歴史に名を刻むと言うことはどういうことか? それは英雄であれ、悪党であれ、その肉体が滅び魂さえも消えうせても、言葉と言うものが存在する限り、人々の記憶の中で生きつづける。文字通り歴史に名を刻むと言うことは、消して消え逝かない何かを残すことになるのだ。
温暖化と乾燥化を重ねるこのアルカーティス大陸が、やがて人の住めぬ荒涼の大地となった時、又その歴史も風化の理をうけねばらなぬのだろうか?
だが、何時とも知れぬ、何処とも知れぬ大陸での物語は、今ひとつの終焉を迎えた。
ミハエルは彼が出奔してからまだ半年も経たぬうちに彼の故郷へと戻っていた。彼のふてぶてしいまでの胆力がなせるわざともいえた。彼はカランダ王宮内の最高級の来賓室で彼の兄であり、現カランダ国王ラッツウェルを待っていた。
また、彼はその間にもう一人の男と会見を求めている。
グスタフ・ド・ハインツ。歴史が伝えるところの稀代の知将であり、ラッツウェルの腹心であり、後にラッツウェルとカランダ王国の最大の敵となる男だった。
この二人は一度、戦場で相対している。
若くして数々の戦功を上げたハインツに対し、寡兵でそれを退けたミハエルの手段はかつての二つ名「愚鈍王子」を返上するに値した。
「しかし、公とこれほど早くお会いすることになるとは思いませんでしたね」
ハインツは笑って言った。緊張感のない柔和な表情が彼の特徴ではあったが、彼と戦場で戦ってまだ一月ほどしか経っていない。そして、ミハエルはカランダ王家の直系であるが出奔者である。その呼び名は非常に難しいものだったが、ハインツは彼を「公」と呼んだ。ここで彼以外の者であれば他の呼び名を用いてしまっただろう。
ハインツがミハエルを「公」と呼んだ意味はハインツの先見の明であり、未来を表していたのである。
それにミハエルは笑った。愚鈍王子と呼ばれていた頃の、品性のない笑いを色濃く残していたが、目の光は以前とは違う知性が宿っていた。すでにその才能を隠すつもりはない。そういった意思が込められている。
「それはアムル公国の独立を認める、ということか」
ミハエルは率直に言った。ハインツはそれに対し、少し困った表情を作ったが、特に慌てる風でもなく自然体の彼のまま言った。
「陛下がどうお考えになっているかはともかく、事実上そうでしょうね。少なくとも、カランダにとってアムル公国ひとつに何時までもとらわれている訳にはいかないでしょう」
ヴァルハナ戦役と、アムル戦役、立て続けの内乱はカランダ国内の勢力図を急変させた。地方貴族の最有力者の一人、ドゥルジ伯はヴァルハナ戦役の敗者となり、もっともカランダ中央から離れ、独自の勢力圏を築いていたライゼル伯ハインリッヒはアムル戦役において限りなくカランダよりの中立を決め込んだ。時勢はカランダのラッツウェルの元にある。そして、ラッツウェルは未だ三十にも満たない若き王だが、鋭気とその才覚はカランダ国内で収まりきるものではない。
「ひとつ、聞きたい事がある」
ミハエルは娯楽を楽しむかのような顔でハインツをみた。ハインツはその表情にこそこの人の人となりを見た様な気がした。
「この人もまた、ラッツウェル陛下と同じ、ひとつの大国を治めるだけの器を持った人だったのだ」
ハインツはそれを声には出さず、ミハエルの問いに首を縦に振った。
「ハインツ、おまえは何故、ラッツウェルの元で戦う? 俺は俺の野望のために戦いをはじめた。戦い始めるには十分な理由だ。おまえは何故戦いに身を置く?」
ハインツは静かな瞳でミハエルを見た。
「私は自分の好きな人のために、その人のことを助けるためにお手伝いをさせていただいてるだけですよ。その人が私を必要とする間、私は戦いに身をおきます。それも十分な理由でしょう?」
ハインツの声は穏やかだ。ミハエルはもっともだ、と応えたが、鋭い目で彼を串刺しにした。
「ならば、ラッツウェルがおまえを必要としなくなったら、どうする?」
ハインツの表情が一瞬だが硬くなった。ハインツはそれを想定していないわけではない。だが、その将来はこの上なく柔軟で想像力に富んだ彼の頭脳をもってしても、現在の彼にとって想像しがたい物であった。
ラッツウェルとミハエルの会談はこのあと一週間にわたって繰り広げられた。
