まるでおとぎ話かのようである。早朝の光を受け、塩をわずかにきらめかす浅緑色の髪の少女は、まるで打ち上げられた人魚のごとき姿をしていた。しかし人魚たる物は伝説に過ぎず、彼女の下半身は極ありふれた物である。
彼女は蒼い顔をして気を失っていたようだが、柔らかな朝光を浴び柔らかに意識を取り戻した。脳髄が痺れるような感覚に悩まされながら、わずかに顔を動かす。荒い感触を柔肌が感じとる。ここが砂浜だと少女は長い時間をかけて知った。
次に目を開ける。感覚器がまだ正常に働いていないのだろう。ぼんやりとしたかすみのかかる視界が開ける。が、それも次第にはっきりし黒髪の少女の姿が見えた。
「ファ、ファティマ……」
少女はかすれた声を出した。そしてもう一方の少女へと近づこうと身を起きあがらせようとして彼女は失敗した。砂の感触がひどく遠くに思える。
緑の髪の少女はその時、駆け寄る人の気配を感じていた。が、それ以前に体は動かなかったし、落ちて行く意識の中で呼びかける声がアーディルの物ではないかと微かな期待を寄せた。
と、目が覚める。いつものような目覚めだ。少女がゆっくりと上半身を起こす。
「やあ、やっと目覚めたね。ここに流れ着いてから2日もたってたから、もうダメかと思ったぜ」
男の声が聞こえた。まだ少年のような声だ。セレナが声の方角へ瞳を向けると一人の少年が立っていた。セレナと同じくらいの年頃だろうか、褐色の肌と黒髪で好奇心が旺盛そうな藍色の瞳が印象的だった。
「いや、ビックリしたよ。初めは人魚かと思ったんだ。……その、緑の髪がすっごく神秘的でさ」
少年が駆け寄った。少女は「緑の髪」という響きにびくりと体をふるわせた。気付くと少女の長く美しい髪は顕になっている。
「あ……」
少女はかつて受けた事を思い出して、恐怖に彩らせた瞳を少年へ向けた。が、そこにあったのは無垢な少年の瞳で、ただ好奇心だけがこちらに向いていることが判った。
「私……どうして……」
少女はつぶやいた。
「たぶんあの嵐の日だろうね。あの日は凄かったからな。君も船に乗っていて、船が難破したかどうかしたんじゃないかな?」
そうだ、私は船に乗っていて南を目指していたんだ。アーディル達と一緒に!
少女はアーディルを探すために部屋を見渡した。が、そこには黒髪の少女だけが、ベットに横たわっていた。アーディルの姿はない。
「ファティマ……」
「あの娘の名前? あの娘も大丈夫だよ。そういえば君の名は?」
「あ……セレナ。セレナ・アスリード」
「セレナか、ふうん。俺はアレル・シェルダート。漁師だ」
ファティマはセレナに半日ほど遅れて意識を取り戻した。海の知識に詳しいアレルの話ではファティマのとっさの判断が、二人を生存に導いたらしい。
彼の話ではここはカランダ王国の南方に位置し、アステ・ウォール帝国と前者に挟まれる小王国、ホーエンツ大公国の北部の漁村らしい。彼女らがはじめ目指していたのが、ホーエンツ大公国首都カイン市であるから、ここから南下すればさほど長い道のりではないと言うことだった。
アレルという少年はセレナ達とほぼ同年代で、彼は十八回目の誕生日を先月に迎えたという。浅黒い肌によく笑うので白い歯が映える感じのいい少年だった。彼は数年前に両親を海で亡くし、一人で漁師を続けているのだった。
「さて、二人とも元気になったことだし、治療費というか世話費みたいなモノでも頂こうかな?」
実はアレルはこれを冗談のつもりで言ったのだが、意外にも生真面目なセレナとファティマは真剣にこれを受けてしまい、アレルの方で引っ込みが付かなくなってしまったのである。
「その、嵐に巻き込まれて、私達、路銀程度しか持ってないのよ」
セレナが真剣な顔でつぶやいた。実際、大きなお金はアーディルとジークが管理することになっていたから、彼女たちの持ち合わせは少ない。二人は純粋に困ってしまった。
「じゃ、じゃあ、セレナ、君の持ってる飾りのような剣でいいよ」
アレルは妙な冗談を言ってしまったことを後悔しつつ、セレナの持つガイアの剣を示した。彼から見れば、あまり実用的でもないし、装飾剣にしても不格好なその剣なら、大したモノではない、と踏んだのだ。
「これは、ダメよ。ある人の形見だから」
アレルはまた自分の発言に後悔しなければならなかった。冗談一つに何でこんなになやまなきゃいけないんだ。アレルはばからしくなってもうどうでもよくなって、冗談だと言おうとした。
「体で払います」
それはファティマだった。
「へっ?」
セレナとアレルの声が音程なズレを除けば、見事なハーモニーだった。二人は目を丸くし、顔を赤らめてファティマを見た。
「そ、そんな、ファティマぁ」
「ほ、ほんとかよ?」
セレナは情けない声を上げ、アレルはあらぬ想像をした。
その二人の過敏な反応を見てファティマは首を傾げた。
「あの、私が言ったのは、家事を手伝うとか、何かの仕事をするとか……そう言うことですけど?」
もし、この事を告げて彼に否定できるだろうか。
彼の前には緑の髪の少女がいる。彼の両親も彼も黒髪だった。だが、彼女は紛れもなく、彼の両親から生まれたモノで間違いはなかった。その希有なる髪故に彼女は村の子供達からも、そして自分の親からさえも疎まれ、迫害された。
彼女にとって唯一の信頼できる存在は兄だった。兄は独りで彼女を守っていた。そして彼は腕っ節は強くなっていったが、生傷が消えることはなかった。
少女は兄の前で何度泣いたことだろう。自分のために、兄のために。彼はそれを優しく受け止めた。
そのうち彼の中にある感情が生まれていた。兄妹として、あってはならぬ感情だった。その感情が行動に移ったのは、破滅の前夜だった。
そして、彼は今もかたせみを追い続けている。
違う、俺は……
と、意識がはっきりした。暗闇の呪縛から抜け出すような意識の取り戻し方ではなく、眠り姫の唐突な目覚めのように意識がはっきりしていた。
屋内だ。彼はゆっくりを上半身を起こした。潮の香りがする。
「そうか、俺は海に投げ出されて……」
