いやな予感は消えなかった。だが、この事件を知るきっかけになった自殺死体の事件、そして三浦香津美が殺されたときのあの脳裏を指すような痛みは感じていなかったから、最悪の事態は起こっていないと思っていた。
夏希は感覚と言う感覚をと研ぎ澄ませていた。
「森川先輩?」
小さく言葉にする。視界は人形や棚やらで死角は多い。だが、さして広くは無い空間だ。先にいる小田桐達が振り返り、そして森川の姿を確認しようとあたりを見渡した。
森川の姿は無い。
「森川?」
返答は無かった。焦燥の空気が流れた。森川はここの場所にいない。
夏希は耳を澄ました。彼女の驚異的な感覚がわずかの物音を聞き分ける。それはこの部屋の音ではない。はじかれたように彼女は森川が消えた扉へと走った。
その扉の前に立って息を飲んだ。
「川村……」
追った杉村が声をかけた。
「ここに森川さんが入っていたのか?」
「わかんない。けど、この先から物音が聞こえた」
杉村の耳には届いていない。だが、夏希が嘘をついている訳がない。杉村はそう思って頷いた。
後には小田桐と瞳が駆け寄っていた。
「俺があける」
杉村はそういうと、慎重にドアノブを回した。
森川の目が怒りに揺れていた。深く静かな海のような瞳が印象的だった彼女の目が今は炎が宿っている。鏡子はそれを見て、やはり目の前にいるこの女は怖いと思った。平気で人を殺せる目だったからだ。
親友を殺された川村夏希でもこうはいかないだろう。「人を殺す」ということにためらいを持たない人間は、特殊な環境を覗けばごく稀である。そして、森川恵理はその特殊な環境で生まれ育った人間だった。
その視線を受けて恐怖を感じながらも、冷静で入れられたのは鏡子もまた特殊な存在だったからである。彼女は、彼女の意識はいま木霊と言う人ではない精霊が支配していた。
「その傷で、良く立っていられるわね」
鏡子、否、木霊はは森川の下半身を見た。腹部を小刀で突き刺された森川の下半身は元の白さを失って真っ赤に染めあがっている。だが、脳内を怒りで充満させた森川は痛みをその感覚から追い出しているかのようだった。
「沢渡を……返せ」
森川は前進して鏡子の服を掴んだ。細腕の彼女からは想像を絶する膂力が発揮されている。鏡子が沈黙を続けると、森川は力任せに鏡子を投げ飛ばした。アトリエの用具をガラクタに変えながら鏡子は飛ばされた。
その行動で森川の傷は大きく開き、激しく吐血して腹部の赤もひときわ大きく広がる。 だが、森川は転がった鏡子へと歩みを進めた。
一歩二歩。森川の体が崩れ落ちる。
精神より肉体が、ついていかないのだ。彼女は血を流しすぎた。
床に伏せ、自らが流した赤に気づいて、彼女は初めて無視できない傷を負ったことを知った。
森川の耳に背後から声が飛び込んできた。夏希たちの声だった。
「邪魔が入ったようね。あなたもその傷ではもう助からないでしょう。森川恵理。計画の最後に現れた割にはあっけなかったわ」
「計画の……最後?」
森川はうめくようにった。口の中に血がたまってうまくしゃべることが出来ない。
鏡子はそれには微笑みで答えて、奥の闇へと姿を消した。
その大量の血液に瞳は腰を抜かした。慌てて小田桐は支えたものの、彼も杉村もまた声が出ないほど驚いていた。倒れた森川の周りにはまさしく血が池の様に広がっていた。致命的な出血。それは普通の高校生がそうそう目に触れるものではない。
「森川先輩!」
誰もが足のすくむ光景の中、夏希だけは臆さなかった。
今の森川の比ではないが、彼女も自分の手首を切り、大量に血を流したことがあったからもしれない。それとも霊魂が見える彼女には、「死」と言うものが他の人間より身近な存在なのかもしれない。
彼女だけが血溜まりの中へ入り、森川の安否を確かめる。
「……無様ね」