その中で決定されたことは、ミハエルはアムル大公としてアムル公国に封ぜられたこと。アムル公国は軍事・行政においてカランダの介入を認めないこと。旧アムル公国領ノープルは交通要衝のため、アムル公国内であってもカランダの直轄地として治められること。この三つを概要として、事実上アムル公国は独立した。
この後、アムル公国はアステ・ウォールとの戦争中となったカランダ王国の穀物庫として交易を中心して栄える。その中でミハエルとルシアを中心に法を纏め、三十八年後、大公ミハエルの死後、アルカーティスで小規模都市国家を除き、初の民主制国家として生まれ変わる。
それを見越してか、ミハエルとルシアの間に子は授かっていない。婚姻のいきさつから、不仲であったという説もあるが、ルシアの妹、ファティマ・アムル・ラスティアスの記述によれば、仲むつまじい大公夫婦であったとされている。
一方、歴史の主役となっていくカランダ王国は、アムル公国の独立後、アステ・ウォール帝国との戦争をはじめる。すでに腐敗し、重臣たちの権力闘争に疲れていたアステ・ウォールにカランダを押しとどめる力はなく、一年と三ヶ月を足らずで大戦は終わる。幼い皇帝は自害を強いられ、権力を握っていた重臣たちは降伏する。
アステ・ウォールの皇室の血は、唯一カランダに亡命していたアイラのみに残され、皇帝の座を追われた少女は、彼女が望む望まないにかかわらず、もう一度その傀儡の座につく。その悲運の皇帝はアステ・ウォールの最後の皇帝となるのである。
ラッツウェルはアステ・ウォール併呑後、西方に勢力を広げるメルディアに親征を行う。グスタフ・ド・ハインツはその時、アステ・ウォール市に総督として皇帝アイラの監視と征服地アステ・ウォール帝国領の全権を与えられていた。
そしてカランダとメルディアの戦争が激化する中、皇帝アイラはラッツウェルに反旗を翻す。アステ・ウォール市に滞在していた、つまりアイラの隣に存在し、その枷となるべき男は彼女とともに、ラッツウェルに背いたのである。
ラッツウェルはその急報にもかかわらず、作戦を遂行した。対メルディア戦線の補給路をアステ・ウォール経由の陸路ではなく、カランダからの直接海路を使用して受ける基盤を完成させつつあったからだ。
ラッツウェルがメルディアを併呑するまでに、アイラは雷撃的にその勢力を広げる。その軍事的手腕はハインツの能力によるものが大きいのだが、彼女自身、戦場に立ちその指揮ぶりは相対したローズハルトの言を借りれば「あれは軍神というやつだ」とも評される。
ラッツウェルはメルディアの情勢を固めるため、アイラの反乱に自ら動くことができずにいた。変わりに元帥となっていたローズハルトに大軍を与えてこれに対応する。
アイラはハインツとともに寡兵でありながらも、ローズハルトの進軍に対し奇策と地の利をもって二年以上も退ける。だが、戦端が開き二年目の夏、ラッツウェルらが謀っていた内応が成功し、アイラの軍は本拠地アステ・ウォール市を失うことになる。
浮き足立つ、アステ・ウォール軍にローズハルトは全戦力を急襲させ、再起不能というべき打撃を与えることに成功した。
禁をもてあそべるほどに卓越した戦術能力を持つハインツ。禁決して動かそうとはせぬが、機と言うものに敏なローズハルト。性格の違いはあるとはいえ、この実力伯仲した親友同士の戦いは、元々初めに持っていたカードの数で決したというべきだろうか。
崩壊するアステ・ウォール軍の中、ハインツは一人、彼が彼であるためというべき奇を持ってしてローズハルトの攻撃を一時的に止めることに成功する。
だが、それは彼の命を引き換えにするものだった。
アイラはその一瞬を持って戦場からの脱出に成功している。
戦闘後、ハインツが白刃に倒れたことを知った二人の反応は、歴史書には記されていないが伝承によると同じであったといわれる。その表情は、彼が倒れた砂漠の戦場のようであった、と。
アイラはその後、アステ・ウォール領内を転々としながら敗走を続けた。全盛期には四万を有した反乱軍も、この年の終りには三〇〇〇を数えられなくなっていた。