それからの記憶はない、おそらく意識を失ったのだろう。
「セレナ……」
彼はここ数カ月で一番身近な存在となった少女の名を呼んだ。
「おはようさん」
艶やかな声が彼の耳に入ってきた。
その敵意のなさにアーディルは不覚にもぼんやりとそちらに視線を向けた。本来の彼なら警戒心を抱いたに違いない。それが、彼の育った環境だったから。
「どうした? 私の顔に何か付いてるのかな?」
それは女性だった。栗色の髪が美しい、彼よりも多少年は上であろうが艶やかさでは彼の周りにいた少女達の比ではなかった。性を知っている女性である。
「いや、あんたが俺を助けてくれたのか?」
「あんた、じゃないクレアって言う名前がある」
「ああ、俺はアーディル。クレアさん、だったな。助けてくれてありがとう」
「助けるつもりはなかった。何、私の気まぐれと、神様と、自分の幸運に感謝するんだね」
クレアは笑いながら言った。笑うと目が細まって、線のようになる女性だった。優美や豪奢とはかけ離れている。質素ではないが、それに近い趣もある。妖ではないが、艶やかだ。性格的にはシレーヌに似ているとアーディルは感じたが、彼女よりも激しさは少なかったが。
アーディルは身なりが違うことに気付いてクレアに問いた。
「俺の服は……バンダナは?」
「バンダナ? ああ、あの蒼い奴? あるよ。服の方は革製だったからね、海水を拭くんでもう使いモノにならないよ。でもさ、アレ何? 剣とかナイフとか……あんた、何者?」
アーディルはそれには無言だった。そのかわり、視線をクレアから離さなかった。
「わかったよ……そら」
クレアはテーブルからアーディルのバンダナを取り、彼に投げた。ふわりとそれは宙を飛び、アーディルの手元までたどり着いた。
「セレナって娘から貰ったモノかい?」
クレアはややからかいじみた声で言った。
「セレナ?」
「寝言をきいたのさ。もう、何回聞いたか解らなくなるくらいにね」
「そうか。けど、違うな。これは妹の形見さ」
アーディルは微笑んだ。
そうか、俺はティナでなく、セレナを呼んだか……
ジークは何か懐かしい香りを嗅いだ。
一流の剣士というのは、なにがしか自分の空間というものを持っており、その中は自分の五感と同じように感覚を持つのだと言う。ジークもそれを持っているのかもしれない。無意識のうちの認識であった。
「カトゥル? カトゥルか!」
甲板から風を受けていた彼の元に、風より速い一陣が舞った。彼の愛鷹カトゥルである。
ヴァルハナ市でフェンリルがドゥルジ伯に攻められたとき、この主人と従者は離ればなれになっていたのだ。あれからかなりの時が経つ。だが、彼は主人の元へ帰ってきたのである。
「ジーク? 何してんの?」
ミナののんきな声が聞こえてきた。
「カトゥル? うそ、ほんとに?」
カトゥルは喜びの一声をあげると彼女の周りを旋回して彼女の肩に止まった。カトゥルはこの無邪気な少女の肩が気に入っているのだ。
ジークはその光景を見て微笑んだ。
「帰巣本能、って奴があるらしいな」
カトゥルがこの地に帰ってきた。
そして、俺もこの地に帰ってきた。あの日、二度とこの大地をふむまいと旅たった俺だったが……運命とは俺ごときには計り知れないものらしい……
きらめく水面の向こうには、ホーエンツ公国カイン市があるはずである。
ジークらを乗せた旅船は無事にカイン港に入港した。
アルカーティスの中央部に位置する宝石カイン。人口はおよそ四万弱であるが、カイン市内の雑踏と活気さはその数字から予測されるようなものではない。海路、陸路の要衝であるこの地点はアルカーティスの流通の心臓部であり、中心点である。古くから貿易都市としてその富を蓄えてきた。
現在はホーエンツ公国の支配下にある。ホーエンツ公国はこの地の土着の貴族であるが、四百年前より、アステ・ウォール帝国より自治権を得ている。事実上、独立していると言っても過言ではない。ホーエンツ公国自体は路傍の小国に過ぎぬが、この国を無くしてはアルカーティスの経済は成り立たぬのである。
ジークとミナは街から溢れる活気に圧倒されていた。
整然と整備された通りの両側には様々な露店が並んでいて、そこには小さな小集団が幾つもできている。街全体が商店のようなものだった。
ミナはこういう商都を見るのは初めてだった。彼女もヴァルハナやカランダと言う、活気に満ちた都市を幾度も見てきたのだが、カインのような都市は初めてだった。ただぼんやり歩いているだけで、気が付けば商人の商品の説明を受けていたのも何度かだ。流石にジークは慣れたものだったが、好奇心豊かな少女には少し刺激の多すぎる街でもあった。
街を見物しながら歩いていく二人であったが、突然、背後が騒がしくなった。と、人波が中央を中心に分かれていく。不思議に思ったが、二人は人波に流されるように路側へと身を寄せた。
その数瞬後にけたたましく走り去ったのが一頭の早馬だった。兵士らしき男も乗っていた。
「ホーエンツ家の早馬だな。紋章が付いていた」
「ジーク、知ってるのの?」
「まあな」
と、突如甲高い悲鳴と、その後に女の号泣する声が聞こえた。
早馬の通った後の暫しの静寂の中だったので、それはかなりの距離に響き渡った。当然、それはミナ達の耳にも届き、好奇心が行動である彼女の体を動かし、次いで面倒くさそうな表情のジークを動かした。
二人が野次馬の中心にたどり着くと、そこには若い浅黒い肌の女性と、赤ん坊がいた。赤ん坊の頭からは痛々しい量の血が流れていて、それをどうにか止めようとする女性がどうしようもなく号泣していた。
「赤ん坊が馬にひかれたのさ」
野次馬のひそひそ声が耳のいいミナにも届いてきた。
未だ少女の慈悲的な良心を失わぬ彼女はおそるおそる泣き止まぬ女性へと近づいた。
「はやく医者に診て貰った方がいいですよ」
「しかし、医者に診て貰うお金がありません」
「そんな! 赤ちゃんが死にそうなのに! 誰か、はやく医者を呼んできて下さい!」
ミナは精いっぱいの声で叫んだ。
