俺はそれを目を見開いて凝視した。おそらく、沢渡も千明も同じような瞳でそれを見つめていたに違いない。
森川が斬ったそれは、まるで海岸の砂のように細かく、細かく砕けて風に舞って跡形もなく消えた。飛び散った血も、森川が刺して切り裂いたその背中もすべて何もなかったかのように消えた。
俺たちは時間が止まったかのように固まっていた。
風が俺たちを撫でて行かなければ、本当に時間は止まってしまっていたとしても不思議ではなかった。
と、気づくと森川が俺の目の前にきていた。
「肩、大丈夫?」
彼女が心配そうな声で言った。だが、その瞳はあの男を斬った時も、俺を見ている時も同じ瞳のような気がした。
「そ、それよりも、森川さん……」
俺は狼狽していた。森川はまだその右手に刀ともナイフともいないそれを持っていた。あの男を斬ったのも幻ではないことが俺の右肩が訴える。
「ん……そうね、いろいろ話さないと、ね。とりあえず手当てしなきゃ」
そう言った森川は視線を逸らした。その逸らす直前の彼女の瞳に映った感情はとてもまちまちでよくわからなかったが、とにかく困惑と悲哀があったことは確かだった。
森川のマンションは公園近くにある高級マンションの八階だった。
間取りは1LDKで寝室が奥にあって俺たちは、広いLDKへと通された。白い無機質な壁と証明、必要最低限しかない家具がこの部屋の広さを際立たせていた。
その部屋のテーブルに俺と森川が二人でいた。沢渡と千明は手当ての間、下のコンビニで飲み物を買出しに行ってもらっている。森川の話は長くなりそうだったからだ。
俺は上半身裸でフローリングの上に座っていた。森川は手当てのために俺のすぐ脇にいる。消毒液の無粋な匂いに混じってなおかかる森川の吐息が俺の肌に触れるたびに俺は胸が高鳴った。
「緊張してる?」
「え?」
森川が俺の心の内を見透かしたかのように言った。他人の心情を読むなんてことができる女だとは思っていなかった分、俺は驚いて森川を見た。
森川の綺麗な顔が眼前にあった。まるで感情のないようなその表情はよく見ればどこか寂しげに感じた。
「人殺しと二人きりだもの。普通怖いよね?」
「え? ああ……」
森川は俺の心を見透かしたわけではなかった。
だが、確かに彼女は人を刺した。いや、人の形をした何かであったかもしれないが、たしかにそれを「殺した」ことには間違いない。
たとえば、俺が「それは人間ではない」と知っていても、人の形をしていたものを殺すことができるだろうか? おそらくできない。逆説的に、彼女の言葉の意味は、その凶器はいまだ彼女の手の届く範囲にあり、俺を殺すこともできる、と言うことなのだ。
そこまで理解していても俺は森川を「怖い」とは思わなかった。
「いや、怖くはないな。俺たちを守ってくれたんだ……それにあれはなんだったんだ? あれは人、じゃないだろう?」
俺は暗に森川が「人殺し」であることを否定したい、そんな言葉を放った。
森川は俺の肩の包帯を巻き終わり、最後に唇で包帯を固く結んだ。俺は迂闊にもそのしぐさに見とれた。
「これで大丈夫。こういうのはあまり得意じゃないけどね。感染もしてないみたいだし……もし何か異常があったらすぐに知らせて」
「感染?」
「あれは人じゃないって言ったよね? そう、あれは人じゃないわ。いわば……かつて人だったモノ。感染すれば春日井君も、ああなる」
森川は少しだけ厳しい表情になって言った。
俺は背筋が寒くなる思いがした。『ああなる』とは、俺を襲ったあの男のことだ。あれは確かに人間ではない。自分が人間ではなくなる。言い様の知れない恐怖に俺は駆られた。
俺がそんな想像をしているうちに玄関のチャイムが鳴った。
沢渡たちが帰ってきたのだ。
「さて……何から話したらいいのかな」
森川の口調はすこしだけ戸惑いがある。俺たちは部屋にあるやや大きめのテーブルの四辺に座り、森川以外の三人の視線は彼女に集中していた。
それに動じているわけではなく、彼女はただ話さねばならない事の多さに戸惑っているようだった。
と、沢渡が手を上げた。
「じゃあ、まずさっきのから。あの男。あいつは何なの?」
俺たちが疑問に思っていることを質問し、森川が答える。その明瞭なやり方は沢渡らしい選択だった。
「そうね、あれを私たちは『グール』と呼んでるわ」
「グール?」
と千明。
「あれは人のようであって人ではない。いえ……正確にはかつて人だったモノ。不幸にも吸血鬼に殺された人間はその魂を吸血鬼に奪われ、肉体だけこの世に残る。そして吸血鬼に仮の命を与えられて、彼らの僕として働く……」
森川は一息入れた。
「どういう仕組みかっていう質問はナシね。私もよくわからないし」
「草薙も、そうなのか?」
俺は恐る恐る不吉な質問をした。
テーブルで激しく手を打つ音がした。沢渡だった。大きな瞳をさらに大きくして俺を見ていた。表情は驚愕そのもの。
「悪い沢渡。俺、昨日草薙に会ったんだ。あいつは……自分のことを吸血鬼だと言ってた……」
沢渡は信じられないと言う顔を作った。
