再び沢渡の前に鏡子が現れた。鋭く攻撃的な視線に沢渡はそれが鏡子が鏡子でないと思った。いや、むしろ初めて出会った鏡子だった。すなわち、木霊。
「何?」
沢渡は慎重に問い掛けた。何か状況に変化があったのだろう。
「最後の獲物が来たわ……どうやってここを知ったかは知らないけど、これでお父様も安心できる」
それは妖しい笑みだった。背筋の悪寒を厳しい表情で隠しながら、沢渡は問い掛けた。
「恵理がここに来たの?」
「恵理? ああ、森川恵理ね。彼女、危険だから殺してあげた。今来てるのはあなたも知っているでしょうけど川村夏希のほうよ」
沢渡は一瞬聞き間違いをしたかと思った。だが、耳に残ったその言葉は確かだった。全身の血が抜けるような寒さを覚え、眩暈がする。
恵理が殺された……
それを反芻して、沢渡は首を横に振った。
ありえない。
彼女は絶望しなかった。なぜなら彼女は森川の秘密を知っている。そう簡単に死ぬ彼女ではないと信じた。そうして信じることで自分に冷静さを取り戻させた。
だが、ここに来たのが森川ではなく、夏希だということは沢渡に判断を強要させた。
森川ならば鏡子に対抗する術も力もあるだろう。だが、夏希は違う。ただ霊感が強いだけの少女だ。
沢渡は手にしていたコップを鏡子に投げつけた。
鏡子はそれを右手で払いのけた。水入りのそれは鏡子の視界を奪って、地面に落ち、乾いた音を立てて割れた。
沢渡は鏡子がそれに気を奪われているうちにドアへ駆けた。
ドアは鏡子が現れた時から解放されていたが、そこに三人の男が現れた。いや、一見人間に見えるものの、それは操られた人形だった。
「ちっ」
「甘く見ないで、あなたを逃がすほど私は間抜けじゃないわ」
身体についた水を拭った鏡子が嘲るように言った。
「どっちが?」
沢渡はためらうことなく人形たちとの間合いを詰めた。
右側の人形の腕をかいくぐると右掌をするどく打ち抜いた。そして左側にいる二体に彼女の最も得意とする左回し蹴りをくりだした。
もんどりを打って倒れる人形たち。
脳に届くあごへの一撃、左回し蹴りをみぞおちに的確に決めたそれは、彼女がケンカ慣れしていることを表していた。フルコンタクト空手とはいえ、頭部への攻撃は寸止めが定められている。確実に相手の動きを止める、今の攻撃は明らかに実践のものだった。だが、評価すべき点は自分よりも体格の大きい三人に臆さなかったことだろう。実戦では格闘技のそれより増して体格と人数の影響は大きい。
とにかく、沢渡が的確に叩き込んだそれは、相手の動きを止めるには十分だった。それ以上の追い討ちを不要とした彼女は、やはり場慣れをしていた。
「ふん……」
大きく息を吐いた沢渡は鏡子を一瞥しようとした。
余裕の笑みを浮かべようとしたのだ。力関係をはっきりさせることで、相手の行動を制限させる。だが、鏡子こそがその笑みを浮かべていた。
と、その瞬間に沢渡は両足をつかまれた。否、両足だけではない。
両足を一体の人形が、左右に分かれた二対が沢渡の両手を掴んでいた。
それは先ほど崩れ落ちた人形だった。
「なっ」
沢渡は驚愕した。それと同時にそれらを振りほどこうとしたが、三体に押さえられては身動きが取れない。それ以上に各々の力の強さも、沢渡を戦慄させるものがあった。
「見事な攻撃だったと言えるでしょうね……相手が人間なら、立ち上がることすら難しいでしょう」
鏡子は沢渡を見据えて笑った。
「ケンカはお強いようだけど、彼らは人形よ? 痛みは知らない。彼らを止めたかったら『壊す』しかないわ。だけど人間の姿をしてるそれを、あなたが『壊す』ことができるかしら」
沢渡は歯軋りをした。鏡子の言うとおりだ。相手を必要以上に攻撃したことは彼女はない。彼女は自分の強さに誇りを持っているからこそ、相手を無駄に傷つけることを自ら許さない。
