夜が明ける。学校に行きたくないと言う千明を無理やりに送り出し、俺も学校へ向った。教室、いつもと変わらない喧騒。俺は自席に向おうとしてどきりとした。
森川恵理の横顔。セーラー服の落ち着いた同年とは思えない少女。
一瞬にして昨夜会話が俺の中でぐるぐると回る。
だが、自分の席につかないわけにも行かず、俺は踏み出した。
「おはよう、春日井君」
落ち着き払った声。昨夜のような感情を垣間見せることすらないような声。俺はぞくりとする感覚を感じた。
俺が押し黙っていると森川は怪訝そう俺を見た。
「どうしたの?」
「あ、いや……おはよう」
俺はぎこちなく応えたが森川は無関心だった。
不安がよぎる。昨日は感情に任せて「好きだ」といってしまったが、一晩たって整理のついた彼女の中でどう変化しただろうと。
「春日井君」
「え?」
「放課後、いいかしら?」
声は冷たかった。俺ははっとした。その緊張感は俺の描いていたものとは違う。あと二日なのだ。俺は方法を探し出さなければならない。そうでなくば森川は黒川と戦うため、吸血鬼となり死ぬ。
現実的な話ではない。だけど、それは真実だ。
落ち着き放った彼女の態度は覚悟と言うものを感じる。だけど、俺は森川を失うと言う覚悟はできてはいない。俺は授業をそっちにけで悩んだ。
だが、情けないことに解決方法など見つけられない。
あるとすれば千明が言ったように、この街から逃げ出すことぐらいしかできない。しかし、森川の態度を見れば、それで納得するような感じはしなかった。むしろ、「答え」を見つけたような安心感すら漂っている。
俺は認めたくなかったが。そんな「答え」など。
悶々とした授業がすぎて放課後になる。俺は半ば森川に連れられるように中庭にでた。緑の多い中庭はグラウンドの声さえ遠く、校内にいることを忘れさせる。
森川が俺の先で立ち止まる。黒い髪が風に揺れた。
「森川さん」
俺は声をかけた。呼び出したのは彼女だ。森川が反応してゆっくりと振り返る。その表情は微妙に困ったような色が見え隠れしている。彼女はそれを隠すように微笑を浮かべた。
「特に、話すことがあるわけじゃ、ないんだけれど……」
彼女の言葉は動揺していた。そんな彼女を俺は始めて見た気がした。迷いや無駄というものから無縁の存在だとイメージしていたからだ。
「あのさ、俺……千明に話した。ぺらぺらしゃべることじゃない、とは思うけどさ」
「それはかまわないわ。千明ちゃんも巻き込まれているわけだし……」
「じゃあ、私も聞く権利があるよね!」
「裕さん、俺もだ。親友だろ?」
突然、沢渡と小田桐が背後から現れた。驚いて振り向くとすこし不機嫌そうな沢渡が俺をにらんでいる。感情が顔に出るという意味では森川の正反対をいく彼女だ。だが、えてしてそういう人ほど感情の真意をつかむことが難しかったりするが。
「悪いな、沢渡から話を聞いた」
小田桐は義理堅い男だ。それは俺がよく知っている。沢渡もそれをよく知っているから、相談を持ちかけたんだろう。それについて沢渡を責めるつもりはなかった。
「真奈美を殺しにきたって人と仲良くおしゃべり? どういうことか説明してもらわらないとね」
「沢渡……」
語調の荒い沢渡に俺は戸惑った。横目でちらりと森川の表情を覗いたが、硬質な見慣れた彼女の表情だった。
「彼女を殺すのは森川家の一族としての義務だわ」
沢渡の眉がぴくりと動く。俺はそれを良く知っていた。
「ちょっと! あんた……」
「でも、殺したくて殺しにきたわけじゃない!」
叫ぼうとした沢渡をさえぎって強い声で森川が沢渡を見返した。
黒くすんだ瞳が沢渡を突き刺した。金縛りの様に沢渡は固まって、唖然として森川を見つめた。
「私は黒川という兄の仇を追ってこの街にきたの。森川家の一族の義務とか運命とかなんか本当はどうでもいいの。この街にきて出会ったのが草薙さん、彼女だった。そしてわかったのよ。彼女は犠牲者で、黒川によって下僕にされた吸血鬼だってことを」
森川は強い口調で続けた。
「でも彼女も立派な吸血鬼よ……放っておけば、報道されてるような事件はこれから続いていくわ。それは止めなきゃいけないことなのよ……」
口調は強い。だが、彼女の瞳は不安定に揺れている。まるで自分に言い聞かせるような言葉だ。俺は、そう感じた。
「でも、あなた達を見て、わからなくなるの。彼女が吸血鬼だって言う事実を知っても、友達を思うそれが……彼女は吸血鬼なのよ、殺人鬼なのよ……でも、あなた達に関わったおかげで……」
森川の視線が地面に向いた。長い髪が降りて表情を隠す。
「……殺せなくなるじゃない」
初めて、彼女の声が震えた。
誰も口を開かなかった。人通りのない中庭は風の音以外は静寂で、現実味を帯びなかった。
どれくらいの時間がたったかわからない。
「じゃあこういうのはどうだろう? とりあえず草薙のことは置いておこう。まずは黒川ってやつを倒すことが先決なんじゃないか?」
次に口を開いたのは小田桐だった。すこし軽い口調の彼は場の空気を和ませた。
「森川さんの家の事情を考えれば、もちろん草薙のことはほっとけないだろうけど、二兎を追うものは一兎得ず、ってね。黒川に対してなら、俺たちもすんなりと協力できる」
小田桐は理性的に話を前向きへと換えた。
