見慣れた風景の筈が、何故か心が落ちつかない。窓から入ってくる春風も心地よい筈なのに、居場所をなくした子供のように落ちつきを失っていることを感じながら、ルシアは窓の外に広がるオリハ海の無限を眺めている。
アムル城付近はかつてのアムル公国の如く復興の色を鮮やかにし、その城下の町並みもかつてのにぎやかさを取り戻しつつある。
「ここが、帰る場所だったのかしら」
ルシアは自問を呟いた。城の中は閑散と、空虚としている。
ミハエルやガルドらは戦場に赴いていた。ハインツが軍をまとめ、その三万弱の兵力の矛先を復興したアムル公国へと向けられたのである。
アムル公国軍は第一次討伐隊の司令官、ラウエルの暗殺によって第二次討伐隊の編成と到着までの時間を得ることが出来た。その為、敗残兵や志願兵などの集まった烏合の衆であった新生アムル公国軍を、秩序を持った正規軍へと訓練することが出来たのだ。
「暗殺やテロリズムで一個人を殺したところで時代の流れを変えることは出来ぬ。ただ、流れを止めることぐらいは出来るからな」
ミハエルはさらりという。そこに実の兄を死に追いやった影はない。もっとも、反目しあい、血のつながり以上の親しみなど微塵も感じぬ兄であったが。
「更にこの季節ですからね、討伐軍もそう長くは続きませんよ」
「それも計算の内だ。もう一ヶ月もすれば農繁期に入る。兵を土地に返さねば、土地が荒れるからな」
ミハエルに仕えるガルドが言った。ガルドは元々ルシアに忠誠を誓った騎士だが、ルシアがミハエルと結婚したことによって、ミハエルの下に付いているのだ。だが、今のミハエルにかつてガルドが認識した「愚鈍王子」の姿はなく、仕えるに値する男として、嬉々と彼の下で働いている。もっとも、それがルシアのためであるという心からか……
その彼らがいるアムル公国軍はノープルの街の北を流れるアスト川の下流、南側に陣を貼り、カランダ軍を迎えうっている。カランダ軍はその対岸にその巨躯の如き大軍を横並べていた。
数字的にカランダ軍は二万七千を数える。一方アムル公国軍は八千である。
陣の中でグスタフ・ド・ハインツはため息を付いた。この場所に陣を取って三日になろうとする。
「なるほど、リヒャルト三世ともあろう戦争の天才がアムル公国という一国に、様々な策略を持って挑んだと言う話が良く分かる。これだけ平坦な土地だから、正攻法が一番有効だと思ったんだが……」
ハインツの呟きは目の前を遮るアスト川だ。流れが急峻なこの川は橋が架かっておらず、通行はすべて渡し船だ。自力で渡る事も不可能ではないが、それほど小さな河川でもないから軍隊が行える方法ではない。渡し船は渡し船で、アムル公国側からは止められていたし、こちらからの渡し船だけでは、数がしれているので各個撃破の的になってしまう。かといって、軍艦を用いるほどの大河ではない。
「ならば、上流へ遡り、川幅が狭くなったところで渡ればよいし、もしくは海上から直接アムル市を攻めればよいではないか」
もう一つ、ハインツの溜息の発生源である彼の隣にいる少女が発言した。彼女はアステ・ウォールからの亡命皇帝アイラ四世である。
たいそうハインツの人となりを気に入った彼女は、無理矢理に従軍すると言いはじめ、危険だからとか、邪魔になるとか、従者が色々となだめてみたものの、この我侭頑固娘を言い聞かせれる者はなく、結局ハインツが「世話」をする羽目になっている。
「ローズハルトがここにいたらなあ」
最近のハインツの口癖である。しかしそれは、副将としての彼の能力ではなく、繋がる言葉はこれである。
「皇帝陛下を押しつけてやるのに」
そんなことも知らず、アイラはまるでハインツの顧問官か軍師と言った感じでハインツの側で色々と喋る。
「それにしてもライゼル伯は何をしている。我々の援軍要請に応えたのであろう? 我等と挟み打ちにする事が出来れば、アムル公国などたやすいのではないか」
「確かに……しかし、ライゼル伯はきっと動きませんね。政略上から彼はこの要請を断ることが出来ませんでしたが、彼にとってアムル公国が生き残るのは好都合ですからね」
「何故じゃ?」
「陛下はご存じないかもしれませんが、我々と彼とは一度敵対していましてね。彼の政治的立場を回復するために、今は我々に協力していますが、潜在的にはあまりなかが良くはないんです。つまり、彼にはアムル公国に生き残って貰い、カランダ政権を牽制して貰いたいわけですよ」
「ならば、何故ライゼル伯はアムル公国に味方せぬのじゃ?」
「まあ、アムル公国は復興したばかりで、カランダ王国に対抗する力はないでしょう。下手に味方をしてアムル公国が簡単に滅ぶようなことをがあれば、もう、これ以上は言い逃れできませんしね」
「理由もなしに参戦せぬ訳にもいくまい?」
「ええ、まあ色々な理由があるでしょうね。多分、ライゼル地方はここよりも温暖だし、農繁期も早いだろうから、十分理由にはなりますね」
ハインツがぼんやりと理由を述べる。その頃にはカランダ市にはライゼル伯ハインリッヒ挙兵するも、農繁期に入ったため、動員できる兵力が少なく出兵できずの報が入っていた。
「しかし、先の口調からいくとお主も本気でアムル公国を攻めようとはしておらぬな。まさか、お主も悪巧みを考えておるのか?」
