何時の間にか外は雨が降り出していた。あたりは暗く静まりかえり、雨音だけがチューニングの合わないラジオのように一定の音を伝えてくる。
随分夜も更けていた。
俺は一人、一人では広すぎるリビングルームで苛立っていた。
俺の右手には携帯電話が握られている。
「ま、かけないわけにはいかないよな……」
俺は独り言をつぶやいて、沢渡に渡されたメモに書かれたダイアルを入力した。
そして意を決して通話ボタンを押す。
それほど大それた事ではないと俺自身も思うのだが、理性と感情という奴は常日頃から反目しあってあまり仲が良くないらしい。俺は無機質な呼び出し音の繰り返しに心臓が高鳴っているのを覚えた。
何度その呼び出し音が繰り返されただろう、結局相手は出なかった。
俺はひとつため息をついてその電話を切る。苛立ちと不安を消化できないまま、俺は苛立ちまぎれにその携帯をソファーに投げ飛ばした。
とたん、その携帯から軽快なメロディが流れ始めた。
俺は一瞬にして携帯に飛びついた。その動作ときたら、自分でも驚くぐらい機敏だっただろう。
草薙が着信に気付いてかけなおしてくれたのだろうか? 俺は慌てて携帯のディスプレイを覗き込んだ。
「……なんだ、千明かよ」
俺は肩落とした。だが、出ないわけにもいかないのでしぶしぶ通話ボタンを押した。
「もしもし」
「あ、もしもし。今さ、駅に着いたんだけど……」
千明の声が雑踏紛れに聞こえた。用件がわかっているだけにはっきり言って俺の心は夜の雨のごとくうっとうしく濁っている。
「あ、そう」
「なに? テンション低いね? もしかして寝てた?」
「いや、そうじゃないけど」
「悪いけど、迎えにきてくれないかな?」
媚びた声が受話器越しに聞こえる。俺のほほの筋肉がひくついたのはやはり理性のなせる業ではなく、感情の仕業だっただろう。
「……雨の日くらい、殺人鬼だってお休みだろうよ?」
「あはは、それがさー、傘忘れちゃって」
……俺は千明を迎えにいくことにした。
外の雨は思いのほか冷たかった。深く息を吐き出せばそれは白く濁った。雨のせいか最近の事件のせいか、駅前でも人通りは疎らで静寂に包まれている。
「これなら殺人鬼が出たっておかしくない雰囲気だな」
時計はまもなく今日二回目の十一を指そうとしている。
俺の家から駅までは歩いて十分足らずだった。
駅はさすがにまだ煌々と明かりをつけている。すでに人も少なくなった普通電車が発車していった。
「お兄ちゃん、さっすが」
駅に着くと明るい声が聞こえた。千明だった。
「たくっ、もうちょっと早く帰って来れないのかよ?」
「今日はたまたまじゃない。それに学校行事押し付けられちゃってさ、しょうがないでしょ」
俺は傘を千明に渡して毒づくと千明は唇を尖らして反論した。
その日常的な会話が、俺の中の緊張をほぐしてくれた。昨日、草薙と会ってから、俺は何かしら考えっぱなしだった。俺は急に空腹感に襲われた。そういえば、夕方にあの場所へ行ってから急激に食欲を失い、そのまま家に帰ってしまったのだった。
「コンビニ、寄らないか? 俺は何も食ってなかった」
俺は駅に隣接しているコンビニを指差した。
「え? 私食べてきちゃったよ? 待ってたの?」
「そういう訳じゃないんだけどさ」
「帰って何か作ろうか?」
「おまえ寝るの遅くなっちゃうだろ? いいよコンビニで」
俺は笑ってコンビニへ入った。
昨日の夢の事は忘れよう。もし、俺が夢遊病者で夜な夜な殺人を重ねているならば、同居人の千明が気付かないわけがない。それに、八人もの犠牲者が出ていて、夢を見たのは昨日の夜だけ。偶然に違いない。そう、昨日の夜の夢が、特別だっただけで。
雨にぬれた街はさらに気温を奪っていた。千明は学校の制服のままだったし、俺もトレーナーにパーカーを羽織っただけだったら、その外気はあまりに厳しかった。
俺たちは足早に人気がいなくなった街を進んだ。
俺が先に立ち、千明が後を追っていた。
と、後ろの足音が消える。
「千明?」
俺は振り返った。千明は俺から数歩離れた場所で立ちすくんでいた。
その顔は真っ青だ。
「どうした千明?」
俺は千明に歩み寄った。千明の目は涙に潤んでいた。体中を震わせ、右手に持った傘は今にも零れ落ちそうだった。
「いや、何……それ……」
千明の視線は俺のほうを向いている。だが視線の焦点は俺ではない。
「千明、過去を見てるのか?」
千明は過去視の能力がある。俺が突発的に未来のことを見ることがあるように、千明には過去を見ることがあった。
徐々に千明の焦点が俺に合っていく。
「千明、何を見た?」
「紅い目をした……女の子がものすごい目で睨みつけてるの、誰かを……後姿でよく分からないけど……」
「紅い目?」
「すごい目、よく分からないけど、人殺しの目ってあんな目をしてるって……」
千明は膝の力を失って倒れこもうとした。俺は慌てて妹を支えた。千明が持っていた水色の傘が歩道に転がってひっくり返った。
「おい千明!」
俺は叫んだ。だが、それと同時にすぐ脇の路地から足音が聞こえた。コンクリートと水溜りを踏む、不規則な足音。それが左右のビルに反響して俺たちの耳に届いてくる。
俺はその路地の闇を凝視した。
