それは、紅い紅い瞳だった。それは人とは思えないぐらい紅くてきれいな瞳だった。その二つの瞳が俺の瞳をじっと見詰めていた。いつも見慣れたクラスメートが、こんなにも俺の心を支配するなんて信じれなかった。俺はその瞳に吸い込まれそうだった。
真っ赤に染まりあがった空はまるで逆さに血をこぼしたかのようで、気味が悪いくらい紅かった。だけど、その光に照らされた彼女の瞳はあまりにもきれいで。
彼女は俺のほうを見つめながら柔らかに微笑んでいた。それはもう、異性がこれほどまでに素敵だと思ったことはない……。
「来てくれたね、春日井君」
彼女は静かに言った。すぐに答えようと思ったが、俺の喉は緊張にカラカラに枯れていたためすぐに声が出なかった。一、二瞬、唾液を飲み込んでからようやく声を出した。
「ああ、で、俺に……用ってのは?」
俺は教室で彼女の友人から彼女の手紙を渡されていた。回りくどい手段を使った割には内容は簡潔で『放課後、旧校舎裏の一本桜で待っています』とだけ書かれていた。
正直俺は恋愛には疎くて、これまで十七年間、恋人と言う存在を作ったことがない。それはありふれた高校生の一人だと信じている。いや、信じたい。でも、そんな俺でもこの状況は俺の人生の転換の瞬間だと分かる。
心臓が高鳴って自律神経がおかしくなる。そう、くらくらと意識が遠くなるような、神経が彼女を捉えるだけで精一杯になる。
彼女は一瞬うろたえるように俺から目をそらしたが、ちょっと前かがみになって俺の顔を覗き込むといたずらっぽく舌を出した。
「ずっと前から好きでした」
紅潮した表情は夕焼けのせいだろうか。俺はその言葉をはっきりと耳にした。
俺は正直情けないことにうろたえまくっていた。けれど、それではさまにならないので強がって冷静さを取り繕った。その努力が彼女に通用したかどうかわからないが。
「なんで、俺のことを?」
別に失礼な質問ではなかったはずだ。が、彼女は不満そうな、すこしだけ悲しそうな表情をして歩き始めた。
俺のとの相対距離が小さくなり、俺の横を通り過ぎた。
俺は彼女を追って振り向いた。今まで夕日に背を向けていた俺は夕日と対面することになる。紅くまぶしい太陽の影に隠れた彼女の表情がすこしだけ分かりづらい。
「ショックだなー。あの時の事、覚えてないんだ」
俺には何の事か分からなくて何も答えられなかった。それが彼女を傷つけたとしても、うそを言うより良かったと思う。
彼女は夕日の影で笑った。
「ねえ、春日井君は私の事どう思う?」
「……わからないな」
愚かな答えだったかもしれない。正直、告白されるほうは告白されてすぐに気持ちを聞かれても困る。互いに好きあってる事なんてごく稀だろう。でも、彼女と付き合う事になれば、それは楽しい事になるかもしれない。だけど、今の気持ちは正直『わからない』。
「あはは、やっぱ春日井君正直だね」
彼女は笑った。俺はどんな顔をしていいのか分からずにいた。俺の顔は夕日に照らされて彼女から良く見えるに違いない。ほんの少し恥ずかしかった。
彼女は満面の笑顔からほんの少しだけ唇だけで笑うような表情になった。
