っており、その中には情報収集にたけた物もいて、彼は情報には困らなかったのである。
……ま、ハインツも本質としては参謀。司令官ではあらぬがな。
「そろそろラルフもここにつくころでしょう」
「報告があったのか?」
「いえ、俺の勘ですがね」
実はミハエルはラルフ個人を欲しがっていたわけではない。暗殺者なら、ジャッド一人で十分である。が、ラルフはルシアとの過去のつながりを持つ男である。もしラルフを味方につければ、ルシアは彼から離れまいと思うのである。
彼がルシアを必要とするには訳があった。ルシアには彼に無い物があるのである。それはカリスマと呼ばれるものだ。身から出た錆ではあるが、彼は愚鈍王子と呼ばれれた男である。人望はわずかな人間を覗いて地に落ちていた。人を従えるには能力だけでは無理なのである。そこでアムル公国公女ルシアを利用したのである。彼のもくろみは成功し、亡命し流民となっていた旧アムル公国民はアムル領内に帰りつつあり、その中で1万を超える軍隊を組織する事ができたのである。
今、まさにアムル公国は復活せんとしていた。
復興が急速に進む街の夜陰を縫うように影が動く。そう、彼は闇の中をもっとも得意とする者だった。「暗闇のラルフォード」ラルフである。
ここは旧アムル市街。かつては3万人ほどの人口を擁した都市であったが、リヒャルト3世のアムル戦役の後、完全に破壊された街だったが、今、アムル公女ルシアの呼びかけにより、その半数を取り戻しつつあった。アムル公国民の愛国心とルシアのカリスマ性がそこに現れていた。
恐らく、ルシアが本心でアムル復興を呼びかけねば、このような復興はありえまい……
街の様子を伺ったラルフは心の中でつぶやいた。
しかし……これはルシアが望むものなのか?
が、ラルフはそこで思考を止めなければならなかった。銀の閃光が闇を咲いて彼を襲ったのだ。まさしくそれは閃光で、ラルフの超反応をもってせねばよけられぬものだったろう。弓勢は恐るべき威力である。
「ジャッドか……」
ラルフは矢の方向から弓手の位置を完全に読み取った。家屋の屋根に不敵な笑みを浮かべるその姿があった。彼の者の名はジャッド。神弓と疾風の速さを持つ男。
「俺を倒すことができれば、ルシアはあんたのものだ」
ジャッドは笑った。ジャッドがラルフに倒されれば、もはや彼を止められるものなどミハエルには存在しない。しかし、ジャッドにはラルフには負けぬという自信があった。
「ラルフ殿!」
ラルフと少し離れた位置に居たガルドが声をかけた。彼もまた、ルシアにその命運をかける騎士である。
「ガルドさん、後ろにも敵がいる。気をつけて」
ラルフは静かにつぶやいた。闇は彼のテリトリーである。闇に包まれている空間が、彼の感覚器なのだ。ガルドは驚愕して後方を見やった。その後方からゆらりと気配が現れた。そう、幻と見間違えるような滑らかな動きを見せるそれは「幻妖のカーミラ」彼女もまた、ラルフやジャッドと並ぶ希代の暗殺者である。
「ラルフォード……オマエを殺す」
カーミラがつぶやいた。甘いアルトの声が闇の中でおどろおどろした地獄の声におもえた。ラルフはそれを聞いて小さく悲哀の表情を浮かべた。
カーミラには未来が見えていない。しかし、その彼女を「創った」のも私か……
「カーミラ、横取りはよくないな、ラルフォードは俺の得物だ」
「ふん、私はオマエのような遊び半分ではない! ラルフォードを殺さねば、私は過去から抜ける事ができぬのだ」
「くだらねーな。しかし、ラルフォードはどーも、俺と闘いたい見てーだぜ」
ジャッドは不敵に笑ってラルフを見た。
「カーミラには悪いが、私はジャッドを倒してルシアを取り戻さねばならぬ……」
ラルフの声だった。そこにはファティマが聞けば泣き出しそうな、凶凶しき迫力があった。そう、かつて、権力者たちを震え上がらせた暗殺者「暗闇のラルフォード」の気が彼に戻っていたのである。
「そーだ、それでなきゃ、面白くねー」
すべてを圧倒するかのような彼の気迫すらもジャッドはうっすらと笑みを浮かべて楽しんだ。彼の強さがここにあるといっても過言ではない。何者にも臆せぬ力。