「その女は奴隷だ。奴隷に正式な診察料を払える金があるわけないさ」
どこかから冷たい声が帰ってきた。経済的に突出した成長をつづけるカイン市では経済的弱者、奴隷はきわめて立場が低いのである。愕然とするミナにジークが近寄って助け船を出した。
「ならば、役所に行って慰謝料を貰えばいい。あの早馬は公爵家のものだからな」
「早馬の前にいたこの子が悪いんです。役所へ行っても掛け合ってはくれません」
「そんな……ヒドい」
ミナは憤慨したが、女はただすすり泣くだけで、わが子を抱えたまま、うずくまってしまった。
と、野次馬が他の方向へ注意を向けはじめた。それと同時に周縁部の一部が中央から路側へと分かれはじめたのである。その先にあるのは白馬の二頭立ての豪奢な馬車だった。その馬車には先の早馬と同じく、ホーエンツ家の紋章が高い太陽の光を受けて輝いていた。
「おい、そこの! 早く道を空けないと手打ちにされるぞ!」
野次馬の男が叫んだ。おそらく、彼にしてみれば厚意の一つであったらしい。
「馬鹿な。今動かしていい状況かどうか解るだろ!」
ジークは冷静に反論していた。赤ん坊の様子が危なくなっているのだ。
そうしている間に馬車は彼らに近づき、彼らの前で馬車は止まらざるを得なり、御者は舌打ちして馬車を止めた。野次馬たちにただならぬざわめきが起こった。
「そこの! 早く道を空けぬか。ジェシカ様の御車であらせられるぞ」
御者は高圧的に彼らに向かって呼びかけた。
「馬鹿か! これを見て事情が解らぬとはいわせんぞ!」
ジークがこれに反論した。彼の巨体から強烈な意志を持って言葉が発せられると、無形であるはずの言葉が、物理的な威力を持ったかのように御者を貫いた。
「どうしたのです?」
馬車の奥から澄んだ声が聞こえた。
「は、それが……その、道を塞ぐ奴隷と旅の者らしき輩が……」
御者は何とか平静を取り戻して、彼の主人であろう女の声にしどろもどろと答えた。
と、馬車の扉が開き、独りの女性が降り立った。
ミナははっとした。美的感覚に優れる彼女はその女性の美しさに一瞬、全ての感覚を支配されたのである。白いドレスつに包まれて、おそらく理想的な体型であろうその体。エメラルドの瞳とブロンドの長い髪が形の良い卵形の輪郭を美しく強調していた。まるで白磁の彫刻のようだ。彼女と同等たるひとはアリアひとりしかミナの記憶になかったが、今目の前にいる彼女は、アリアにない存在感と激しさがあった。
彼女はその事件の大本である奴隷の女とケガをした赤ん坊を見て、その優美な眉をひそめた。
美しさ故に冷たさを感じたミナは、それに恐怖を憶え、
「そのような下賎は切り捨てておしまい」
そのような声が降り懸かるのではないかと懸念をしたが、それは杞憂に終わった。
「フォスター、早く彼らを馬車に。医者に見て貰わねばなりません」
「し、しかし、あのような奴隷を……」
「早くしなさい! 奴隷とて大事な市民の一人です。その赤子が危険なのですよ!」
彼女、すなわちジェシカ・オヴ・ホーエンツであるが、毅然とフォスターと言う御者に命令した。同じ貴族であるが、ルシアやアリアにない激しさと人の上に立つことを知っている女性であった。
ハインツとローズハルトはその日の勤務も終わり、カランダ宮殿の廊下を談話をしながら帰途につこうとしていた。談話、と言う表現が使えるのは彼らだったからだろう。実は、その内容は普通の神経の持ち主ならば、談話などと気楽に表現できるような様子で話し合うようなものではなかった。
「で、その皇帝と陛下を会わせたのか?」
「会わせるしかないだろう? あれは、本物みたいだしね」
「うむ。で、陛下の反応は?」
「その場には私は居合わせなかったので解らないんだけど……どうも、あの皇帝を私に一任するとか。やれやれ、超過勤務を訴えた方がいいかな?」
尊敬と深刻さを欠いた言葉のやりとりは二人特有の者であろう。無論、話の題材はカランダに亡命をしたアステ・ウォールの今上皇帝、エイリン二世のことである。もっとも今上皇帝と言ってもアステ・ウォール玉座が簒奪されたり、断絶したと言う情報が入らないので、別の皇帝が立てられたのだろうが
唐突に現れたこの女帝は、この時未だ十三歳であり、事実としては滑稽であり、創作に至ってはやや悲劇的な匂いを嗅がせる喜劇であった。
数日後、エイリンの従姉妹に当たるアイシャと言う幼帝がアステ・ウォールの新しい皇帝として立てられたという情報が入る。アイシャは未だ四歳の少女であった。だが情報は紛れもなく事実であり、深刻きわまる喜劇がこの時代を彩る一部にプレリュードを流しはじめたのだ。無論、この時点でアイラもハインツもその舞台の主役になるとは思いも寄らぬのである。
「しかし、あの皇帝は一人の娘と考えるといささか同情するな」
ローズハルトが呟いた。合理主義で堅実かつ柔軟な用兵家である彼だが、政治力に関しては並の部類に入る。だがその彼でもアイラをカランダ王国がどう使うかはよく察知することが出来た。
「うん、我々にとって彼女を政治的な道具として最も有効なものだ。彼女の幸薄き人生には同情せざるを得ないが、我々はアステ・ウォールへの大義名分を得たことになる」
「だが、その前にもう一つ仕事がある。まあこれは吹き出物みたいなものだが」
ローズハルトは軽く笑みを浮かべてその事態を比喩した。確かに、数的にはその存在はあまりにも小さく、障害と呼べるようなものではなかったが、そこには今まで時代に潜伏していた才能が眠っていたのである。
旧敵同士がそれぞれのわだかまりを清算し会い、共に酒を飲み交わす……
古くから大衆の読み物にある一つの定石であった。だが、現実は名作を生み出す作家の創造物ほど甘く、単純ではない。実際の英雄とは下級の悪魔も鼻白むような陰謀を繰り返してその名声を得た。その方が圧倒的に多いのである。
だが、今旧敵同士がこの会食で向かい合っていた。もっとも、それぞれの過去のわだかまりを捨て切れているとはいいがたかったが……