ハインツに叛意はない。だが、アムル公国との決着をこの場で付けれるとは彼自身、思っていないことだった。意外に鋭いところがある、ハインツは軽く驚いてから応えた。
「この季節ですからね、我々も早い段階で帰らねばなりません。兵のほとんどは農民ですからね。そんなに簡単に決着が付くと思うほど私は楽天家じゃありませんよ。この遠征が終われば、あとは政治の戦いです。それは私の仕事じゃありませんよ」
「お主は、自らの全身全霊を振り絞り、自分の力で決着を付けようとは思わぬのか? いや、付けられなくとも、それに向かおうと言う姿勢はないのか?」
ハインツは少し苦笑して肩をすくめた。
「無理なものは無理ですよ」
そんな答えに、表情豊かなアイラの幼くも美しい顔が怒りの方角へ変わっていくことをハインツは容易に察した。
「一個人に出来ることはたいしたことではない。ただ、その能力は千差万別であり、各々が協力することが重要な事なのである……が、私の信念ですから」
と、言い訳がましくハインツが言うと、アイラは力が抜けたように呆れて言った。
「その潔さはお主の長所でもあるが、短所でもあるな」
ミナの受けた傷は思ったよりも深く、治療には時間がかかった。
全身打撲に加え、肋骨と鎖骨の骨折。絶対安静は免れなかったし、砂漠の街で薬草は高価な代物だった。運良くファティマは医術の心得があったし、呪術を学んだ身ゆえ傷に良い薬草もわずかながら持っていた。
その献身的な彼女の治療のかいあって、ミナは五日ほどで外を歩けるようになっていた。ただ、剣を振るったり、走り回ったりと言う激しい動作は以ての外だったし、過酷な長旅も無理というものだった。
結局、ミナの傷の静養のため、ナルシャの街に一ヶ月ほどは滞在することになった一行だったが、二週間もすると落ちつきのないミナは宿の内外でうろうろと歩き回ったり、興味の引くものを見て回ったりしていた。
「あれくらい元気なら、問題ないんじゃないのか?」
ジークは呆れて笑ったが、ファティマに言わせると、まだ骨の回復が不十分だからあまり動かない方がいいらしい。ラルフという世話のかかる大人と、しばらく世話を焼かないで良くなったと思ったら、今度は無鉄砲な少女である。彼女も苦労が耐えない。とはいえ、ファティマは一六歳、ミナは十九歳なのだ。
一方セレナは、随分と一人で引きこもるようになっていた。とはいえ、普段アーディル達と顔をつき合わせているときは、さほど暗い表情も見せず笑っているのだが、一人でいるときは沈黙の中で考えにふけることが多くなっていた。
もしも、あのシンシアと同じ、ガイアの血がこの身体に流れているのなら……あのシンシアやアルフレッドのような、強力な魔法が使えるはず。もしもこの先、彼らと相容れぬ運命なら……
セレナはその日から皆の知らぬ所で魔法の修練に励んだ。彼女の才能か、それともガイアの一族としての血か、その修練は着実に実に繋がっていった。それはたった一人同族と、まして血を分けた、今となっては唯一の肉親との戦いの序曲であったのである。
そしてミナの傷が完全に癒える頃、彼らは更に南へと足を進めた。まだ冬の香りが残るとは言え、アルカーティスで最も厳しい中央砂漠だ。朝夕の気温の柔らかい時を選び、セレナ達はアステ・ウォール市を目指した。
そしてミハエルとハインツがアムル公国で対峙する春のはじまりに、アステ・ウォールへと足を踏み入れる。
何故だろう、ぽっかりと心の奥底が空いている。
だから、私は不安なのだ。
その穴が埋まらないと、どうも落ちつかなく、胸騒ぎがする。
この不完全さが私の心なのか。
あの少女が、私の側に居るとき、その穴はなかったはずだ。
すべてが満たされたようなあの感覚は、何だ。
あの少女が、私の心を満たしてくれる。
「どうしたの?」
この季節になるとこの辺りは一定の時間に一定の風が吹き荒れる。季節風のようなものだ。砂漠が近いため、昼夜の気温差が激しい。その風だ。その風に外套を激しく揺らせながら白亜麻の髪を持つ剣士シレーヌが呟いた。
「ん? うん」
それに平行して歩く青年ラルフはぼんやりと呟いた。
「ホントにどうかしているよ。最近ぼんやりしてばっかじゃない。まあ、ぼんやりしてるのはあなたの特徴かもしれないけどさ」
シレーヌの言葉は何時も辛みがかかっている。それが彼女の特徴だ。
ラルフは白く霞む空を見上げた。
「何かが足りない、私の中にある心の何かが欠けている。だから、私はこの様に浮いた状態で不安なのかもしれない」
ラルフは少し沈黙をはさみ、遠くを見つめた。
「何時かはなしたと思う。かつての私の妻、ソフィアの話を。彼女が殺された後と同じよな感覚でに、心の何処かが足りないのだ。何か、忘れ物をしたような」
シレーヌは一つため息を付いて、軽く眉をひそめた。
不器用な男……自分の心さえまともにわかっちゃいないのね……
「ファティマでしょう?」
その名前にラルフは予想外に驚いてシレーヌを見た。
「そうだ、ファティマ……」
別に彼女の存在を忘れていたわけではない。だが、その名前を聞き、姿を思い出すと心の透き間が埋められていき、その彼女がここにはいないという事実が、その充実感を心の奥底にある闇へと引きずり込んでいくのだ。
