ずきりとした胸の奥に痛みを感じた。
俺は立ち止まり胸を押さえた。軽い嘔吐感とめまい。そして自分でも感じる流れる汗。喉は何時の間にかカラカラに乾いていた。俺は足を進めることができず、公園の途中で歩みを止めた。
「お兄ちゃん?」
半歩先にいた千明が気配に気付いて振り返った。
だが、俺の視界は急速に狭まり、意識が遠く逃げていく。俺はそれを必死に捕まえようとしたが、半分悲鳴のような千明が俺を呼ぶ声が遠く遠く聞こえる。
そんな意識が混濁した中、重いものが地面に落ちる音を聞いた。
俺の隣で千明の全身が硬直する音がしたような気がした。ちいさく、悲鳴をあげていたかもしれない。俺は前を、音のしたほうを見た。
見慣れた制服。見慣れた髪型、顔。それが全身血塗れであること意外は俺が今まで日常的に見てきたクラスメート。
それはゆっくりと仰向けに転がった。ボロボロになったセーターベストに包まれた胸が激しく上下している。息はぜいぜいと俺達の耳にまで届いていた。
「草薙!」
俺は叫んだ。
千明がはじかれたように俺を見た。その一瞬後に草薙を見る。
草薙は苦しそうに俺を見た。その視線は少し悲しそうにも見えた。俺は駆け寄ろうとしたが、その視線にさえぎられた。
砂を踏む音がさらに置くから聞こえた。
暗く沈んだ公園の置くに誰かがいる。俺は目を凝らした。
暗闇の中に白い首が浮かんでいる。ぞくりとする感覚が俺の背中を舐めた。それは黒コートに身を包んだ線は細いが背の高い男だった。その赤い目が俺とあった。俺は一瞬にして体が硬直する。金縛りというヤツだろう。俺は直感した。それが草薙と同じように、人間ではないことを。
草薙が俺を見て立ち上がった。肩で息をしながら俺に近寄る。
「春日井君。逃げて。早く」
切ない声だった。綺麗な顔は泥と血でまみれてぐしゃぐしゃだった。
草薙が踵を返す。俺にはそれが酷くスローモーションに映る。手を伸ばそうとした。俺の手は重い枷がかけられたように動かない。声すらあがらない。俺は草薙を止めたかった。何かかけがえのないものを失う。そんな衝動が俺の中を駆け巡った。
草薙が駆けた。それは常識を疑う運動能力で。
「私の囮だということも気付かぬか。主人に歯向かうとは……失敗作だったか」
男は低い声でつぶやいた。草薙は男に飛びかかった。男はコートからやはり白い左の腕を露にすると、軽いしぐさで草薙を捉えた。
細身の男が、左手一本で少女の体を空中で支える。
細く長い指が、やわらかい草薙の首元へ食い込んでいく。
「かっ……はぁっ」
気道を締められた草薙から絶望的な声が漏れる。
俺は理解した。傷だらけの草薙はこの男と戦っていたのだ。
そしてのその力の差は今の光景を見ればわかる。尋常じゃない戦いだとしても。
男の指が食い込んでいく。
「お前たちはこの女の知り合いか」
俺の金縛りが少しだけ解ける。俺は大きく息を吐いた。
草薙は苦しそうに両手を男の手にかけた。だがびくともしない。両足から力が抜けてだらりと下がる。紅い草薙の眼が焦点を失いつつある。
「……クラスメートだ」
俺はやっとのことでその言葉を吐いた。
「草薙を離せ」
体が少し動く感触を確かめた。
「ふ」
だが、男は口の端で笑うとさらに左腕に力をこめた。
壊れたような声で草薙が鳴く。
「これは罰だ。主人に逆らったな」
「主人?」
「知らないか? 吸血鬼に血を吸われたものはその僕になるという話を」
草薙の口から大量の血液が吐き出された。
俺の腕を千明が取った。震える妹の感触がやけにリアルに伝わる。
やけに鈍い。そして体に直接響くような音が聞こえた。草薙の首があらぬ方向へ曲がっていた。かろうじて抵抗していた腕がだらりと下がる。男はそれを俺達に向って投げ飛ばした。砂利を敷き詰めた、冷たい公園に草薙の体が力なく落ちた。
その拍子に支えを失った彼女の顔がこちらを向いた。
「ひ……」
千明の体が俺を引っ張った。それを見て気を失ったのだ。
俺は金縛りを解いた。方法はわからなかったが、千明を支えるために体を動かそうとした時にはもう金縛りから抜けていた。やつが俺を解放したのかもしれなかったが。
「この女を追っている女を知っているか?」
男は感情のない声で言った。俺は千明を抱えながら、その男をにらみつけた。森川のことだろう。だが答えるべきではないと思った。
俺は無言でいた。
男はやはり唇の端だけで笑うと、踵を返した。
「オマエ達の命は今夜は見逃してやろう。その代わり、その女を三日後、この場所この時間に連れて来い……でなければ、わかるな?」
男は闇に去っていく。俺はひざの力が抜けた。千明をいたわるように地面に座り込んだ。
……草薙がいた。力なく横たわった彼女は月の光を浴びて冷たい。
「……草薙」