この場所はアムル城の高級客室の一つである。とはいえアムル戦役の後、この城は放棄されて四年近くにもなり、その修復も未だ行き届いてはいない。
「それにしても運命の女神とはよほど気まぐれな人らしい。人の予見とは、どうしてこれほど迄に貧相なのだろう」
ガルドが呟いた。ミハエルはそれはお前の才覚が足らぬせいだ、といいたげであったが、ガルドは一般の騎士の水準から遥かに高い位置にあるのだ。分野によってはミハエルの才能を凌ぐところもあるだろう。それを彼は知っていた。
「しかし、どうするのですか? アムル一国でカランダを相手に出来るとは思えませんよ」
ラルフには政治、戦略の才能は乏しかったが指摘は正しいことだった。彼の才能はそちらには向いていなかったのである。そのかわりに、彼には他の追随を許さぬ大きな才能を持っている。ただ、彼自身それを嫌悪していたとしても。
「別に俺はカランダを転覆させようとか、喧嘩をしようとか、そう言う事ではない。小国でなければなせぬことするために、アムル公国が一番都合が良かっただけだ」
都合がよいだけか。ルシアはもはや憤慨するよりもあきれかえった。
私の一生を賭けたアムル公国復興とは、この男にとってただの道具に過ぎぬのか。
彼女は結婚の相手が必ずしも愛すべき存在ではないことを知りはじめた。運命の糸などロマンティストの虚話でしかないのか。
「この国でしたいこと?」
シレーヌが問いかけた。本来アムル公国に縁故はなく、流浪の剣士である彼女には関係のないことだったが、知識的欲求や好奇心の探索は彼女の好むところであった。
「民主政治というものを知っているかな? 共和制とも言う。そう、かつてアルカーティスがまだ大きな国という存在を知らなかった時代に、それは存在した。都市国家という小規模な国家形成でこそはじめてなし得たのかもしれない」
ミハエルが語りはじめた。多くを語ることは彼の得意なことから外れていたために、
言葉をかい摘んでのことになった。
「現在は王政ないし、帝政がこの世界の政治権力だ。これはあまりに不公平な立場である」
「披支配層と支配層の格差が激しく、支配層は特権をむさぼっているから?」
「民の税により、王侯貴族は彼らや彼らの土地を外的から保護する義務を負う。不公平と言いきるには、どうか」
前者はシレーヌの意見で後者はガルドの意見である。
「俺が言いたいのはそうではない。俺の立場は特権階級にあった。それも王族としてその特権をむさぼっていたことは噂でも有名だろう?」
ミハエルは皮肉に唇をゆがめた。端整な顔立ちだが、表情が変わる毎に安っぽい塑像にも見える。
「その俺が言うのはなんだが、こうした王族貴族は為政者に成らざる得ぬ。市民は為政者を王族貴族であると決め尽きすぎている。俺は父を見た。兄を見た。何故、我等だけが政治や戦争を指導し、責任をとらねばならぬ? 民は我等に施しを求め、見返りを出さぬ。かといって、政治や戦争に失敗すれば暴動や不平をもらすが、時代や政治を変えようと言う意志はない。何故、我等だけが責任と苦労を背負わねばならぬ? 人は平等なはずだ。平民も奴隷も貴族も皆、為政者の一人となるべきだ。一人一人が政治に対する権力を持てば、その国の問題は一人一人の責任である。無責任にそれを王たちに押しつけて、政治がうまくいないことに不満を漏らす市民どもに一度権力を与えてやったらどうなのだ? その重責に堪えられる才能と忍耐力が彼らにあるのか?」
ミハエルは一息付いた。多弁な自分がとても滑稽に見える。そう歪んでしまった自分が喜劇の俳優の一人であることを、自分自身で解っている彼だった。
「民主政治とはその点で優れている。その国に住む住民一人一人の手で方針が決まるのだ。市民による市民の政治だ。王が一人責任を負うことはない。皆が平等に責任と権利を得るのだ」
壮大すぎて夢物語だ。ルシアは既に以前にそれを聞かされていたが、あらためてため息を付いた。それをなしうる政治力が何処に存在するというのだろう。ルシア自身にはその政治力はなかった。彼女が知っているその政治力の持ち主は、ラッツウェル一人であり、ミハエルは未だその能力に関して未知数であった。
しかし後には引けぬ彼女である。どういう形であれ、父の無念を晴らすことが彼女の存在理由であり、その為には手段を選ばぬと自身に誓った身である。
「で、あんたたちはどうするんだ?」
ジャッドが聞いた。肝心な用語が抜けていたが、質問の意図はこの場では客である三人にはよく解ることだった。
ガルドは騎士らしく即答した。ルシア様が思うところもミハエル殿下と同じであるならば、ミハエル殿下に忠誠を誓う、と。
シレーヌはミハエルの壮大なシナリオに興味を抱いたが、今の彼女は自由人としての自分を気に入っているので、野に戻ると答えた。
即答できなかったのはラルフであった。
「あなたにはもっと重要なことがあるでしょう?」
個室に呼び出され、質問にラルフは困惑した。質問の主はルシアである。
「わからない。私のすべき事が何であるか……」
「本当は解っているのでしょう? あの時答えを出さなかった時点で」
ルシアは辛辣だった。ラルフの下手な虚構すら許さぬかのごとく。
「すまない」
「私に謝ることはないわ。あの子はあなたが必要なのよ。あなたとあの子が思っている以上にね」
ラルフは瞳を閉じた。その暗闇に可憐な少女の笑顔が見える。彼の意志は決まっていた。
「もう少し、闘いたかったものだ」
ジャッドがラルフに呟いた。
「もう、私は暗殺者ではないよ」
ラルフは少しはにかんで答えた。穏やかな声だ。かつて闇社会を震撼させ、幾人もを恐怖という闇の中へ葬り去った男の声色とは思えなかった。
「ああ、そうだな。お前は既に暗殺者ではない。あの時闘って解った。だが、それでももう少し闘いたかった。闘いは俺を悦ばせる。女を抱くことに近いな」
ジャッドは笑った。その感覚はラルフのあまり知るところではなかった。彼にとって闘いとは煩わしいものだったし、女を語れるほど経験があるわけでなかった。