「ファティマに逢いたいのね。彼女の側にあなたの居場所があるのよ。彼女があなたの、心の置場所を作ってくれる。けど、それが今はなくて宙ぶらりんなあなたの心は不安定になってるんじゃないかな?」
「ファティマが、私の居場所?」
「うん、まあ、なんていうか帰る場所、家族みたいなもんかな」
シレーヌは街道の先を見て微かに微笑んだ。淡い記憶が脳裏にシャーウッドの家族や彼らを包んでいた一族の姿を浮かび上がらせる。彼女の失われた家族だ。もはや、この大陸の何処にもない。
私の帰る場所は何処だろう……この身体さえ、死んでしまえば大地へ還るというのに……私は、私の心は何処へ帰ればよいのだろう……
シレーヌは自分が寂しげな瞳をしていることに気付いて、急に足早に歩いてラルフの前にでた。そして振り返ってラルフを指さす。
「だから、いい? 今度ファティマに逢ったら、絶対手放しちゃダメだからね。鎖に繋いででもね!」
「そうか、そうだね。うん、私はきっとファティマを愛しているのだろう」
シレーヌは珍しく驚いた表情をそのまま顔に出した。
「その言葉、ファティマに直接聞かせてやりなさい」
シレーヌはそこまで言うのは、何処かばからしくなったので止めにした。
春の風が吹きはじめた。彼らが目指す、アステ・ウォールはもう目と鼻の先である。
どちらにしろアムル公国を攻撃し、平定するのがハインツに与えられた命令である。ぼんやりと戦線を維持しているだけでは埒があかない。一方、アムル公国軍はその彼我の戦力差からも、長期戦に持ち込んで相手の撤退までふんばることが出来れば御の字である。
ハインツは今から本格的な攻撃を仕掛けたところで、完全にアムル公国を屈服させることは出来ぬと判断していたが、彼の下に付いている諸将達は、自らの自尊心と名誉を気にかけて、指揮官に攻撃を促していた。彼我の戦力は三倍以上なのだ。それでいて、手も足も出せずに、戦場を去るわけには行かなかったのだ。
さらにこのアムル遠征軍のハインツの手先となるべき中級の指揮官は、本来はラウエルの下の者達で、今までの戦いとはハインツは多少その手足に違和感を持っていた。さらにこの若い貴族に指揮を執られることに無形の反発があったことは言うまでもない。
そんな中、ハインツは軍を動かざるを得なくなる。
それは対岸のミハエルの陣営からも見ることが出来た。ハインツの本隊はアスト川の下流へと向かっている。急峻なアスト川も河口付近ともなると、徒歩でわたれるくらいの流れになる。とはいえ、急峻な川の流れが削りだした地形は、河口付近といえども鋭く、川の両岸と川底の高低差は激しい。難路と言わざるを得ない。
「ふん、ついに動き始めたか。しかし、この時期になってようやく動き始めるとは、奴等の中に不協和音があると見える。もし、俺がハインツならばもはや動かぬ。この遠征は彼我の戦力差を確かめるだけで十分な戦略的価値があるからな。もはや、ここで戦術的な勝利などあちら側に価値はない」
「しかし、相手が動き始めたという事は我々はその戦術的勝利を得ねばなりません」
ガルドが進言した。それはアムル公国軍にとって、きわめて重要なことだった。ミハエルも承知の上だと言う顔で頷く。
「もちろんだ。奴等から戦術的勝利を得ることで今後がやりやすくなるからな。と言うよりも、勝たねばならぬ。最初から我々に後はないのだからな」
悲愴的な言葉だ。だが、ミハエルにその表情はない。むしろ、力量の等しい相手とチェスをやるような、知的な笑みを浮かべて居る。
「では、我々には勝つための作戦が必要になりますが?」
「うむ、それも既に考えている。俺の読みが正しければ、ハインツはあのような単純な動きだけで、こちらを攻める訳がない。いや、凡将でもそれぐらいは気付くだろうな。まあ、策はある。何、奴等に勝たせなかったら、俺達の勝ちだ」
「小うるさい貴族の若い士官どもが出張っている。王宮はいつになく静かなものだ。その分、あいつは随分と頭を抱えているに違いない。ご苦労なことだ」
ローズハルトの手記である。彼は彼なりの言葉で親友の安否を気遣っている。ハインツが遠征に出向いているとき、彼は妻にこう漏らしている。
「足を引っ張られることはまあ間違いないが、ついでに命まで引っ張られぬよう、気を付けて欲しいものだ」
これは妻に失笑を買ったものだが、将来、自らがハインツを死に追いやることになろうとは、冗談でも思いつかない彼である。だが、それはこれより七年も先のことだ。
ハインツとガルドはこの戦場でそれぞれの誕生日を迎えている。とはいえ、小競り合い程度とは言え、ここは戦場であり、指揮官級の彼らが自らの誕生日に浮かれている場合ではない。ともかく、ハインツは二十六歳、ガルドは三十三歳にならざるを得なくなった。
ハインツは伯爵家であり、さらに様々な戦功をあげている指揮官である。しかしやはり外見は二十六歳の青年であり、威風堂々という容姿ではない。それに有形無形の反発は軍隊の中で良くあることだった。さらに、今回の部隊編成はラウエルが行った物が基板となっているので、名門の貴族や騎士が中級指揮官に当てられている。彼らの名誉心は戦功への欲求となって、激しく暗い炎となって現れていた。
「おい、おぬしへの不平不満が朕の耳にまで入ってくるようになったぞ。それでもよいのか?」