森川はうっすらと目を開け、苦しげな声をあげた。その声には自嘲と無念さがにじみ出ていた。とにかく彼女の息はある。夏希はひとまず息を付いたが余談を許さない状況には代わりが無かった。
「きゅ、救急車!」
夏希が振り返って叫ぶ。
「えっ……ああ!」
我に返った杉村が携帯を震える手で取り出した。
「まって」
起き上がれない森川は夏希の手を掴んだ。
「先輩?」
夏希は怪訝そうに森川を見つめた。森川は痛みに耐えながら、携帯を取り出してどこかへダイヤルする。
「川崎さん? 恵理です……」
ダイヤル先は、三浦香津美の時に現れた刑事だった。森川家が関わる事件は超法的で、かつ超常的なものだ。一般の警察ではどうにもならないことばかりであるが、警察内部に息のかかった人間を配置しておくのは有効だった。それがここの場合、川崎という事になる。
森川は手短に話を終えると、力尽きるように携帯をきった。
「……先輩」
夏希は今になって涙目になっていた。普通に考えれば、助かるような出血量ではない。
「大丈夫……死なないわ……いつか言ったでしょ。夏希ちゃん、それでもあなたは普通だって。私は……違うの」
森川は諭すように言った。声は弱々しいが、夏希は奇妙な安心感を得た。
「それよりも……沢渡を」
「え? 沢渡先輩?」
夏希はあたりを見渡した。彼女の声を聞いた杉村と小田桐もあたりを見渡してみる。だがそこには沢渡陽子の姿は見当たらなかった。
ほどなくして川崎は現れた。その間、森川の意識は出血のためか途切れがちになり、夏希たちの背筋を凍らせたが、川崎達警察と一緒に現れた救急車に運ばれた。救急車は瑞穂町を離れて、横浜市内にある私立の大きな病院へと走った。森川家の息のかかった病院ということは明白だった。
夏希たちも川崎の車に同乗し病院まで来ていた。森川はそのまま治療室へと運び込まれたので、夏希たちは待合室に集まっていた。
「しかし、恵理さんがあんな怪我をするとはね、油断でもしてたんだろうか」
川崎はポケットからタバコを取り出して火をつけた。口調はあきれたような声で、真剣に心配する夏希を苛立たせた。
「ここは禁煙です」
刺のある声で言う。
「ん、ああ。悪い……」
川崎は携帯灰皿で火を消すと、小さくため息をついた。夏希の心境を彼とて感じ取れぬはずが無い。
「まぁ、心配するのはわからなくも無いが、恵理さんがあれぐらいで死ぬとは俺は思わないよ……あの場に一緒にいたわけだから、てっきり知ってるもんだと思ったんだが」
川崎は何かを知っているそぶりだった。むしろ森川との付き合いは夏希たちより長いはずだから当然だった。
「普通とは違う、としか……」
「ふむ……まぁ、本人から聞くんだな」
夏希は不満げに川崎を見つめた。それは森川の事を知りたいという気持ちを焦らされたような受け方をしたし、自分の知らない森川を知っている川崎に対した奇妙な嫉妬のような感覚もあった。
「それと、現場で中学生ぐらいの女の子を保護した。知り合いか?」
川崎はその夏希に気づいて、微妙に話題をそらす方向へ試みた。
「霧依だ!」
瞳が叫んだ。この一連の事件は霧依が鏡子と接触を持ったところから始まっている。瞳は霧依を探すために小田桐達を頼ったのだ。
「その子は生きてますか?」
瞳は激しく川崎につめよった。
「あ、ああ……生きてる。外傷は無いが、意識が無かったから一応精密検査を受けてもらっている」
「生きてるんですね」
瞳は糸が切れるように、その場に座り込んだ。
その瞳の肩を軽く叩いて、小田桐が川崎に向き直った。
「その子だけですか? 俺たちと同じくらいの女の子は?」
沢渡のことだった。瞳の携帯に記録された音声には、確実に沢渡の声が含まれていて、それ以来彼女への携帯は繋がらないままだ。霧依と一緒に巻き込まれたと考えて間違いは無い。
「……いや」