だが、殺人者は違う。
森川恵理などは目的のために鏡子の言うことをたやすくこなすだろう。
純粋に勝敗を分ける『試合』ならば、沢渡は森川をしのぐ。だが、『殺し合い』になれば森川が生き残るだろう。たとえば、先ほどの一撃の後、森川なら容赦なく追撃を行っていたかもしれない。
「どうする気だ!」
「そうね……もう一人の私は、あなたを無駄に殺そうとはしなかったみたいだけど、計画の邪魔をするなら、ここで殺しておくのが一番ね」
叫んだ沢渡に、鏡子は恐ろしいまでに冷たく言った。
「目的の魂もなぜか向こうからきてくれたようだし」
「くっ」
沢渡はあがいた。だが、どうにも身動きは取れなかった。
鏡子は懐から細身のナイフを取り出した。細身のそれは鋭さを強調したかのようなデザインで、沢渡を戦慄させた。
だが、それも長くなかった。
無造作に鏡子はそれを投げ、刹那にそれは沢渡の左上胸部に突き刺さった。
「あ……」
焼けるような胸に痛みが走った。
人形たちが沢渡を解放する。
沢渡はニ三度うめきを上げたが、仰向けに倒れた。
白い制服が紅く染まり始めていた。
「ごめんね。そこだと楽に死ねないかも」
出血のためか、黒く沈んでいく視界の中で鏡子がつぶやいた。
熱い命のカケラが、制服の左半分に吸い込まれていく。命を失っていく痛みと恐怖が、沢渡から意識を奪った。
小田桐は安全ピンを使って正面の扉の鍵を開けた。それにかけた時間は森川が苛立つほどではない。むしろ呆れるくらいの早さだった。
「何でもできるのね、小田桐君って」
「森川ほどじゃないさ。手先の器用さは自信があるからね」
「その器用さで、何人のコをなかせたの?」
「心外だな……って森川がそんなことを言うなんてな」
ドアに手をかけた小田桐が意外そうな顔で振り返った。
「不安なのかもね」
「おいおい、頼むぜ……」
森川は皆が森川の力を頼りにしていることを知っていた。だからこその不安だろう。彼女は今までほとんど一人で動いてきたのだから、今までにないプレッシャーを感じていた。
必要以上の緊張はミスを生む。彼女にはわかりきっていた。
大きく息を吸い、それを吐いた。
幾分か、力が抜けていくのがわかった。
「あけるぜ」
それを察した小田桐がドアのノブを静かに回した。
二人は気配を殺して中へ侵入した。
広めのホールは暗く、人の気配はない。
「……賭けは成功かな」
森川は小田桐にだけ聞こえるように行った。小田桐もあたりを見渡しながら、頷いた。 あえて夏希たちを裏口に行かせたのは、鏡子の注意を細かいところへもっていき、その隙に森川たちは表から大胆なルートを使って、すばやく沢渡を捜索して救出するという作戦だった。
「……ん」
森川はあたりを見渡した。静まり返ったホールは人の気配などしない。
「どうした?」
「血の匂いがする」
「……そうか?」
小田桐にはわからなかった。森川は当然だと思った。彼女の鼻に届くそれも、ごく微かなものだ。ただ、その匂いに彼女は敏感だっただけだ。普通の人間が感じるような嗅覚ではない。彼女の身体には吸血鬼の血が混ざっている。その暗さを覚えずにはいられない瞬間だった。
誰かが血を流している。それもわずかばかりの血ではない。
森川は焦燥を覚えた。
ここにいるのは自分たちか、沢渡か、鏡子たちしかいない。
その中で血を流しているのは誰か。
悪い予感が漂った。森川はそれを振り払うかのように首を振った。
「急ぐか」
察した小田桐が言った。焦りを飲み込んだ森川が首を縦に振って応えた。
両足は大地をつかんでいるようで、その感覚がない。掌に汗がにじむ。緊張している証拠だ。
死ぬかもしれない。
初めての緊張感ではなかった。手首を切った時、それは何度も味わった。
だが、いまはその緊張感に加えて恐怖があった。死への恐怖。自分の命を失いたくないという意思。それは手首を切った時にはなかったものだった。
