セスに対抗できる恵理の力は、ケイオスの個々の力とは比べるべくもなかった。斬り、払い、突く。次々と恵理はケイオスの一部を滅ぼしていく。だが、ケイオスの数はその力をの差を埋め、逆転するに十分だった。
一体を切払ったの隙をつかれた恵理は、髪をつかまれ引き倒される。好機と見た吸血鬼たちはいっせいに彼女に襲い掛かる。いくつかの打撃を受け、彼女の衣服が裂ける。彼女は身体をひねり致命傷を避けると共に、全身のバネで彼らを吹き飛ばしながら立ち上がった。
「くっ……」
間合いを取り激しく肩で息をする恵理。セスとの戦い、そしてケイオスとの長期戦は彼女の体力を著しく消耗させるものだった。下がって行く気温と裏腹に、汗が吹き出る。彼女はそれをぬぐいながら、大きく息をついた。
「一体、何の目的でここに現れたの?」
恵理は苛立ちまぎれに問いかけた。
いくつかのケイオスが笑う。
「この街に現れたことか?」
目の前に立つ吸血鬼が言った。
「それとも今お前の前に現れたことか?」
次に背後に立つ吸血鬼が続けた。恵理を囲む吸血鬼が次々とのその言葉を紡ぐ。それはケイオスという吸血鬼が、彼らすべてであることを表していた。
四方八方から飛び交う声に、恵理の神経は酷く疲労した。彼女は奥歯を噛む。セスとは違う、ケイオスの強さを感じる。
「サービスだ、教えてやろう」
「私はこの地が気に入った。この地にはうまい血を持った」
「つまりは霊的に強い力を持った人間が多く存在する」
「生物が食事をするに、より栄養価の高いものを選ぼうとするのは」
「本能と言っていい」
ケイオスは余裕だった。ケイオスも消耗しているはずだ。恵理はいくつかの彼を滅ぼしていた。吸血鬼をいとも簡単に滅ぼせる霊刀を彼女は所持している。それはケイオスにとっても脅威だろう。
だが余興だ、と言わんばかりにケイオスが三体、恵理に襲い掛かった。一人目をかわし、二人目を切り捨てたが、三人目にその長くつややかな髪を捕らえられた。恵理は疲労で体が重くなっていた。僅かに悲鳴を上げながら抵抗するも、凄まじい膂力に彼女は引きずり倒される。
「それにな、ここには極上の獲物がいるのだよ」
倒された恵理の胸をケイオスの一人が右足で踏んだ。屈辱と息苦しさに恵理の顔が歪む。
「未来視の人間だ」
恵理の顔が真っ青になった。未来を垣間見ることができる人間。春日井裕也のことだ。ケイオスは笑う。彼は恵理と裕也の関係を知っているのだ。
「我々は血を吸った者を取り込み、自分とする。その人間の血を取り込めば、よりすばらしい生命体になれるのだ」
ケイオスは血を吸った者を、新たなケイオスとして取り込んで行く。それは血を吸う前の個人的な能力も取り込んでいく。それがケイオスと言う吸血鬼の強さだ。春日井裕也の持つ、未来視。直前の未来を見ることのできる能力は類まれなる能力だ。ケイオスが欲しがるのも無理もない。
「すでに我々の一部はその者に向かった。森川恵理、お前を監視することで意外な収穫を得たものだ」
恵理は目を見開いた。ケイオスはここにいる者がすべてではない。彼の言が本当ならば、ケイオスの一部は裕也の自宅に向かったはずだ。ケイオスの個々はセスと比べれば脆弱だ。だが、人間が束になってもかなう相手ではない。
恵理は強引に身を起こそうとしたが、ケイオスはそれに気づいて右足に体重を乗せた。恵理の薄い胸をつぶして肋骨と肺が軋み、恵理は激痛に咳き込んだ。セスとの戦いで彼女は肋骨を損傷していたのだ。ケイオスは嗜虐的な笑みを浮かべると、足を恵理の横顔に乗かえて、その美しさを踏みにじった。
屈辱と絶望にまみれる。吸血鬼を倒すための闇払いの一族、二度と人間に戻れないかもしれない血を解放してなお、愛する人一人を救えないと言うのか。
