霧依は人波の中に姿をくらました。あれだけ目立つ格好をしていても、身体の小さい彼女が一度人波の中に消えてしまうと見つけるのは困難だった。
「それってどういうこと?」
霧依とは違い、沢渡達の話を立ち聞きしなかったのであろう、瞳が怪訝そうな顔で訊ねた。霧依を追いかけようとしてた沢渡はそれにさえぎられて、霧依を見失ってしまう。ため息をついた彼女は小田桐に視線をうつした。
それはわかりやすく説明しろ、と言うサインだった。
一つため息をついた彼は、沢渡から聞いた話を彼なりに判りやすく要点をまとめて説明をした。
「そんなことって、ありえるの?」
疑いの色の濃い声で瞳がつぶやいた。
「私も目の前で見ておきながら、それが信じられないんだ。だから、信じられないのも無理もないと思うよ……だけど、香津美は確実に変な殺され方をしたんだ」
沢渡の声は混乱と悲痛を多分に含んでいてひどく痛々しい。それは瞳にも感じ取ることが出来た。冗談や嘘で言っていることではないと。
「わかった。ううん、ちょっとまだ信じられないけど、それでもあなたが霧依のことを心配している、ってことはわかった。携帯の番号、教えてよ。霧依に何かの時は連絡するから」
沢渡は頷いて携帯の番号を伝えた。
「けど、私たちもどうすればいいのか……まだわかってないのよ。ただ、木偶人形を持っていると狙われる……それだけしか」
「焦ってもしょうがないさ。次の被害者が出るまでに俺たちでできることをするしかない。で、あの子は何処行ったんだ?」
沈みそうになる沢渡を気遣ってか、小田桐が軽い調子で言うのと同時に話題を摩り替えた。瞳も機転のきくところはさすがだと思う。
だが、その話題の転換は今度は逆に瞳の表情を曇らせた。
電車を乗り継いで都心に移動した霧依は指定された場所でたたずんでいた。人の往来は霧依の季節に合わない格好に視線を向けるものの、それ以上のことは関わることなく流れていく。
「やあ、マリア」
目の前に青年が立ち、彼女のネット上での名前を呼んだ。いわゆるハンドルネームと呼ばれるものだ。匿名でコミュニケーションを取るための認識名称だといってもいい。ただ、霧依の場合はその名前にはそれ以上のものがあった。霧依の中に存在する別人格ともいえる「マリア」。一種の二重人格といっていい。その二つの人格は記憶と肉体を共にしながらも、全く別の価値観と精神を持つ存在だった。
「さて、どこ行く? たまには映画とか、ご飯とかどう?」
青年は笑って話し掛けた。マリアはその誘いに無表情なまま答えた。
「そういうのは彼女とやってよね。そんな目的で誘ったわけじゃないでしょ」
少女のものとは思えない冷たい光が上目遣いで突き刺さる。青年は思わず鼻白んだが、虚勢を張って、ならばとホテルに誘った。
「でもいいの? 明日学校あるし」
「三時間ぐらい寝かせてくれれば、別に問題ないよ。授業中なんてほとんど寝てるし」
それでも「霧依」の成績は上から数えたほうが圧倒的に早い。
「今日はどれくらい出す? それが私の価値であり、あなたの価値でもあるのよ?」
値踏みをするような表情で十は軽く離れているだろう、年上の男を見つめる。その視線の光は知的な妖しさを十分に含んでおり、年齢差からくる優勢さを男に与えなかった。
「え?」
「……べつに」
道順から目的地を察した霧依は颯爽と歩いた。男があわててそれをを追う。
霧依はこう思っていた。
自分の価値を変換してくれる金額。それを払うのも払う側の価値。もしそれがタダで済まそうというのなら、払う側の価値もタダ同然である。タダ同然の人間はそれは人間とは認められず、タダの豚だ。自分の価値を認めない人間は、人間ではない。彼女にとってやっかいなそれは、彼女にとって排除すべきものとなる。
彼女は常にバッグの中にバタフライナイフを忍ばせている。
かつて、彼女を抱いた代価を踏み倒そうとした男をそれで刺している。幸いにもその男は一命を取り留めた。だが、彼女のその行動に一切の躊躇はなかったと言う。
霧依は一種のサイコパスで売春行為も男を刺したことも、罪悪感を伴っていない。彼女にとってごくあたりまえの方程式だったのだ。
