四つのグラスに入れられた麦茶を各々が各々の量を飲み、ひとまずは一息をつく。
つめいたものを入れたことで心が落ちつく感覚だ。
森川が一人暮らしを過ごすマンションは部屋の広さに比べて家具や調度品が極端に少ないためにやたら広く感じる。よく言えばシンプルで清潔、悪く言うなら殺風景な部屋だ。
相変わらずだな、とこの部屋に何度も訪れたことのある沢渡は率直に思う。
白いカジュアルテーブルを囲み、沢渡から見て右手に夏希、左に杉村。そしてクリアポットを冷蔵庫に戻した森川が正面に座る。
「夏希ちゃん……だったよね。おちついた?」
面倒見のよい沢渡はとなりに座る夏希の様子を伺って訪ねた。
視線はまだ上がっていなかったが、わずかに縦に首を振る。ショックが抜けきっていないのは当然だった。逆にその精神状態が人と接しているいつもと違う自分を落ち着かせていた。人のうちに上がりこみ、テーブルを囲むなど何年ぶりだろう。記憶を探ってもすぐには出てこない。
「さて……夏希ちゃんにはわるいけど、起った事はもう戻れない。だから、これからどうするか、それを考えなきゃいけない」
森川がやや遠慮がちに言った。彼女にしては珍しい口調だった。
しばらくの沈黙の後、夏希が顔を上げる。
「大丈夫です。私のことは」
思いのほかはっきりした口調だと夏希は思った。香津美を失ったことがそうさせているのか彼女自身わからなかったが、自分の意志をはっきりと口にする。
森川は頷くと話を続けた。
「私が持っている情報は、エンジェルハイロゥに関わった人間が既に五人が死んでいる、という事。私の家の情報網にひっかかってからだから、過去にまだあるのかもしれないけど、エンジェルハイロゥのオフ会が始まった頃と同じぐらいだから、おおよそ正確な数字だと思う」
そこまで言ったところで森川は強い二つの視線を感じて言葉を止めた。視線の主は夏希と杉村だった。驚きと不可解が混ざり合った表情を作り、二人は森川の顔を見つめていた。
「えーと、質問いいかな? 森川先輩。先輩って何者? さっきも簡単に警察とやりとりしちまうし、その情報網って……」
杉村が質問し、夏希もそれに真顔で首を縦にすばやくふる。
「あー……確かに。そこからはじめないと」
沢渡が拍手を打ち、森川を見た。森川も意外な落とし穴に気づいて沢渡と視線を交し合った。
森川恵理はその類稀なる容姿だけでも存在感に溢れているが、その彼女の持つバックボーンもまた尋常を逸している。
「えーと、二人とも森川財閥を知ってるよね」
森川財閥はこの国の経済界を、いや経済界だけではないだろう。各分野に対し多大な影響力をもつほどの大財閥である。
「その御令嬢」
沢渡が悪戯っぽく言う。期待通り驚いた二人が森川の顔を見る。その勢いに森川は少しだけ身をひいたが、ダメを押した。
「と言うよりは、元当主ってとこかしら」
「ちょっとまってくれ。森川先輩って高校生だよな?」
「十八歳の高校三年生よ。偽りなく」
杉村は頭を抱え込んだ。
「訳がわからなくなってきた」
夏希も思わず大きく息をついて天井を見上げた。
「まあ、それは理解できなくってもいいわ。問題は森川家は表顔で財閥をやっているけれど、裏では今回のような超常現象に関係する事件の処理を請け負っているの……普通の警察では手におえないような奴ね。今回のもそれに当たるわ」
「オーケイ、森川先輩。確かにあれば普通じゃない」
杉村が諦め顔で相槌を打った。信じがたいことをかたくなに考え込まれるより、考えることを諦めて素直に受け入れるほうが得てして理解できることがある。
「まぁ、うちのことはともかく、私にはそういう組織の後ろ盾と、情報網があるってこと。だから、エンジェルハイロゥについて調べていたところなの」
森川の説明には一部、嘘が混じっていた。
彼女自身は当主の座を退き、超常的な問題に対応する組織からははずされている身だった。つまり彼女の後ろには組織的には何も存在していないことになる。一部、森川家の中枢にいる彼女に好意的な人間が個人的に彼女に協力しているに過ぎなかった。
エンジェルハイロゥもまた、森川家が本格的に動くほどの事件ではないし、超常的な問題に関与する指令も権限も受けることのない森川恵理はただの独断の行動だった。偶然知ったエンジェルハイロゥと不可解な死。その組み合わせが彼女の心に細波を浮かべたのだった。