そしてその年が明けて三日。彼女はある暗殺者の手にかかり、同時にアステ・ウォール皇室の血も絶えたのである。アルカーティスの歴史上、もっとも長く続いた帝国の最後の皇帝は十九の誕生日を迎える直前に、その激しい生涯に幕を下ろしたのである。
その暗殺者はアイラとは旧知であったとの噂があるが、闇に生きる者の名は歴史上には刻まれなかった。
運命に試されているのか。
運命を乗り越えていくものなのか。
人は一生をかけても答えの出せぬ問いと共にいる。
ただ、人はあまりにつらい思いのの時、その責任を運命という得体の知れないものに転嫁しようとする。
砂漠の朝の風は冷たく、疲れた体を眠りで癒していたアーディルもその冷たさに目を覚ました。体の節々はまだ痛かったが、しなやかな筋肉は軽く、十分な休息が取れたことを意味していた。
東の空が徐々に明るくなっている。夜明けの時刻だということがわかった。
アーディルはあたりを見渡した。
仲間は未だ眠りの神の愛撫に包まれている。
「起きろ! みんな起きろ!」
アーディルは違和感を感じて叫んだ。
「セレナが! セレナがいない!」
彼は彼の全神経を尖らせてあたりを見渡した。
彼の目は緑の髪の少女の姿を捕らえることができなかった。
アーディル達は皆の治療で疲労度の濃いファティマを残し、四方に散ってセレナを探索した。
だが、足取りは一向につかむことはできず、やがて太陽は高く上り始めて灼熱の時間を作り始めていた。
「街へ戻ろう、アーディル。セレナが装備なしで砂漠を越えよう筈がない」
ジークが言った。
アーディルは昨夜、セレナの歌声を聞きながら眠ってしまった自分を呪った。呪ったところで過去が覆せるものならば、全身全霊をかけて彼は呪ったであろうが、それは無駄な行為でしかないことを彼は知っていた。
彼はジークの言の正しさを感じ、アステ・ウォール市へと戻る事にした。
アステ・ウォール市に戻った一行は、取っていた宿からセレナの旅装備の一式が引き払われている事を知る。アーディルらは皆が何処かしらに怪我を負っていたが、それに不満を言うものもなく、一晩をかけて市内を探した。アーディルなどは念を押して城壁の外まで足を伸ばしたが、形跡を見つけることができなかった。
もっとも少女が一人、城壁の外へ出ることなど稀有なことであるので門兵が気付かぬはずがなかった。
徒労感と焦燥感を土産に宿に戻った一行は一室に集まり、静まり返っていた。
「あのさ」
その沈黙を破ったのはミナだ。恐る恐る、口に出すのをためないながらの切り出しだった。
「セレナって人間、なのかな? ほら、あのシンシアってやつ……魔物だったじゃない。そいつと姉妹、なのよ?」
「何を、馬鹿な」
「別にセレナが何者であっても、私はかまわない。私は、セレナを友達だと思ってる。みんなも……そうだよね?」
ミナは顔を上げた。アーディルらはミナの表情を見つめた。表情が豊なミナの顔は、この場にいる全員の感情を詰め込んだかのように複雑に歪んでいる。
「でもね、セレナはそれを知ってから……うん、多分、ヴァルハナをでた後のあの夜のことだと思う」
それはヴァルハナのフェンリルを逃れたあと、夜にセレナが錯乱して一晩泣き明かした夜だ。つまり、セレナがシンシアとはじめて出会い、ガイアの一族の秘密を明かされたときである。ミナの推理は正しかった。
「ずっと、ずっと悩みつづけてきたんだと思う」
ミナは視線をアーディルに向けた。
「セレナはアーディルを好きだったから。ううん……愛していたから」
アーディルは少しだけ眉を動かしただけで表情を変えなかった。それは面と向って言われたわけではなかったが、知っていたことだし、実際ナルシャでは彼はセレナを抱いていた。
「だからって、何故俺達の前から姿を消す必要がある?」
「自分が、魔物だと知ってしまったら。あの時の様に醜い化け物になってしまう魔物だと知ったら……とても人を愛せなくなると思う……」
ミナは視線を地面に向けた。髪の毛が下りて彼女の表情を隠した。彼女はそのまま、上使いにアーディルの顔を見た。髪の毛から垣間見れる彼の表情はまだ疑問に満ちていた。
「アーディル……アーディルがどう思っているかは別として、自分が、自分にとって酷く嫌なものだった場合、本気で愛してもらえるなんて思えないのよ。自分が嫌いで、嫌いで、たまらなく嫌いだったら、誰かに愛してもらおうなんて思えないもの」