「黙れ! ラルフォードは私が殺す!」
「ジャッドはこの際ラルフに譲ってあげる。ケド、剣士としてあなたたちともう一度剣を交える。我が名にかけて」
意外なところから声が聞こえた。カーミラよりさらに後方で、その声は馬上からだった。シレーヌである。彼女がカランダを出て、わずかに7日であった。
シレーヌはカランダを出て早馬を飛ばし、この暗殺者達の決戦に間に合わせたのだ。この世界で最高峰の彼らの戦いを自ら感じたかったのだ。それはいわば「血」の騒ぎと言ってよかった。何故なら、
「我が剣聖の名に置いて、剣を折られたという屈辱を捨て置くわけには行かない」
「剣聖?」
「まさか?」
シレーヌの言葉の響きにラルフとガルドが奇妙な声を上げた。
「そう……私の本当の名は『シレーヌ・アズ・シャーウッド』。シャーウッド家の生き残りよ」
シレーヌの告白に周りの者達は愕然とした。何故なら、カランダ王国に使え、最強の剣士一族として知られる名高い「シャーウッド」の言葉がはっきりとシレーヌの声に含まれていたのだ。
「馬鹿な。シャーウッド家は数年前の大疫病で途絶えたはず。今は封領も無いはず」
「そうよ、シャーウッド家は滅びたわ。分家の末娘として生まれた私は当時、カランダ市に滞在していて難を逃れたのよ。けど、その時私は十四歳。正式な家督相続権もなく、シャーウッド家は断絶。私は流浪の旅に出た……」
そして、今の自分がいる。自分の剣は完全ではない。シレーヌはその言葉を飲み込んだ。だが、戦わねばならない。それは埃だけではなかった。ふと、妹のようなファティマの顔が浮かぶのだ。ラルフを守らねばならない。せめてカーミラだけは封じなければならぬ。幾らラルフでもジャッドとカーミラを相手にして勝てるものではない。
「シャーウッドの名にかけて、カーミラ、あなたを倒してみせる」
シレーヌは毅然として剣を抜いた。一流の剣士が放つ独特の気迫が闇を圧倒する。白亜麻の髪からはぼんやりとした光が発生しているようだ。明らかに暗殺者とは異質の剣気がそこにある。
「ふ、こざかしい。オマエごときの剣で私を倒せるとおもうか」
それはシレーヌの挑発であったかもしれない。しかし、シレーヌは思惑通りカーミラの注意を自分に向けることが出来たのだ。
刹那、彼女らは剣を交えていた。速さではわずかにカーミラが勝っている。シレーヌではカーミラに勝てぬ。それはラルフとシレーヌ自身が瞬時に気付いていた。
「ガルドさん! シレーヌをお願いします」
ラルフは後方の機を見るに敏な騎士にシレーヌをまかせ、自らはジャッドの間合いへと跳んだ。今、彼がすべきことはこのジャッドを倒し、ルシアに会うことだ。彼女に会い、事の真意を確かめる。それが最重要なのだ。
「やっとやる気なったか、ラルフォード! こい!」
ジャッドはにやと笑い、神業的な動きで矢を射る。それは的確にラルフの眉間を貫いたが、それは本当に貫いただけだった。手応えがない。
「ち、幻術か?」
次の瞬間、ジャッドも幻術を放って跳んでいた。そこをラルフの剣が払われる。が、ラルフは惑わされることなく、ジャッドの本体を追っていた。
ジャッドが矢を連射する。ラルフがそれを掠めるようにかわす。ジャッドの矢は交わす方向を読んで撃っているが、それさえもラルフは超反応でかわして行く。
「何という男だ!」
ジャッドは声をのんだが、驚愕に意志を取られている暇はなかった。彼も剣を抜き、間合いに達したラルフの剣撃に対応せねばならなかった。
目にも留まらぬ連続技が応酬される。しかし、剣での戦いならラルフに多少の分があった。ジャッドはこの状況でも状況を楽しんでいる表情だった。この余裕が彼の強さなのだ。
ジャッドはラルフの剣撃をかわすと同時に、遠心力を活かした当て身をラルフに当てていた。カウンターにラルフは思わず、よろめく。
「貰った!」
ジャッドは瞬時に弓を構えていた。彼は突進して剣を払うより、弓を射る方が早い
のだ。それ程まで、彼の弓勢は昇華されている。しかし、その神速の矢はラルフの体を抵抗無く貫いた。
幻術!
