恵理は今すべき事を判断した。意味のない時間を過ごすほど、彼女たちに時間は与えられていなかった。
彼女はゆっくりと安藤恵美の前に立つ。自らの複製の前に立つ違和感は全身をかすかに振るわせた。安藤恵美も同じ思いだっただろう。オリジナルである森川恵理を目の前にしてその黒い瞳を左右に揺らした。
「大体の話は、可憐からきいているかしら」
恵理は静かな口調で切り出した。可憐に目配せをする。可憐は頷いてそれを肯定した。
恵美は戸惑っていた。可憐から語られた森川家の秘密と置かれている状況、それはごく一般的な生活を送ってきた彼女には、にわかに理解できるものではなかった。だが、今現在彼女が置かれている状況、それが可憐の話を裏付けさせていた。
「あなたは私の遺伝子から復元された私のコピーで、体にガタがきた私の代わりになる存在」
恵理は淡々と事実を言った。抑揚のないその声は冷気を纏った刃のように感じられる。恵美は恐ろしいものを見るような目で恵理を見た。
「勝手な……話よね」
恵理は腕を組み、小さな吐息をついて窓の外を見た。その声には幾分かの人間味が感じられ、緊張で感覚が研ぎ澄まされていた恵美もそれを感じた。
「私は私、たとえ遺伝子がおなじであっても、あなたには『森川恵理』を譲れないわ。あなたもそうでしょう?」
恵美は驚いた表情で恵理を見た。自分が森川恵理のクローンである理由を、すでに聞かされていた恵美としては恵理からそんな言葉を聞けるとは思っていなかった。どちらかといえば嫌なイメージしかもっていなかったのだ。
「恵美さん、あなたは……『森川恵理』になりたい?」
不思議な問いだった。恵美は知っている。催眠による記憶封鎖を解き、遺伝子が持つ森川恵理の記憶を目覚めさせれば、目の前に居る森川恵理とは違うものの、彼女の本来この体が持つ人格を取り戻す。安藤恵美の記憶は消え、安藤恵美という人格は死ぬ。
「いやだ、と思う。実際、良く分からないけど……」
恵美は迷いながら答えた。自分がなくなるなど、考えた事もない。だが、自分の存在がなくなるとしたら。それは無念には違いないだろう。
その答えを聞いて、恵理は小さく頷いた。
「でも、残念だけどあなたは今までのあなたでいられなくなる」
「え?」
「はっきり言うわ。あなたが『安藤恵美』として暮らしたその時間は確かであっても、それはもう壊されてしまった」
「どういう……こと?」
恵美は不安げに尋ねた。胸の奥が詰まる。
「あなたの帰る場所はもうない、ということよ」
恵理は静かに言った。それまで恵美の両親として存在した二人は嘘の存在である。その嘘が恵美に知られた今、その二人が両親として彼女の前に現れることはないだろう。恵美はそれに気付いて愕然とした。
「そんな……」
恵美は二の句が告げなかった。
「あなたはすべてを失って、それでも安藤恵美として、生きられる?」
恵理は目を細めた。哀れむような目だった。蔑みでも同情でもない、まるで血を分けた姉妹の悲しみを知るかのような目だった。
恵美はショックのあまり恵理のその表情に気付く事はなかった。
恵理は静かに恵美の返答を待った。恵美がこれから安藤恵美として生きていくのは恐ろしく辛いだろう。
諦めてしまうなら、安らぐ事は容易い。安藤恵美としての生を諦め、森川恵理として生きるならば、それは安楽な道だろう。
恵美は苦しげな表情で、それに手をかけようとした。
「僕はいやだ」
その声の主は北崎明彦だった。
「明彦……」
恵美は驚いて明彦を見た。小柄でいつもは頼りなさそうな明彦は強い光の瞳で、恵美を見つめていた。
