俺達は草薙を除いて、俺と千明の部屋に戻った。
草薙は、
「眠るから」
と残してその場を去った。吸血衝動を押さえるためだという。森川の血を吸ったことで、一時的に吸血衝動はおさまっているものの、いわばそれはエネルギーの補給であって、それが切れてしまえば、また吸血衝動に駆られてしまうのだ。
草薙はなるべく平静と冷たさを装って背を向けた。
去っていくその小さな背中と手のひらの指輪を見て、胸が苦しくなる思いがした。
一番不安なのは、紛れもなく彼女なのだ。
俺は草薙の姿を思い出しながら、ソファに沈んでいると千明と森川が近づいてきた。森川の腕の手当てが終わったらしい。真新しい包帯をまき、覗いている指先にもやや血色が戻っているように見えた。
「ありがとう。千明ちゃんなんでもできるのね」
森川はかすかに笑みを浮かべて礼を言った。その森川の数倍の笑顔で千明は答えた。
だが、その笑顔もすぐに治まり、部屋を沈黙が支配する。
「なあ、森川さん、結局どうなんだ?」
黒川との決戦についてである。
森川は言葉をまとめるのに少し苦労したようだった。
「わからない。草薙さんが協力してくれても……いえ、それが不思議なの。普通吸血鬼はマスター、つまり黒川に逆らえない。だけど、草薙さんは……」
俺はもう一度指輪を見た。やや古さを感じる以外は特になんて事のないシルバーのリングで、クラウンに宝石がひとつついている。おそらくはムーンストーン。特に高級なものでもない。
「ああ、俺にも確証はないけど、草薙の言葉通りのような気がする。俺がこれをもっているから、彼女は黒川ってやつに支配されずにいるんじゃないか?」
予想にしか過ぎない、根拠はない。だが俺は確信に近い口調で言った。感覚でしかないが、意識をしてこの指輪を見ると、そこに草薙がいるような気がする。
「俺、草薙にこれを渡されてから、自分が吸血鬼になる夢を見るようになったんだ。俺は未来を見る眼ががあるから、初めはそれかと思った。だけど今思えば、あれは草薙の意識だったんだ。俺が指輪を持っていたから、吸血衝動を抑えきれない草薙の心が、俺にあれを見せたんだろう」
草薙は望んで吸血鬼になったわけではない。望んで人を殺したわけではない。どうしようもない衝動を抑えきれなかったのだ。彼女はキット逃げ場が欲しかったに違いない。結局のところ、俺は彼女に救いを求められたのに、何も出来なかったわけだが。
森川はすこし指輪のことを納得したようだった。
「……ん」
森川は視線を逸らした。何秒か迷いを残し、先ほどより小さな声で言った。
「草薙さんが奴のすきをついて、その機に私が奴を捕らえることができたなら……でもたぶんうまくいく確率は半々でいいところだと思う……」
森川の声は暗い。当然だ。彼女は覚悟を決めているだろうが、自分の死が現実に近づいていたら誰もまともに陽気などなれない。
「もしそのチャンスを逃したら?」
森川は沈黙した。
「殺されるわ。私の兄と同じように……私も、春日井君も」
ひどくトーンの落ちた声で言った。
俺は天を仰いだ。失敗ならば死ぬ。それもきっと嬲り殺しだろう。俺は膝ががくがく震えるのを感じた。
情けない……
森川も草薙も命をかけて俺を護ろうとしている。莫迦だ。何故俺なんかのために。俺は何もできないくせに、自分の死を感じてこれほどまでに震えているのに。なんであいつらは自分の命を盾に俺を護ろうとして平気なんだ。
俺は短く息を吐いて、森川を見た。
「いいぜ森川さん。付き合うしかないよな。のるかそるか、だ。森川さん一人を死に追いやって俺独り生きていけるわけがないよ」
俺は強がって笑った。森川もそれにぎこちなく笑顔で答えようとした。
「だめよ!」
強い声が横から飛んだ。
「え?」
