随分時間が経っていたのかもしれない。
俺の神経は沢渡に集中しすぎてそれがわからない。
だが、俺は俺達を見る視線に気が付いた。すぐそばだった。俺は慌てて視線を向けた。落ちかけた太陽は長い影を落としていてその視線がある路地には光を与えていない。だが、そこに人がいるのは確かだ。
俺は目を凝らした。沢渡も気づいたらしくその路地をじっと見ていた。
かすかな足音がし、その視線の主が光の当たる場所へ現れる。
「草薙!」
「真奈美!」
俺と沢渡の声が重なった。
路地から現れたのは草薙だった。
黄昏の光が彼女の顔に深く憂鬱を刻み込む。少しだけ困ったような微笑はあの時の微笑みに似ていた。俺達が驚いて彼女を見ていると、彼女はさらに俺達に向った。
クラスメート。草薙真奈美。
一連の連続猟奇殺人事件の加害者。
小柄な普通の女子高生。
血に飢えた、吸血鬼。
俺を好きだといったクラスメート。草薙真奈美。
俺は考えが錯綜し声を出せずにいた。おそらくは沢渡も同じだろう。
「ふふ」
草薙はかすかに笑うと俺達を交互に見た。
「やっぱりね、陽子も春日井君のこと好きなんだ」
草薙の言葉に沢渡が小さくはねた。驚いた表情。そしてそのままの表情でゆっくりと俺を見た。目が合う。沢渡は一気に顔を真っ赤にした。
「ななな、何を? 真奈美?」
「私が相談持ちかけたとき、驚いたっていうよりは焦ってたよ、陽子」
明らかにうろたえる沢渡。草薙はそれを見て意地悪に笑っていた。
俺は沢渡も俺のことが好きだという事実と、突然姿を現した草薙に混乱していた。
「でも!」
草薙は強い口調で言った。それに負けないくらいの強さで俺を直視した。透き通るような紅い瞳。俺は完全に呑まれていた。
「春日井君は森川さんのことを好きになった」
はっきりと草薙はそれを口に出した。逃げもせず、ごまかしもせず。
俺はその強さにたじろいた。それは正鵠を射ていたからであり、それでいて俺はこの二人を傷つけたくなかった。俺はこの二人も決して必要としていないわけじゃない。我侭なのだろうか。欲張りなのだろうか。
「俺は……」
「いいの、裕也……裕也が優しいことは十分に分かってる。真奈美も分かってるよね?」 沢渡は飛び跳ねるように俺から一歩離れた。顔一杯に笑顔を作る。
「私は真奈美の話を聞いて焦っただけ。今までの裕也が今までの裕也じゃなくなっちゃうような、私と近かった裕也じゃなくなっちゃうような、そういうことに怖くなっただけ……」
沢渡はおどけて言った。明るい声が、裏返しなのか、俺には言葉の奥は分からない。それがくやしかった。俺は何も言葉にできず、そんな沢渡を見つめた。
「いいの、陽子? それで?」
草薙が訊いた。沢渡は一瞬困った表情を見せたが、首をすばやく横に振った。
「うん、そっか……」
草薙は頷くと、俺を見た。
「私は二人に謝らなきゃいけない」
「え?」
異口同音に俺と沢渡の口からでた。
「私、あの時、もう分かっていたの。自分のこと……とてもじゃないけど春日井君に好きになってもらおうとか、叶う事じゃないことはわかってたの」
草薙が押し黙る。視線が地を向いて、表情が隠れる。
「でも、それでも伝えておかなきゃ、自分が自分でいる間に……この気持ちを伝えておきたかったの」
俺ははっとして草薙を見つめた。
草薙はもう人間ではないのだ。今、ここで話している草薙はクラスにいたときの草薙と変わらない。だが、昨夜や夜の学校で会った草薙は、俺の知る草薙ではなかった。信じられないことだが。
だが、それで一番苦しんでいるのは草薙だろう。むしろ、今こういう風に理性を保っている時こそ、もう一つの自分、吸血鬼の自分の行いに灼やかれているのかもしれない。
俺は胸が苦しくなった。
「草薙、俺は……」
俺は口篭もった。『春日井君は私の事、助けてくれるよね?』夕闇に言い渡されたあの言葉。俺は悔しくなって唇をかんだ。わけもなく悔しかった。