「わかったわ……とりあえず二人に私と黒川のことを説明するわ」
森川は頷き、語り始めた。彼女自身のこと。黒川のこと、俺に昨夜話したことだ。
「それで、裕也はなんて答えたの?」
静かに沢渡が訊ねてきた。森川が俺の血を飲み、吸血鬼となって黒川と戦う……だが、そのあとに待ち受けるのは彼女の死だ。
俺は首を横に振ることも縦に振ることもできなかった。
「な、なあ、森川さん。どうしても……どうしてもやるのか?」
「当然よ」
一呼吸間を置いたあとの答えだった。
「二年間、私はそれだけのために生きてきた。二年前に私は死ぬはずだったから。兄の代わりに」
「ふーん」
沢渡が鼻で笑った。演技っぽさが多分に含まれていたのはあえて挑発的にしているのだろう。
「そのお兄さんの代わりに生きようとか思わないわけだ? お兄さんが何故あんたの代わりに死んだか考えたことある? あなたに生きてほしいからじゃないの? 違う?」
森川の体がぴくりと振るえた。それはやがて大きな振動となってがたがたと震え始める。沢渡は森川の核心をついたのだ。
「やめて。私が壊れるの……それを考えると、私は私でいられなくなる。私は……やつらを殺すために、奴らを殺すために育てられてきたのよ」
森川の目と俺の目が合った。焦点の定まらない凄惨な、哀れな瞳だった。彼女の震えは止まらない。
彼女は狂った感情を氷の仮面で塞ぎつづけていたのだ。
だが、俺達が少しそれを溶かしてしまった。その奥はとても繊細で、ちょっとしたことで狂ってしまうものだったのだ。
おそらく森川の一族、魔を祓う一族として育てられた彼女と、その兄の関係。俺達が考えている以上に深いものなのかもしれない。だが。
「よせよ、沢渡」
察した小田桐が沢渡を宥めた。沢渡も森川の様子に気付き、申し訳なさそうな顔で彼女を見つめた。
俺は森川の肩に軽く触れた。彼女の瞳が俺を向く。彼女の瞳は常日頃のそれとは違う、不安で頼りなげな印象だった。
「俺は森川さんを失いたくない。千明は親友を亡くしている。その時の千明は見ていられなかった。勝手なのはわかっている。俺はそうなりたくない。俺は……森川さんを失いたくはない」
森川の、震えが止まった。
「結局さ……どうするんだろうね」
森川と別れた俺たちは夕闇の帰り道をとぼとぼと歩いていた。沢渡の表情にもいつものような透明さが、小田桐にも常の明るさがなかった。おそらく俺も同じで表情に迷いという濁りが多分に含まれていた。
「草薙を殺す」という森川への怒り。だが、彼女の事情を知ってしまった沢渡はその振り上げた怒りを何処へ向ければいいのかわからなくなっているのだ。
「でもさー……裕也、森川さんの事、好きなの?」
それでも沢渡の言葉はストレートだ。俺はぎくりとして彼女の顔を見た。その行動で動揺がばれる。俺は自分の迂闊さに辟易した。
「裕さんってわかりやすいからな」
小田桐が軽く笑っていった。
「じゃあ、俺はこの辺で。何かあったら連絡入れる。やれることはやっといたほうが後悔がないぜ? 裕さんも、沢渡も」
小田桐はそう言うと手を振って交差点を曲がった。
「おう、って沢渡も?」
俺は疑問を浮かべたが、小田桐は小走りに駆けて行ってしまい、答えは帰ってこなかった。
「あいつ、察しのよさだけは異常だなあ……」
沢渡はぼそりとつぶやいた。
彼女は軽く跳ねるように俺の前に歩いた。
「沢渡?」
「いや……なんか報われないな、って思って」
「え?」
「真奈美が、だよ」
沢渡が振り返って俺を見た。かすかに微笑む。いつもの沢渡の表情ではなかった。なにか悲しさや戸惑いなど、そんな色が入り混じっていて、透明ないつもの彼女の顔ではなかった。
俺が沈黙していると。沢渡は唇をきゅっと引き締めて俺の真正面から歩いてきた。
その距離はどんどん縮まり、ゼロにほぼ等しくなる。
沢渡の額が俺の胸に当たる。俺は驚いて声を出せなかった。
「私は……ずっとこの距離にいるんだよ……ずっとこの距離で裕也と一緒に過ごしてきたんだよ」
沢渡の声がかすれている。
沢渡の栗色の髪があごに触れる。短めだが、綺麗な髪だ。すこしだけいい香りがする。こんなにも沢渡に近づいたのはいつ以来だろうか。俺は胸が高鳴った。
「何時でも裕也の声を聞いて、何時でも裕也のこと見てたよ……」
「沢渡?」
俺は、沢渡が言わんとしていることをなんとなく理解した。
だが、それを口に出すにはもう少し確かな物がほしかった。俺はそういうことに免疫があったわけじゃない。それでも俺は俺を情けないな、と思った。
「裕也は優しいから……必要以上に他人のことを背負い込んじゃうから……きっと真奈美や森川さんの話を聞いて……裕也の心の中にそれが一杯入り込んできて……」
沢渡の声はあくまで穏やかだった。
だが、その穏やかさは俺が聞きなれたものじゃない。それが俺に不安を与えた。
気づく。沢渡が震えている。ほんの少しだが、彼女は両手の拳を俺に押し当てて震えていた。
「……沢渡」
「私、奇麗事言ってると思う。でも真奈美も、森川さんも死んでほしくない。それは嘘じゃない。だけど、だけど本当は裕也さえ生きていてくれればいい」
沢渡は少しだけ語尾を濁した。
俺は情けないことにおろおろするだけで、何もできなかった。
俺は物心付いたときから知っている沢渡なのに、俺はこういう沢渡を知らなかった。