涙がこぼれた。俺は草薙に好きだと言われた。その言葉に何であれ返すべきではなかったのか。突然告白されて悩んだのも事実だ。だけど、こう目の前で草薙を失って俺は涙を止めることができずにいる。
後悔。あの場面で彼女を救えたかどうか、多分否だろう。あれは異常すぎる。だけど、俺は言葉をかけてやることは何度かあったはずだ。彼女にあの夕闇に告白されたそれから。
俺は、千明を抱えてふらりと立ち上がった。
ひとまず、千明のことが心配になった。それからだった。
千明を寝かせたあと、俺は携帯電話から森川をコールした。時間はもう午前に入っていたが、かまっていられなかった。状況を伝えたあと、森川はしばらく無言でいた。電話の向こうの無言は俺の不安感をさらに掻き立てた。
「森川、さん」
苛立った俺は声をかけた。
「あ、ごめんなさい……ひとまず私の部屋ににきてもらえるかしら?」
「わかった」
俺は電話を切ると部屋にカギをかけ、森川のマンションへと向った。
公園を突っ切れば近道になるが、それはさけた。
草薙はまだそこにいるだろうからだ。
俺の部屋から森川の部屋まで俺は全力疾走に近いスピードで駆けた。どれくらいの距離があったのかわからない。だが、俺は恐怖に押されて目一杯の力で駆けた。
チャイムを押す。
膝ががくがくと笑った。頭をたれると汗が伝って足元に落ちた。
ドアがわずかにも軋む音なく扉が開き、室内の明かりが垣間見れた。
「春日井君?」
「森川……さん」
俺は何も考えられず、森川に抱きついていた。恐怖が俺を狂わせていた。
「ちょ、ちょっと?」
狼狽や焦り、それから対極にいるようなそんなイメージの彼女がうろたえていた。俺は細いその体を抱きしめた。頼りなく感じた。だがそれでもすがるのは彼女しかいなかったのだ。
「落ち着いて、春日井君。お願いだから」
一呼吸置いたあと、落ち着いた声で森川が言った。
俺は一、二瞬のあと彼女から離れた。
落ち着きを取り戻すと共に、恥ずかしさがこみ上げた。まともに彼女の顔を見れなかった。心臓は激しい運動の後か、緊張かわからなかったが、痛いくらい鼓動を早くしていた。
森川はタオルと水を用意してくれた。水はミネラルウォーターだった。
俺は汗を拭いてそれを飲み干すと、森川を見た。
森川はずっと俺の様子を見ていたようだった。
「さっきはごめん。気が動転してて」
森川は少し視線をそらしたようだった。それが何を意味するのかわからず、俺は少し不安になった。
「……気にしてないけど。それより、詳しく聞かせてくれるかしら?」
「ああ」
俺はまだあの光景の恐怖に縛られていたが、しどろもどろだが状況を話はじめた。
俺は公園で草薙を殺した男のことを話した。背筋が震える。あの男の目、草薙、音。状況が脳裏に再生される。
「その男、森川さんのこと知ってた」
かすれる声で言った。水がもう一杯欲しかった。
森川は相変わらず硬い表情のまま、席を立った。冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、俺のコップに注いだ。
「……ありがとう」
俺は一口水を含んだ。心が幾分か落ち着く。意を決して言う。
「あいつは俺に森川さんを連れて来い、と言った。三日後の同じ場所、同じ時間で。さもなくば俺と千明を殺す……ってね」
恐る恐る森川の表情を伺う。
「黒川竜将……まさかここで出会うなんて……」
唇が揺れて声がこぼれた。きわめて感情を押し殺した声だったが、かすかに震えていた。旋律のような悦び。俺はその震えをそう感じた。
「森川さん?」
「安心して春日井君。その男、いえ……その吸血鬼は私の兄の仇です。言われなくても、会いに行くわ」
森川は首を軽く横に振った。黒髪が揺れてかすみのようだった。何か吹っ切れたような、何か覚悟を決めたような表情。俺は訝しげに彼女の顔を覗き込んだ。
だが、森川は瞳を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
「春日井君、千明さんのところに帰ったほうがいいわ。目がさめて一人だったら、きっと怖いと思う。それに草薙さんも首を折られたくらいで死んだとは思えない。彼女も吸血鬼なんだから」
俺は森川を見上げた。
「……ヒトには、もう戻れないけどね」
その刹那、森川の全身が紅に塗れているのが見えた。白いブラウスは真っ赤に染まり、白い肌もまた紅い。それは、血の紅さだ。
「な!」
俺は驚愕して彼女を見つめた。彼女も俺の異変に気付いたらしく、俺を見返した。
「春日井君?」
そのビジョンは一瞬にして消える。幻か? いや、俺が見るものは……
俺が見たのはきっと、彼女の未来だった。
俺は、全身を血に染めた森川の未来を見てしまった。
「春日井君、あなた未来が見えるんじゃ……?」
俺は森川の声にぞくりとした。俺は即答できなかった。
