夜更けから降り始めた雪は朝まで降り続いていたらしく、目がさめたときには景色は一面の銀世界だった。
新学期の一日目は見事に雪化粧となっていた。空の方はすっかり晴れ渡っていたが、五センチほど積もった雪は、踏みしめる毎に、いつもと違う足音を残す。
「うー、さむいねー」
足音は二つ重なっていて、となりにいるのは沢渡だ。
「寒いとかいうならさ、その足、なんとかすりゃいいだろ?」
相変わらずギリギリまでスカートをあげて太ももを外気に晒している彼女だ。上半身をハーフコート、膝から下はルーズソックスに包まれているとはいえ、明らかにその露出はこの雪道には寒いはずだ。
「なによう。裕也を欲情させるためにだしてるのに!」
「あのな」
沢渡はおどけながら言う。俺はため息をつきながらも、確かに沢渡の脚は身長に比べて長く、それでいて健康的で綺麗だとは思う。
俺が深くついたため息は、すぐに白く濁って視界をぼやけさせた。
空を見上げる。
雪の降ったあとの空は、不純物が取り除かれてピュアに青い。
「……裕也?」
沢渡の声がやや慎重だ。
俺たちは、二学期の終業式を空席二つと共に迎えた。
森川と、草薙の席だ。
外は軽く風が吹いているようだ。
俺は明かりを落としてベットの中にいたが、一週間も眠りつづけていた身体だ。睡魔は何時までたっても襲ってこない。
カーテンを開け放した窓からは月光が差し込んでいて、白っぽい彩りの部屋を青く染めている。
俺は寝返りを打った。何か不安が揺れている。すべて解決したはずなのに。漠然とした何かが俺の胸を締め付けているのだ。
そとから窓を叩くような音がした。
二度、三度。
風ではない。風はそれほどまで強くない。
俺は訝しがって半身を起こした。
窓に人影があった。ここは二階なのにだ。俺は驚いて目を凝らしたが月の光の逆光で誰かわからない。いや、違う。俺は確信した。
ベットから跳ね起きて、窓の鍵を開ける。
「草薙!」
窓を開けると草薙は軽い仕草で部屋に入ってきた。
「夜這いじゃないよ」
彼女は悪戯っぽく笑うと、紅い目を向けた。やわらかい表情だ。
「ばか。でも、生きていたんだな」
「うん。まぁ、簡単に死ねない身体になっちゃったからね」
「……そうか」
草薙が近づく。柔らかな表情のままだ。距離がつまるごとに視線の角度が変ってどこか上目遣いの様になっていく。まるで拗ねたような表情になって俺は思わずどきりとした。
「キス……して」
「え?」
「最後に」
俺は心臓がひときわ大きく打った音を聞いた。
「最後って?」
「私のマスター……黒川が死んで、黒川の支配と同時に、吸い上げられてた力が消えた。だからもう吸血衝動もそうは起らないみたい……それでも、私はもう何人もの命を奪い、そしてこれからも……そういうことになると思う」
草薙が背を向ける。後ろに回した手を合わせて指を絡ませている。
「もう、春日井君たちと同じ世界にいられないの」
「草薙……」
俺が名前を呼ぶと、草薙は勢いよく振り返った。
まっすぐ俺を見つめ、わずかにあごを上げて目を閉じる。彼女は待っているのだと知った。
俺はゆっくりと彼女に近づいた。
それこそお互いの息がかかるくらい。
「森川さんだけしてるなんてずるいよね」
「……見てたの? あれ」
「目に入った」
俺は森川の名がでた瞬間、迷いが発生した。いや、それは今発生したわけじゃない。それがキーワードをきっかけに意識に入るほど膨れ上がったのだ。膨れ上がったと思ったそれは、一瞬にして俺の心を埋めつくす。
俺は草薙の肩を掴むと、彼女の身体を引き離した。
「え?」
驚いて目を開ける草薙。俺はその顔を直視できず、彼女の両肩を掴んだまま視線を地面に落とした。
「ごめん」
俺はやっとの思いで声を出した。頭を下げたまま、ちらりと草薙の目を見る。草薙は真剣な目で俺を見つめていた。表情は無表情で、何を考えているかわからない。俺は怖くなって目をそらしてしまった。
