時計の針が今日が始まって二回目の「8」を指した。
森川の話では黒川は午後十時にとメールで指定してきたらしい。俺は家には戻らず、携帯の電源を切っていた。戻れば千明が一緒に行くと言って聞かないだろう。沢渡のこともあった。危険に晒すの命は少ないほうがいい。
沢渡達との約束に違う事になるが、それでも俺は俺の判断が正しいと思っていた。
森川はセーラー服の上に黒いハーフコートを着込み、月が昇って青白い公園のコンクリートの上にたっている。深く影を刻むそのコートが嫌に重々しい。
彼女はゆっくりとポケットから白いカプセルを取り出した。
それを飲めば、彼女は死ぬ。
俺はわずか一センチにも満たないそれを憎悪の光をこめて見つめた。
「あと、二時間」
森川はそのカプセルを手のひらで転がしながら、小さくつぶやいた。白い息が唇から漏れる。
冷たい雨の降る夜、突然出会った彼女はなんて冷たい瞳をしていただろうか。
だが、今目の前にいる彼女は、その黒い瞳を小刻みに揺らしながら、自らの身に刻まれた運命を呪っていた。俺は彼女に助けてもらうことができたとしても、俺には彼女を助ける手立てがない。俺は拳を握り締めた。ふがいなくて足元をにらみつける。俺は何かを言おうとして顔を上げた。
紅い眼光。
俺は瞬間的にそれは俺の瞳にだけ映る未来だと判った。
「森川っ!」
俺は全力で森川に向って加速した。
驚く彼女の細い身体を抱え、勢いに任せて飛ぶ。俺はわずか後方で空気を切る音を聞いた。
俺は森川をかばうようにして倒れこんだ。冷え切ったコンクリートの感触と、暖かくてやわらかい感触が好対照的に俺に触れている。
「グール!」
森川が叫んだ。俺達を襲ったのは、そう森川たちがグールと呼ぶ、もはや人ではなくなった人の慣れの果て。吸血鬼にすべての生気を奪われ、人を襲うだけの蠢く死体。
森川は慌ててコートの裏に隠した例の刀を抜いた。
そして俺達は俺達を囲むざわついた気配を悟った。
気づかないうちに俺達はグールの群に囲まれている。無数の紅い目が俺達を捉えている。俺は戦慄した。
「……罠」
森川はうめくようにつぶやいた。
俺からの角度では彼女の顔は見えない。だが、おそらく彼女の表情は悔しさで歪んでいるだろう。
俺達に一番近いグール、今襲い掛かってきた奴だ。それが森川に飛びかかった。
森川は冷静に身体をさばき、刀を敵に向けた。相手の突進の力を利用してその身体を引き裂いていく。
グールは断末魔の叫びをあげると、あの時の様に灰となって崩れ去った。
あざやかな手並みだ。美しいともいえる。だが、常識レベルの強さだ。黒川はおろか、草薙にも及ばない。
森川がそうやってグールを一人斬っている間に包囲は一回り小さくなっていた。
「くっ」
森川は振り返ると苦しそうな表情を見せた。
「春日井君……血を……御願い……」
俺はどきりとした。視界が狭まって森川の顔しか見えなくなる。心臓が圧迫される。脈の音が俺の脳裏に直接響き渡る。
彼女が俺の血を飲めば、彼女は吸血鬼になる。超人的なその力は、この場をしのげるかもしれない。だが、その血と同時に飲むカプセルは彼女を死に至らしめる……
「もり……かわ……」
俺はやっと声を出した。彼女が近づいてくる。死に向って。彼女の意思だ。俺を護るがために自らの命を捨てる。理屈はわかる。だが、納得はできない。俺はいやいやをする子供の様に首を振った。
カプセルを唇に含み、森川が近づいてきた。
と、俺達を囲むグールの群の一角が、吹き飛ぶように崩れた。
「パーティは十時からじゃなかったっけ? 森川さん」