アイラはハインツの側にいることが多い。そのような者にまで不平が聞こえるというのは、相当広まっていることになっていると言うことだ。アイラは組織としてこの軍隊が脆くなり始めていることを気付いてた。
「わかってます。これでも手を打ったんですよ。しかし、今は時期が悪い。もう少しもう少し経てば……まあ、それまで彼らが我慢してくれるのを、祈るしかありませんね」
しかし、ハインツの溜息は増えるようになる。
ハインツは本隊をアスト川下流へと移していた。河口付近なら、歩いて川を渡ることが可能だからだ。しかし、そのまま攻めようとはしなかった。散開陣のまま待機を命じたのである。
が、血気逸る若い中級の指揮官は功を焦って複雑な河岸を渡ろうとして、アムル軍の弓兵のねらい打ちを受けた。結局戦果は挙げられず、無駄な命が落ちただけである。それが数度行われた。
「私の作戦案は全体に行き渡っているのだが、その意図は全体に伝わっていないようだな。不幸なことだ」
報告を受けたハインツは冷淡にそう言ったものだが、彼を良く知る者なら、その表情の裏の苦渋を感じられたはずだ。アイラはそう後に語っている。
アムル軍は数度の戦闘において、一方的な勝利を収め、士気が高まっていた。が、アムル軍は自分たちが有利な位置から動こうとしなかった。ミハエルの統率力が末端まで行き届いていることと、まともにぶつかり合えば自分たちに勝ち目がないことを彼らは良く知っていたからだ。
「どうもハインツの意志はその手足まで届いていないな。陽動にしては質を伴っていないし、強襲にしては力と量が足らぬ。ご苦労なことだ」
ミハエルは自陣の物見の櫓に自ら上って対岸のハインツの陣を見つめていた。
油断は出来ない。ミハエルの鋭い眼光がそう語っている。
「おそらくあれだな。西からも別働隊が動いているはずだな。奴等の兵力とこの地形、一方方向から攻めるだけでは無理がたたる」
月影が頼りなく漂っている。ミハエルは月をにらんだ。月は人々の争いなど嘲り笑うかのように細く微笑んでいる。ミハエルも目を細く凝らして月を見つめた。
「そうか……読めたぞ。ハインツめ、そう来るか」
それから二回夜を繰り返すと、その世界は闇の深淵の中だった。新月の夜である。
有るのは頼りなく輝く星々のわずかな明かりだけであり、昼の世界にへばりつくような人間達にとって、それは暗黒も同然であった。
その闇を縫うように移動する一団があった。ハインツの部隊である。
新月の闇夜の悪路を行軍するのは、きわめて危険である。だが、それでも敵に発見されて殺意と矢が降り注ぐ道を行くよりはましだというものだ。ハインツの一軍は慎重にアスト川を越し、その間、ミハエルの部隊に発見され弓兵の攻撃を受けずにすんだ。
河岸を登り終えた彼らの視界に、ミハエルの陣地の野営の光が見える。
「敵には発見されてないと思われます。一気に奇襲をかけますか?」
ハインツに付いていた年の若い士官が尋ねた。作戦通りに事が進んでいるのだ。当然の進言であったし、ハインツもそのつもりでいた。
だが、ハインツは一瞬戸惑いの目で敵の陣を見つめた。
「何かおかしくはないか?」
声を上げたのはアイラである。彼女は目の良さには自信があった。その紫紺の瞳は黒髪とはアンバランスだが、その性能はすこぶる良いようだ。
「陛下もそう思われますか?」
「うむ、野営の陣とは言え、たいまつの火が瞬きもせぬ。おそらく、あの陣はもぬけの空だと思うが……」
アイラは戸惑った口調で言った。戦場に出た経験などないだろう。だが、ハインツはこの恐るべき慧眼を持つ少女に驚きの息を一つ付いた。
「私もそう考えます。しかし、これは不味いことになりましたね。彼らは私の策を既に見破っていたみたいですね」
「そんな呑気にしていて良いのか?」
「とはいえ、この状況下で下手に動くことも危険ですしね。彼らもその事に気付いてくれればいいのですが……」
ハインツは空を見上げた。晴れ渡っているが、月はない。この暗黒を支配するのはやはり人ではなく、魔物なのであろうか。ハインツはそう呟きかけたが、司令官としての義務を怠る彼ではなかった。
少人数の斥候部隊を敵陣に向かわせ、自らは密集陣を組み立てて、アムル軍の奇襲に備えた。
「しかし、おぬしも智将と呼ばれた男ではないか、このままややられっぱなしで居るつもりか?」
「そうですね。戦略的勝利は既にあちらのものですから、戦術的勝利にこだわる必要はないのですが、やられっぱなしというのも私の自尊心にも関わりますからね」
「ほう、初耳だのう。おぬしに自尊心など有ったのか」
「まあ、私の策をあちらが見破っていると言うことならば、我々にももう一度手を打つ機会はありますよ」
一方、ハインツが送り出した別働隊であるが、指揮官はアインラッハ准将と言う、初老の貴族であった。無能と言うわけではないが、用兵学に堅実で柔軟性に欠くところがあると、周囲の評価はそれである男であった。
「遅い。作戦ではそろそろ、敵はこちらに向かうはずだが?」
アインラッハはアムル軍の後背に位置していて、もしアムル軍が現在の位置から退却するとすれば、この道を選ぶはずである。つまり、ハインツの作戦は夜襲から逃げ出したアムル軍をアインラッハの部隊がせん滅、挟撃に追い込もうとする作戦である。誰でも考えそうな作戦ではあるが、実行面で新月の日を選ぶ時を見る目と、別働隊のアインラッハにも敵の本隊よりも多い、Ⅰ万2千の戦力を与える用心深さと豪放さが、ハインツらしい戦術であろう。