「気にしないで、春日井君……あなたは私を助けていてくれるよ……でなければ、私とっくの昔に……」
草薙の瞳が夕日を受けてさらに紅く輝いた。少し揺れているのは緊張なのか不安なのか。俺には分からない。だがその神秘的な瞳に俺は見入っていた。
「だから、私も護るから。私の大切なものと、その人が大切にしているものを」
草薙は体の向きを変えて空を見上げた。闇に染まりつつある天空はわずかに星の光を許している。その横顔は泣いていたのかも知れない。草薙は俺に背を向けると、歩き始めた。
「草薙……」
俺は彼女の名を呼んだ。彼女は振り返らなかった。だから俺は追えなかった。彼女を失ってしまう予感がした。悪い予感だと振り払おうとした。だけど、それは黒く俺の胸の中に沈んだだけだった。
それで俺は追えなかったのだ……
もしも、俺の声に彼女が振り返ってくれたなら。
「真奈美……裕也と森川さんを護る気なんだ」
草薙を見失った後、とぼとぼと帰途についた俺達の静寂を破ったのは沢渡だ。
「え?」
「裕也を護りたいんだ……真奈美にとって一番大切な人を。そして、裕也が失ったら一番痛いだろう人を……それが、真奈美にとって今選ぶことができる最大の幸せなんだよ」
沢渡の声がひどく沈んで無感情に聞こえる。俺はそれを黙って聞いていた。
沢渡の表情は何時になく変化が乏しい。街灯のついた道の先をずっと眺めている。影の落ちたその表情は少し大人びて見える。
「でもね、裕也……こんなこと言うのは残酷かもしれないけどさ……真奈美は裕也の隣にいて、幸せを感じたかったんだよ。きっと……ね」
俺は沢渡の顔を見た。沢渡は俺の方を見なかった。
胸が、ずきりと痛んだ。
帰宅すると千明がいた。いつもより言葉が少ないのは昨夜の影響だ。それでも家事等の日常をこなしているから、妹はしっかりしていると思う。
千明はタイムリミットを知っている。昨夜はそれを知って言うことを言った。それ以上何も言わないのは、俺に考える時間を与えてくれているのだろう。
千明、沢渡、草薙……そして森川。
それぞれがそれぞれの意志を持っている。そしてそれらは、それぞれに理解ができるものだ。だけど、それが同時に攻め寄せてくると、俺はどうして良いか分からなくなる。俺は少し頭痛がして自分の部屋に塞ぎこんだ。
ベットに仰向けに転がり、天井を見上げる。
頭痛がする……
俺ははっとなって飛び起きた。
俺が見た夢は? いや、夢だけではない、この頭痛に似たこの痛みを俺はあの夜感じていたじゃないか。そして、あろうことか俺は千明を襲う寸前だった。痛みが、拡大していく。この痛みは何処から来るんだ。俺は冷や汗でぐっしょりとなりながら、神経を研ぎ澄ました。
見極めなければならない。もう時間はそうは残されていないのだ。
俺の視野にハンガーにかけた制服が目に付いた。俺はそれを見つめていると何かを感じた。突き刺さるような、痛み。それはそこから発しているような気がした。
俺はよろけるように制服を掴むと、その痛みの発生源となっているポケットに手を突っ込んだ。硬い、触りなれないものに当たる。
それは指輪だった。
草薙に告られたあの時、草薙が去った後で拾ったそれだ。
俺はそれに触れた瞬間、激痛と渇きと飢えを覚えた。そう、夢で見たときのような感覚だ。
「草薙!」
俺はこの感覚が草薙のものだと思った。そして、草薙が今何処にいるかが分かった。何故か。理由などはない。俺の頭の中に、痛みとともにそれが突き刺さったのだ。
この苦しみは草薙の苦しみの一部だったのだ。
俺は部屋を飛び出した。
千明が驚いて俺を見た。
「お兄ちゃん? どうしたの? また、顔が真っ青だよ!」
「ちょっと……でてくる」
千明を心配させないよう、強がるとか、演義をするとか、そんな余裕すらなかった。案の定、千明はすごい剣幕で俺の腕を掴んだ。
