黒川は一瞬で草薙の攻撃より森川の刀こそが恐怖だと標的を切り替えたのだ。
俺の背中から黒川の手刀が突き刺さり、そして貫いていく。
簡単に俺の胸板を貫いたそれは、わずかだが森川の胸に到達していた。
だが、それは心臓までは届いていない。俺は俺の見た未来を変えることができた。
「ちっ」
黒川が手刀を引き抜く。ポッカリと開いた俺の胸からはおびただしい流血が飛び出し、森川を真っ赤に染めた。
血に染まるセーラー服の森川の姿。いつか見た未来が現在になった。それは森川自身の血ではなく、俺の血だったのだ。お笑い種だ。だが、森川が自身の血にまみれるよりはずっといい。俺は紅くなっていく視界の中で思った。
「春日井く……ごほっ」
森川が俺の名を呼ぼうとして口を押さえ、膝が崩れた。それでも黒川の手刀は彼女の内側まで傷つけたらしく、手で押さえた口からは紅いものが溢れていた。
「森川……」
自分の声がひどく遠くに聞こえる。
身体を支えられなくなる。
俺はそのまま重力に引かれて膝立ち状態の森川へと倒れこんでいく。
森川は俺を慌てて支えた。
彼女の細腕では俺の身体は重いだろうな。いや、これだけ血が流れているのだ。少しは軽くなっているだろうか。
視界の淵で草薙が黒川と闘っている。
能力の差も当然ながら、ついこないだまで普通の女子高生だった彼女は闘い方すら知らない。勝ち目は、ない。
「森川。悪い……皆を護ってくれ……俺、森川さん、まもった、かわりに」
一言一言に激痛が伴う。だが俺は強く言った。
「春日井君!」
もはや悲鳴のような声。
似合わない。
血に染まったその姿も。涙で濡れた瞳も。叫ぶ声すら。
目を閉じる。そんな森川を見たくはない。俺は逃げるように目を閉じた。
寒い。血液が流れ落ちたからだろうか。ひどく重くて寒い。
と、唇に暖かくてやわらかい感触があった。
微かに目を開ける。
それは森川の口付けだった。
お互いの口の中に溢れる血液が混ざり合う。
暖かで柔らかで……
千明が悲鳴を上げて駆け寄ってくる。
森川が俺を千明にゆだねた。千明は半ば正気を失ってないている。当然だ、この傷ではもう助からない。
「護るわ。皆を。春日井君が護ってくれたもの……」
霞む視界の片隅で森川が駆け出した。その瞳の光の残滓は、草薙のように紅い。
ボロボロのセーラー服で森川は黒川に対峙する。
黒川は森川の姿に気がついて、草薙を投げ捨てた。草薙はいたぶられて戦意喪失状態だった。
「その目、目覚めたと言うわけか」
黒川は始めて緊張を含んだ声で言った。
「あなたは殺すわ。あなたは大切なものを奪いすぎた」
森川から冷たい声が発せられた。俺は少しそれがいやだった。彼女の心はまた氷に閉ざされようとしている。それが俺の死が原因なら、俺の責任は重大だ。
「俺とて吸血鬼の力が目覚めたとたん、俺はおまえらに追われる立場になった。おまえらこそ俺から色々なものを奪った。だから俺も奪うのだ。お前の友人もすべてうばってやろうか!」
黒川が語調を荒げた。その言葉に森川は体を振るわせた。怒りだ。吸血鬼の血の力はその感情も増幅させているのだろうか、彼女の髪が逆立つような錯覚を覚えた。普段彼女が冷静にいるのはその反作用かもしれない。
「させない、これ以上。誰も失わない!」
彼女は鋭く叫ぶと、剣を構えて突進した。その速度は人のものではない。彼女はすでに吸血鬼なのだ。
黒川も体勢を整えて彼女を迎え撃った。吸血鬼と吸血鬼の正面衝突。森川の剣が紅い閃光を放って翻る。それは確実に黒川の胴体をなぎ払っていた。
「ばかな……」
互角と思えたが、結果は森川の圧倒だった。
「忘れたの? 私の血は、吸血鬼を殺すために何百年も磨かれてきた遺伝子なのよ」
森川がつぶやく。
「そうか、そうだったな……」
黒川が崩れて行く。不死であるはずの彼が滅び、灰になっていくのだ。
森川が勝った。沢渡達も無事だ。俺は力が抜ける気がして、意識が闇に沈んで行く。千明の酷い金切り声も、俺を呼び止めることができなかった。
微かに冷たい風が撫でていく。
光が差し込んでいることがわかる。俺はその光が鬱陶しかった。眠りつづけるには、明るすぎるのだ。
「う……ん」
耐え切れなくて目を開ける。
徐々に意識がはっきりすると同時に、景色が飛び込んでくる。
上品な白で覆われた壁の部屋。所々に装飾品。部屋の隅に小さなテーブルといすが一脚あるだけで、こげ茶色のじゅうたんだけがやたら意識に飛び込んでくる。
真正面にある大きな窓は全開になって白いカーテンが風を受けて揺らめいている。そこから覗く光景はすっかり色を黄色くしたイチョウの木々だ。
俺は……何処にいるのだろう?