「恵美が引っ越してきたあの日から今日まで、僕らが過ごした時間はなんだったんだ。僕の記憶はなんだったんだ。それはウソじゃないはずだ。作り物なんかじゃないはずだ! 恵美、君の両親だって、君の事を愛していた。君の事を本当の子供だと思うようになってたって言ってくれた! 確かにもう戻らないものもあるかもしれない! でも僕はここに居るんだ」
明彦は強く叫んだ。恵美を失いたくなかった。その言葉には、安藤恵美と言う少女が存在し続けて欲しいという強い想いが伝わってきた。
恵美は動揺して明彦を見つめた。
その二人を見て恵理は微笑む。
「彼が居なければ、私たちもあなたに会うことはなかったわ。どうする? あなたにはあなたを望む人が居る」
恵理は一旦言葉を区切り、裕也を見た。
「私にも私を望んでくれる人が居る。もしその人が居なければ、今の私はないわ」
彼女自身も芹香や、なにより春日井裕也が居なければ、既にここに立っていないだろう。
「私は……私は私よ。明彦が言うように、私には私の記憶がある。私の時間がある。私は私でいたい。私はあなたじゃないもの」
恵美は戸惑いながら、しかし語尾は強く言った。それは覚悟と意志だった。諦めず進むことを選んだ。それは困難な未来である事は容易に想像できた。彼女はそこへ踏み込む勇気があった。だが、それも彼女一人ではとても踏み込めなかった事だろう。
恵理は小さく息をついた。恵美の意志ははっきりした。恵理はそれを確認しに彼女に会ったのだ。
「さて、具体的にどうするか、ね」
恵理は腕を組み、冷静な声で言った。
「そうだよ恵理、何か手があるんじゃないのか?」
裕也が言った。その場に居る全員が思う疑問だった。
「まずは彼女をここから逃がさなきゃいけない。ここに居る限り、老人たちの手のひらの上よ」
「老人?」
「長老、って呼ばれている森川家の意思決定をしている裏の主よ。私は表の主として、ある程度の決定権はあるのだけれど、本当の意味でのこの家の権力者は彼らね」
「なるほど……となると恵理の力が及ばない所から逃がすってことだろ。難しいな」
相手は森川財閥である。政治組織から国家機関まで手を入れることができる。並大抵のことではたちまち捕まって連れ戻されるだろう。
「もちろんよ、そのためにここにきた訳だから」
恵理は細い指を下唇にあてると、僅かな時間で考えをまとめた。
皆の視線が恵理に集まった。そう時間はない。彼女は端的にプランを説明し、彼らはそれに従った。納得と一抹の不安を残しながら。
草薙真奈美はバーのカウンターの隅で頭を抱えた。当然藤井の店である。
「これは一体どういうことよ?」
運命の不幸さを競う世界大会があったら出場してみたいものだ。真奈美は自虐的に層考えた。
「いや、それは俺のほうが聞きたいね。何だって俺の店にあんなのをつれてくるんだ」
「だって、お酒のおいしい店を教えてくれっていうからさあ」
「だから何で俺の店……」
「私は未成年なの。飲み屋なんてそう知ってるわけないでしょ」
その真奈美とぶつくさ言い合っているのはマスターの藤井だ。彼は思わぬ客の来訪にお気に入りのグラスを二三個割る羽目になった。
その客はセス。金色のセスと贈り名される闇の世界で有名な吸血鬼だ。藤井ももちろん彼女の名を知っている。彼女に纏わる恐怖の逸話もだ。
真奈美が沢渡たちと別れたあと、セスはもう一度彼女の前に現れた。セスにとって真奈美を追うくらいは造作もないことだ。真奈美を捕まえた彼女は、おびえる真奈美に酒場を教えてくれと親しげに言ったのだ。
「マスター、これもう一杯。これおいしいわぁ。真奈美ちゃんもこっち着て一緒に飲もうよ」
セスはカウンターの中央に座り、カラになったグラスを片手で弄びながら言った。彼女は上機嫌だった。藤井の店の酒はセスの口に敵うだけのものがあったのだ。
セスの一挙一動に真奈美と藤井は体を振るわせる。