そこにいたのは草薙だった。青い月光に照らされながらもなお紅いその瞳は吸血鬼の証だ。その力を持って数体のグールを吹き飛ばした。
「草薙さん!」
森川が叫んだ。元々二人は共同戦線を張るつもりだったのだ。
突然現れた草薙は悠然と立っている。グール達は戸惑いながらも目標を草薙に変えたようだった。
一体のグールが飛び掛る。だが草薙は微動だにもしなかった。
かわりに彼女の背後から白い足が伸びて、襲い掛かったグールの顔面にカウンターで決まった。もんどりを打って倒れるグール。
「沢渡!」
草薙の影から現れたのは、ショートカットの幼馴染だった。
俺は呆気に取られて二人を見たが、その横には千明までいる。
もう一方で、鈍い音共にグールが崩れ落ちた。そこには金属バットを構えた小田桐がいた。涼しげな顔に似合わず、小田桐も荒事には滅法強い。
半瞬送れて気づく。結局俺は沢渡達に最終的な時間を伝えなかった。わざわざ危険に彼女らを晒すことはないと思っていたが、沢渡は俺に連絡がつかないことで、草薙と連絡をとったのだ。迂闊だった。
「二人で駆け落ちなんて、まだ許さないよ」
片目を瞑って沢渡はおどけるように言った。その彼女にもう一体のグールが襲い掛かる。だが、沢渡は左足を閃光の様に蹴りだして、その顔面を捉えていた。元々バネの様にしなやかな足だ。それをカウンターで入れられてはたまらない。二体目のグールも同じように転がった。
同時に草薙も一体のグールを引き裂くように打ち倒していた。
「すげぇ」
俺がため息をついた時だった。
俺と森川の背後、月影が落ちた場所が微かに揺らめいたかと思うと、黒い物体が浮き上がった。否、物体ではない。それは黒川だ。
「なっ……」
驚愕する間もなく、その腕が森川に伸びた。
病的に白いその手のひらが、森川の細い首を捕らえる。
「ぐ……くろ、か、わ!」
万力のような力で首を締め上げられた森川は苦しそうにうめく。そのまま宙吊りにされたその光景は草薙が首をおられたその光景に似ていた。
「くっ、森川を離せ!」
俺は黒川に飛びかかろうとした。黒川の力は知っていた。だがそれよりはもはやく体が動いていた。だが、彼の眼光を見た瞬間、あの時と同じように金縛りに捕らわれた。
「くっそ……ぉ」
森川の唇から風を切るような音が鳴る。黒川がやや力を弱め、呼吸を許したのだ。
「お前が血を飲んで俺に向ってくることは予測がついていた。それもギリギリになるまで血を飲まないとな」
森川はわずかに顔を動かして黒川をにらみつけた。
「血のつながりの濃さを感じるな。お前の兄もまったく同じ行動だったぞ」
森川の目が驚愕に開かれる。
「愚かな一族だな。そんな情まみれでよくも闇払いの一族の当主が張れるものだな!」
不意に黒川が森川の首を離した。支えを失って地面に落とされる森川。身体は酸素を求め大きく息を吸い込んだ。そこに、黒川の蹴りが森川の腹にヒットした。つま先がその細い身体にめり込む。
「げはっ」
森川は仰向けに伸びたあと咳き込みながら丸くなった。涙と嘔吐が彼女の美しい顔を汚した。
「情けないものだな……」
黒川はゆっくりと彼女に近づき、うつぶせに丸くなった彼女の頭に足を乗せた。
奴は森川に屈辱と苦痛で嬲り殺すつもりなのだ。
俺は歯軋りをした。目が痛くなるほど黒川をにらみつける。
森川のマンションで見たあのビジョン。血塗れのセーラー服の彼女。役立たずの未来視だ。判っていながら、何故それを変えれなかった。
「そう……あなたはやっぱり……」
靴で踏みにじられる屈辱と痛みをこらえて森川が声を出した。
「私と同じように、吸血鬼の因子を持っていて……吸血鬼になっても生き残った慣れの果てね!」