いやだ。彼を失いたくはない。彼を失ったら、どう生きていけばいいのだろう。不安に倒れそうなこの心をどう支えていけばいいのだろう。すべてを引き換えにしても彼を失うわけには行かなかった。
強い想いと口の端に血がにじむ。その刹那、一つ大きく心臓が鳴った。
次の瞬間、ケイオスは呆然とした顔で恵理を見た。無理な体勢から彼女は彼女を抑えていたケイオスを吹き飛ばし、ゆらりと立ち上がった。乱れた髪は彼女の表情を隠し、その奥で光る赤い瞳だけを映し出した。それはまるで幽鬼のように生気がない。
次の瞬間、彼女の姿がケイオスの視界から消えた。ケイオスの視界は複数の視点を持つ。それすら追いきれない速さだった。
一瞬後。ケイオスはかつてケイオスの一部だったものになっていた。滅び、廃塵に化したそれは風に洗われて行く。そこには呆然と夕闇を見つめる、吸血鬼でありそれを滅ぼす存在である二律相反の少女の姿があった。
それは重力はおろか、存在するらそこにないように思えた。あまりにも気配がない。明敏な川村夏希がそこにいたとしても、気づくことはなかっただろう。
ケイオスの出現によって戦いを邪魔されたセスは、立ち去ったと見せかけて、森川とケイオスの戦いを傍観していたのである。それは彼女たちの戦場からほんのすこしはなれた木の枝の上である。細身だが背のある彼女が枝に腰掛けている。だが、枝は少しも重力感じないように軋み一つ立てていなかった。
「なるほどねえ……」
彼女は唇に指を当ててつぶやく。久方ぶりに会うケイオスの現在の実力を探るつもりだったが、収穫を得たのは恵理の能力だった。いや、森川家の血のシステムを理解したのだ。
吸血鬼には大なり小なり、吸血衝動が存在する。それは食欲に似たようなもので、彼女たちが生きていくうえで必要不可欠な栄養補給である。ケイオスのような特殊な存在を除けば、それは若い吸血鬼にこそ特に強い。森川恵理はいわばほとんど血を吸ったことのない吸血鬼だ。その吸血衝動は何事にも変えがたいものに違いない。餓えた獣ではないが、飢餓状態の時の吸血鬼の力は、普段の数倍に値する。人間との混血でありながら、攻撃性の高い吸血鬼の遺伝子と、それが餓えた時の力。森川家はそれを巧く組み合わせて、対吸血鬼として最強の存在を作り出したのだ。
セスは少し悲しい瞳をして恵理の姿を見た。
「でもそれはかりそめよ。血を飲めば、その渇きは癒え、力を失う。ただの吸血鬼に成り下がるわ。人間ですらない。ただ、役に立たない。そういうものを、あなたの家は許さないのでしょう?」
独り言は風に乗る。届く耳もないのに悲しげに夕闇へと霧散する。
恵理は何かを思い出したように駆け出した。吸血衝動と言う本能の中で、彼女は理性のカケラを振り絞り、春日井裕也がケイオスに襲われることを思い出したのだ。彼の自宅と公園は目と鼻の先だ。今の彼女の足なら数分とかからない。だが、ケイオスは彼女と戦っているときに、既にそこに向かっている……
マンションの外の異常に気がついたは沢渡だった。激しくドアを叩く音。まるでハンマーで打ち付けるかのようだ。金属の蝶番が見る見る変形する。部屋にいる者たちは得も知れぬ恐怖に愕然とその光景を見つめた。
まず冷静になったのは沢渡と小田桐だった。冷静で明晰な小田桐の頭脳は、この状況はどういうものか、解析し始めた。沢渡は空手の達人としての感覚が、そして吸血鬼と対峙した時のそれと同じだと感じていた。
「吸血鬼だ」
沢渡が低くつぶやく。一同の視線が彼女に集まった。
「なんで、ここに?」
千明は青ざめた顔で言った。彼女も吸血鬼の恐怖を直接感じたことがある。
「わからないわよ……そんなこと」