ジャッドがそれを判断したとき、彼の肩に閃光が走っていた。彼が本能的に跳んでいなければ、彼の左肩より先は永遠の別れを遂げていたかもしれない。ラルフの剣撃が捕らえていたのだ。
しかし、ラルフもジャッドの当て身は受けており、血の塊を口からはき捨てた。恐るべき戦いである。この一連の戦いは全て数瞬の間に起こっている。
一方、シレーヌとカーミラの戦いも熾烈を極めていた。カーミラは幻術と速さでシレーヌを翻弄しており、一見優勢に戦いを繰り広げているかのようだったが、シレーヌは防御に徹し、彼女の攻撃をほぼ完璧に防いでいた。シャーウッドの剣術に鍛えられ、そして実践に置いて磨かれた彼女の剣である。如何にカーミラといえど、その防御を越える攻撃を繰り出すことは至難であった。
また、シレーヌとカーミラの戦いの趨勢を見極めようとしていたガルドであったが、一瞬のすきもなく繰り広げられる戦いに踏み込めずにいた。やや、シレーヌが押され気味なのだが、気力と気力は全くの五分と五分。こういったの一対一には手を出せぬ気迫があるのだ。
「どうした? 防ぐだけでは私は倒せぬぞ!」
カーミラが挑発を入れた。が、シレーヌは自分の領分を知っていた。まともにやり合って勝てる相手ではないのだ。時間を稼げれば、カーミラを自分に引きつければよかったのだ。後は、ラルフが何とかしてくれる……そう、彼女は信じていた。
大きくジャッドが息を吐いた。一瞬の休息を得る。全身の細胞に新しい酸素を送り込むかのように。
面白い……この男からはもはや暗殺者の香りはせぬ……
ジャッドは油断無くラルフを視線で捕らえながら、心で呟いた。
暗殺者の氷のような激しさはないが、炎がある……俺には判らぬが……
そうだな、あの女からも感じられる……
ジャッドはカーミラと剣を交えるシレーヌを見て唇の端をゆがめた。
「人を信じる力。絆の力か」
唐突に声が聞こえた。その声の主はミハエルだった。
「な? ルシア!」
その彼に寄り添う女性の姿を見て、ラルフは絶叫した。
「何じゃ? お主は?」
幼い声がさして広くない個室に響いた。が、それでも王宮の客室とあって、豪奢な装飾品がある。それらに反射しながら、声はハインツの元に届いた。
「いえ、陛下はまもなく参られると想われますので……」
この時、ハインツは珍しく驚愕の表情を浮かべていた。なぜなら、彼の瞳に映し出された者が、彼の豊かな想像力さえも遥かに凌駕していたからに他ならない。
「失礼だとは想いますが、お名前を直接お聞かせいただけませぬか?」
ハインツは驚愕から抜け出せぬまま、質問をした。
「よかろう。予の名はエイリン・アイラ・アステ・ウォール。エイリン二世じゃ」
ハインツはもういちど驚愕した。その名が示すのは、名目上とはいえ、この大陸アルカーティスを支配する帝国の長。すなわちアステ・ウォール帝国の皇帝を指し示していたからである。しかし、その姿はどう見たとしても十三・四歳の少女であった。
順調な航行は、急転していた。順風を受けて南下していたセレナ達が乗り込んだ貨物客船は予定通りの日程でカランダ港を出発し、終着カイン港へ向かい、カイン湾に入っていたが、そこで天候が急転したのである。
にわかに暗雲が立ちこめたと思えば、急激に強風が吹きだし、海はたちまち大しけとなったのだ。冬の嵐は激しく、中型の船は沈没は免れていたが、揺れに揺れていた。
更にその嵐が訪れて三日になっていたが、船は未だ嵐の渦中にいた。
水夫達は不眠不休で船を守っていたが、船旅に慣れぬセレナ達も激しい揺れに激しく船酔いし、ほとんど不眠の状況であった。
特に酷かったのがミナで、一日目は空元気を振りまいていたが、二日目になると胃の中の物を全て吐いてしまい、胃液まで吐くようになってしまった。船の揺れのため、皆は船室の柱や、ベットの支柱などに捕まっていたが、衰弱したミナは三日目、その捕まっている力さえ失って、揺れで壁や床に嫌と言うほどたたきつけられてしまったのだ。
仕方なくアーディル達はミナをベットの支柱にくくりつけて、体を固定して置くしかなかったのだ。
三日が過ぎても嵐は収まる気配を見せず、乗員には焦りが見えはじめていた。
「おい、ここに祈祷師はいないか?」
船室を回っていた水夫がセレナ達の部屋を訪れ、大声で訪ねた。
この時代、ヒトと自然は密接な関係にあり、自然界に司る精霊達と会話する人々が居た。シャーマンや祈祷師である。
「私、祈祷師ではありませんが、祈祷の心得は多少ですがありますが」
ファティマが応えた。彼女は呪術に長け、呪術の中に祈祷は分野の一つである。
「そうか! 是非、祈ってくれないか」
水夫は嬉々としてファティマの元へ寄った。この揺れの中で機敏に動けるのは流石に熟練した技である。ファティマは素早くうなずいて彼に捕まった。船酔いと揺れで彼女はまともに立つことが出来ないのだ。