遠くではなく近くを見る。
俺は清潔な白いベッドの上だった。
小さな寝息が聞こえる。
「千明……」
ベットの脇に上半身だけの乗せた格好で妹は寝息を立てていた。
頭の中を整理する。
俺は、いや俺たちは黒川と闘っていて、俺は致命傷を負ったはずだった。胸を押さえる。傷口はない。
「夢? ……いや、ここは天国、かな?」
風の冷たさ意外は楽園のような風景だ。俺たちは奴に負けて、殺されたのだろうか。
その静かな楽園に微かに声が聞こえた。
それはどんどん近づいてきて、この部屋の目の前で止まる。
「だからさ、私も血を飲んだらさ、この足治るかな?」
「そう都合のいいものじゃないと思うけど」
「新しい傷にしかだめっぽそうなイメージだけどなあ」
そんな雑談を交わしながら現れたのは小田桐と沢渡、そして森川だった。
聞きなれた声、見なれた顔。
「春日井君」
「裕也」
二人の女子の顔が驚いた顔で硬直する。小田桐はにやっと笑って小さな未来を想像したのだろう。
「……や」
どういう状況なのかいまいち把握できずに、とりあえず俺は手を上げる。
二人とも沈黙が続いていた。俺も挙げた手をどうしていいかわからずに、少し困ってしまった。
「……や、じゃないでしょ。や、じゃ!」
沢渡が突然怒鳴り始めた。
千明がびっくりして軽く飛び跳ねるように目を覚ます。
俺は訳が判らず、突然怒り出した沢渡に上げた手をひっこめた。
「ちょ、ちょっとまってくれ。俺には……なにがなんだか。アレからどうなったんだ? っていうかここは何処なんだ?」
沢渡は大股でずかずかとベットまで歩いてきて、突然表情を変える。
「裕也、七日も寝てたのよ……もう、起きないかと思ってた……」
表情がころころ変わる。今度は泣きそうな顔で沢渡は言った。
俺はあの日から七日間も寝てたのか。
「お兄ちゃん……あの時、すごい大怪我をして、普通なら助からない怪我だったのに……でも、不思議な力で傷がどんどんふさがっていった……」
「裕也も一瞬、真奈美みたいになっちゃったかと思ったよ。でも、そのあと丸々一週間こんこんと寝つづけてさ。一体どれだけ心配したか……」
沢渡や千明の声が震えている。目が潤んでいる。
「俺、生きてんだな」
実感する。
「森川さん……」
真正面に立つ森川の目は潤んでいた。溢れそうに鳴るものをこらえているような唇。
「うん……護ったよ。あなたの言葉は、何時も大きな意味を私に与える……」
森川が泣きそうな顔で微笑んでいた。
俺は、微笑み返した。
森川は黒川を滅ぼす以上の、何かを手に入れた。彼女はそれを言葉にしなかったけど、俺はそう感じた。うぬぼれかも知れない。それでも、彼女は出会った頃と比べるなら、格段に変化があったことは間違いない。
「ありがとう」
俺がそういうと、森川はうれしそうに微笑んでいた。
廊下から甲高い何か引きずるような音が聞こえてきた。
続いてドアからノックする音が聞こえ、続いていろいろな医療器具を乗せたカートを引いた女性が現れた。
短めの髪にメイドドレスに身を包んだ彼女は明らかに俺たちとは歳が違って見えた。若いが大人の女性という雰囲気を持っている。
「あら……お目覚めになられたのですね」
女性は俺の顔を見て微笑みながら言った。
「紹介します、春日井君。彼女は芹香。森川の使用人です」
「渡辺芹香、と申します」
森川の紹介に続いて、改めて芹香が頭を下げた。俺も思わずつられて頭を下げる。
「芹香には春日井君の看護を頼んでいたの」
「うふふ、お任せください。といっても医療免許などは持っていないのですけどね」
驚いた視線が芹香に三人分集中する。俺を含めて千明も沢渡も初耳なのだろう。いや、俺の看護をしているところを見ているとしたら、後の二人の驚きは俺よりも大きいかもしれない。
「あはは、大丈夫ですよ。資格をとっていないだけです」
「うちではいろいろと普通の医療ルートに乗せられないものがありますから。偽の診断書や闇カルテなども彼女に作成してもらっています。腕は確かですよ」
芹香は笑顔を浮かべ、きっぱりと言うし、森川は森川でけろりとした顔で言う。
沢渡はため息をつき、千明は最後まで不安と疑いの目で芹香を見つめていた。
「でも、お目覚めになったなら、これは必要ないかもですねえ……どうですか? 食欲は?」
芹香が運んできたカートには点滴の機材が積まれていた。
七日間も寝ていたのなら、もちろん何も摂っていないことになる。その間の栄養補給は点滴だけだったのだろう。そう思うと急に空腹感に襲われて大きく腹がなった。
「ぷっ」