「なんとなく、安心したかな」
「え?」
草薙は俺の腕を振り解いた。俺は驚いて顔を上げる。
「ここでキスされちゃったら、きっと『さよなら』できなくなる」
草薙はわずかに笑みを浮かべた。俺は意味が判らなくてただおろおろとするしかなかった。彼女は何を考えているのだろう。頭をフル回転させて考えたが、既に俺の頭はオーバーヒート気味だった。
「ここでキスしてもらって甘い気分を知ったら、きっとまた私は逢いにきちゃうだろうな。それに、春日井君が好きなのは森川さんだってよく分かったし」
俺は何も答えられずに立ち尽くす。嫉妬とか、寂しさとか、そういう感情をすべてその笑顔の裏に隠しているのか。
「じゃあ、私はもう行くから……」
草薙はゆっくりと歩いて窓際に立って振り返った。
「また会えるよな?」
思わず出た残酷な言葉。口に出してから後悔する。
「あえるかな、うん。たぶん、逢いに行く」
草薙は苦笑した。その表情が収まり、開いた窓から吹き込む風の様に厳しい顔になる。
「ありがとう……これは本当よ。本当の気持ち。だからいえるの『さよなら』って。また会おうね、春日井君。さようなら」
最後に彼女は笑った。月の光に照らされて、白く青く輝いて。彼女は一つためを作ると大きく跳躍した。一瞬にして視界から消えて飛び立っていく。それは彼女が人間ではないと言う証拠。だけど、その軌跡はとてもとても美しく感じた。
沢渡は俺が何を考えているのかわかったようだ。
森川家の別荘で目覚めた俺は、すぐに学校に復帰することができた。
あれ以来事件も起らなかったし、俺の身体に異変もなかった。だが、草薙はもちろんのこと、森川も一度も姿を現さなかった。
「これから一族の査問や、おそらく当主交代の手続きで忙しくなると思います」
別荘を離れる時、森川はそういつもの表情で言った。
ただ、一言が耳に残っている。
「さようなら」
それが離れなかった。彼女は再会の言葉を言わなかったのだ。たった一言が足りない不安。
事件が終り、彼女の目的も終わった。もうこの街には用がない。だからもう、この街にはこないつもりなのかもしれない。もう、俺たちに会うこともなく。
俺たちは会話を止めたまま、校門のあたりまで歩いてきた。
他の生徒達は冬休みあけの再会をかわしつつ、校舎へと入っていく。俺と沢渡はその場所で立ち止まり、その人の流れを見つめていた。
「こんなのところにいたって、しょうがないよ」
沢渡が俺を伺うように言う。
俺はため息をついた。教室に向おうと思う。だが足がすくんで動かなかった。意志とはうらはらに、俺は何かを待っているかのように。
「本当にこんなところでぼーっとしてたら、風邪引くよ」
長い黒髪の女子生徒が颯爽と俺たちの前を過ぎ去っていった。
俺と沢渡は驚いて顔を見合わせ、その女子生徒の後姿を追った。
沢渡と同じブレザーに身を包んだその後姿は、奇妙に見覚えがあってイメージがない。 俺たちが彼女の跡を追わないでいると、彼女は訝しそうに振り返った。
その顔は。
「森川さん!」
二人の声がかぶる。
「おはよう。というより、あけましておめでとう、かな?」
真新しいうちの学校の制服に身を包んだ森川恵理だった。
「え? どうして? 急に? 何でうちの制服を……えー?」
沢渡がくるくる表情を変えながら矢継早に質問を投げかける。森川は少し照れたような表情を浮かべて訊ねてきた。
「似合ってないかしら?」
視線が合う。黒髪に紺のブレザーとミニスカート。灰色のベストセーター、足元は沢渡とは好対照的なハイソックスだった。
「いや、似合ってる。あ、でも……森川さんってセーラー服じゃ……」
「よかった。だって、あのままじゃ悪目立ちしない?」