瞳には少し悲しそうな色が浮かんでいたかもしれない。でも夕日の陰になってよくは見えなかった。
「これだけはね、言っておきたかったの」
「え?」
「ううん、なんでもない……また、春日井君は私の事、助けてくれるよね?」
「助ける? また?」
俺は必死に記憶をまさぐった。
「ばいばい! また、明日ね!」
俺が思案に暮れている間に彼女は走り出していた。
「あ、おい!」
俺は追いかけようとしたが、彼女からきらりと光るものが落ちるのを見つけて立ち止まった。俺はそれを拾い上げた。
「指輪?」
それは白い半透明の宝石がはまったシルバーの指輪だった。結構古いものかもしれない。金属も宝石もややくすんで見えた。
その隙にもう彼女の姿は見えなかった。俺は途方にくれた。
落し物は明日返す事ができる。彼女はクラスメートだからだ。だけど、どういう顔で明日彼女にあったらいいのか分からない。それが問題だった。
草薙真奈美。彼女とのこの一時がなければ俺はきっとこれから起こるとんでもない事件に巻き込まれずにすんだだろう。だけど知らなければ良かった、と言う事でもないと思う……
俺の住む街は横浜市から程近い住宅街だ。たいした産業も観光地もない街でいわゆるベッドタウンだ。それゆえに街で人の往来だけは激しい。その街にある私立瑞穂学園の高等部に俺は通っていた。
もともとこの街に住んでいた俺の家族だが、現在はその学校に通う為に俺はこの町に住んでいるといっても過言ではない。俺は今、妹とこの街のマンションで二人暮しだった。
父親は俺たちが幼い頃、母親と離婚した。もうはっきりとは覚えていない。それ以来ずっと会った事もなかったが、大きな会社の社長だと母親から聞いたことがある。
母親はデザイナーでファッションからインテリアまで幅広く手がける人だった。それゆえ収入はあったが、多忙な毎日だった。それでも「自宅でできる仕事だしね」といって笑っていた。
その母親にも転機が訪れる。業界ではトップクラスのドイツのデザイン会社から声がかかったのだ。
俺と妹の千明はドイツに行くことを薦めた。女手ひとつで俺たちを育ててくれた母親への礼のつもりだった。好きなデザインの仕事を一流の会社でできるのだ。
俺はマンションから歩いて十分の高校に行っていたし、一つ下の千明も都内の私立高校へ入学した。家事の半分ほどは俺と千明でやっていたので生活には問題なかった。母は随分迷っていたが、今年の夏、ドイツへ行った。
だが、寒くなるにつれて街では怪事件が起こり始めていた。
連続猟奇殺人。まるでミステリかホラーの小説の帯にでもかかれていそうな言葉。だが、まさしくその言葉どおりだったために他に表現しようがない。
それも異常を極めていた。被害者は全身の血を抜かれていたり、全身がばらばらに引き裂かれていたりと、まともな殺され方ではなかった。
はじめの被害者は十一月に入ったばかりだったと思う。そして現在が十一月二十ニ日。同一犯の犯行と思われる被害者の数は六人……目撃者もいないという。
深夜、街を出歩く者も少なくなり、夜の街は冷たく静まり返っている。
蒼い、蒼い月が出ていた。その月の光がわずかにだけ降り注ぐ路地裏に俺はいた。
何故そんなところにいるのか?