「なあ、森川さん、どうなんだ? そもそも吸血鬼なんてものが……」
「いるわ」
森川の答えは明確で、それは残酷に聞こえた。作為的ではないにしろ、それは俺たちの心を打った。
「世界中、どの地方でもどの宗教でも吸血種は存在し、恐れられてきた。吸血鬼と言う名前ではないにしろ、そういった種はこの地上に存在し……いえ、この街にいるわ」
「そんな……そんなコトありえっこない!」
沢渡が否定した。今日の出来事を振り払うかのような叫びだった。
できれば俺も、今日の出来事と昨日の草薙の姿をその声に乗せて否定したかった。
「そう、あなたたちにはありえっこないように、私たちは努力を重ねてる。けれど今回のように普通の人たちを巻き込んでしまうこともある」
そして、森川は自分のことを、強いては彼女の一族のことを語り始めた。
要約すると森川の話はこうである。
この世の中には俺たちには信じられないことだが、さっきの吸血鬼の話を含めて様々な魔物が存在するらしい。それらの多くはこの街で起こっている連続殺人事件のように人間を捕食している。しかしそのような超常的な現象を公開してしまえば世の中に混乱を招きかねない。そこでそれらを秘密裏に解決する組織が必要になる。そこで財界、政界ともにつながりの深い、森川家がその総元締めを行い、その超常的な事件を一般人の目をそらしながら解決してきたのだ。
つまり、昨夜森川が俺に言った言葉、
「私は草薙さんを殺すためにこの街にきたの」
……の通りである。
森川の一族はその組織の元締めであると同時にエージェントでもあるわけだ。
森川はあの短刀とも刀とも言えないあの刃でいくつの魔物を葬ってきたのだろう? 俺たちがそれらを知らずに生活していくために。
だが、何故彼女が戦わねばならないのだろう? 背は平均的な高校生より若干高いが体の厚みは逆に細く華奢だ。さっきも刀の裁き方はともかく、その運動能力は決して特別なものではなかった。
「私たち一族の血には、吸血鬼の因子が混ざっているのよ。ほら、さっきのグールもそうだけど、彼らは人間を超えた身体能力を持っているわ。それに対抗するには一族の血を解放しなければならない時がある……」
森川は自分が戦わなければならない訳を話した。
「じゃあ、森川先輩って……人間じゃ、ない?」
千明が恐る恐る言った。不安と疑惑が入り混じった不安定な表情。できれば千明はその質問を森川に否定してもらいたかったのかもしれない。
「そうね。いまは『ヒト』だけど……そう草薙さんのように『ヒト』でいられなくなるかも知れない」
森川はきわめて冷静に言った。千明はそれに肩を落としたが、俺にはその森川の表情が極めて薄いポーカーフェイスに見えた。むしろ同情を買おうとしている訳ではない所が余計に悲しげに思えた。
「草薙も同じように『ヒト』じゃなくなってしまったわけか?」
「その可能性が高いわ。と言うよりも潜在的にそういった因子が潜んでいる人は結構いるものなの。ただ、それが発現する確率はごくまれなんだけど」
「じゃあ、それが発現してしまった真奈美を殺しにきたわけね?」
暗い瞳の沢渡が森川をにらみつけるように言った。
「森川さん、あんたの立場はわかったと思う。けどね、真奈美は私らの友達なんだ。それを勝手に殺す、だなんて許すと思う?」
「許されようなんて思ってないわ」
沢渡がテーブルを叩いた。千明は驚いて沢渡を見た。沢渡の瞳から怒りが溢れているのを俺は見た。それでも森川は平静を保っていた。
「お願いが二つあるわ。ひとつは今日のことを誰にも話さないこと。もうひとつは草薙さんに会おうとしないこと……」
森川は俺たちの視線を受けて少しだけ悲しそうに眉をひそめた。
「一度始まった吸血衝動は精神力で抑えきれるものではないわ。もし襲われたら……今日のグールなんて問題にならないから」
そのあと、俺たちは森川の部屋を去った。俺と千明は沢渡を沢渡の家まで送った。その間、沢渡は一言も発しなかった。表情はいたって平然といていたが、常に多弁な彼女が押し黙っていることが、彼女が平静ではないことを俺たちに悟らせた。
沢渡を送った後、千明は心配そうにつぶやいた。
「お兄ちゃん、草薙さんって人ともう一度会おうなんて思ってるでしょ?」
俺はぎくりとして千明を見た。不安そうな二つの瞳が俺を捉えていた。
「わかるよ。お兄ちゃんだもん」
図星だった。俺は苦虫を噛み潰したような顔をして千明を見た。千明は続けた。
「もしその人がただの友達とか、クラスメートとかそれだけだったら、私は止めたと思う。でもさ、その人、お兄ちゃんのこと好きだと言ったんだよね? もしかしたら恋人同士になったのかもしれないんだよね」
千明の声は少し甲高くなって悲しく痛い。
「……私はお兄ちゃんを失いたくないよ」
千明は肝心なことを言わなかった。だが、それ故に俺は千明の心情を理解した。先ほど俺の心を千明が読んだように、俺もこの時千明の心を読めた。
それは酷く濁っていたが千明は「会うな」とはいえなかったのだ。俺の性格を一番よく知っている、だからこそ。