森川が無理な体勢から刀を突き出した。だがそれもかわされて、鋭い蹴りの反撃を受ける。数メートルも宙を舞い、彼女の身体コンクリートの上でバウンドする。
「森川ぁ!」
俺の叫びは届いたのか、否か。森川はゆらりと立ち上がった。ぼろぼろになったコートを脱ぎ捨てて剣を構える。額から血が流れ、白いセーラー服には所々血がにじんでいた。立ち上がったものの、足元がおぼつかない。それが彼女のダメージを現していた。
黒川が一歩森川に近づく。
森川はもう立っているのがやっとという姿だ。
と、草薙が森川の前に立った。グールの方は沢渡と小田桐が絶妙の距離感を保って戦っている。人間の力ではつかまれたら終りだ。二人はそれをよく理解していた。
「結局、血は飲んでないって訳か……」
「ええ……ごめんなさい」
「例の薬は?」
「落とした。さっきやられたから……」
「まあいいけどね……元々あなたには死んで欲しくなかったし」
草薙が構える。いつでも飛び出せる体勢だ。
森川、草薙、黒川挟んで俺。ほぼ一直線に並んでいる。と、俺は草薙と目が合った。何か意味のありげな視線。俺はポケットの中の指輪の存在を感じた。
「草薙?」
俺はいつのまにか身体が自由になっていることに気が付いた。奴の金縛りは視線に入っていないと効果を発揮しないものなのだ。森川を吹き飛ばしたおかげで、逆に俺は奴の死角に入ったのだ。俺は注意深く身をかがめた。
草薙の唇が動いた。声は届いてこない。森川は微かに頷いた様子だった。
草薙が駆ける。
俺から見て右、彼女から向って左に少し曲線を描きながら黒川に突進する。これはおとりだ。彼女一人でかなう相手ではないことを彼女自身が一番よく知っている。
それにあわせて森川もスタートを切った。
だが、
「マスターに逆らうつもりか!」
黒川の一喝で草薙の身体が硬直する。
まがまがしいまでの眼光を受けて草薙の身体が、先ほどの俺の身体の様に固まった。
「くっ……」
森川が減速する。
彼女が危惧したように、草薙は血を飲まれた吸血鬼、つまり黒川に逆らうことができないのだ。黒川の注意が森川に移る。
「どうせそんなことだと思ったが、幼稚な策だな、え?」
勝ち誇った顔が森川に向けられる。森川はがっくりと肩を落として剣を下げた。
「……大丈夫。春日井君が私の心を持っていてくれるなら」
脳裏に草薙の声が響いた。それは音ではなかった。俺の持つ指輪から直接脳が感じ取ったのだ。いや、それは指輪ではなく、草薙の意識の一部だった。俺が感じていた夢、苦痛、衝動。それもすべて草薙の意識の一部、この指輪が起こした現象だったのだ。だが、この場では唯一無二の切り札だった。圧倒的な力をもつ黒川を出し抜くために。
「草薙!」
俺は叫んだ。手にした指輪を強く握る。
その刹那、草薙は見えない扉を破るかのように黒川に向って飛びかかった。
「っ! 馬鹿な!」
黒川が始めて狼狽する。奴がとらえていたはずの草薙の意識は、その一部を俺が握っているとは夢にも思うまい。
草薙が踊りかかる。森川はもう一度剣を構えて間合いに入っていく。すべて二人の中では計画済みだったのだ。まんまと黒川をはめていたのだ。
「ダメだ!」
全身という全身の毛穴が開く。恐怖という恐怖を感じる。失うという恐ろしさ。命の砕ける凄まじさ。俺はその未来を見てしまった。
俺は考える間もなく、身体を動かしていた。その砕かれる命の未来を変えるために、他の命を差し出してもかまわない。俺は黒川と森川の間に身体を滑り込ませた。
「お兄ちゃん!」
目の前の森川の驚愕の表情と千明の叫びがひどく鮮明に感じた。