「何言ってるの! すごい汗だし、まともに歩けないじゃない!」
そんなことは分かっている。それでも俺は草薙のところへ行かなきゃいけない。俺は千明を押しのけようとした。
だが、千明はしがみつくようにして動かなかった。千明の目が俺を刺す。俺は視線を背けるつもりはなかった。
「……何か関係があるのね」
千明の洞察は正確だった。
俺は応えなかった。それで千明は理解した。というよりも、否定したところで明察な妹を騙せなかっただろう。だが、俺は千明を危険に巻き込みたくなかった。
「私も行く。お兄ちゃんを止められないなら……今のお兄ちゃんを一人で行かせるわけには行かないよ」
頑と意地を張った千明はてこでも動かない。それを良く知っている俺は大きくため息をついた。千明と言い争っているひまはない。俺は千明を連れて出ることにした。
もっともまともに歩くことができない俺は、千明に連れられているような格好になってしまったが。
指輪が教えてくれた場所は公園だった。誰もいない深夜の公園。冷たく静まり返ったそこに草薙がいる。俺はすぐそこに草薙がいると感じているに関わらず、その痛みは急速に消えていった。俺は近づけば痛みは強くなるだろうと予想していただけに拍子抜けだった。
だが、その公園ではさらに予想を超えた光景を目にした。
草薙は森川と共に居たのである。
森川は吸血鬼を殺す、つまりは草薙を殺すという目的を持った女だ。
その森川が、左手の二の腕を晒し、そこに草薙が口付けていた。
晒した左腕が月光に照らされてさらに白く輝いている。そこに桜色の草薙の唇が触れている。なんと言う美しさだろうか。いや、この二人ですら俺は呆然と見入ってしまった。 草薙は目を硬く閉じていた。血を吸っているのだろう……俺は今まで頭痛と共に感じていた渇きや飢えが引いて行くのを覚えた。その草薙を森川はじっと見詰めていた。
草薙の目がゆっくりと開く。
唇が腕から離れ、わずかに皮膚に残った紅い血を、さらに紅い舌がふき取った。
ゆっくりとした動作で草薙がこちらを向く。
俺を襲っていた頭痛はきれいに無くなっていた。
「春日井君」
草薙がつぶやいた。
森川は意外にも俺に気づいていなかったらしく、驚いた顔で振り向いた。
「春日井君! なんで……」
「訊きたいのはこっちほうだな、どっちかっていうと……」
俺は少し混乱気味に言った。本来なら殺しあうべき二人がこうしていること自体が信じられない。
森川は少し戸惑って口篭もった。彼女にしては珍しい仕草だった。
「同盟よ」
草薙の方が口を開いた。森川はそれと同時に俺から視線を逸らした。
しばらくの沈黙が続いた。
森川が顔を上げる。
「草薙さん、教えて。普通吸血鬼はマスターに逆らえないものよ。何故、あなたは……」
「心は春日井君が持っていてくれるから」
草薙はわずかすら間をおかず即答した。二人の方から緩やかな風が流れてくる。森川は驚いた表情で、草薙は穏やかな表情で俺を見た。
「……これだな? 草薙」
俺はその正体を悟った。いわくなどは知らない。そう感じた。草薙の心とこの指輪は繋がっているのだ。ポケットから取り出した指輪は月の光を受けて妖しく輝いた。
四人の八つの瞳をそれは独占していた。
「それは?」
森川が怪訝そうに聞いた。彼女はそれに何かを感じ取っていたのかもしれない。
「指輪にね、文字が彫ってあるでしょう? 今はもう使われていない言葉らしいんだけどね。『心をあなたに預けます』という意味なんだって。昔海外に旅行したときに、偶然骨董屋で見つけたのよ。そのいわれはすっかり忘れてたんだけどね」
それは偶然か運命なのか。その指輪にそう言った魔力が本当にあるのか。それは誰にもわからない。俺たちは魔法使いじゃないし鑑定士でもない。だが、事実彼女は吸血鬼に心を奪われる前に、この指輪を通して俺に託していたのだ。
