森川は大きく左に迂回するように木霊に接近した。申し分ない速度と間合いだったが、直線的でない分、大きな隙があった。伝家の霊刀を持って斬りかかった森川だが、木霊の直前で目に見えない力に阻まれた。
絶望的な森川の表情と、勝ち誇った木霊の表情が対照的だった。
一瞬の間を置いて、森川の体は見えない力に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。肺の中の全ての空気が一瞬にして押し出され、彼女は激しく咳き込んだ。胸が軋む。肋骨が数本折れていることを彼女は知った。
その視界の隅で夏希と杉村達が部屋から飛び出していくのを捕らえる。代償は大きかったが、作戦はうまくいったのだ。
だが、随分とうまく行き過ぎている。
木霊は微笑を浮かべたまま、森川を見ていた。
「……随分と簡単に行かせたのね」
「あの子の居場所は、手にとるようにわかるもの」
それよりも楽しいおもちゃを見つけた。木霊の言い様はそんな語感を含んでいた。森川は舌打ちしたが、それでも作戦の内だった。木霊をここに足止めすることが、時間を稼ぐことが精一杯ならそれでよかったのだ。
森川は視界に水上元隆の姿を入れた。
完全なミイラだ。彼が生きているとは思えない。だが、木霊が彼が生きていると信じているなら、人質として価値がある。
森川はひとつため息をついた。
視界から元隆の姿をはずす。木霊だけに集中する。
「いいよ、おまえ」
木霊は満足そうに微笑んだ。森川の思考を読んだのだ。
人質をとるような卑劣な行動は、森川には取れなかった。森川の嫡流であるという自尊心だった。卑劣な真似をしても、木霊には通用しないだろうという予想もあった。
森川は床を蹴って間合いを詰めた。剣の間合いを捕らえると、三回斬撃を繰り出す。訓練された無駄の無い、そして人を超えた吸血鬼の運動能力でだ。
だが、木霊はそれをよけるわけでも受けるわけでもなかった。森川の剣はその寸前で全てはじき返されてしまったからだ。
「くっ……」
森川は危険を察して間合いを開こうとした。だが一瞬遅れて、またしても吹き飛ばされる。彼女はその部屋の入り口のドアを突き破って廊下に転がった。
「ごふっ……」
血を大量に吐く。前回の対峙で受けた傷が内側で開いたのだ。逆流した腹部の出血が彼女の呼吸を奪った。
「苦しそうね。そろそろ終りかしら」
森川は気丈にも剣を振るった。だが目測を誤り木霊には届かない。木霊はそれを見て失望にも似たため息を吐いた。森川に見切りをつけたのだ。既に彼女は遊び相手にはならない。
森川の身体を再び衝撃波が襲った。今までのものより格段に強いものだった。廊下の固い木の壁を軋ませ、森川は声すらあげることが出来なかった。
その衝撃波が収まった後、森川はゆっくりと膝から崩れた。うつぶせに倒れ、わずかに痙攣をする。それは彼女が微かだが生きている証拠だったが、既に木霊は興味を失っていた。
「さて、逃げた二人は……何? 何故あんなところに?」
夏希の気配を探った木霊の顔色が変った。彼女が慌てて駆け出そうとする、その足を森川の腕が絡めとった。彼女は倒れたままだ。もはや立ち上がる力は無い。なんとしても木霊を足止めさせるという執念だった。
「本当に丈夫な体だこと」
木霊が苛立ち、もはや身体を動かすことの出来ない森川にさらに数度、衝撃波を与えた。
廊下の角を曲がる。大きめの別荘だが、大した距離はなれていないように思えた。だが木霊と森川がいる場所から見えない位置まで来たことが二人を安心させた。
「森川先輩、あんなこといってたけどわかるのか?」
杉村がひとつ落ち着くために大きく深呼吸をした。
「……ん」
夏希は不安そうに杉村を見上げた。確かに彼女には普通の人間に感じ取れない霊気を感じる感覚がある。だが、自分からそう言ったものを探し出そうとしたことは無い。
逡巡する彼女の耳に背後から鈍く激しい音が聞こえた。それは森川と木霊が激しく争っていることを容易に想像させた。
「先輩?」
夏希はうろたえ、おろおろと視線を宙にさまよさせた。
「落ち着けよ! 先輩が川村にして欲しいことは何だ?」
杉村は夏希の両肩をつかんだ。その力強さは彼女の心を安定させる方向に導いた。目を閉じて神経を集中する。暗闇の中で細い糸を捜すような、そんな感覚だ。
激しい物音が奥から聞こえる。
「無理よ! できない!」
焦りから夏希は首を振った。黒い髪が揺れて不安がこぼれる。