ケイオスが春日井裕也を狙っていることなど知らない彼女らは、吸血鬼がピンポイントでこの場所を狙った理由は分からない。
「考えられるのは森川に縁がある、ってことか」
小田桐が言った。このとき彼の推測は外れていたのだが、それは仕方がないといえよう。
「森川は吸血鬼と敵対している。奴らが彼女を狙って攻撃してくることもあるんじゃないかな。残念ながら、ここに彼女はいないけど。ただ、彼女とよく似た人間の存在はある」
小田桐は恵美を見た。彼女は恵理のコピーだ。
「もし、吸血鬼が森川を狙っているとしたら、恵美ちゃんは真っ先に狙われるだろう。かといって、恵美ちゃんが吸血鬼と戦えるわけじゃない。ま、俺たちも無事ではすまないだろうけどね。さて、俺たちはこの状況をどうにかしなきゃいけない。ここは三階。ノーロープバンジーを敢行して無事ですむ高さじゃないな……」
小田桐はあごに手を当て、考え込んだ。出口は一つ、玄関のみでそこには吸血鬼がいる。脱出口はない。
「ベランダから隣の部屋へ! 隣は今空き部屋よ」
千明が思い立った。工具箱からスパナを取り出す。集合住宅のベランダの仕切りは、緊急時に備えて簡単に突き破れるようになっている。ベランダから隣へ移動し、ガラスを割って部屋へ進入すればもう一つの脱出口が開けると言うわけだ。
「いい案だ。だけどそれじゃすぐ相手にばれる。そこをどうするかだが……」
「私が残る。少しだけ時間稼ぎをする。千明、オタク……先導を頼む」
沢渡が言った。
それは自己犠牲などではない。時間稼ぎができるのは、自分しかいなかった。もっとも効果的な判断だ。沢渡陽子はそう考える。
彼女は空手の達人だ。天性の才能と努力。一つの怪我がその道の栄光を閉ざしたが、その力が失われたわけではなかった。その彼女を持ってしても吸血鬼に抗うのは難しい。それを承知の上だ。
「沢渡! いくらお前でも無茶だ」
小田桐はめずらしく狼狽した声で言った。
ドアを叩く音が変わる。鈍い音から、乾いた音へ、そしてつなぎ目の部品か壊れる音が混ざる。
「もう扉が持たない。早く!」
沢渡は鋭く叫ぶ。その言葉には強い意思と気力が乗っていて、反論を閉ざした。彼女に蹴落とされるかのように千明が走り、恵美と明彦が続いた。
一瞬だったが小田桐は走り出すのをためらった。だが、彼は三人を追って走り出した。沢渡を困らせたくはなかったからだ。
それと同時に、玄関の扉が破られた。
紅い目をした吸血鬼が三体、沢渡の視界に入る。生物としての生存本能が彼女に警告与える。
「私も人の事言えないな」
冷や汗を浮かべた沢渡は唇の端をゆがめて自分を皮肉った。恵理の自己犠牲的な行動を常に批判していたのは彼女自身だ。
吸血鬼は様子を伺うようにゆっくりと接近する。幸い廊下は狭い。三体に囲まれることはない。沢渡は両拳を握ると両脇を締めて声を出して気合を入れた。セスが賞賛を与えた沢渡の気迫である。
先頭の吸血鬼が襲い掛かった。集中した沢渡は驚異的な反射神経でそれをかわし、クロスカウンターで拳を入れた。二体目を小柄な体格から想像できない、リーチのある回し蹴りで吹き飛ばす。彼女はためらわず三体目に向かった。隙を見せている今こそが彼女にとって唯一無二のチャンスだ。
三体目を間合いに入れたとき、背後からの殺気を感じて彼女は身を翻した。
先ほどカウンターを入れたケイオスの反撃だった。普通の人間なら失神しておかしくない一撃だ。だが、敵は吸血鬼だった。その肉体の強度は人間をはるかに凌駕している。彼女の膂力では怯ませることはできても、行動を止めるには至らなかった。二体目とて同じである。電光石火の回し蹴りを受けたそれも、ゆっくりとを身を起こした。