異口同音に俺と森川が声をあげる。横槍を入れたのは千明だった。千明は小さく震えながら、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「あんなのに、あんなのに人間が勝てるわけないじゃん。どうやったって無理よ。草薙さん、どんなことをしても……草薙さんだって普通じゃないのに……」
千明は震えながら、目元はもう涙がたまっているくらいだが、口元は引きつったように笑みすら浮かべている。
「千明?」
俺は怪訝そうに妹の顔を覗き込み、そして悟った。
「過去を見たのか。公園で!」
「え? 千明ちゃん、春日井君とは逆に……」
「あ、ああ。そう千明は過去が見える」
震える千明の頭を俺は優しく撫でた。迂闊だった。森川と草薙に気を取られ、千明の様子をほとんど感じ取っていなかった。思えば帰り道にとにかく無口だったのはそういうことなのか。
「俺達が鉢合わせるあの時より、その前を見たんだな?」
「うん……草薙さんが、どんなに、どんなにがんばっても、あの人は簡単にそれを……無理よ。草薙さんがチャンスを作るなんて」
絶望に涙を浮かべた千明が俺を見る。
「そうね。やっぱり最初から考えていた方法で行くしかないわ」
森川が俺の背後で言った。
俺は慌てて振り返り、森川を見た。彼女の顔には絶望は垣間見れない。ただ、覚悟だけが強く読み取れる。俺は何も言えなくて彼女を見つめた。
「だから、春日井君、お願いね」
「でも! それじゃ……」
千明ももう言葉が続かなかった。どうしようもなくてただ、視線を落として押し黙った。
森川はすこし申し訳なさそうな顔を浮かべ、自分のコートを取った。
「じゃ、手当てありがとう。おやすみなさい」
朝を迎えても一向に俺の心は晴れなかった。当然だ。何も解決はしていないのだから。 重い足取りで登校する。
いつもの風景が目の前に広がって、教室には森川がいる。
いつもどおりの授業が始まり、普通に俺たちの時間が流れていく。
元々森川はおしゃべりではないし、俺もどちらかと言えばおしゃべりじゃない。ただ、違和感と焦燥だけが募っていく。でも彼女は平然としており、俺だけがあたふたしてるように思えた。
昼休み、居たたまれなくなった俺は教室外に逃げ出した。
そこを待ち構えていたのは沢渡だった。
「いつも以上に暗いじゃん」
沢渡は笑っていた。
「そりゃ暗くもなるさ」
それが気に食わなかった俺は不機嫌そうに答えた。だが、沢渡はそんなことにはくじけずに続けた。
「アレから、何かあった?」
俺は答えられずにいた。俺達が導き出した答えはとても楽観的になれるような答えではなかったからだ。俺は視線を逸らして押し黙った。
「教えてよ。裕也はもちろん、真奈美は私の大事な友達なんだよ。森川さんだってもう他人なんかじゃない……明日、私も行くからね」
沢渡の声のトーンが落ちて、真剣な色になった。
「俺もね」
小田桐も混ざって言った。
「なんでお前まで……」
「何もしないままじゃ、寝付きが悪くなりそうだからな。それに他人事じゃない。一歩間違えれば犠牲者は俺たちかもしれないし」
「理屈じゃないよ。馬鹿だと思うけどね」
沢渡は笑った。何かを信じてる顔だと思った。沢渡や小田桐は俺を、俺達を信じているのだろう。それに根拠等はないのだろう。「理屈じゃない」彼女のその言葉がすべて表しているのだろう。
俺は戸惑いながら答えたた。言えば、彼女は俺達の持つ危険に滑り込んでくるに違いない。だがウソをついて納得させるのも俺には釈然と行かなかった。
すべてを話し終わった後、沢渡は押し黙っていた。やや視線を床に落として右手の親指のつめを噛んでいた。
「裕也は……」
迷ったように沢渡は口を開いた。
だが、そこで止まり、一ニ瞬逡巡したのだろう。だが、すぐに首を大きく振って俺を見上げた。
「裕也は森川さんに血を吸ってもらうべきだ」
強い意思を込められた声だった。わずかに揺れた瞳もそれは一瞬だけで、後は強く俺を貫いていた。俺は沢渡に蹴落とされてごくりと唾を飲んだ。