「そりゃ、そうだけど」
俺はまだ混乱が収まっていない。森川恵理はもう、俺たちの前に現れないはずじゃなかったのか。
森川はそんな俺たちの心境を見抜いたような顔をして微笑んだ。
「この街へ来た時、この学校へ来た時、事件が終わればすぐにいなくなるつもりだったから、あの制服のままでいたの。事件が終わって、森川家の当主の件は当面は保留。私たち兄妹は二人だけだったからね。でも森川家の眷属他にもいろいろいるの。まあ、ろくな座ではないんだけど、なりたい人はいっぱいいるでしょうね」
悪戯っぽく笑って彼女は付け加える。「お金だけは不自由しないから」と。
「とりあえず芹香が言うように一線を退く事にはなったから、こっちにいられるわ」
「じゃあ、森川さん……」
「うん、これからもよろしく」
朝日を受けた森川が微笑んで手を指し伸ばしてきた。俺はそれを受けて彼女の手を握った。冷え込んだ朝の冷気を受けて、彼女の手はやや冷たく感じたが、やわらかくて安心感があった。
しばらく俺たちは見つめ合ったあと、ふと視線に気が付いてそちらに目をやる。視線の主はわかっている。沢渡だ。
沢渡は何か含みを持った目で笑った。
俺は慌てて手を離した。森川はやや赤面して恥ずかしそうにうつむいていた。
絶対、何かがある。俺は経験上沢渡の特性を知っていた。
「よし、まあいいか」
沢渡はいつもの様に歯切れよく言うと俺たち二人の背中を押した。雪に足をとられた森川が俺にしがみついてきた。驚いた顔はわずかに赤味が差していた。それは寒さのせいだとは思いたくなかった。
新しい一年を迎える。三学期が始まる。クラスメートで新年会を開いた。と言うよりは森川の歓迎会のような感じだったが。
今までそういう区切りを迎えることを当たり前だと思っていた。皆で迎えられるのが当たり前だと思っていた。
でも、草薙がいない。彼女は生きているけど、この教室にはいない。
何か一つバランスが狂えば、俺もいなかったかもしれない。森川も、沢渡も。学校が違うが千明も……
バランスの崩れた草薙は俺たちの前から消えてしまった。だが、その草薙も居なければ、俺たちの現在も変ってしまっただろう。
そんな運命の糸にあやつられながら、俺たちはここにいる。それに感謝したり、恨んだりするかもしれない。
だが、ここに今生きているということを忘れてはいけない。いま、ここにいる事を忘れてはいけない。
「どうしたの?」
事件は俺たち以外に真相を知るべくもなかったから、夜の公園は未だに人が少ない。そこを俺は森川と歩いていた。
制服のポケットから草薙の指輪を取り出す。
「月が、きれいだ」
月の光が指輪を照らす。くすんだ白い石がかすかに反射する。
それはまさに月のかけらだ。草薙の意思のかけら。それが俺たちを救った。いま彼女がここにいなくてもここにいる気がする。草薙は俺たちの仲間だ。
森川が空を見上げた。
「もし私が血の力に負けて、吸血衝動に駆られるようになったら、春日井君、あなたがとめて。ううん、他の人じゃ絶対いや」
月を背中に従えた森川はその輪郭を輝かせて、有無を言わせない美しさがある。だが、悲しそうな表情だ。きっと草薙のことを想像しているのだろう。俺は思わず息を飲んだ。だが、俺は心を強く奮い立たせた。
「できない」
俺は強く言って首を横に振った。
「生きる方法を考える。俺は森川を殺さない。いや、そういうことにならないようにする」
強く言う。確証等ない。単なる我侭かもしれない。うそになるかもしれない。
だが、森川は微笑んだ。俺の心のかけらを集め尽くした言葉に酔ってくれていた。うれしそうに。
俺は照れくさくなって歩き始めた。森川もそれを理解したんだろう、俺を追って歩き始めた。手が触れる。初めて、彼女の手を握る。
きんと冷め渡った空に月がただ一つあって、俺たちを見つめていた。