死にたくない。
夏希は、そう思った。
目の前に山荘の裏口がある。鍵はかかっていないようだった。
本音はここから逃げ出したいくらいだった。プレッシャーには強いほうではない。ここから逃げ出せば、死の恐怖から逃げ出せる。だが、夏希にその選択肢はなかった。
「行こう」
奮い立たせるように夏希は、となりの杉村に行った。
杉村も緊張した面持ちで応えた。
彼女らが危険を冒せば冒すほど、森川達の安全と成功率は高まる。夏希の死にたくない理由は、森川達の存在だったから、彼女は自らの命を危険に晒さねばならなかった。大きな矛盾だったが、もし森川達を失うことになれば、彼女は生きる術をまた見失うだろう。
ドアを開ける。
薄暗いキッチンだった。あまり使われていないような、埃っぽい空気が流れた。
気配を殺して、室内に入る。いかに気配を殺そうとも、森川の予想では夏希の存在は鏡子に悟られていることになる。人知を超えた彼女が、いつ現れるのか、それを考えただけでも夏希は気が遠くなりそうだった。
と、夏希の視界の隅に人影が映った。
物音はない。
夏希はすばやくそれ視界に捕らえようとした。かすかに影が映って見える。誰かがいる。
「どうしたんだ?」
怪訝そうに杉村が尋ねた。杉村の顔を夏希が確認して、もう一度その影を見た。
杉村には見えてないのだ。
それは夏希の霊感の強さによるものだとわかった。あれは自分にしか見えてない。つまり人間ではなく、霊魂だという事だった。
それに敵意は感じられなかった。
夏希は目を瞑った。
そうすることで相手をより深く感じることができる。
それの感情が伝わってくる。
哀しみだった。
気配が遠ざかっていく。
「え?」
夏希は慌てて目を開けた。そこにはもう霊の姿はない。
「……霊が、いた」
杉村が驚いた顔で夏希を見た。夏希は霊が消えたあたりをずっと見つめつづけていた。「だれ……なんだ?」
「わからない。そんなはっきり見たわけじゃないから……でも多分、おじいさんだった気がする」
「じいさん?」
杉村はあごに手を当てて考え込んだ。しばらく床の一点を見つめて考え込んだ彼だが、何かをひらめいて夏希を見た。
「どこに行ったかわかるか?」
「え? たぶん、あっち」
杉村が何かひらめいたような表情で訊いた。夏希は廊下を指して応えた。確たる自信があったわけではないが、その方向という印象が残っていた。
「エンジェルハイロゥにじーさんなんていたか?」
「いなかったと思う。私と同じくらいの高校生……中学生とかもいたかもしれない」
「だろうな……」
杉村はしばらく考えた後、夏希の手を引いた。
「行こう、何かのサインだよ、きっと」
杉村は言った。夏希は言葉よりも、今まで知らなかった少年の力強さに従おうと思った。
夏希の感覚を頼りに二人は廊下を進んだ。
おそらくこの建物で一番奥まった位置にある部屋だろう。夏希はの感覚はそこへ繋がっていた。
その扉の付近は夏希たちが侵入した経路とは違って、この付近には最近人が立ち入った雰囲気があった。
杉村がノブに手をかけた。
「鍵は……かかってない?」
杉村はわずかにドアを開けて中をのぞき見た。
「な?」
絶句した杉村がノブを思わず放してしまう。ドアは慣性に従って開いて行く。
夏希の視界は広がり、杉村が見た光景が目に入ってくる。
赤が印象的な絨毯の部屋の真中に車椅子が一台、佇んでいた。
その車椅子の上には、綺麗な身なりをしたミイラが一体座っていた。二人はそれを見て絶句したのだった。
と、夏希の瞳に先ほどの影が映った。今度は強く鮮明にだった。
その霊はミイラに寄り添った。霊はかつてそれに宿っていたものだった。
「……水上……元隆」
愕然として夏希がつぶやいた。彼女の記憶にある写真の彼と、その霊の姿は同じ物だったのである。