「行け。お前が暗殺者でなければ、俺達が必要とする人材ではない。勝手に生き、老い、堕落するがいい。それがお前の選んだ道だ」
「それでも、人を殺すよりはいい」
二人はそうして別れた。かつての亀裂は修復されなかったが、それでも二人の心は穏やかだった。一つ、二人の心配事があるとすれば、カーミラの存在だった。
あの時ミハエルとルシアの声で、彼女はラルフとジャッド、シレーヌとガルドを敵に回す羽目になったのだ。さすがに、四人の才覚の前に彼女も撤退を余儀なくされた。
だが、まだ彼女がラルフの命を狙っているとすれば……
「仕方がない、暗闇のラルフォードに一つ貸しを作ってやるか」
ジャッドはそううそぶいて風の中に気配を流した。
ラウエルにミハエル。兄弟よりもあかの他人の方が信じられるとは、王という宿命の皮肉なのだろうか。権力ごとき、いつでも譲ってやってもよい。等と思うこともしばしばなのだ。何故に人は権力を欲するのだろう? それに伴う、責任と苦労を背負わねばならぬと言うのに。
ラッツウェルは皮肉っぽくその氷の彫刻を歪ました。公式の場で滅多に表情を崩さぬ彼であったが、ある特定少数の人のまでは、彼が人間たる証をこぼすのである。
「どうかなされましたか?」
「いや……別に」
今や王妃となったアリアの声である。宰相、ラウグル・フォン・オーベルハイムの娘であったが、その美しさと才能に対しあまりにも欲がなかった。王妃となった今も権力を壟断することはなかったし、ラッツウェルの政治に口を出すこともなかった。
一人の女性としての幸せ。これが彼女の欲するところであり、それとは逆に彼女は、彼女の望まぬ、権力闘争と陰謀が彼女の少女期のすべてでありそれを彼女の心身を削り取っていた。
貴族の娘ではなく、一市民の娘として生まれていれば、そこそこ幸せな人生を送れたのかもしれない。
「アリア、気分はどうだろう?」
「ええ、今日はずいぶんと調子がいいようです」
アリアはいつ頃か病を患っていた。原因不明の熱病で、ただでさえ華奢な体は病的にやせ細りつつあった。
「カテローゼ、茶を炒れてくれぬか」
ラッツウェルの声に控えていた奴隷の少女、カテローゼは素早く返答するとぱたぱたと外へ出ていった。かつての一件より彼は彼女を気に入っており、身の回りで使っている。技術は確かに幼く未熟であったが、誠意と実直さで彼女を勝る女中はおらず、何時も透明で彼はその心地よさを高く買っていたのである。
その活力に満ちた後ろ姿をアリアは眺めやって、羨ましそうに目を細めた。
私はあとどれくらい生きられるのだろう? わき上がるのは生命の泉ではなく、彼女の生をむしばむ病的な灼熱。せめてわが夫に、この国の跡継ぎを。それだけが今の彼女の願いになっていた。これより三年、アリアは男子アレクサンドルを残し、この世を去ることになる。
ジークフリート・ハノヴァー。二メートルに届こうかという巨躯の彼は今年二十八歳の誕生日を迎えている。日に焼けたたくましい体は均整の取れた無駄のない筋肉で包まれており、そこに内包された剣術や格闘など戦闘術に関するあらゆる技術が染み着いていた。
十年以上にもなる傭兵生活で培われたものだ。大剣を操る技術と腕力は彼自身が自慢せずとも、その世界で音に聞こえていた。
その彼は今、カイン市内のホーエンツ公爵家の居城の客室でベッドの上で寝転がっている。普段は歴戦の勇士であることを態度に出さぬ彼であるが、ぼんやりと天井を見ている姿は希であった。
彼は鍵をかけ、二度と開けることはないだろうと思った記憶の箱を極自然なそぶりで開け、その隙間から見える光景をかいま見た。
十二年前という時は、近いのだろうか、遠いのだろうか。
ジークの脳裏にはその過去が鮮明に蘇る。
「ダメだ、兄上! 一緒に逃げなくては!」
「俺はもう無理だ。この怪我では走れぬ! お前は逃げよ。生き延びてハノムハノヴァー家の誇り高き血を絶やすな。行け、ジーク!」
少年は炎に包まれる自らが十六年の生活を共にした館の中で泣き叫んでいた。
「しかし、しかし兄上!」
「行け、ジーク! この館が燃え落ちる混乱に乗じてならば、逃げ切れるぞ!」
彼よりも五つ年上の兄が炎の向こう側で叫んだ。その傍らには病にかかり、ろくに歩くことすら叶わぬ母の姿がある。ジークとその兄が持つ剣はすでに血にまみれていた。
「お行きなさい、ジークフリート。せめて、せめてあなただけでも生き抜いて。母の、母の最後の願いです」
母親は気丈だった。死を目前にして末弟の生存を祈る姿は。
炎が一段と激しくなった。騒然とする兵士の声が聞こえてくる。徐々に炎は彼らを包んでいった。炎の巻き上げる熱風と、崩れ行く木造の館が少年の視界を奪った。いや、悲しみからの涙で少年の視界は歪んでしまい、母の兄の姿はぼやけてしまっていた。
「うわああああっ!」
少年は無力感と喪失感に耐えきれず、走り出した。炎から逃れるべく、生存本能のままに走り出した。理性よりも本能に身をゆだねた方が、楽だったのである。理性を閉じこめることによって、正気を保てたのかもしれない。少年は燃え落ちる館を捨て、闇の中を疾走した。
館を包囲する兵士達数人に出くわすこともあったが、それを切り捨てて前進する才能は既にこの少年にはあった。少年は遮る者を皆殺しにした。復讐心と、自分を発見したものは出来る限り少ないほうが自分の逃走手段が困難になると判断したからだ。
少年は返り血と怒りと悲しみと殺意で修羅になって、夜明けまで駆けた。
すでに父親と妹は、兄たちよりも先に殺されていた。
父は彼をかばって、妹は父の死に呆然としている姿を切り裂かれた。
少年と兄、母が逃走を試みたが、兄は少年と母を守るため、致命傷を負った。母はそもそも逃げ切れるだけの体力がなかった。
少年だけが逃げ延びた。
残酷な女神が彼と彼の家族との再会を遠ざけたのかもしれない。生きなければならない運命があったのかもしれない。ただの偶然なのかもしれない。とにかく、少年は生きた。復讐と宿命を背負って。
