風が吹き荒れる。コンクリートの大地をたたきつけるような風だ。
風以外はあまりに静かだ。戦いは終わったのだろうか。裕也はゆっくりと恵理の入っていったビルへと近づく。
入り口には何人かの黒いスーツを着た男が、神妙な顔で立っている。
すると、自動ドアが開き、少女がゆっくりと歩いてきた。森川恵理だった。
制服は血にまみれ、表情は空ろだった。凄惨な、姿だ。
周りの男たちは動かない。戦いはすでに終わっていることを表していた。
「恵理!」
裕也は駆け寄った。
恵理はそれに気づき、彼を見た。二人は間近による。激しい風が二人の髪を乱した。
「すべて終わったわ。私は、この手で殺した」
右手には血にまみれた小月が握られていた。
「私は私のため、私利私欲のために、私は人間を殺した!」
恵理は奥歯をぐっとかみ締め、眉間に皺を寄せる。今にも泣き出しそうな顔だ。
次の瞬間、裕也は恵理の身体を抱きしめていた。
少女の目が驚愕に見開かれた。
「いい。それでいいんだ恵理……君は君でいるために、戦いを選んだ。俺は、誰がなんと言おうと、君が正しいと思う」
その身体は震えていた。だが、それを止めるように裕也が強く抱きしめる。
森川はその暖かさを感じた。緩やかに表情を変える。荒れ狂った心の中が、穏やかな水面のように静かになっていく。やはりこの胸の中が、心地よい。彼女はそう思った。
「ありがとう、裕也……ありがとう」
放課後は誰もが落ち着かず、ざわついている。部活の準備をする者、帰宅を急ぐもの、特に予定もなく友人と談笑する者。
安藤恵美はそれを見つめて、酷く懐かしいような気がした。ここを離れてそんなには立ってないはずだ。
「昨日ニュース見て驚いたよ。恵美がテレビでてるんだもん。それに記者会見! まさか恵美がお嬢様だったとはねえ」
クラスメートの話題は彼女の話題で持ちきりだった。
安藤恵美、いや、彼女はもう安藤恵美ではない。
「森川家のご令嬢とはね」
恵美は苦笑いをしてあいまいに答えた。
「テレビに出たのは本の少しだったでしょ? それに私もびっくりだよ。子供のころの記憶はほとんどないから、養子に出されてたことぜんぜん聞かされてなかったからね」
森川恵理は、長老たちから森川家の実権を奪ったあと、内外の動揺を抑えるために記者会見を開いた。マスコミによる情報公開と市民に認知させることでイニシチアブを取ったのだ。
それは森川恵理が森川家の当主の座を体調を理由に静養引退、養子に出していた恵美を本家に戻すことによって、代を交代するとの発表である。
森川恵理のクローンであり、本来なら彼女に摩り替る筈だった恵美は、恵理の「妹」として、違う形で森川家の当主の位置に立ったのである。
それは恵理が病院の夜に皆に話した、最後の策である。クローンである恵美の人格と権利を守り、導き出した答えがそれだった。恵美も恵理の案に乗った。
「しかもフェイノールに転校だなんて……まあ、恵美頭良いから」
友人たちは口々に言う。羨望のまなざしだ。
「お嬢様学校だからね。ついていけるか、というか、それより雰囲気になじめるかなあ? ね、メールとかちょうだいよ。お願いだから」
大げさな演技ですがるように頼む恵美。周囲から笑いが漏れた。
「うん、するする。絶対」
他愛もない、会話が気持ちいい。ここから離れなければいけない。いくつかの友人とは縁が切れるかもしれない。失うものが何もないわけではない。だが、もしかすると全てを失い、自分は森川恵理の記憶を呼び戻され、何も知らない場所で、闇払いの一族の過酷な運命を進んでいたかもしれない。あの、森川恵理のように。
それよりはずいぶんとましだと思った。これからは、今よりは気楽でないかもしれない。つらいことも増えるかもしれない。自分には自分のできることをしよう。ひとつ、ひとつ。彼女はそう自分に言い聞かせた。
と、彼女は視線を感じた。廊下で北崎明彦が見ていた。
恵美は微笑むと、右手を閉じたり開いたりして合図を送った。
明彦は肩をすくめて、手を振って廊下へ消えた。
彼女は転校する。明彦にとっても彼女といられる時間は少なくなる。だが、彼女も友人との時間を大切に思っている。もしかすると何人かは会うこともなくなるだろう。彼はそう思って、まだある未来の時間に期待した。
日本でも有数の財閥である森川家のお家騒動は、一瞬世間を騒がした。十八歳の現当主が十七歳の養子に出されていた妹に座を譲るとは前代未聞である。それも類まれなる美貌の姉妹だ。話の種は尽きないだろう。
だが、報道はすぐに彼女らから興味を失う。直後に起きた世界的超大企業の不祥事と、人気タレントのスキャンダルが起こったからだ。それに森川家が裏で一枚噛んでいた事は事実だが、表に出ることはなかった。