「で……何か判ってるの?」
沢渡が問い掛けた。香津美のことで森川を頼ろうとしたのは彼女だった。当然森川の裏の顔を知ってのことだ。
だが、森川は顔を横に振った。
「ごめん、まだ何もつかめていないの……もし、私が間に合っていたとしても、何ができたかわからない」
沢渡はまっすぐに森川を見詰めていた。森川はその視線に彼女の期待を感じて後ろめたく思った。沢渡はしばらくその視線を続けていたが、ゆっくりと視線を落とした。
「恵理を責めるつもりはないよ」
沢渡は小さく言った。それに森川は反応しようとしたが、彼女の携帯電話が鳴った。
着信は川崎からだった。
「もしもし」
川崎からの電話は香津美が殺された現場の情報だった。
鑑識の初見は死因は心臓麻痺で、外傷はない。争った後はないが、香津美は逃げ出そうとした形跡があるということだった。そして沢渡が証言したようにマネキン達が動いた形跡があるということだった。川崎はもちろん、「動かしたあと」という表現を使ったのだが。
『ああ、遺留品に木偶人形のような人形は見つからなかった』
森川は少しを驚いて電話を切った。
「被害者の……香津美さん? あの人形を持っていなかったんだって」
三人がざわめきたった。特に杉村と沢渡は顔を見合って信じられないという顔を作った。
「そんな、寸前まで香津美はあの人形を持っていたよ」
「間違いない」
二人は強い口調で言った。森川はそれを見て頷くと、ポケットから木偶人形を取り出した。二人が驚いて森川を見た。
夏希は森川が言わんとするところに気付き、彼女もバックから木偶人形を取り出した。二人の出した木偶人形は香津美が持っていたそれと同じだ。
「だとすれば、それを奪っていた人物がいる、ということよ。そして、その人物が犯人だという事になる。狙われるのはこの人形を持っている人達。そして、これを渡された人たちはエンジェルハイロゥの『降夜祭』の催眠にかからなかった特殊な人……一つのラインが出来たわね」
森川は冷静に言った。その言をたどれば、次に狙われるのは彼女自身かもしれない。いや、次に被害者になる可能性だって十分にある。それなのに彼女の言葉の端からはその恐怖は微塵も感じられない。
危険を愉しんでいるようにも思える。沢渡はそんな森川に危機感を抱いて眉をひそめた。この特殊な環境で生まれ育った親友は時折自らの危険を顧みない。
「それって、恵理。それはあんたや夏希ちゃんが次に狙われるってことでしょ?」
不安を口に出す。その言葉を当てられた森川は沢渡の心の動揺を見て、やや視線を逸らした。
「かもしれない。でも違う人かもしれない。これをもっているのが何人いて、どんな人なのかはわからないから」
森川はそう言って言葉を濁しながら、沢渡の顔を見た。彼女の顔は納得していない。森川はため息をついた。
「心配しないで。私も死にたくはないし、対策は練るわ……今、それがまだ確立してないってだけ、簡単にやられるもんですか」
「けど、特殊な人ってなんすか? その、森川先輩はともかく川村や三浦って普通に思えるんだけど」
杉村の質問だった。若干森川に対して遠慮がちになったのは質問の質のことだろう。だが、森川は自分のことを良くわかっていたし、それが普通じゃないことも重々承知だった。
「夏希ちゃん、もし何か自覚があるなら教えて」
森川は夏希に向って言った。一瞬だが夏希は身体を強張らせて森川を見た。それは森川達に自覚があることを伝えてしまう結果になった。だが、過去のトラウマが彼女の口を固くした。
「川村……」
見を固くして、うつむいて閉じこもる。教室にいるときの彼女の様子に似ている。杉村は心配そうに声を出した。その声すら届いていないのか、両拳を握り締め、彼女は絶えている。
重苦しい静寂が包む。
「なぁ、川村。川村と三浦が仲良かったのって、そういう理由なのかもな……俺にはわからないけど、同じようなものを持っていること、三浦は知ってたんじゃないか? 他の女子たちが川村をハブにし始めても、三浦だけはずっと川村に話し掛けてたよな」
大きな声ではない。何か思い出すかのような口調で口を開いたのは杉村だった。夏希はその言葉にはっとなって顔を上げた。