川崎は首を横に振った。
沢渡陽子の捜索は小田桐が持ち合わせていた写真で行うことを約束し、川崎は仕事があるからと、その場を離れた。
午後十時も回る頃、森川の意識が戻る。
個室の病室のベッドの上で森川は上半身だけを起こしていた。さすがに顔は青白いが、あの出血のあとのことを考えれば、意外なほどに元気にも見えた。
夏希たちの姿を確認すると、森川はかすかに笑った。
「……情けない姿、みられたね」
「先輩、大丈夫なんですか?」
夏希がベッドに駆け寄った。森川は軽く頷くと、目を閉じた。
「言ったでしょ、私は普通じゃないって」
「先輩?」
「そうね、夏希ちゃんが、普通の人が見ないものを見ることができるとか、それくらいの感覚は、たとえば百メートルを九秒台で走れるとか、『人より優れている』程度のものなの、だけど私は根本的に違う」
皆が森川の言葉を待った。
「普通なら死ぬほどの血を流しても生きてる。私は……森川の血族は人間と違う、いわゆる魔物の血を引いているのよ。吸血鬼の伝説を知ってるでしょ? 普通の武器で死ぬことは無い。どんな怪我をしても平気でよみがえる不死身の魔物よ」
人並みはずれたその容姿すらも、人間以外の血がなせるものなのだろうか。森川は声もなく笑った。
夏希にはそれが自虐的な笑みにも思えた。小田桐は腰に手を置き、何か考えを纏めているようだった。杉村はただうろたえ、瞳は呆然と首を横に振った。
とても信じられる言葉ではないが、あの現場を目の当たりにした四人には現実のものだった。
「だから、あれくらいのことでは死なない。死ねない」
その言い直しが夏希は疑問に思った。それが視線ににじみ出て、それを森川は感じ取った。彼女は笑わずにいられなかった。哀しみがそうさせた。
「それでも、沢渡を助けられなかった。大切な一つでさえ、守ることが出来なかった」
森川からすべての気力が失われていた。彼女は失ってはいけないものを失っていた。
「森川? 沢渡は見つけれなかったのか?」
小田桐が森川に近づいて言った。森川はシーツを両の拳でにぎりしめた。シーツが引っ張られて独特のしわが走る。森川は頭をたれた。美しい黒髪が重力に引かれて、彼女の顔を隠した。
「……死んだわ。殺されたのよ……あの場所で」
一瞬、夏希たちに電撃のようなものが走った。
愕然として言葉を飲む。
「それって、本当ですか?」
夏希がかろうじて声を出す。森川は答えない。沈黙は肯定だった。
重苦しい空気が病室を包んだ。誰も口を開こうとしない。だが、夏希はその場で一人だけ違う顔をしている人間を見つけた。それは小田桐拓郎だった。
「森川……沢渡は本当に殺されたのか? あの場所で」
「何を……私はあの場所で首を吊られてる沢渡を見たのよ!」
「俺たちは見ていない」
森川が怒りの口調で返した言葉を、小田桐は鋭く返した。
森川は言葉を止めた。小田桐は夏希たちを見渡して、同意を得ようとした。たしかに夏希たちも沢渡陽子の姿を見ていない。
「俺は不思議に思う。今までこの一連の事件では死体はその場で見つかっている。そうだろう?」
「香津美の時も! 校庭の時も……沢渡先輩は生きている?」
夏希ははじかれたように言った。
「沢渡が、生きている?」
森川は恐る恐る言葉に出した。自分の言葉を信じていないような口調だった。彼女は確かに沢渡の死を見ていたからだ。
「可能性はあると思う」
小田桐が付け加えた。
「小田桐君……あなたの推論はよく当たるよね」
「確証があるわけじゃない。だけど、俺たちは沢渡が死んだ事を確かめたわけじゃない」
正直なところ、小田桐自身もそのことに関しては、確証のない推論だった。だが、森川を元気付けるためにも方便は必要だった。そして何より、沢渡陽子の死体を見ていない彼は、森川の言葉を受け入れるのには抵抗があった。