ミナは唇をかんだ。唇が切れて、血が溢れんばかりに。両腕の拳を力いっぱい握りししめた。
「バカだよセレナ!」
親友を想い、震える肩を一同は悲痛に見つめた。
翌朝の早朝、アーディルは独りでアステ・ウォール市を発った。
ミナがそれに反発したが、結局は結果としてアーディルは独りでセレナの捜索に旅立った。ミナはアーディルにとってセレナがどういった存在か知っていたが、彼女自身にとってもセレナは大事な親友であった。
だが、ミナはナルシャでの怪我、ガイアの塔での怪我が思わしくなく、彼女の活力を持ってしても、数日で砂漠の過酷な旅に出ることは不可能であった。
結局、一同からの反対もあり、ミナはしぶしぶアーディルを見送ることになった。
「俺達もあとからセレナの捜索に入ろう。それでいいだろう?」
ジークはふてくされるミナの肩を叩いて言った。ミナはまだ何か文句を言いたそうだったが、その幼く見える顔を膨らませただけであった。
「私も占って見ます。私の足じゃ、動き回るよりも、そのほうが」
それはファティマだった。占術や呪術に長けた彼女のまた、ミナと同じ思いであったのである。
「ああ、頼む。皆がそれぞれできることをやろう」
ジークは低く言った。
ラルフはそれに頷き、シレーヌは髪を書き上げて、すぐに行動をはじめるべくプランを立て始めていた。
ミナは調子の悪い体を一刻も早く治すべく、ファティマに懇願した。ファティマは占術と治療の同時進行に戸惑いみせたが、その二つを約束した。
その頃、アーディルは城壁の外に立ち、激しい砂漠の風をその身に受けていた。
彼らは人知を持ってセレナを探し出すことができるのか。
そもそもこの広大な大陸の中で、一人の少女を探し出すことができるのか。
誰もが口には出さなかったが、誰もが胸に抱いていた不安だった。
この後、ジークとミナはアステ・ウォール市を離れている。
その後の二人の行動は、史書にもその他文献にも現れない。
ラルフ・ファティマ・シレーヌらはその後を追ってアステ・ウォール市を発っている。彼らの行動はファティマの日記により、その記録は確実に残されていて、彼らはアムル公国へと戻りルシアらとの数ヶ月の生活の後、ラルフォード・ラスティアスはファティマと契りを交わすことになる。が、ラルフもファティマもアムル家に戻ることを嫌い、ノープルの街でその後の一生を暮らすこととなる。ラルフは名も知れぬ街の旅道具屋の主人として五六年の生涯を。ファティマは歴史作家として八一年の時間を。
シレーヌはその後、アムル公国を離れカランダの傭兵部隊のリストに名前を見かけることになる。後に彼女はハインツの妹、エリザベートとの出会いをきっかけにフリーランサーとしての生活から離れていくが、その後の彼女の結末は文献には残っていない。
ミハエルの元についたジャッドは暗殺者としては異例に正史にその名を残すが、アムル公国独立後から数年でその記録は途絶える。闇の者は闇の者としてその生涯を過ごしたのだろう。
世俗の伝承にある時代を震わせた三人の暗殺者のうち、最後に残るカーミラも史書からその名を導き出すことはできない。また、ファティマの日記にもラルフが彼女と接触した様子は読み取れないでいる。
そしてアーディル・アラムシードの名は、ファティマ・アムル・ラスティアスの自伝書の少女期の冒険期以外にも文献にその名を残している。彼はこののち起こる、アイラの反乱の軍の中にその名を残しているのだが、彼と共にいた女性の名、容姿は文献には何一つ残されていない。したがって、それがセレナであるとは確定ができない。
アイラの反乱の後、彼の名を残す文献は一切ない。
唯一、ノープルへ帰ったファティマ・アムル・ラスティアスの日記には時折中むつまじい一組の男女が彼女の家を訪問しているとの記述があるが、やはりそこに個人名の記録はなく、それが何を意味するのかは推測の域を出ない。
砂漠に流れる歌の名は、その砂漠で暮らす民ですら忘れてしまった言葉で綴られている。それはかつて緑を愛し、緑を守れなかった悲しい歌だ。
荒涼の風に乗せたそれは、一人の少女の唇から流れている。