だが、
「敵襲ー! 敵襲ー!」
後方から怒号がした。それは色々な声が音となってアインラッハの耳にも届いていくる。
「馬鹿な、何故そのような方角から敵が?」
アインラッハは背筋が冷たくなる思いがした。奇襲をかけようとしていた部隊が、奇襲を受けてしまったのである。陣形も兵士達の精神も防御に向けられたものではない。アインラッハの部隊はたちまち大混乱に陥った。新月の夜である、乱戦は数の少なく統制のとれたアムル軍が有利であるのは自明の理である。
「奴らめ、泡を食っているに違いない。まあ、お前がいなければ、別の手を考えねばならなかったがな」
ミハエルは戦況を見つめながら、隣に戻ってきたジャットに笑みを向けた。
この時、ミハエルに存在しハインツになかった物は情報収集能力である。無論、カランダ軍にも斥候は存在するのだが、ジャッドの組織した暗殺者の集団にはとではその能力に差がありすぎた。闇夜の中であるとすればなおさらのことだ。
それを巧みに扱い、ミハエルは不透視な闇夜のカーテンを手品師の如く透視して戦場を支配しているのだ。それはミハエル自身の能力ではないが、他の能力を十分に生かす力は彼の才能の為すところであった。
思いも寄らぬ奇襲にカランダ軍の別働隊は混乱した。布陣も防御にむくものではない。アインラッハは指揮官としての責務を果たすべく指揮を執っていたが、いかんせん状況が状況であった。彼を無能だと攻めるのはあまりに酷だろう。
「どうやら、勝ったな」
ミハエルは闇の中の戦場を眺めやって微笑んだ。既に、戦略、戦術ともに彼の勝利は間違いないものであった。
だが、戦局はもう一転する。既にこの戦いの趨勢は決まっていたが、この先を占うためには重要な事柄がまだ未決定のまま漂っていることを二人の智将は見抜いていたのである。
「よし、敵を徹底的に潰せ」
ミハエルが指令を出す。それにガルドが怪訝そうに彼の顔を見た。
「説明が必要か? 戦術的勝利は得た。戦略的にも勝利といえるだろう。だが、長い目で見るとここで圧倒的に我々が勝つことに意義がある。和平交渉にしろ、何にしろ好条件を整える必要がある。たとえ、見る者が下らぬと言っても、世はそう言わないだろうからな」
つまり、ミハエルはこの戦いで数的に圧倒的な勝利を得て、カランダ側と政治的な交渉をするつもりなのだ。その交渉に軍事的勝利を背景に有利な条件で望もうと言うのだ。最も彼の武器となる軍事力は鋭くとも脆い細剣であるのだが。
アムル軍はそのままカランダ軍の別働隊に食い下がり、闇夜の中で深紅の絨毯を広げ続けた。
だが、戦場に違う風が吹きはじめる。
視覚による戦場の把握が難しい新月の夜の戦いである。ミハエルはジャッドの部下を使って人的な力を使って戦場の情報を得ていた。ジャッドの部下は暗殺者であり斥候ではないが、人並み以上の働きをする精鋭だ。
もし、その情報網がなければ、ここで壊滅していたのはアムル軍の方だったかもしれない。
カランダ軍の別働隊を責めたてていた右翼の中腹に別の部隊からの急襲を受けたのである。それも別働隊と同等か、それ以上の戦力である。すなわち、アムル軍全軍よりも戦力は上である。
別働隊にその兵力と秩序はない。
「ハインツか!」
「的が私の考えを読んでいるとならば、敵の位置は自ずと限定される。負けっ放しでは今後がやりにくくなる」
ミハエルの驚愕とハインツの指揮が同時に展開された瞬間だった。
攻め手であった筈のアムル軍は一気に守り手へ転じなければならなかった。しかし闇夜の中、横腹を急襲されたとあっては、組織だった抵抗は至難を極めている。
「ちっ、さすがに最後まで勝ちっ放しとはいかないみたいだな。まあ、いい。この戦いは俺の勝ちだ。全軍を撤収させろ。戦は終わった」
ミハエルがジャッドに命令を下した。ジャッドはそのまま部下達に伝令を出す。
「敵に近すぎます、追撃の恐れが……」
「常識論だな。確かにそうだ。だが、相手の追撃はない」
若い士官はガルドに問いたが、ガルドは落ち着き払ってそれを否定した。若い士官は疑問に思えたが、
「敵の引き際に合わせて、こちらも攻撃から手を引くんだ。深追いすれば闇の中で同士打ちになる恐れが高い」
と、ハインツと異口同音に呟いたのである。
その声の中にミハエルの才能を認める声色があった。
だが、私の帰する人ではない。
頑迷と笑われようと、彼にはルシアのために働く。その誓いは変わらぬのであった。
数日が経つ。
「そうか、ハインツは勝てなかったか」
ラッツウェルはハインツらの帰還よりもいち早く、早馬の報告を受けて、事態の進退を知っていた。
紅茶の香りがした。
「兄の出征はいささか時期が悪くございましたね」
声色に多少の躊躇があるのが、グスタフ・ド・ハインツの妹エリザベートだ。肉親をあからさまにかばうのは気が引ける。そんな若さを持った彼女だ。
彼女はラッツウェルの護衛役としてここにいる。性分として剣士の度合いが強い彼女だが、貴族の女である。紅茶をいれるくらいのことはできる。
「そう気にするな、エリ。彼を責めるつもりはない。無理な出兵であることは誰でも察することが出来た出兵だ。予も出さずにすむ出兵ならば、出さなかったのだが、政治的にそうも行かぬからな」