「裕也は死ぬべきじゃない!」
「でも、でもそれじゃ森川さんが」
「いいんだ!」
沢渡の声は強い。俺をねじ伏せるかのように強い。
「いいんだ! 裕也、それで。みんなの願いがそれでかなう」
「え?」
「真奈美はあんたを護りたい。森川さんもそうだ。そして森川さんは黒川って奴を殺したい。お兄さんの敵を取りたいんだろ……」
そして、沢渡は左の拳で俺の胸を突いた。
「そして千明や私はあんたに生きていてもらわなきゃ、困るんだ……」
沢渡はわなわなと震えると背を向けて走り出した。小柄でも運動神経は抜群の彼女だ。俺が呆気に囚われている内に彼女は視界から姿を消していた。
「沢渡さんは正しいと思う……」
森川が現れて静かに言った。
「私もそうすべきだと思うわ……いえ、そうするから。春日井君、私のことはあなたが決めたわけじゃない。私が決めたことなの。あなたのせいじゃ、ないわ」
森川はそう言って颯爽と立ち去った。
俺は森川の後姿を見て沢渡の真意に気づく。
沢渡が何時にもまして決断を迫った。それは俺自身がその選択を選べば、俺のために森川を死なせることになると、俺が自分を責めることを知っているからだ。沢渡や森川、彼女らが俺の決断よりも早く決断を下していれば、彼女らのせいにできる……
俺は小田桐を見た。小田桐は真剣な顔で俺を見つめていた。
「俺も他に方法がない、彼女らに賛成だ。裕さんが望むこととは違うかもしれないけどな」
彼は申し訳なさそうに言った。親友は最後まで俺を気遣っているようだった。それはありがたいことだったが、俺にはそれに答える余裕がなかった。
「くそっ」
俺は拳を固めて天を仰いだ。
時間は無常に過ぎていく。
その当日になっても森川の態度は特に変化もなく、日常だけが過ぎていく。何か違和感のようなものが漂っているような気がするが、それはナーバスになった俺が感じているものかもしれない。
放課後、俺は森川に呼ばれて屋上へでた。
草薙を始めて意識したあの時、それと同じ夕焼けが空いっぱいに広がっていた。
それを背に森川がいる。気温は随分さがっていたが、風がないためにそれほど寒さは感じなかった。
「いよいよ今日ね」
「怖く、ないのか?」
俺は恐る恐る訊いた。
森川は微笑んだ。優しい微笑だと思った。俺は思わず見とれた。
「怖くないわけないわ。自分が死ぬんだもの。その苦痛とか、不安とか……いいえ、自分がこの場所からなくなってしまうのが怖いの」
森川はゆっくりと俺に近づいてきた。
「私がなくなってしまったら、春日井君、あなたは覚えていてくれるかしら。皆は私を覚えていてくれるかしら……死んで消えてしまったらもう、後は風化するだけなのかしら」
森川はすぐ俺の目の前まできた。氷のような整った顔は、今は水のように優しい。どきりとした。俺はきっと赤面していることだろう。
「これまで、全然考えたことのないことだった」
森川はゆっくりと俺に体を預けてきた。
さらさらの黒髪が俺の頬を緩やかに撫でていく。
「も、森川?」
「春日井君が悪いのよ……こんな、こんな気持ちにさせるなんて」
どこか遠慮がちの森川の抱擁に、俺も遠慮がちに腕を彼女の背中に回した。どこかぎこちない近さがくすぐったかかった。もっと、求められたら、もっと求めることができたなら、と。
陽が傾いていく。時間が止まれば、誰も不幸にはならないのに。俺は思わず森川を強く抱きしめた。
「きゃ?」
驚いたような小さい悲鳴が漏れた。少し彼女には痛かったかもしれない。だが、この細い身体の彼女が残酷な運命を受け入れるのか……俺には納得がいかなかった。だが……
「ごめんなさい。春日井君。苦しいよね……苦しませてるよね。私はもうすぐ死んじゃうから、その苦しみはないから……自分勝手を、許して。せめてあなたの血で死なせてください」
太陽が落ちる。夜が、来る……