「あの子の家は名家で親も実業家なのよ。愛情というか、コミュニケーションというか……彼女の存在価値を大事にしてくれる人が他の子に比べてきっとあまりに少ないんだと思う。自分の価値を便利にわかりやすく変換できる、と言う行為はきっとあの子にとって酷く安心できたのかもしれない」
そう言った瞳の評価は、うまく霧依という少女をうまく表現していた。
霧依は何度目かの朝をそのホテルで迎えて、長い髪をかきあげた。男はもういない。大抵の男は罪悪感を抱えて先にホテルを出ることになる。だが、「マリア」がもう一度誘うことで男はまたフラフラと彼女に近寄ってくる。「少女から誘う」と言う行為が、男たちの罪悪感を一時的に消し去るからだ。
霧依は乱れた髪の毛をとかそうと、バッグの中からブラシを取り出そうとした。手にいつもと違う感触が触れる。霧依はそれを取り出して意外そうな顔をした。
彼女が取り出したそれは、彼女が一週間前に興味本位で参加したエンジェルハイロゥのオフ会でもらった木偶人形だった。
「そうか、これもっていると私、死ぬんだ」
昨日、男と会う前に会った沢渡と言う年上の少女の話を思い出した。
「まぁいいか……どうせ一度しか死ねないんだもん。せめて何か特別な死に方のほうがいいわ」
霧依は身体をベッドにもう一度投げ、天井を見上げながら笑った。
香津美が……いないんだ……もう。
朝教室に入った瞬間、夏希のこころを黒いものが鷲掴みにした。
唯一、彼女と交流のあったクラスメイト、三浦香津美はもう二度と会話を交わすことはない。全身の力が抜けて暗闇に包まれるような感覚に襲われる。
「……村、川村?」
肩を叩かれた。夏希は必要以上に驚いて振り返った。
そこにはクラスメイト、杉村健司がいた。三浦香津美の一件から言葉を交わすようになったクラスメイト。だが夏希は彼にはまだ慣れていない。
「顔色悪いな……って、そりゃ無理もない、けどな」
そういう彼も目の下にくまを作っている。
杉村の夏希を心配する言葉が皮肉にも夏希の心の均衡を崩した。いや崩れかけていたところにわずかな追い風となったのだ。
夏希は小さく悲鳴をあげて杉村を押しのけた。杉村を押しのけて廊下を駆け出していく。杉村は不意を疲れたことと、夏希の思いのほか強い勢いに体制を崩した。
「川村!」
声が廊下を走る。
それは夏希の耳にも届いた。
だが、夏希は一瞬歩を緩めたが、すぐに全力で走り出した。
杉村はそれを見て駆け出した。何人かの生徒にぶつかって、とばっちりを受けた生徒から文句が飛んだ。
予鈴が杉村の耳に飛び込んできた。彼はそんなものどうでも良かった。
息が上がって、足が重い。よろけるように校庭の木に寄りかかる夏希。これ以上走ることはできない。一度止まってしまった足は鉛のように重い。
「川村!」
さすがに運動部で日頃から鍛えている杉村が追いついてくる。
「川村……」
夏希は膝に手をついて頭をたれる。髪が落ちてその表情を隠す。肺活量の限界を超えて走ったために、激しく咳き込む。
「大丈夫か?」
杉村は心配そうに声をかけた。
「なんで、私にかまうの?」
杉村にはその言葉の意味がわからない。彼は当然のことをしていると思っているからだ。親友を亡くし、取り乱しているクラスメイトが目の前にいたら、気にかけて当然だった。それが彼だった。
「ねえ……私に優しくしたって何もないよ? 何も返せないよ。返し方を知らないんだもん。優しく心配されたって、応え方を知らない」
夏希は知っていたのだ。転校してきた時、べつにクラスメイトは彼女をよそ者扱いをして仲間はずれにしようとしたわけではない。むしろ、転校してきた彼女をうまく仲間に入れるように親切に振舞ったと思う。だが、夏希は親切にされることに慣れていなかった。それにどう対応していいのかわからないまま、時間と想いのすれ違いだけが重なった。どんなにクラスメイトが親切にしようが、反応の薄い彼女にクラスメイトは戸惑い、そして遠ざかるようになった。何かしらのアクションを起こした時、リアクションを求めてしまうのは仕方のないことだ。アクションを起こした側が期待したリアクションがない場合、その対象に失望し、諦め、そして感情はマイナスへと転化してしまう。見返りになしに親切を続けられる人間は極少数でしかなかった。たとえばそれは三浦香津美だったりする。「別に何も求めちゃいないけど……でもなるべくなら、つらそうな顔とか、その泣き顔とかはあまり見たくない。だから、放って置けなかったんだ……」