封建国家であるカランダ王国はいわば小国家の集合体である。もし、アムル公国の独立を無条件に認めれば、他の力ある封建領主も次々に独立の動きを見せるであろう。ヴァルハナ戦役でラッツウェルは力を付けたとは言え、絶対たる力を持つにはいま少しの時間が必要であった。
「もはや兵を動かす事は出来ない。政治での戦いだな」
ラッツウェルはその駆け引きが正直な話、あまり好きではない。物心付いてから、その渦中に居たせいかもしれない。第一王位継承者。その言葉にまとわりつくきな臭さと政治的な駆け引きの匂いは似ていた。
氷の彫刻の表情をわずかに苦渋の色が差し掛かる。
それをいつの間にかラッツウェルの専属となったカテローゼが見抜いた。
しかし、それを和らげる方法を知らない少女は、困っておろおろとしただけである。
その無力だが、それ故の愛らしさにラッツウェルの心は和むのである。不器用なだけ、伝わる真。時と場合によってはそれは肯定なものとなる。
「そんな顔をするな。予は負けぬ」
ラッツウェルは紅茶を口に付けながら、カテローゼの髪を愛でた。手入れはしていないが、少女の艶やかな髪だ。その突然に、カテローゼは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「アリアはどうしているか?」
「は、はい。今日はお体の調子もよろしいようで……」
「そうか。では会いに行こう。午後からはまた忙しいからな」
ラッツウェルは軽く笑うと、立ち上がって部屋を出た。
その後ろ姿を見送ってカテローゼは悟っていた。ラッツウェルの行動は何かの意図がある物ではないと。無意識のしぐさに過ぎない。
私の心は、あれだけあの人に捕らわれているのに……
帰る場所に、自分の居場所がない。あるはずもない。一縷の希望さえないとわかっているのに焦がれていく胸は何なのだろう。カテローゼは自らのラビリンスの奥底にいる。
それは、その隣で主君を見送るエリザベートとて、同じ事だった。
帰途の馬上でハインツはもはや習慣となりつつあるため息を吐いていた。これで精神的に病んでいないのは、彼の生来の楽天的な一部分が良薬となっているに違いない。
「やれやれ、とんだ骨折り損だったな。まったくこういう任務は他の人に当てて欲しいものだ」
「なんともまあ、覇気の無い男よ。散々たる負け戦のあとで更に逃げ腰とは、それでも男の中の男か?」
「別に、男の中の男になったつもりはないんですけど」
「ええい、つべこべ言うな。おぬしはそれでもカランダ一の将か?」
「別にカランダ一の将になったつもりもないんですけど」
「まったく。あの負け戦の中で、完敗を防いだ手口は朕としても評価せざるを得ん所だが、今のおぬしをみているとそんな気も失せるわ」
ハインツに馬をならべるアイラは小さくため息をつくと、呆れ顔でハインツの顔を見やった。ハインツはあまり締まりのあるとは言えぬ表情だが、遠くの方に視線を投げかけている。その瞳は常人の視野を越えた未来を観ているかのようにも見える。それがここのところアイラの少女である部分をわずかに刺激しつつある。
「おぬし……何を観ておる?」
「え? ああ、明日、雨がふるとやだなあ、と思いまして」
「それだけか?」
「それだけです。だって、雨が降れば嫌でしょう?」
アイラは小さな口をほうけたように開放してハインツをみた。そのハインツは微笑んでいるかのようにもとれる表情で平然と馬を進めている。
「一体何なのじゃ、この男は」
「は? 何か言いました?」
「いーや、おぬしの空耳じゃ、気にすることはない」
アイラは自分でも理解しきれぬ心の不愉快さに苛立ちを隠せぬまま、暴君よろしくあたりの兵士たちに愚痴と八つ当たりをしばらくはた迷惑にも投げつけていたのである。
少女の複雑な心境を自ら解析するほど、彼女の精神は成熟してはいなかった。
アムル市は沸いている。ミハエルの指揮した新生アムル軍は見事に大軍のカランダ軍を破り、独立を守り通したのである。「愚鈍王子」と散々たる評判のミハエルは、いまやアムル公国の英雄となっていた。
その彼は今、復旧もそろそろ様になってきたアムル城内にて、彼の妻とともに居る。
「約束は果たした。と言うところかな」
ミハエルはいつものあまり品がよいとはおもえぬ笑みを浮かべている。習慣といえば習慣だが、作り笑いがいつのまにか、彼のくせになってしまったのかもしれない。ミハエルは彼の妻となったルシアによった。そして意外なほど機敏に動いて彼女の唇を奪う。
ルシアは一瞬の狼狽の後、ありったけの両腕の力で彼を突き飛ばした。
ルシアはミハエルの才能を、ミハエルはアムルの血族であるルシアを、それぞれ政治的な思惑で婚約したに過ぎなかったのだ。
「やれやれ、俺達は夫婦ではなかったか?」
ミハエルは皮肉っぽい口調で問い掛けた。
強気なルシアなら、反論を浴びせてくるだろう。ミハエルはそれは予想の内であった。だが、先見の士もこの時ばかりは予想を反した。
ルシアはうつむいたまま、沈黙を保ち続けていた。長い髪が重力に引かれて彼女の表情を隠してゆく。だが、ミハエルはその髪の垣間から困惑した彼女の表情を悟っていた。
「私はあなたを……」