「三浦、霊感が強いって話してた事がある。そういうことじゃないのかな? 森川先輩」
杉村が顔を上げて森川を見た。森川もその視線を受けたあと、夏希を見つめた。
「……夏希ちゃん」
「私、見えるんです。他にも、人の死を感じたりとか……たぶん、香津美や他の霊感が強いとか言っている人たちよりも、ずっとはっきりと強く感じるんです。昔、それでみんなに、いじめられて」
一度しゃべり始めた夏希は止まらなかった。
過去のこと、香津美のこと、堰の切れたそれはとどまることを知らなかった。
夏希が全てを話し終えた頃、時間はかなり過ぎ去っていた。各々が帰宅するために、森川のマンションの一階に降りた。今夜は湿気も少なく、風が吹けばかなり涼しかった。
「沢渡……足、大丈夫?」
前を行く沢渡は左足を引きずっていた。元々古傷があるところにドアを蹴破るなど無茶をして、痛めていたのだ。
「あー……まぁ大丈夫。痛いのはいつものこと。何もなくたってこの左足はやっかいなんだから」
沢渡は自業自得だと笑った。この中の三人には理解できない笑いだ。
「たくっ、人に無茶するな、って言う割には無茶なんだから」
森川は腰に手を当てて不機嫌そうに言った。誰でも親しい人が痛い思いをするのは嫌なものだ。
「ってわけなんで、私は夏希ちゃん送れないから、杉村、あんたがちゃんと送るのよ」
「はいはい」
「……」
「なんすか、その視線」
「いや、あんたのことだから送り狼になる恐れを予測してみた」
「俺をなんだとおもってるんですか」
杉村ががっくりと肩を落として視線を夏希にやった。夏希はその視線を感じて小さく苦笑いを浮かべた。
「川村、教室とはだいぶ違う表情するのな」
「え?」
夏希は驚いて杉村を見た。それはかつて香津美に言われた言葉と同意だった。つまり夏希は杉村達を香津美と同じように感じているのだろう。
香津美は自分に変化が訪れていることを感じた。
「森川先輩も、霊感が強いんですか?」
杉村達とやや距離が離れたところで夏希が訊ねた。森川は少し意外そうな顔をして彼女の顔見る。そして空に浮かんだ月を見上げながら、小さくつぶやいた。
「そうね、強いと言えば強いんだけど……でも私の特別はもっと違うところにあるわ」
「違うところ?」
「たとえば夏希ちゃんのそれは、目が人より良く見えるとか、耳が良く聞こえるとか、そういうものの延長だと思う。だけど、私のは……違うのよ。その根本的がね」
夏希は理解が出来なくて森川を見つめていた。半分にかけた月が彼女の横顔を照らしている。深く刻まれた陰影の奥底にある目が紅く光った気がして、夏希はわずかに戦慄を覚えた。
「私は夏希ちゃんがうらやましい」
「え? 私こんなですよ?」
森川は首を振った。長い黒髪が流れて夜に溶け込む。
「それでも普通の生活を送ってこれたのだし……私には……普通じゃない生活ばかり。普通じゃない敵と戦うための毎日。そんな毎日じゃ友達も作ることもできなかったし、作ろうとも思わなかった。生まれついて特別だったの。存在も家も。何かと都合がいい……それは敵と戦うためだけど、フェイノールという、森川家の出資しているお嬢様学校に行ったときなんてひどかったわ。私を私としてみてくれる人は誰一人としていなかった」
森川はわずかに微笑む。
「いえ、学校だけじゃない……森川の人間も同じだった。私は森川恵理ではなく『森川の娘』でしかなかった。みんなそのからの部分しか触れず、私もその殻を固くするしか手段を知らなかった。私の回りにいる学校の同級生も、家の人間もすべて、プライドの高い人たちだったから、トゲトゲだったしね」
そして、それは自分も同じだった、と森川は付け加えた。
「でも、瑞穂にきて随分変った。家のことから解放されたのもあったけど、それ以前に私に触れてくれる人に出会えたから」
「沢渡先輩……ですか?」
「沢渡もそうね、あと数名。多分普通の人たちから見れば、きっと少ないんだろうけど……それでも私は変われたわ」
森川の顔はどこか誇らしげだ。夏希はそう感じて直視できなかった。わずかに歩を進めながらつぶやく。
「私も、変われるかな」
「きっかけはもらったんじゃない? ううん、香津美って子からもうもらってたはずよ。重要なのは自分の意思。きっと人は自分の意思で自分を変えられる」