「くっ……」
勢いを失った沢渡は防御に回った。それは失敗だった。人知を超える吸血鬼の攻撃を、彼女は並外れた集中力と反射神経で回避していたが、人間の集中力は長くは続かない。数秒間彼女はケイオスたちの攻撃をかわしたが、ついに捕らえられ、その細い首を鷲掴みにされた。万力のような圧力は窒息など生易しいものではない。首の骨を折らんばかり締め上げた。
その腕に手をかけ、必死の抵抗を見せる沢渡だったが、次の瞬間宙を舞っていた。体重五〇キロの彼女を片手で、剛速球のように投げ飛ばしたのだ。もちろん受身を取る暇などない。彼女は頭から鉄筋コンクリート造の壁に叩きつけられる。真っ白な壁紙に鮮血が飛び散って残り、彼女の身体は崩れ落ちた。
「春日井裕也はどこだ」
沢渡は髪をつかまれて引き起こされた。おびただしい出血が、沢渡の表情を隠す。痛覚などもはやない。視界が回る。僅かに残った感覚が、その声を聞き取った。
「裕也……何故、裕也を……」
それは声になっただろうか。沢渡自身には分からない。だが、時間的にも十分な時間を稼げたと思った。今頃小田桐たちは隣の部屋を通じて脱出しているはずだろう。沢渡はそう思って微笑を浮かべた。
それが癪に障ったケイオスは右腕を上げた。沢渡に止めを刺そうとしたのだ。
だがその刹那、右腕は肘から先が失われた。宙を舞うそれは廃塵になる。
ケイオスが驚いた表情で振り返ったそのとき、彼の身体は大きく刃に貫かれており、それが致命傷だと知る。吸血鬼としての致命傷だ。目の前には、息を切らした森川恵理の姿があった。
「はやかった……な」
ケイオスは跡形もなく灰になる。公園から急行した恵理は、人を超える速さで裕也の自宅へ飛び込んだ。すでにケイオスは内部に侵入していて、恵理は一瞬で二体のケイオスを始末すると、沢渡に止めを刺そうとしている姿を見たのだ。すべての行動は一瞬である。だが、その一瞬が沢渡の生死を分けたと言ってもいい。
「恵理……」
沢渡はほっとした。血だらけの姿で微笑む。指一本すら動かせない重症だった。このタイミングで助かるとは、たいした強運だと彼女は自分の悪運をほめた。
「裕也はここにはいないよ。他のみんなも……無事なはず」
脳震盪でろれつが回らなかったが、沢渡は恵理が心配していそうな情報を必死に伝えた。
恵理はほっと胸をなでおろす。裕也はこの場所にいない。ということはここでケイオスに襲われた可能性はないと言うことだ。しかし、すぐにでも彼に会って、彼を守らねばならない。ケイオスの数はわかっていないのだ。
その前にするべきことがあった。沢渡の手当てだ。下手をすれば出血死に至る出血量だ。おびただしい赤が彼女から溢れている。
血。大量の血だ。森川は胸が一つ大きく鳴るのを感じた。全身がそれを欲する。血が飲みたい。その衝動は一瞬毎に大きくなって、彼女の理性を超えようとする。
「……恵理!」
沢渡の目が驚きに大きく見開いた。彼女の首筋には森川恵理の牙があった。
沢渡は全身の力が抜けていくのが分かる。吸血鬼に血を吸われているのだ。それは親友である森川恵理だった。意識が暗く遠くなる。今の彼女に抵抗は難しかった。
それが一瞬だったか、長い時間だったか分からない。
森川恵理は体の中が冷めて行く感覚で理性を取り戻た。
そして、目の前の光景に愕然とした。
力なく青い顔で横たわる親友、沢渡陽子。その顔に生気は感じられない。
そして口の中に残る血の味。今まで感じることのなかった満足感。
セスやケイオスと戦いによる消耗。その餓えは、彼女の理性を、自縛を凌駕した。
彼女は禁忌を最悪の形で破ったことになった。
彼女は自分がしたことの事実に、愕然と立ち尽くした。