「何、約束を果たしただけだ。しかも、これからも決して安穏な道が広がっているわけではない。あなたの力も借りねばならぬだろう」
ミハエルはルシアの声を断ち切って、彼女の肩を抱いた。意外な広さを持つその彼の肩の中でルシアは声を押し殺してわずかに震えていた。
ルシアは才女だ。それも類希なる求心力と優れた判断力をもつ女性だった。だが、それは弱さゆえの彼女が生きていく上で身につけた力だった。本来はとても心の弱い女性なのだ。ミハエルはそれを看破していた。彼がその気になれば、この不器用な少女のようなルシアを愛でおぼれさせることなどたやすかったであろう。だが、彼女のような才能はそれではその才を失わせることになる。誰かに頼ることは、弱き心から力を失わせる。
ミハエルはこの時、必要以上にルシアを愛すことはなかった。彼女の本質を知っていたからである。幾人もの女性を知る男性であるからこそ、看破できた本質であった。
近い将来、必要となるルシアの才能を彼は保持することを望んだ。
だがこの時、ミハエルとてルシアを愛していなかったわけではない。
この時期、ジャッドとカーミラはもう一度顔を向き合わせている。
この時、二人に戦いというものは発生していない。奇妙なことに暗殺者たちは敵味方に割れていたとしても、必要でないとき、暗殺の障害とならぬときには特に争いを起こすものではなかった。それはこの二人とて同じであった。無論、ジャッドは私闘を好む性分ではあったが、不必要なほど戦いの亡者に取り付かれているわけではない。
「私らしくない、闘いであったとあざけりたいのか」
「そうだな、たしかにおまえらしくない闘いだった。いや、ちがうな、やつの前でおまえは実におまえらしかったかもな」
カーミラははっとなった。だが、鋭い視線をジャッドに向ける。その威嚇の視線は並みの男なら萎縮せざるをえないほどだが、さすがにジャッドは意にも介さない。
「昔からそうだ。おまえはやつの前では常のおまえではなくなる。いや、どちらがおまえの本質かどうか俺には分からんがな」
「あいつといるときが異常なだけだ。私はずっと……」
「どちらのおまえが本質かどうかは、時間の配分だけできまわるわけじゃない。たとえ、一瞬しか現れぬものでも、それがその人間にとって本質である可能性がないわけじゃない」
カーミラは憮然と表情で沈黙した。
「結局、俺達はもう一度やつに会わねばならんな」
「無論だ」
「復讐か?」
カーミラは答えなかった。否定もできなかった。ただ、その場から姿を消しただけである。
ジャッドはその場からしばらく動かなかった。
「因果か。しばらく俺達は俺達互いを縛り付けた鎖を断ち切ることはできないらしい。十年も昔のことではないか。馬鹿らしいことだ」
ジャッドは自嘲した。十年の前のことだ。今更……
人とは不条理な生き物である。言葉で割り切って見せても、心の暗雲立ち込める底の方では、ある事象を完全に消すことなど不可能なのだ。
深すぎる彼らの因縁は近い将来にもう一度、ラルフォードとの再会がある。しかし、それが負の因縁から解き放たれぬ以上、彼らには不幸な出来事でしかない。しかし、すでにそれを止める手段を彼らは持たなかったし、無論そんな手段などありはしなかったのである。数年後、この三人は暗殺者という裏社会から三者三様にその姿を消すことになる。
冬は季節風の影響でアステ・ウォールの南部は激しく乾いた風が内陸から海へながれ込む。大部分が砂漠化したこの地方でもようやくセレナたちは緑が視野に入る地方へときている。アステ・ウォールはまもなくの到着であった。
セレナたちは程なく、砂漠と平原を分ける丘陵地帯を抜け、その視野にアステ・ウォール平原を望んだ。その中心には今もこの大陸の帝都たるアステ・ウォール市がその巨体をたゆたえている。全盛期の人口は十五万を超えたともいわれている。だが、その宝玉も長い年月によって削り取られ、肥沃な大地は褪せ、人の心は荒廃し、そして帝国は滅びの道を忙しかった。
そのアステ・ウォール市の北面の門にあたる位置に巨大な塔が聳え立っている。
伝説となってこの大陸中にその名を知らしめたるガイアの塔。
アステ・ウォール第一王朝成立以前より存在する巨大遺跡。先史時代の巨大すぎる足跡である。未だかつて、この巨大建造物を超える建造物は存在し得ない。それほどまでに、伝承されるガイアの一族の支配力とその技術は高かったのであろうか。それとも、この巨大建造物は人知を超える何がしかの力による産物なのか、今となっては誰も汁粉とのできぬ謎である。
その遠方からも巨大に望むそれを微動にもせず、セレナは見つめていた。
吹きすさぶ風が彼女の緑の髪を巻き上げて躍らせる。だが、それを気にも留めず、セレナはじっとその塔を見下ろしていた。
この短い期間の間、セレナの魔力は以前とは比べ物にならないほどになっていた。シンシアとの二度目の出会いの後、魔法の鍛錬を欠かすことはなかった。あの魔物であるシンシアと血がつながっているのなら、もっと力をつけることができるはずだ。そして、アルフレッドの思惑がどうあれ、真実を知らなければならない。セレナの願いは現実となりつつあったが、自らの力が増せば増すほど、自らに流れるガイアの血を意識せざるをえなかった。
セレナは視線を感じた。
アーディルである。彼は風で乱れた髪をかきあげながら、微笑んでいた。