「やだなあ、怖がらないでよ。別にあんたたちは敵ってわけじゃないんだから。同じ吸血鬼じゃん、仲良くしようよ」
セスは金色の長い髪を揺らしながら、音を立てて笑った。最強の吸血鬼の一人といわれる者の姿にしては無邪気で無防備すぎる。真奈美は困惑して彼女を見つめた。
「仲間って……あなたは森川恵理を殺しにきたんでしょう?」
「ちょっとちがうな、私は彼女と勝負がしたいだけよ。まあ、結局は殺し合いになるかもだけどね。どっちが生きのこるか、死ぬか。これほどはっきりした勝敗のつけ方もないでしょう?」
セスはさらりと言った。その言葉に嫌悪感を抱きながら、真奈美もそれに納得していた。それが彼女たちの居る世界の理なのである。
「そうか……そういうことならな。確かに森川家は俺たちにとって天敵もいいところだ」
藤井は緊張を解いてはいなかったが、幾分かは安心し、セスに酒を注いだ。セスはグラス越しに藤井の理解に微笑んで返した。
「ま、同じ異端同士仲良くやりましょ」
真奈美の表情まだ硬い。
「真奈美ちゃんは森川恵理と友達なんだっけ。そりゃ納得いかないよねぇ」
「友達ってわけじゃないわ。顔を突き合わせたのはほんの何度か。でも、私が人間だった頃、親しくしてたみんなは彼女の友達だったり大切な人だったりする。だから、彼女が死ぬのは困るのよ」
困惑しながらも正直に思いを吐いた真奈美を横目に見て、セスはリキュールのカクテルでその唇を湿らせた。
「正直ね。でもあなたが気にしているものは、あなたがすでに失った世界よ」
セスは淡々と言った。その言葉は怜悧で真奈美の心を深く抉った。
それは真奈美にもわかっていることだった。
「覚悟なさい。あなたは今までの世界を捨てて、この永遠を生きなければならないのよ」
セスは言う。間接照明が照らし出す彼女の表情は少し寂しげだ。彼女は千年以上を生きるという。老化という現象がない吸血鬼は彼女の言葉どおり、永遠に近い寿命を持つ。その永遠を異端として生きるのは、どういう気持ちなのだろうか。真奈美にはにわかに想像できなかった。
「どうして、私は吸血鬼になってしまったの」
幾度となく自問した言葉。セスなら答えてくれるかもしれない。真奈美はすがるようにセスを見た。
「運が悪かったのよ」
セスは悪戯っぽく笑うと簡単に返した。真奈美は力が抜ける思いがしてカウンターにへたり込んだ。
「運って……」
「だって、そのとおりなのよ。吸血鬼に噛まれるなんてそう滅多にあることじゃないし、噛まれた人間は大抵はグールに落ちて、すぐに朽ち果てる。吸血鬼になれる人間はそんなにいるわけじゃないもの」
「じゃあなんで私が」
「体質なのか遺伝なのか、私も良くは知らないのだけど、いるのよ、あなたたちみたいなのが。まあそんなことは考えても仕方がないことだわ。考えたって、あなたが過去に戻れるわけでもないし、人間になれるわけでもない」
セスの言葉は淀みがない。すがすがしいほどにストレートな物言いは、かえって真奈美を落ち着かせた。
「まったくそのとおりね。正直、吸血鬼になるくらいなら、死んでしまったほうが楽だったかしら」
ため息とともに、諦めの言葉を吐いた。だが、言葉に深刻さが薄れていたのは諦めによる、一定の気持ちの切り替えが行われたのだろう。
「ま、中には進んで吸血鬼になったやつも居るけどね」
セスはカクテルを飲み、つぶやくように言った。軽かった口調が急に重くなった。その変化に気が付いた真奈美と藤井は怪訝そうに彼女を見つめる。
「森川恵理については焚きつけられたとはいえ、彼女と戦うためだけにこんな極東の国まで来ないわ。興味は確かにあるけどね。それより問題はケイオスなのよ」
「ケイオス?」