一同静まり返った中、初めに吹き出したのは沢渡だった。
「なんだ、裕さん、元気じゃん」
小田桐が言うと一同が爆笑に包まれた。俺は恥ずかしくも、この瞬間の幸せをかみ締めた。あの時終わったと思っていた瞬間が嘘のようだ。
やわらかい表情で芹香が俺の体温、脈、呼吸の状態を調べる。
「うん。大丈夫なようね。では、点滴を止めて食事にするとしましょう」
森川たちの顔が和らいだ。だが、俺はまだ引っかかるものがあった。皆はともかく、俺は確実にあの時、死を感じた。
「あの、芹香さん」
俺は深刻そうな顔をして彼女を見上げた。彼女は怪訝そうな顔をして見返してきた。
「あとで教えてほしいことがあるんですが……いや、今でいいです。皆がいる前で」
芹香は沈黙した。栗色の髪とシンクロした瞳が俺を見つめている。
「俺はあの時致命傷だったはず。何故、その傷跡もなく今生きていられるのか……芹香さん、教えてください。そして森川さんのことも。彼女はあの時俺の血を飲んで……そう目が紅くなっていた……そして黒川に彼女が勝ったのなら、彼女は吸血鬼になっているんじゃない、のか?」
芹香はすっと目を閉じた。
森川がゆっくりと俺に近づいた。
不安そうな千明と沢渡が芹香と俺を交互に見ていた。
「あの時、あなたは左の肺に大きな損傷と肺と心臓を繋ぐ血管を破られ、とても助かる見込みのある状態ではありませんでした。しかし、私が駆けつけたとき、既にあなたの傷はふさがりつつあったのです」
芹香はゆっくりと口を開き、語り始めた。
「それはいわば『吸血鬼』の再生能力と同等でした」
悪寒が走る。
「故に、精密検査を行いました。当然、普通の病院では行えないものですが……吸血鬼と人間の間には細胞のDNAに大きな違いがあります……だが、春日井様、あなたにはそれが見当たらない」
そこで初めて芹香は戸惑ったような表情を見せた。
「結論から申しますと、あなたは吸血鬼にはなっていません。その過程を説明するには仮説を用いねばなりません。私の仮説はこうです。あなたはわずかながらも吸血鬼の一族の血を飲んだ。その際に一時的に吸血鬼の力を得て……そしてその不死身と言える治癒能力で致命傷を治した、と」
芹香自身戸惑っている。俺も鵜呑みにできずにいた。
「前例のないことです」
「わかりました。とりあえず俺は今までどおり変らない、ってことですね……」
俺は無理やり自分を納得させると、次いで森川を見た。
「恵理様は……元々吸血鬼の因子を含んだ一族です。元々遺伝子にそれを潜ませています。問題は陰性か陽性かであって……一度に大量の生き血を飲むことでその力は目覚めます。今の恵理様は……陽性が出ています」
一同の視線が森川恵理に集まった。森川はそれを知っている、そんな表情だった。
「しかし、恵理様の陽性反応は日々薄れています。おそらくは飲んだ血の量が圧倒的に少なかったのでしょう。異物……おそらく自分の血も混ざっていたことで完全な覚醒にはならなかったようです……と言っても、陽性は陽性……確実に吸血鬼としての目覚めがあります」
芹香が目を開き森川を見つめる。彼女に見られてそれまで平然としていた森川の表情が少しだけ不安に曇る。芹香は冷静な顔で続けた。声が鋭く冷たく感じる。
「ただ、森川家の中には何もしない状態で、一時的に陽性反応が出る、そういうことがあるようです。それゆえ森川恵理に関しては特に不問でよろしいでしょう……」
芹香が急に表情を崩し、舌を出す。
「と、報告しておきました」
くすくすと笑い始める芹香。森川は驚いた表情で彼女見た。
「薬もなしで血を飲んだとあれば、もう森川家は恵理様を生かしてはおかないでしょう。そんな報告は私にはできません。それに一時的な陽性反応がでたとならば、恵理様は当主の座からは下ろされます」
「え……?」
「森川家にはそういうしきたりがあるのです。万が一のことを考えてでしょう」
「いえ、そういうことではなく」
「黒川は死んだのです。お兄様の敵はお打ちになられたのでしょう? もう無理に戦うことなどないのです。その身を削り、傷つくことも、悲しむことも」
森川は呆然と芹香を見つめていた。
芹香は悠然とした仕草で器具を片付けてカートに乗せた。ゆっくりとじゅうたんの上をカートを押して扉の前に立つ。
「では食事の用意をいたしますので」
「芹香」
「はい」
「……ありがとう」
森川の目には一滴の光るものが浮かんでいた。芹香はそれを見て満足そうに微笑んでいた。俺はすべてが終わったのを感じた。いろいろあって、望むべくもない結果だった。これでよかったのだ、と。