森川家は財界、政界と裏の世界でつながりを持っていたにしろ、表立った関係は希薄なためそれ以上世間が騒ぎ立てることがなかったのである。
森川恵理の情報戦の初陣はまず成功したといって良い。
恵美を森川家の当主に据える事で、彼女の立場を確保し、自らは裏に回り、森川家を取り仕切る。特に闇払いとして、人の世界と魔物の世界の秩序を守る存在となった。
セスはシングルのカクテルグラスを傾けて、その味に満足そうな笑みを浮かべた。
その中に沈む真っ赤なチェリーをつかみ、もてあそぶようにくるくると回す。
「結局、得をしたのは森川恵理……か。ま、なかなかやるじゃない」
少しねたんだような声色で言う。
「そうでもないわ。私たちだって助かった。と言うより今後がやり易くなったと思う」
反論したのは草薙真奈美だ。肩肘を突いて手のひらに顎を乗せたリラックスした態度で言う。
彼女は恵理との約束で、この地の闇の代表者になっていた。
不必要に人間社会に関与しないことを条件に、吸血鬼としての活動と滞在を認められた。あくまで闇の者に対して排他的であった以前の森川家と比べ、共存的になった。
「彼女が闇払いの頂点に立ってくれたお陰で、人間の世界と闇の世界が近づいた気がする。いい意味でね」
セスはその言葉に一応の納得を見せたようだった。
元来この国は闇の者との付き合いが上手かった。彼女はそう思う。さまざまな超常現象や魔物を時として神として祭り、その数は八百万に達すると言う。なるほど、恵理のような存在がたびたび現れては、人間と闇の世界を調和させてきたのだろう。
「それにしたって藤井さんは薄情だよねー」
バーテンの位置に立つ藤井を睨みつけて、草薙は言った。ただし口元は笑っている。
「ばかやろう。俺は常識的なんだ。ケイオスなんて化け物とやりあってられるか」
ぶっきらぼうに言う。セスは意地悪そうに笑うと、藤井をからかった。
「まったく賢明な考えね。これは褒めているのよ。ケイオスなんかとまともに戦う価値はないからね」
セスは続けた。
「でもね、真奈美。こいつあんたがピンチになったら、あんただけでも助けようと様子をうかがっていたのよ」
藤井はぎくりとして肩を振るわせ、草薙は驚いた顔でセスと藤井の顔を交互に見た。
「それがね、私があんたを助けちゃったから、出て行くタイミングを失っちゃってね……」
セスはそこまで言うと笑いを堪えきれずに、音を立てて笑い始めてしまった。
草薙はどこか不満そうな顔つきで藤井を見つめた。
「なんだ、やっぱりだっさい……」
低くつぶやく草薙に、藤井は苦笑いを浮かべるしかできなかった。
雲ひとつない空には冬の名残が残っている。だが、日差しには春の気配をたっぷりと含んでおり、季節が進んだことを知らせてくれる。
瑞穂高校の校舎はところどころで人が固まり、ざわついていた。祝福と寂寥が重なる卒業式。気候もいい事から、屋外にも人影が多数見える。
春日井裕也たちは、彼らが昼食に良く使っていた屋上にいた。
「先輩たちが卒業しちゃうと、寂しくなるな」
少し困ったような顔で言うのは夏希だった。人付き合いが苦手な彼女は、クラスメートより一年上の彼らのほうが交友が深い。
「ま、遠くに引っ越すとか、そういうわけじゃないから」
苦笑いで超えたのは小田桐だった。元々女子に人気が高い彼は、いろんなものを後輩たちにせびられたのか、制服のいろんなものが剥ぎ取られて、まるで追いはぎにでも遭ったようにボロボロだ。
「拓郎も、大学決まってよかったな」
裕也はその姿を見て苦笑いをした。ちなみに彼には女子が一人として寄り付かなかった。森川恵理とのカップルは校内でも有名で、あの森川恵理に対抗しようという強気な者はいなかったのである。
「ま、なんとかな。めでたしめでたしってとこだよ」
小田桐は卒業証書の入った筒をポンポンと叩いて笑った。
そうしていると、解放された階段の方から聞きなれた声が聞こえてくる。恵理と沢渡の声だ。裕也と小田桐は顔を見合わせて微笑み、夏希は瞳を輝かせて階段を見つめた。
「あー……やっぱだめ、階段登るとくらくらするわ」
いつもよりは少し青白い顔で沢渡陽子は左手を額に当てた。
森川に地を吸われ入院していた彼女は、まだ体調が戻っていないらしい。
「だから退院はまだ早いって行ったでしょう……」
「卒業式は待ってくれないからね。それに誰が私の血を吸ったのよ?」
「それは……」
恵理は珍しく沢渡に言いくるめられて肩を竦めた。被害者加害者で言えば、恵理は加害者になってしまう。
「森川先輩、沢渡先輩。卒業おめでとうございます」
夏希が二人に駆け寄って二人に祝福を言う。