「混沌の名を冠する吸血鬼、ケイオス。私と同じように千年以上を生き、そして誰にも滅ぼされた事のない吸血鬼。彼を最強の吸血鬼と呼ぶ者も少なくないわ。癪な話だけどね。確かに私は彼に勝った事がないし。ま、負ける気もしないけどさ」
セスは腕を組み、不満げな表情で吐き捨てるように言った。彼女は最強の吸血鬼である事にプライドを感じているのだろう。
「そんなに強いの?」
「強い? は、まさか。彼は強くないわ。強さなら並みの吸血鬼でいいところだわ。そうね、あなたでも十分に戦える」
「でも最強だって……」
「彼はね、人間の血を吸い吸血鬼化した人間を自分にしてしまう。ケイオスと呼ばれる吸血鬼は無数に居るのよ。むしろケイオス自体はその吸血鬼たちの共有する精神と呼んでいいわね。だから、ケイオスの精神を持つ吸血鬼を倒したところで、他のケイオスがいる限り、彼は滅びない。たとえ一人でも残れば、彼はまたその数を増やし始める。そういう性質のためか、彼が現れた地域の人間は大きな被害を受ける。ネズミ算式に彼は増えるわけだからね」
セスは忌々しそうに説明した。
その話から察するに、彼女は何度かケイオスと戦い、追い詰めているのだろう。だが彼女の説明のとおり、生きのこったケイオスの個体はまた数を増やし、その存在を示している。
「でも、ケイオスも吸血鬼でしょう? 何故あなたはケイオスと戦うの?」
真奈美は素直に疑問に思った。セスは真奈美や藤井に対して仲間だといった。ケイオスは違うのだろうか。
「簡単な話よ。私はケイオスのやりかたが嫌いなだけ。あんなのと同列に扱われるのも気に障るしね。人間だって同じでしょう? 同族だからって無条件に仲良く出来るわけじゃない。同族だからこそ殺し合いだってする」
なるほど、と真奈美は思った。人間同士で喧嘩をしたり派閥を作ったり、時には戦争だってする。そう言うものか、と思った。
「じゃあケイオスはあなたの天敵ってわけだ」
セスは手にしたグラスを荒っぽくテーブルに置いた。その言葉は気に食わなかったらしい。
「まさか! あんなのに私が負けるはずないって言ったでしょう? 天敵って言えるのは人間よ」
真奈美は驚いてセスを見た。人間は身体能力においても生命力においても吸血鬼の敵ではない。重火器を用いたところで吸血鬼の強靭な肉体と生命力の前には意味をなさないだろう。吸血鬼と人間は捕食者と被捕食者の関係にある。それが天敵だというのか。
「わからないって顔をしているね。まあ確かにそう思うか。吸血鬼はね、種が生まれて以来人間を糧としてきた。そういう種だから。もちろん人間も黙ってはいなかった。非力な人間が私たちに対抗する方法を試行錯誤した。そして彼らは世代をいくつも重ね、吸血鬼を滅ぼす手段と武器を手に入れた。もう数千年前の話よ」
セスは目を細める。
「あなたの身近にもあるでしょう。森川家の血は、その血統そのものが対吸血鬼のために人間が作り出した兵器なのよ。そして彼女が持つ霊刀は吸血鬼を滅ぼす力を持っている。あれに切られれば私だって滅びを免れない。そういうものは、世界各地にあるのよ。数は限られているけど。それらに対しての対抗策を、吸血鬼はまだ見つけていないのよ」
その事実は吸血鬼にとって人間を天敵と呼ばずしてなんと呼ぶか、彼女はそう締めくくった。吸血鬼と人間の立ち位置は微妙なバランスで存在しているのだ。
「ちょっと話を戻していいか? セスさん、あんたはケイオスが問題でここにきたと言ったな?」
藤井が話を割った。
「そうよ」
「つまりそれは、ケイオスがここに来ている、ということなのか?」
「そういうこと。ここのところこの町でグールが増えつづけているのはそのせい。人間がどうなろうと私には関係のない話だけど、近いうちにここは死人の町になるわ」