そんな疑問は沸かなかった。それよりもずっと俺の精神を支配している感情があった。
飢え……
俺は限りなく渇き、飢えていた。そう、今宵は獲物を捕らえる事ができた幸運な月夜だった。
俺は路地裏の奥へと進む。
ずるずると重い物を引きずる音がする。俺の右手は黒くて長い糸のようなものをつかんでいる。
月明かりが差し掛かってその正体が明らかになる。
若い女性だった。俺がつかんでいるのは
俺は舌なめずりをして……その女の首筋にむしゃぶりついた。そう牙を立てて。
俺はベッドの掛け布団を跳ね飛ばす勢いで飛び起きた。
慌てて両手を見る。何の変哲もない俺の両手だ。女の首に牙を立てこぼれた鮮血で真っ赤になった手ではない。
俺は大きく息を吐き出した。肺の中のよどんだ空気がすべて抜けきって、その後で新鮮な空気を欲望のままに吸い込んだ。意識が次第にはっきりしてくる。
寝巻きは汗でずぶぬれだった。俺は髪の毛をかきあげると時計の針を見た。
七時五分。時計の針は俺が目覚める予定の時間より十分ほど早い位置を指している。
「夢、か」
俺はカラカラに乾いた喉でつぶやいた。
それにしてもリアルな夢だった。喉の渇きや夜の冷たさ、そして女性の肌の微妙なぬくもり。正直ここまでリアルな夢を過去に見た事はないだろう。
思い出せば背筋が凍る。俺はベッドから飛び起きて俺の部屋を出た。
2LDKのこのマンションはその二つの部屋が俺の部屋と妹の千明の部屋になっている。そしてLDKは共同の部屋と言うわけだ。
俺は部屋から出るとすぐのリビングへでた。台所からは味噌汁のいい香りが漂っていた。
「あ、おはよう。何、今日は早いじゃない?」
どういうわけか千明は料理が好きでその点では大いに助かっている。
俺はとにかく水分が欲しかった。悪夢でうなされて大量の汗をかいたようだから当然だった。俺は頼りない足取りで台所へ向かった。
「どうしたの? すっごい顔真っ青じゃない!」
千明が慌てて駆け寄ってきた。普段憎まれ口くらいしか叩かない妹が眉間にしわを寄せて心配してきた。つまりは相当に俺の顔は酷いらしい。
「変な夢を見ただけだよ。悪いけど水をくれないか」
千明は慌てて水を汲んで俺に差し出した。俺はそれをまるで悪夢を流し込むかのように一気に飲み干して大きく深呼吸をした。冷たい水は期待通り俺の精神を落ち着かせてくれた。
「……サンキュ。随分楽になった」
「ホント大丈夫?」
「ああ、平気だって……ほら、味噌汁」
いつのまにか火にかけた味噌汁が音を立てて吹き上がっている。味噌汁は煮込むものじゃない。
「うっわ、やばっ」
千明が慌ててコンロの火を消した。幸い、食べ物として許容範囲の間で気づいたらしい。どうやら俺の朝ご飯も安泰らしい。
そうして俺の気分も随分と落ちついて、千明いわく顔色も程なく回復したらしい。千明はいつものように朝食をかけ込んでいる。都内の学校に通う妹は出る時間が俺よりずっと早い。そんなに慌しいくらいならもっと早く起きればいいのに、と言いたいところだが、千明は俺よりずっと早く起きてるし、その上朝食まで作ってもらってるわけだから文句も言えない。
「最近さぁ、あんな事件起こってるからそんな夢見たんじゃない? お兄ちゃん、影響受けやすいねー」
千明は笑いながら言った。多分、俺もそうだと思った。だが、目が覚めたとき、俺の手のひらにはしっかりと女性の体の感触が残っていた。それも夢だと言う事なのだろうか?
「それじゃ、行って来るね。あ、今日は遅くなるかもしれないから」
「おいおい、最近物騒だぜ?」
「じゃあ、駅まで迎えに来てよ」
「ばーか。早く帰って来いって」
「ちぇ……行ってきます」
千明は舌を出して悪態をついて玄関を出た。無駄な事を言い合う時間もないという事だろう。慌しく階段を駆け下りる音がかすかに聞こえた。
俺は一人で味噌汁をすすりながらテレビをつけた。定番の朝のニュースだかワイドショーだが分からない番組が映し出される。特に面白いものではないが、朝の番組から得ることのできる情報と言うのも意外と馬鹿にできないものがある。
そこにはテロップで「またもや怪奇殺人、瑞穂町で七人目の犠牲者」と映し出された。瑞穂町とは俺の住む街だ。ここの所起こっている連続殺人事件についに七人目の被害者が出たらしい。だが、俺の近しい人で犠牲になった人は幸いにもおらず、ごく近所で行われている凶悪事件もまるでフィクションのような恐怖感しかなかった。
レポーターが必要以上に深刻そうな顔をして現場を紹介している。警察官やら野次馬やらでごった返していたが、その光景に俺は驚愕した。
その画面に映し出された場所は、俺が夢で女性を引きずり込んだその裏路地だったのである……