ジークフリート・フォン・ハノムハノヴァー。
ジークは本来の我が名を音節毎に区切って発音してみた。十二年前、捨てた貴族号を付けて。
俺はキュメイルとホーエンツ家に復讐を誓ったはずなのに。ずいぶん、昔に俺の心は冷めてしまったんだったかな。俺一人でどうになるものではない、か……
ジークは皮肉っぽく唇をゆがめた。
俺は今の俺でいい。別に過去に立ち返ったとしても、何が変わるというものか。
ジークは自身の体を跳ね上げるとそのつまらない客間から出ていった。
素朴で人なつっこい性格のミナはジェシカと談笑していた。
ジェシカはホーエンツ公爵カイルの実妹で、伯爵号も持つ高貴な身分である。普通の神経の持ち主なら萎縮して少なくとも会話に「壁」を作ってしまうことだろう。理性で相手が望まぬ事でも、本能でそうしてしまう人間が圧倒的多数だ。
だがミナはその「壁」を作ることがなかった。次の誕生日ですでに二十歳を迎えようかという彼女だが、精神と肉体は至って少女のままであり、その活力と純朴さはジェシカの心を心地よくさせた。
少なくとも、権力にこびうる者達との、心の通わぬ会話よりずっと親しみやすかった。ジェシカはミナを気に入っていた。
そうやって二人が廊下を歩いていると、彼女らの前に一人の男が現れた。巨躯である。兵士ではない。
「あ、ジーク」
ミナが言った。青年は澄んだ表情で片手をあげた。
「その節はありがとうございました。我が家の者があんな事をしているとは……かなしいばかりです。それにあれだけの市民の中、あの子供を気遣ったのは旅人であるあなた達だけだとは、悲しいことです。それも私達、為政者の責任なのでしょうね」
馬に蹴られた赤ん坊は一命を取り留めていた。ジェシカの応急措置と、迅速な医者の対応が幼き命を守ったのだ。しかし、ジェシカは悲しそうに皮肉の笑みを浮かべた。
ジークはそれに何の反応を見せず、ジェシカの顔を眺めやった。ジェシカの優美な首筋が怪訝で傾く。
「私の顔に、何か?」
ジークは小さな吐息を漏らした。ミナはそれを注意深く見た。ここ数年、ジークと一緒にいることが多かった彼女だが、はじめてみる表情だった。
「あのジェシカ嬢ちゃんが、立派なことを言うようになったもんだな」
皮肉っぽい声ではない。懐かしい声だった。
ジェシカの脳裏に過去の光景が鮮やかに蘇ってくる。それは数瞬の時をおいて、劇的な表情の変化へと導いた。
「ジークフリート……ジーク兄ちゃん?」
その乳母兄弟は、血のつながりなど関係なく兄弟であった。兄はよく妹の面倒を見たし、妹はよく兄の言いつけを守っていた。ある意味、理想的な兄弟像だった。時には姉妹喧嘩も起こしたが、次の日にはまた笑顔を見せ会った。
子供達には身分の差など、大した意味ではなかった。徐々に二人は成長して行き、先に思春期を迎えた少女が、たくましく育った少年にその感情が恋心へと変わっていった。だが、少年の方は少しずつ、少しずつだが、「身分」というものを、知りはじめていた。
この地を治め大陸の要である公国の娘と、一辺境の下級貴族との差を。
「どうして……どうして、ここに?」
「どうしたもないさ。つまりは成りゆきだ」
「もう、逢えないと思っていた……」
「俺はこの地を訪れることはないと思っていた」
ジェシカは涙ぐんでいた。それを見てジークは視線をそらせた。
「だが、俺はあの日を忘れはしないし、あの時に戻ることもできない。たとえ、復讐はすり切れて薄くなってしまったがね」
いつものジークと違う。ミナはそう感じた。何処がどういう風にと聞かれれば、答えることは出来なかったであろうが、確かに違和感を感じていたのは間違いではない。
「私達を……怨んでいるの?」
「いや、違うな。もう、過ぎたことだ」
ジークは皮肉っぽく笑って見せた。精悍な笑顔だ。それにミナは常の身近さを憶えたし、ジェシカは彼女に残る過去の人と違うと言うことを痛切に感じていた。
カランダ宮殿はその広さ、優美さはこの大陸でも頂点に立つ建築物の一つである。決して一大国の王の居城として恥ずかしいものではない。その宮殿を見て回りながら、少女は素直に感嘆の息をもらしていた。
「素晴らしいモノじゃのう。アステ・ウォールにもこれほどまで雄大な宮殿などありはせぬぞ」
年と姿に一致しない言葉遣いにハインツは初め苦笑を禁じ得なかったが、ここの所、ようやくそれに慣れはじめていた。
「先代の王、リヒャルト様が建てた城ですからね。あの方の王としての人望と名声が、これに現れているのでしょう」
ハインツは端的に説明をした。ルシアならば、「民の税を意味のない装飾へ変える。我々は本当に救い難き人種だ」と批判したかもしれない。
「それにしても、おぬしたちの国は反乱が起きておるのじゃろう? おぬしのような軍人がぼんやりしていてもよいのか?」
「さあ……」
ハインツは軽く肩をすくめて見せた。
「王弟ラウエル様が討伐軍を指揮して、この地を出たそうです。私の仕事ではないみたいですよ。第一、戦争が起きたからと行って、全ての軍人が戦争に行くわけじゃありませんよ」
ハインツは飄々と説明をした。口調から皇帝への尊敬は微塵も感じられなかったが、彼は常にそうなので、彼自身は我関せずという表情だった。
「それにしても朕と話をするのに物怖じせぬ奴じゃ。おぬしのような奴ははじめてみる」
ハインツはそれにも肩をすくめて見せた。何しろ、相手はアステ・ウォール帝国の亡命皇帝だと言われても、たかだか十三歳の少女なのである。ただ、身につけている髪飾りや服装だけが皇帝らしさがあったが、まるで不似合いな人形のようであった。それに敬意を表せ、と言われても難しい注文であった。
ただ、もうすこし成長し美しい少女になれば面白いと思う彼であった。悪の宰相に国を奪われた気高い美少女皇帝が、国を取り返すために同志を募る。街頭で演説すれば一個大隊ぐらいの参加者がけなげな少女の騎士になるに違いない。もっとも三流吟遊詩人の歌ぐらいの筋書きようだと、ハインツは内心苦笑した。