「ついに、ここまで来たな」
「うん、きっとアーディルが居たから」
「よせよ、お世辞を言っても何も出ないぜ」
ミナがすでに後は下りとなった緩やかな丘陵地帯を下りはじめている。それを追うようにジークとファティマが居る。
「何してんの。さ、後もう少し!」
先の方でミナが大声をあげて手を振った。
「よし、行こうぜ」
隣でアーディルが声をかけた。
セレナは微笑んでいた。
いいひとだちだ。
本当は、彼らこそが帰る場所だと知らず知らずのうちに分かっていたのかもしれない。 でも、自分がガイアの一族で、こういった数奇な運命をたどらなければ、彼らにあうことすらなかっただろう。人と人とのつながりが、人の帰る場所なのだ。
セレナは微笑んでいた。
運命は流転する。
アステ・ウォール市内は古い町並みながらも、人で活気に満ちている。
だが、セレナたちが訪れた同じような大都市、ヴァルハナ、カランダ、カイン。それらに比べればどこかさみしげで、夕暮れ時の太陽を惜しませるような、さみしげなにぎやかさだ。
ヴァルハナやカランダも多数の浮浪者や流民を抱え、治安はあまりよい状態ではあったが、アステ・ウォールはさらにひどい。子供のスリや万引きからはじまって、白昼での強盗。さらに風紀も乱れていて、巡回の兵士は市民を恐喝しては特権をむさぼるかの行為だ。
「これはひどいな」
「ああ、下手な宿に泊まるとその宿屋が強盗だった、なんてこともあるかもしれないぞ」
いち早くそういった空気を嗅ぎ取れるアーディルとジークはそんなことをつぶやきながら、市内を回っている。無論、セレナ、ファティマ、ミナも同行させている。こんな街で彼女だけにするのはあまりにも危険である。とはいえ、彼女たちなら、ただのごろつきなど、追い払うなり逃げるなりするのは難しいこととは言えないだろう。
だが、あのガイアの塔にはアルフレッドが待ち構えている、とのことだ。油断はできない。なるべくなら行動をともにしたほうが、万一の備えになる。
とにかく、一行は旅の疲れを癒さねばならず、用心深く宿を選んだ。
アルカーティスは大陸中、ほぼ同一の言語を使う。無論、地域によって方言や微妙な発音は違うのだが、この地方の方言はジークが心得ていたし、特に宿の者に怪しまれることはなかった。また、ジークのような巨躯の戦士が交渉にあたれば、へたに手を出せば怪我をするのはそちらの方だぞ、といった威圧感もあり、五人は特に何事もなく次の朝を迎えていた。
ちなみにセレナはアルフレッドの思惑を具体的には話してはいない。セレナとさらわれた少年、セシルのガイアの力を利用しようというガイアの一族だ、と説明しただけである。
「とにかく、あちらさんは俺達を好意的に見てるわけじゃなさそうだし、気を付けろよ」
「むこうに人質を取られている以上、不利なのは覚悟しなきゃいけない、か」
アーディルの呼びかけに、ミナが右親指の爪をかんだ。
無論、セレナたちはセシルの魂が既にこの世から消えていることを知らない。
「やはり来たな、セレナ・アスリード。おまえの持つガイアの剣と宝鏡。そして私の持つ、玉。そしておまえたちの命がこの塔に捧げられたとき、すべてが始まる・・・」
暗く沈んだ広間の一角でアルフレッドがたった一人笑みを浮かべている。その視線の先には祭殿が祭られてあり、そこにセシルの亡骸も安置されている。魔法的な力で作り上げられたクリスタルで彼のからだは腐敗を免れていたが、彼の心臓は無残に抉り取られたその姿のままだった。
一瞬、風向きが変わったような気がした。
それは風の精霊のいたずらなのか、ファティマはそれを敏感に感じた。砂漠がちかいせいか、風は乾ききっている。そこに懐かしい芳香を感じた。
もしも、奇跡というものがあるなら。それがいたずらっぽい神の気まぐれなら……
ファティマの胸は焦燥に高鳴った。
まさか……
ファティマは駆けた。
「ファティマ?」
並んで歩いていたセレナの声が遠く聞こえる。
その駆け出した彼女の視線の先に……
「ファティマ……」
ファティマの胸の高鳴りは決して空振りではなかったのだ。人知を超えた何かが二人を再開させた。二人の願いを神がかなえたのだろうか。そこにラルフ・ラスティアスの姿がある。
「ラルフさん!」
ファティマの駆け足は徐々に全力疾走へと変わった。彼の寸前で転びそうになる。それを彼は優しく受け止めた。
「ラルフ、さん」
彼の胸の中に顔を埋めながら、ファティマは彼の名を呼んだ。
「ただいま、ファティマ」
その言葉の意味を、彼女はすべて理解していた。
運命を自らの意志とは関係なく、時流によって流された少女ファティマは、帰るべきところへ帰ることができた。このとき彼女は彼の居る場所こそが、自身の帰るべきところであり、彼もまた、彼女の場所が自らの場所なのだと悟っていた。
一方、運命に翻弄され続けた少女、セレナはここに来て自らの運命を切り開くべく、この地に立っている。未だ、彼女にはここがすべての終焉の地、帰る場所だという確信はない。むしろその違和感に疑問すらある。しかし、ここは彼女の宿命という人生のラインで避けて通ることのできぬ場所であると直感的に悟っていた。
セレナは天をつくガイアの塔を眺めた。
彼女の運命の流転の地は、今ここに最終局面を迎えようとしている。