三浦香津美が死んだあの日も同じだった。この男の前で夏希は泣いた。
泣かないと決めていたはずなのに、何故この男の前では涙を見せてしまうのだろう。夏希はそれがわからなくて、悔しくて、さらに涙が溢れた。
杉村は携帯に届いたメールに書かれていたとおり、昼休みに屋上に上がった。誘い主は彼の部活の先輩マネージャー沢渡陽子だ。杉村は購買で昼食を手に入れた夏希を連れ立っていた。夏希は母子家庭のために母親が仕事で忙しく、昼食はいつも購買だった。
「お、ちゃんと連れてきたね。結構結構」
沢渡が手を振って二人を呼んだ。そのとなりでは森川恵理がブロックを腰かけ代わりに座っている。
「森川先輩……それなんかイメージ違う」
杉村は森川の姿を見てつぶやいた。森川は左手に牛乳パックを握りながら焼きそばパンをかじっている。
その指摘に沢渡はけらけらと腹を抱えて笑った。
「あはは。だよねえ。その正体を知れば誰もが驚く森川財閥のお嬢が、焼きそばパンに牛乳だもんね」
「うるさい。結構気に入ってるのよ。焼きそばパン……」
口に含んだパンを牛乳で流し込むと、森川は不機嫌そうに反論した。
森川自身、イメージに会わないというよりは一年前までは想像すらできなかった姿である。第一、彼女は沢渡に教えられるまでパックの牛乳のストローの刺し方を知らなかったぐらいだ。都内の名門私立フェイノール学園から瑞穂へ転校したことが、彼女の転機だった。そこで彼女は沢渡らと出会い、はじめて「友達」と言う存在に触れたのだ。
「夏希ちゃんもパンなんだ」
「あ、はい……いつも、大抵はここで」
「なんだ、じゃ結構顔見てたのかもね、私もよく屋上でお昼してる」
「屋上、好きなんですか?」
森川はその質問に苦笑いをした。校庭を方に視線をやり、小さくため息をつく。
たしかに屋上の風は嫌いではない。
「教室に居場所がないから……ここの方が落ち着けるから、ってとこね」
元フェイノール学園、森川財閥の娘。その噂は誰かが意図的に広めようとせずとも広まってしまうものだ。それでいて成績優秀容姿端麗とくれば、妬みなどの降りかかる負の感情も少なくなかった。人並の人間関係など望むべくもなかった彼女に、それをうまく乗り切るだけの器用さはなかった。
それでも沢渡ら、心許せる友人たちがこの場所に彼女を留まらせている。
「夏希ちゃんも、今度から一緒にお昼しよう。よかったら」
森川は微笑んだ。
沢渡らが森川に手を差し伸べた時の様に、今度は彼女が夏希に手を差し伸べる時だと、彼女は無意識ながらも感じていた。
夏希は驚いて森川を見た。
「……いいんですか?」
「もちろんよ、ね、沢渡」
沢渡は一瞬驚いた様子だったが、すぐに彼女らしい屈託のない笑顔で頷いた。
「もちろん、歓迎するよ」
夏希は信じられないことだった。どう反応していいかわからない。転校したてのときクラスメイトに言われた言葉に似ている気がする。だけど、他人の感情に敏感な夏希は、その言葉の裏に義務感や偽善のような薄い灰色な感情を感じた。
それが森川や沢渡には感じられない。
「よかったな、川村」
杉村が夏希の肩を叩いた。
川村夏希は三浦香津美という絶対無二の親友を失った。だが、それによって彼女は新しい関係を手に入れることが出来た。それは運命の悪戯なのか、必然なのかはわからない。 左腕のリストバンドに隠された傷を右手で押さえながら、夏希は自らの名を関した季節の空を見上げた。昨夜香津美がいなくなったことに新しい傷が出来ていた。
「でも生きていける。この人たちがいるなら私は生きていける」
夏希は言い聞かせた。それを言葉にせず心の中でリフレインする。生きると言う勇気を強く自分に言い聞かせて。
だが、彼女たちは生き残るための術を、手に入れなければならなかった。