王弟ラウエルは実戦の経験は乏しい人であったが、その才能は万人が認めるところでもあり、二万人近いアムル公国討伐軍をわずか十日あまりで編成したことも非凡たるところであった。
アムル公国は復興してさほどの時間が経っているわけではない。どれくらいの人口そこに戻っているのかカランダ側では確かな情報が入っていなかった。しかし、曖昧な情報を統合して状況的に見てもアムル軍の兵力が一万を越える事はまず考えられず、倍の兵力でこれに当たることは戦略の第一歩として定石を踏んでいた。
「何、相手は敗残兵と烏合の衆。そして頭は愚鈍のミハエルだ。私達以外に誰に勝利の女神は微笑むというのだ?」
ラウエルは高らかに笑い、彼の元に集った諸将のまえに杯を掲げた。その自信に満ちた態度に諸将は大いに安心をして、それを賛美した。こうしてアムル公国討伐の軍は第一歩を動き出し、その脅威はアムル公国のミハエルの元に届くことになる。
「敵の兵力はおよそ二万弱と言ったところ、主力は重装歩兵。動きはあまりはやいとは言えませんが、着実にこちらに向かっておりますね」
ジャッドは部下の暗殺者達の情報を統合してミハエルに伝えた。この時点でハードウェア的にアムル公国がカランダ王国に勝っていたものは、この情報収集能力だけだと言って過言ではない。
ひとえにこれはジャッドの持つ暗殺者集団の能力である。ジャッドやかつてのラルフォードといった高名な暗殺者の元には、それなりの部下的な暗殺者達が多数付く。暗殺教団と呼ばれる闇組織からの伝統である。カランダにもカーミラの暗殺集団が存在したが、カーミラはラウエルではなく、ラッツウェルに忠誠を誓っていたし、ジャッドの組織と比べれば、ジャッドの組織の方が一日の長があった。
だが、その他に置いてカランダはアムルを圧倒している。補給力に関しては、アムルはほぼ無に等しく、アムルから見てカランダの経済力は無限にも思えた。
軍隊としての組織力もアムルは一朝一夕でしかない。そして二倍にも及ぶ兵力差。勝敗の奇数は素人の目にも明らかだ。だが、ミハエルは不適に微笑んでいる
「やはりここはヴァルハナ戦役で立場に危機感を持っているライゼル伯と手を結び、挟撃すべきでは?」
きわめて良識に富んだガルドが進言した。ライゼル伯ハインリッヒは先のヴァルハナ戦役でラッツウェル政権に刃を向ける形となっている。現在の所、罪は問われていないが、遅かれ早かれ、排斥される可能性は高い。その危機感を利用して離反させ、味方に引き入れれば、彼我の戦力差は縮まる。無論、政戦略を考える上でハインリッヒにとっても好機となる。
「どうかしら……彼が動いてくれれば楽だけど?」
ルシアが呟いた。
「違うな、彼はうごかんよ。彼はまず緒戦を静観してそれから動くだろう。今動くほど彼に決断力はない。そうだな、もしあちらさんの指揮官がハインツやゼフルトならば、迷わず、向こうに援軍を送るだろうな」
ミハエルは不適に微笑んで結論を述べた。絶大な自信家の表情だ。彼我の戦力差と、その状況を見る目を持ってして、ふりを楽しんでいるかのようだ。
たしかに機を見る能力はある。評判通りのただの愚鈍ではない。だが、この危機を回避しうる実行力を彼は果たして持ちうるのだろうか? もしも、回避し得ぬ場合、彼の中身がどうであれやはり愚鈍で終わってしまう。ルシアは怪訝そうにミハエルを眺めていた。
ミナは与えられた部屋のベットでごろりと横になっていた。貴賓客としてもてなされているのだろう、今まで眠ったことがないような立派で柔らかなベットだ。さして体重のない彼女でも柔らかく包むようにくぼみができる。
「ジーク……」
彼女は額に手の甲を当てて、眩しそうに彼の名を呼んだ。彼の過去、彼の口から漏れる真実は全て彼女は聞いた。ジェシカも過去を彼と共有する数少ない人物である。彼女がそれに同席したのだから、嘘ではない。ジークは軽々しく嘘をつく男だったが、物事によって嘘を付いてよいか悪いか、区別のある男であった。
ジークフリートは二十八年前にこのホーエンツ公国の地方領主であるハノムハノーヴァー家に生を受けた。家は古くからホーエンツ公爵家に仕える一族で、彼の父は政務を担当とする重臣として活躍していた。高潔な人柄だったが、伝統に捕らわれることなく、斬新な政策を繰り出して、幾つかの成功を導き出していた。
だが、風当たりも強かった。砂漠化が徐々に浸食しつつあるこの地で、いち早く潅漑を取り入れようとした彼だが、その費用は膨大なものである。それで彼は地元を治める名主や荘園主、豪族などを説得して費用を共同で出させようとした。今は損をしても、いずれそれは収益になると。だが理解する者は少なかった。実質、金を出すのは支配者であっても、恩恵を受けるのは農民たちであると判断されたからだ。彼らには目先の富が優先だった。
だがジークの父、マクシミリアンは将来の公国を憂い、今まで蓄えた家の財力と莫大な借金をし、工事を遂行した。農奴化した農民達は土地を失えば全てを失う。流民となった彼らは、浮浪者となってこの国の経済を食いつぶすだろう。
だが反発した荘園主や豪族はその工事を有形無形の妨害をし、工事は予定通りに進まなかった。増えていくのはマクシミリアンの借金と不満の声のみ。その不満が爆発したのが十二年前となる。
彼と彼の家族が滞在していたカイン市郊外の彼の邸宅。それを彼の政敵フレーゲルを中心とした私兵及び軍が奇襲をかけたのだった。名目は根も葉もないことだった。マクシミリアンが多大なる借金と費用のために、無断で公国の国庫を使用した、と。一族を殺してしまえば、口はなくなると言う手段であった。そして、中央に権力派閥を持つフレーゲルにホーエンツ家はハノムハノーヴァー家を黙殺した。
「あなたは復讐に来たの?」
ジェシカの言葉。十二年前、彼女は何も知らされなかった。
「復讐は復讐の拡大再生産さ。解るのに何年もかかっちまったがね」
ジークの返答。ミナにはそれがまだ脳裏に残っている。
「復讐……過去を引きずりながら生きる生き方……」