千明もその方向を見て固まっている。バランスを崩したときにつかんだ俺の左肩に力がこもるのを感じた。
足音は近づく。
やがてそれは街頭の光の届く範囲まで進んできた。
それは一人の少女だった。この冷たい雨の中傘も差さず、その少女は長い黒髪から足の先までずぶぬれになって現れた。ぞくりとする妖しさ。
俺と千明は思わず半歩引いた。
その少女は白い息を吐きながら俺たちのほうを直視した。
紅い目ではなかった。むしろ澄んだ黒い瞳で睨みつけるというよりは、まるで感情がないような瞳で俺たちの方を見つめた。雨でぬれていたが、綺麗な女の子だった。夜の蒼のせいかまるで白と言ったほうが正しいような肌。端正な顔立ちだった。特に形のいい黒い眉が印象的だった。雨にぬれたセーラー服が体のラインをはっきりさせていて、そのスタイルのよさが伺えた。
だが、その美しさゆえと能面のような無表情さがまるで幽霊のような印象を受けた。
彼女はゆっくりと視線を俺たちからはずすと、俺たちがきた方向へ歩き始めた。
俺たちはただ闇に消えていく彼女の姿を見送るだけで、一言も声を出す事ができなかった。
彼女が視界から消えてしばらくして、俺は思い出したかのようにつぶやいた。
「あれ、千明の学校の制服だよな」
「……うん」
数瞬、遅れて千明が答えた。
ひっくり返った千明の傘に雨水がたまり始めていた。
雨は日付が変わっても降り止まなかった。
俺は雨音に眠れない苛立ちを重ねてベッドの上で寝返りをうった。枕もとの目覚まし時計が視界に入った。午前二時三十分。いつもならとっくに寝付いている時間だ。しかし、俺の頭はいろいろな思考が駆け巡り、いつまでたっても寝付けない。
その中で一番眠れない原因はやはり昨日の夢だった。
もしかしたらまたあの夢を見るかもしれない。
自分が他人の命を奪うという恐怖。
それを強烈に味わう事あの夢は二度と見たくはない。その恐怖が俺の脳裏から離れずにいる。普通の夢ならすぐに忘れる事ができる。だけど、昨日の夢だけは『感触』がリアルすぎた。その恐怖が眠れない苛立ちに変換される。
俺は仕方なくベッドから降りて、台所へ向かった。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、マグカップへ注ぐ。そしてそれをレンジへ入れてタイマをまわした。
ホットミルクでも飲んで無理にでも寝てしまおうと最終手段に出たのだ。
ドアが軋む音が聞こえた。
ひたひたと素足がフローリングに触れ合う音が続いて聞こえた。
「千明。まだ起きてたのか」
それは無論千明であった。寝巻き姿のまま、千明はずっと俺のほうを見つめてくる。台所は常夜灯の明かりしかないが、それでも千明はまるで泣き出しそうな顔でいた。
「どうした千明?」
俺が呼びかけると、千明は足早に近づいてきて俺の胸に抱きついた。
千明は震えていた。
「お兄ちゃん、何処にも行かないで」
「え?」
「あの紅い目、きっと連続殺人の犯人なんだ……そいつ、お兄ちゃんの学校の制服、着てた……」
ぞくりとする。もし千明の言う事が本当ならば学校内に殺人鬼がいるという事になる。が、それはあまりにとんでもない話ではないか。
「ねえお願い! お兄ちゃんは何処にも行かないよね。千明を置いて行かないよね」
千明がナーバスになっているのは、母さんがドイツに行っているからではない。
千明はきわめて直線的な性格だ。物事をストレートに口にするその性格が災いして友達付き合いは下手だった。特に女子との間はあまり良くなかったようだった。その代わり、千明には他の誰でもない『親友』がいた。もしかすると兄の俺よりもその親友を信頼していたかもしれない。栗原奈美。千明が中学で出会った親友。
だが、彼女は去年の秋、交通事故で亡くなっていた。
それを知った時の千明の顔は今でも鮮明に覚えている。
人はあまりに悲しいとき無表情になるものだ。
その後、千明の精神は酷く不安定になった。自立心が強く、割と強気な面のある千明だったが、栗原を失った後、時折不意に崩れるように泣くようになった。
それから千明は勉強に打ち込んだ。病的なまでに机に向かっていた。失ったものを埋めるのではない、忘れ去れる為に。その姿はあまりに痛々しかった。千明は失う事を過敏に恐れるようになった。それでともと頭は良かった千明は都内の名門私立フェイノール学院に合格することとなったが、千明はさして嬉しそうでもなかった……
千明にとって兄である俺はこの上なく大切なものだろう。普段の生活の中でつい忘れてしまうことだが、もし逆に千明が不意にいなくなったとすれば、俺はその穴を埋める事ができるだろうか?
「ばーか。俺が何処へ行くんだよ?」
俺は悟られるほど無理に明るい声を出して千明の髪を乱暴になでた。ストレートで素直な髪がさらさらと流れた。
「千明、ホットミルク。飲んで無理にでも寝とけ。明日つらいぞ」
俺は暖め終えたホットミルクのマグカップを差し出した。千明は俺の顔をしばらく眺めていたが、左手で涙を拭きながら俺のマグカップを受け取って微笑んだ。
「ごめん……どうかしてた」
俺は肩をすくめた。千明は栗原を失った事を引きずっているわけではない。ただ、少しだけ他の人間より「失う事」の怖さを知っているだけだ。