「ファティマ、私も手伝うよ。祈祷はやったこと無いけど、精霊との会話なら、少し」
セレナが遅れて立ち上がって水夫に言った。水夫は頷いてセレナとファティマを連れ、船室を出ようとした。
「俺達もいこう、甲板は危険だ」
アーディルが立ち上がった。ジークもそれに習う。流石に彼らはこの揺れの中でも立っていることが出来る。船酔いは否めないが、それに勝る訓練と経験を積んでいるからだ。
彼女らが甲板に出ると外は想像するよりも激しい風雨に覆われていた。波は大柄なジークの身長を2・3倍したほどの高さがありそうで、それが両舷にぶち当たって、甲板に降る水は雨なのか海水なのかにわかに判断が付かない。
風は横殴りで猛々しく、既にマストは折れているのか、雄大な帆船の象徴となるべき物は見られなかった。
そんな困難な状況で彼女らは船首へと向かった。祈祷を行うには船首で行うのが通例だったからだ。しかし、船首は船の中で一番揺れるところで、危険なところだった。船に同乗する祈祷師が、奴隷階級の者が多いのはこのためだろう。
その時だった。それは一瞬であった。一段と大きな波が右舷を越えて、甲板に達したのである。ものすごい水量の波が先を進んでいたセレナ達を襲ったのである。
アーディルにはそれが何だったのか、一瞬では判断が付かなかった。
だが、
「セレナッ!」
波が去った後、そこにあったはずのセレナ達の姿はなかった。波にさらわれたのだ。
「ア、アーディル」
セレナの苦しげな声が聞こえた。その声の方向に視線をやると、左舷の手すりにセレナが片手でしがみついていた。体の大部分は甲板より外にこぼれている。もう片方の手にはファティマの姿があった。
「待ってろ! すぐ助ける!」
アーディルは揺れる甲板の上を疾走した。
その刹那、もう一つの大きな波が逆の舷から船を襲ったのだ。
「っ! うわあああっ!」
その波も甲板に余裕で達し、その上を全て洗い流すかのように豪竜となって暴れ回った。その脅威的な力に人の力は全くの無意味で、嵐と必死に戦う水夫達を巻き添えにして海へと戻っていった。
「アーディル! セレナ!」
甲板の建造物の陰に隠れて難を逃れることが出来たジークが叫んだ。ほぼ絶望的な叫びはわずかに残された水夫達の上を通り抜けて行く。しかし、返事はなかった。
ジークは強靭な足腰と腕で体を固定しながら海を覗き込んだ。どす黒い海の波間に人影が見える。その中で緑の髪がひときわ目立っていた。そうセレナである。
「ちっ! ロープは? ロープはねぇのか?」
ジークは側にいる水夫に尋ねた。
「だめだ! もう余ってるロープなんてあるわけがない!」
ジークは歯ぎしりをした。この荒れ狂う海の中では、泳いで助けに行くことは出来ない。彼女らの元へ行くことは出来ても船に帰ることは不可能だろう。ジークは冷静に判断した。が、その冷静な判断は自己を冷徹にして自己嫌悪の海が溢れた。
「奴等は生き残るさ。特にセレナは……あいつは運命の少女だからな」
ジークは嵐に濡れながら、苦しそうにうめいた。
一瞬、意識を失ってたのかもしれない。ファティマは状況を理解するのに一、二瞬時を要した。が、常の的確な判断力を取り戻した後は、自らが置かれた事態をすぐに把握していた。
「セレナ!」
ファティマは荒波に揉まれながら、すぐ側にセレナが居ることに気付いた。ある意味、幸運だった。海上で一人漂うのと、仲間がいるのとでは精神の持ちようが違う。
「セレナ! しっかり!」
ファティマは泳ぎは特に達者ではなかったが、何とかセレナの浮かんでいるところにたどり着けることが出来た。
彼女の名を呼んで応答のないことにファティマは疑問を浮かべていたが、それはすぐに判明した。彼女は意識を失っていたのである。おそらく、船から落とされる際、頭部か何処かを強打したのであろう。
「くっ……何か掴まる物は?」
ファティマはセレナの呼吸器が海中に沈まないように支えながら、辺りを見渡した。運良く、壊れた部分なのだろうか、木版が浮かんでいる。彼女は急いでそれをつかみ取ると、懐からキープを取り出して自らとセレナを結わえ付けた。
木板はさほど大きな物ではなく、二人の体重を抱えて不平を唱えたが、なんとか浮力が勝っていた。が、しかしそれも木版が水を吸っていくことで浮力の限界は目に見えているかのようだった。
「海の神々よ……海を司る精霊達よ……セレナと私をその大いなる慈悲を持ってお助け下さい」
ファティマは冷たい冬の海に体力の全てを奪われるかのような重い感覚に絶望を憶えながら、祈りを捧げた。
しかし、波の激しさに彼女もまた、徐々に意識を暗闇の深海に沈めて行くことを止められなかった……
潮の流れの複雑なこの海では漂流物は少しの位置の差で思わぬ方向へ流される。セレナとファティマ。アーディル。ジークとミナ。この三者は心の絆を抱きつつ、割れた大地に降り立つことになる。