寝返りを打った。自分の剣が立てかけてあるのが見える。彼女の父の形見。
「復讐って目的が私だった……」
彼女も一族のほとんどを戦乱で失っている。アスブルク市の名家だったはずだ。いつのまにかカランダ王国によって謀殺されていた。今では、生き残りは彼女と彼女の祖父であるジルだけ。復讐を誓い、フェンリルに身を投じて剣の腕を磨いた。それしか自分に才能がないと思ったからだ。
「セレナ……アーディル……ジーク……ファティマ……みんな、つらい過去を持ってるのに……後ろを向いているのは私だけか」
もうすぐ、後一年足らずで二十歳になるというのに……
寝返りを打つ。何も知らないベットは柔らかく彼女を包む。溜息が、ひとつ。
「おい、ミナ」
部屋の入口からジークの声が飛んだ。反射的にミナは飛び跳ねるようにしなやかな上半身を起こす。体は軽かったが、頭の心は重く沈んだままだった。
「セレナやアーディル達の事だがな……」
「ん?」
「ジェシカに頼んで、ホーエンツ公国に入ったときは、保護して貰えるよう手配して貰おうと思うが、どう思う?」
「そうね。たぶんセレナ達も流れ着いた場所から南に向かうとすれば、ホーエンツ公国に入るわね。いい考えじゃない?」
「ああ、じゃあそうしよう。それで俺達はしばらくカイン市に滞在してもいいが、頃合を見てここから南のナルシャの街へ向かい、セレナ達を待とう」
ジークは頷いていった。ミナは怪訝そうに首を傾げる。
「どうして? カイン市はいろんな街道が交わる所だから、どんな道を取ろうが、この街に寄ることは確かじゃない。ここで待ってたほうがいいとおもうなあ」
「そいつは無理だな。この街は大きすぎて、もしもこの街をアーディルやセレナが通ったとしても俺達の目に留まるとは限らない。宿だって無数にあるじゃないか。その点、ナルシャはここから、アステ・ウォールに向かう街道で必ず通る点、かつ、街は小さく宿も数えるほどだ。ナルシャのほうが、彼らを捜すにはむいている」
さすがにジークは冒険者慣れしている。頭の善し悪し以前に踏んだ場数が違うのだ。ミナは納得して頷いた。
ジークの考えは全く持って正しかったのであるが、これを同時に利用する者と、セレナ達の心理状況を考察することが欠けていた。それが一つの事件を巻き起こすことになる。
「ふーっ! 今のはヤバかったね」
フードの中でセレナは息を吐き出した。
「うん、名指しだったし、かなり怪しまれていたね」
ファティマも大きく安堵の吐息を吐き出し、胸に手をやる。まだ、胸の中は高鳴っている。冷や汗ですこし皮膚と服のかすれがじとっとした感触がする。
先ほど二人は、ホーエンツ公国の巡回の兵士に尋問を受けたのだ。しかも、
「セレナとファティマ、そしてアーディルという旅の者を知らないか? それとセレナという娘は緑の綺麗な髪をしているとか」
二人はその兵士の問いに飛び上がるほど驚いた。実は、何度が同じような質問を受けて来たのだが、これだけ具体的なのははじめてであったからである。何度か、同じ経験をしてきたことで、かえって二人は冷静に対処することができた。
元々、素性が解らぬよう、セレナはフードとヴェールでその希有な髪を隠し、二人は旅の占い師という事で、偽名を使った。
無論、護衛も付かず、二人の女性きりと言うことで、かなりあやしい二人組なのだが、兵士に尋ねられる度、実際にファティマが占術の一部を披露して、その場を凌いできたのである。
「まさか、こんなとこで役に立つ何てね」
くすっとファティマが笑う。それにつられてセレナも笑みをこぼした。
まさか、二人を訪ねてくる兵士達が、ジーク達が差し向けた保護の手だとは毛頭思わぬ彼女らである。ただ、それは二人が人を信じる心を持たない人間であると言うわけではなく、彼女たちが受けてきた事情を知ると当然の対応だと思うことが出来る。配慮が足りぬとすればジークの案であり、彼女らの責任ではないのだ。
こうして狂った歯車はジークの経験とセレナ達の賢明さで元の回転を取り戻すことになるのだが、この誤解が二組の二人の再会を遅らせることになる。
「よろしいのですか? 道は険しくなりますよ」
「かまわぬ。そのほうがやりがいがあるというものだ」
「では……」
ジャッドにはその会話を澄ましている。もはや彼を止める者はなかった。
「まあラルフォードの手助けだと言うことが、ちとしゃくなだけだ」
彼はそう不適に微笑み、進軍を続けるカランダ軍を眼下に収める。威風堂々たる大軍ではあるが、彼にとってそれは何の意味を持たない。彼の表現を頼るところの、
「絵に描いた美女だ。どんな美人だとしても抱けねぇなら、つまらんだけだな」
である。
彼は今、アムル公国を離れている。
この地を訪れる前に、言葉を交わしたわけではないが、カーミラと接触をしている。彼女に接触を測り、たやすくその場を無事に離れることが出来る人間は少ない。特に彼女に敵と見なされている者にとって。
それを彼は軽くやってみせる。彼の姿をカランダに帰ったカーミラに「見せる」ということ自体が、彼に意味があった。
カーミラはその時、何故ジャッドが姿を見せたのか、全く見当つかずであったが、その数日後その意味を知る。
王弟ラウエル暗殺。
その報が、カランダ城内を騒がしたのだった。
「これでカーミラはラッツウェルを護るために、彼から動くことが出来ぬようになる。ラルフォード、お前の道を行け。奴をしばらく黙らせてやったんだぜ」
ジャッドが笑う。まるで、敵味方関係なく、その時を楽しむ彼らしい笑いだった。
ラルフは少女のため、南に向かった。
アーディルはもう一度、自分の生きる目的を確かめるため、もう一度彼女に会うことを決意した。
ジークは過去の地に戻っても、過去を過去として割り切れることが出来た。彼はもう、振り返らないだろう。
ラッツウェルとミハエル。それぞれはそれぞれの目指すところが見える。
セレナは流れるままではない。自分が捜すべき道を見つけた。
それぞれの道標は立っている・・・・・