「諦めるなよ。俺には出来ないことだ。川村、お前しか出来ないんだ。まだ、諦める段階じゃない」
杉村は必死に彼女を励ました。真剣なまなざしが夏希の瞳に映し出される。
夏希は思う。私は最後の最後まで足掻いたことがあっただろうか。もうどうしようもないという所まで必死にがんばったことがあっただろうか。何時しか、傷つくことを恐れて、どこかで線を引いていた気がする。人間関係だってそうだった。関係が悪化した時、何もしなかったのは自分の方だ。諦めてしまうなら、安らぐことはたやすい。突き放してしまえば、それ以上傷つくことは無くなる。そうして逃げてきたのではないか。
だが、目の前の杉村健司はそれを拒絶した。諦めるなと彼は叫んでいた。
そして諦めて大丈夫になる状況ではないと教えていた。
不思議と、心が落ち着いた。開き直りだった。諦めというものではない。今取るべき行動はそれしかない、という決意だった。
と、精神を集中した夏希はふと不思議な気配を捉える。
「え?」
研ぎ澄ます。焦る心を押さえてその気配を探った。
「香津美! 香津美がいる?」
それは水上鏡子に、いや木霊に魂を取られた三浦香津美の感覚だった。彼女が生きているときにそれを感じたことはない。だが今夏希が感じたその気配、つまり霊の存在は三浦香津美そのものだと彼女は思った。
夏希は香津美の霊の気配を追って走り出した。
「……よし!」
杉村には彼女が走り出した理由はわからなかったが、とにかく彼女を信じて後を追った。
夏希は倉庫になっている一室にたどり着いた。
床には観音開き式の扉がある。特に隠しているものでもないが、倉庫にはありきたりなものだ。夏希は迷わずその床の扉に取り付いて開ける。その下は床下の物置ではなく、地下室への階段だった。
と、杉村は背後に人の気配を感じて背筋を凍らせた。
反射的に振り返る。
だが、そこにいたのは小田桐拓郎と藤沢瞳、そして神崎霧依の三人だった。
「なんでここに?」
「霧依ちゃんが、『マリア』の声がしたんだと」
杉村には訳がわからない。だが、その理由を問いただしているひまはなかった。霧依は夏希が香津美の気配を感じたように、彼女も何かの気配を感じてここに来たのだ。
川村夏希と三浦香津美は近しい存在だったし、霧依とマリアに至っては、肉体を共有した二つの魂同士だった。
夏希は一歩階段の中に踏み出した。
「う……」
激しい嘔吐間を覚えた。充満した霊気が彼女の鋭敏すぎる感覚を限度を越えて刺激するのだ。そう言った感覚に疎い杉村達も彼女に続いて地下室へと入ると、どことなく嫌な空気が漂っていることを感じた。
地下室は広かった。薄暗い電球がいくつか照らしてはいたが、空間に比べてその照度は高くなく、全体として暗く沈んでいる。
「川村……わかるのか?」
緊張でからからに渇いた喉で杉村は言った。
「わかる……香津美が教えてくれてる」
五人は夏希の先導で地下室を歩いた。
地下室の一番奥まった一角に、他の物置とは一風変った区画があった。
それはまるで神社の祭殿のような雰囲気すらあった。
その中央には古木の一部であろう、丸太が祭られていた。そこからは凄まじいまでの霊力が発せられていた。夏希は胸を圧迫されるような苦しさを覚えてそれをみた。
「あれが……木霊の本体……」
「ってことは、あれを壊してしまえば……」
小田桐が言った。声にしたものの、それに近づいてはならない、と言ったものが脳裏に張り付いてはなれない。それが何千年と生きた神木のなせる力だった。自然の中で生まれたそれは本能的に人間を、生物を畏れさせる。シャーマニズムが他の宗教とは一括りで語られないのがそれだ。人が考え、教義を開き教えと戒律で成り立つものではなく、感覚的に人を超えたものを畏れ敬う。夏希たちが直面したのはそれだった。
圧倒され、逡巡する五人の背後で、地下室の棚を破壊するけたたましい音がした。
夏希たちの前に黒く大きな物体が転がる。
「森川先輩!」
夏希は悲鳴をあげた。それは徹底的に木霊に痛めつけられた森川の姿であった。
彼女の息はかすかだがあった。だが、全身から流れ出したおびただしい出血は白だった制服を赤黒く染め上げていた。おそらく普通の人間ならば、生きてはいないだろう。
「くそっ」
小田桐が歯軋りをした。
「……そこからはなれろ」
低く暗い声がした。木霊の声だ。森川と対峙した時のような余裕のある声ではない。怒りと苛立ちに満ちた声だ。