二人は冗談半分の言い争いをやめて、かわいい後輩に微笑を向けた。
「ありがとう、夏希ちゃん」
「ありがと。そっちの二人も卒業おめでとう」
二人は夏希に応えると、裕也たちに手を振った。
「おめでとう。なんとかみんな無事に卒業式に出れたな」
裕也は微笑みながら、だが、感慨深い口調で言った。
吸血鬼事件、それもケイオスとセスという恐ろしい吸血鬼を相手に取り、その上で森川家のお家騒動をも乗り越えていた。誰一人失われていないのは、奇跡とも言えた。
「そうね……まさか、こうして卒業式を迎えるなんて、思いもよらなかった」
恵理はゆっくりと歩いて、屋上の縁のフェンスに軽く手を置いた。
瞳を閉じ、ゆっくりと過去を振り返る。兄の復讐のため、闇払いとしてこの街に来て、裕也や沢渡、そして草薙と出合った。
その身体に秘められた吸血鬼の遺伝子が目覚め、人としての生活はもう長くはない、せめて卒業を彼らと共に……
「何度かあきらめかけてた。でも、みんなと出会えたから、ここまでこれたんだ」
恵理振り返り、それぞれの顔を見つめた。
春の柔らかな風が彼女の髪を揺らす。
「ああ、本当に。卒業、おめでとう」
裕也は目を細め、深く気持ちを込めてその言葉を言った。恵理は彼を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「なーにおばさんみたいなこと言ってるの! 私たちは、これから、なんだぜっ」
突然、沢渡が恵理に飛び掛るように抱きついた。
驚いた恵理は慌てて、彼女を受け止めてよろめいた。彼女の体からは確かなぬくもりを感じる。
「そうね、本当にそう。これからが大事、だよね……」
この身体には様々なモノが潜んでいる。
吸血鬼としての遺伝子、そしてそれを滅ぼそうとする闇払いの血。それは身体の内でお互いにせめぎあいながら、肉体と言う迷宮の出口を探して蠢いている。
二律相反の本能に支配され、自らの命を絶って行った先祖たちの気持ちが、今なら分かる気がする。本来なら、森川家の血は交わることの無い寄生されているのだから。
夕日が山林に深い影を刻み込んで行く。真っ赤に焼けた空は見事なグラデーションを描き、見るものを圧倒させる。
少女は古い樫の椅子に座っていた。大きな窓ガラスから、その絶景といえる自然の美を瞳に写し、空の紅に負けないくらい美しい色の紅茶を手に取った。白く薄いカップはその色に良く似合う。
味と香りを楽しみ、微笑む。
「ようやくゆっくりとこれが飲めたわ。やっぱり芹香の淹れたお茶が最高ね」
森川恵理は目を細めて言った。
ここは奥多摩の人里はなれた森川家の別荘である。人気のない森の中にある立派なそれはよく管理が行き届いていている。恵理は、卒業後、この山荘に住居を移していた。
「ありがとうございます。恵理様」
落ち着いて返したのはメイドの渡邊芹香だ。彼女の立場は使用人だったが、恵理にとって同時に母親であり、姉であり、友人でもあった。
「そういえば、恵美さんはうまくやっているかしら」
「大丈夫ですよ。家のことは可憐姉さんが着いていますし、学校には千明さんもいらっしゃいます」
「そうね、私と違って素直で器用な子だし」
恵理は小さく笑う。同じ遺伝子を持つはずの恵美とは育った環境が違うだけが、こうも違う人間になってしまうとは不思議なものだと彼女は思った。
静かな夕刻だ。恵理は沈んで行く太陽を見つめた。
黄昏の刻だ。
恵理は唇を軽く閉じ、真剣な眼差しで沈黙した。
芹香はその雰囲気に気付いてかしこまる。
日が傾いていく。照明をつけていない部屋に陰影が刻み込まれる。レトロな家具でまとめられた室内は、落陽の寂しさが感じられた。
「芹香」
恵理は静かに芹香の名を呼んだ。芹香は視線を緩め、主人を見つめた。
「私はもう人間ではないわ。そして人を踏み台にして、ここまで来た。もう後戻りはできない。でも、かといって闇の中にいるわけでもない。芹香や、裕也たち……私にはまだ光がある……」
恵理は知っている。かつての一族の者たちに変死や自殺者が多いことを。自分自身もその狂気に触れたこともある。闇払いとしての遺伝子が自分自身の中にある吸血鬼の血に反発し、その二律相反に耐えられなくなるのだろう。
もしも、闇の世界にただ一人、そんな体で立たされれば彼女とて耐えられないだろう。
「恵理様……恵理様が吸血鬼で、その闇と共に居るとしたら、私たちは恵理様を導く光になりたいと思います」
芹香は椅子に座る恵理の後ろに回り、柔らかく彼女の上半身を抱きしめた。
恵理は芹香の手に、手のひらを添えてぬくもりを感じる。
「私は黄昏にいる者。光と闇の狭間に立って、この永遠を生きていくわ……」