標的にされた夏希は狼狽した。その彼女の手を握る者がいた。
「……川村。なんとか時間を稼ぐ。その間にアレを壊すんだ」
「え?」
「森川さんですらああだからな。迷ってる時間はない」
驚いて見る杉村の覚悟には覚悟というものが見え隠れした。
杉村が木霊の前に立つ。小田桐も瞳も霧依も続いた。
一人一人が夏希を一瞬見つめる。
「何故」
夏希はうろたえた。わからない。何故自分に託すのか。彼らは命を張っている。
杉村はともかく、小田桐達は数日前まではお互いの顔すら知らない存在だった。そんな彼らが何故信用するのか。
「それは、夏希の中が空っぽで、とてもはいりやすいから」
「え? 香津美?」
夏希だけに聞こえる声があった。それは親友三浦香津美の声だった。気が付けば直ぐとなりに彼女の気配を感じる。いや、姿が見える。
「夏希はね、これまで全然人を自分の中に入れてこなかったじゃない。だから、とっても入りやすい。あなたの中に心を置きやすい。ただ、それをあなた自身が入り口を閉じてしまったから。みんな、あなたの中には入れないと思ってた。私は夏希の中に入れることにみんなより少し先に気づいてた。そして無理やりあなたの中に入ったのよ、私は」
香津美は苦笑いをした。
「余計なおせっかいだったかも。でも性分なんだ」
夏希は首を横に振った。香津美は夏希にとって変えられぬ存在だった。彼女がいたからこそ生きてこれたと言っても語弊は無いほどだった。
夏希の背後で悲鳴が上がった。杉村達だ。
木霊の力に吹き飛ばされた杉村達は瓦礫塗れになってうめいている。
夏希の足元に何かが当たった。森川の刀だった。
反射的にそれを拾い上げた彼女は全身に走る違和感を覚えた。その刀が帯びる霊力に夏希が反応したのだ。
「ぐっ」
木霊のうめきが聞こえた。森川が最後の力を振り絞って木霊を羽交い絞めにしている。特殊な力を除けば木霊の力も森川のそれとさほど変らないらしく、全身をぼろぼろにされた森川は何とか食い下がっていた。
「水上鏡子! このまま……このまま歪んだ道を進んで何があるというの? あなたの時間は十八年前止まったのよ! そしてあなたの父も!」
「うるさい! はなれろ!」
木霊が暴れた。それは何かを拒絶するような動きだ。森川は彼女を逃がすまいと必死に押さえ込んだ。折れた骨や全身の傷が悲鳴をあげる。
「夏希ちゃん……もう、もたない……」
森川の視界は紅く歪んでいた。意識が途切れ途切れになる。木霊を押さえているはずの両腕の感覚はもはや無いに等しい。
と、木霊の体が大きくはねた。
「ぐっ……」
ついに力尽きた森川が跳ね飛ばされる。だがそのまま木霊は硬直した。
「きょ、鏡子さん?」
夏希の前に水上鏡子が立っていた。だが、それは夏希にしか見えていない。ヒトガタの身体を抜け出した、水上鏡子の霊魂だった。
「幻を止める時間が来たのね……」
「鏡子さん……」
「私が言えた義理じゃないけど……木霊を止めて……この幻を……」
鏡子にとってはこの十八年間は悪夢でしかなかったであろう。死んだはずの自分が生きていて、自分の中に同時に存在する木霊の存在に際悩まされながら、それでも義父の寵愛を受ける生活。以前と変らぬ愛を注ぐ義父に対し、どこかニセモノのような不純物を含んだ自分。だがそれを止める事は迷いの中で時だけが流れた。
そしてその生活の中で唯一の幸せであり、同時に刺であった義父の死期を知ることになる。暴走し始めた木霊の愛情は鏡子にとって悪夢以外の何者でもなかった。
「それでも私は木霊の力で、父が蘇れば、と思っていたのかもしれない……だけどそれは、私と同じ過ちの繰り返し……」
鏡子の哀しみや想いが夏希に重なっていく。夏希はそれを拒否しなかった。他人を受け入れることに怯え、悩み、苦しみ、拒絶した彼女はもういなかった。香津美を奪い、森川達を苦しめた鏡子でさえ、彼女は受け入れた。
その彼女を香津美はとなりで見守った。安心したような笑みを浮かべて夏希を見た。
「……夏希」
「うん。みんなの願い……受け取った。香津美もいっしょに!」
香津美は頷くと夏希の中へと入っていた。
夏希は想う。この親友とはもう二度と会えない。香津美の時間は止まってしまった。だが、彼女のことは何時までも親友だろうと。永遠に忘れることはないだろうと。
そしてその彼女の願いをかなえるために、夏希は霊木が放つ結界の中へと足を踏み入れた。
高く振り上げた刀を振り下ろした。この場にいる、全ての魂の願いを込めて。
