「おはよう、随分不機嫌そうな顔してるね、裕也」
朝から随分陽気な声の主は沢渡だ。沢渡と知り合ってもう十年来だがこの元気娘が不調を訴えた事は一度もないような気がする。
「不機嫌じゃなくて寝不足なの」
俺はぶっきらぼうに答えてあくびをした。
「裕さん、ひょっとして夢を見るのが怖くて寝れなかったとか?」
そこに割って入ってきたのが小田桐だ。そういえば、一昨日の晩の夢の事を小田桐に相談していた。確かにその夢の事も気になったが、草薙の事、千明の見た過去などもいろいろ混ざって昨日は眠りが浅かった。
「あ、オタク君、おはよ。何、夢って?」
「裕さん、怖い夢を見て寝れないんだってさ」
「おまえね、誤解を呼ぶような発言するな」
小田桐は屈託なく笑う。この笑顔がまた綺麗な笑顔でこれがまた女子からすればたまらないんだろうと思う。
小田桐は俺に一言断りを入れてから、沢渡に俺の見た夢を手短に説明した。俺も別に他人に知られて恥ずかしいような夢の話ではないわけで、拒否するつもりもなかった。もっともそれを沢渡が信じるかどうかは別として。
「ふーん、でもさ、それって予知夢ってヤツじゃない?」
沢渡はさらりと言った。彼女にとっては軽い冗談のつもりだったのだろう、だが、俺はどきりとした。そう、俺は未来を見るという特別な力を持っている。沢渡が冗談で言った事も俺にとっては冗談ではなかった。
「それよりさ、裕也、真奈美に電話した?」
もっとどきりする事を言う。草薙の事はまだ誰にも知られなくない事だった。
「何々? 真奈美って草薙真奈美?」
案の定、小田桐が首を突っ込んでくる。ひとつため息をついて沢渡を睨む。沢渡のほうも実は言ってしまってから後悔してたようで、かなりばつの悪そうな顔をしていたが、見事に開き直った。
「いーじゃん、いずれ分かる事だしさ、でどうだったの?」
「……したよ、電話。けどな、あいつ出なかったぜ?」
「出ないー? うーん、何してんのかなあ、真奈美……」
沢渡はあきれたような顔で考え込んだ。
「というか、草薙、来てないのか? 今日も?」
「そうなんだよね、今のとこ、見てない」
「そっか」
と、会話を止めて二人して考えこんでいるとき、俺の視線に妙ににやけた小田桐の顔が飛び込んできた。
「な、なんだよ」
小田桐は満足そうに何度も頷くと俺の肩を軽く叩いた。
「いや、ようやく裕さんにもなあ」
と毒のない顔で笑う。まったくこの男にはかなわない、という笑顔だ。俺は苦笑いをした。
「実はいい情報仕入れてきたんだけどな、これじゃ意味なかったかもなあ」
「いい情報?」
沢渡が突っ込んだ。基本的に彼女はウワサ好きだ。
「転校生が来るんだって。しかもあの名門フェイノール学院からだぜ。しかもすごい美人だ。ちらっと見ただけだけどな」
小田桐のことだから、近隣の女子高の制服ぐらい頭の中に入っているのだろう。しかもアイドルオタクでもある小田桐は面食いである事は間違いないし、その彼が言うのだから相当美人であることは間違いないだろう。
「ほら、裕さんの席の後ろ空いてるだろ? コレは……と思ったんだけどなぁ。そうか、草薙とヨロシクやってるなら、別にどうでも良かったかな」
「だからなあ、俺は草薙とはまだ……」
俺が反論している間にホームルームのチャイムが鳴った。結局二人は含み笑いをしながら自分の席へ戻っていく。俺は不満顔で彼らを見送った。
正直な所、この日常的な二人の空間に俺は助けられた。実は今朝から俺は気が滅入っていた。実は学校へ出る直前、ひと騒動あったのである。
俺は浅い眠りから目覚めた後、強烈な空腹感に襲われた。そう、まるであの夢の時のような飢えだ。リビングから香ばしい香りが漂っていた。昨日、遅くまで寝付けなかった千明は朝食をトーストにしていたのだ。
すでに俺の分も用意されていたらしく、真っ赤なストロベリージャムが塗られていた。
赤い。紅い。その血肉を髣髴させる色に俺は思わず嘔吐した。もちろん、朝起き抜けで胃に何も入っていなかったから、わずかにすっぱいものが口にこみ上げただけに終わったが。
結局俺は朝食を取らなかった。顔色の悪い俺を心配して千明が学校を休むといってきかなったが、結局は無理やりに送り出した。
体調うんぬんよりも気分が悪かった俺は、このまま一人部屋に残っても気が滅入るだけだと思い、重い足取りで学校へ向かった。
俺が何故ストロベリージャムからそんな不気味なものを想像できたか。それは俺の空腹の原因、俺が求めていたものがそれだったからである。
だが、それを認めてしまっては、俺は俺でいることができるかどいうかという問いに自信を持って答える事ができなくなってしまうからだった。
ホームルームが始まって担任の教師が矢継ぎ早に連絡事項をしゃべっている。いつもならもっとゆっくりに話すものだが、今日はなんとなく慌しい。小田桐の情報は正しかったのだろう。
「今日は突然だが、転校生を紹介する」
先生は廊下に向かって歩き、ドアを開けた。そこにはセーラー服の女子が一人いた。うちの学校の制服はブレザーなので、一人セーラー服だとやたらと目立つ。それが美しい黒髪のストレートロングで、凛とした端正な顔つきの美少女なのだからなおさらだ。教室中がざわめいた。
わざとらしく先生が咳払いをする。
「森川恵理です。よろしくお願いします」
大きくもなく、小さくもない声で彼女は言った。フェイノール学院はお嬢様学校として通っている。千明は学校の事をしゃべる事は少ないが、情操教育などもしっかりしているのだろう。少し長身の転校生は教室中の視線を集めてもひるむ事はなかった。
俺は彼女の顔をよくみて驚いた。
昨夜、あの路地から出てきた少女だったのだ。あの時は雨にぬれていたが、整った顔、特に眉の美しさは明らかに彼女のものだ。
俺は彼女の顔をまじまじと見つめた。
「おい、春日井」
「え? は、はい」
「おまえの後ろ、一個席空いてるだろ。そこにするからな。あと分からない事だらけだろうから、面倒見てやってくれないか?」
引き受けざるをえないようなこういう時、自分の面倒見の良さが嫌になる。今は自分の事で精一杯のはずなのに、他人の厄介ごとを引き受けてしまう。
「裕也はいい奴だよね」
沢渡がすぐそばならそう皮肉った事だろう。
「よろしく」
気付くと森川は俺のすぐ隣まで来ていた。近くで見ると本当に綺麗な顔立ちだ。彼女に見合う男となれば俺は小田桐くらいしか知らない。もちろん、ルックスのみでの話だが。
俺は何か言葉を返そうとして緊張で何も答えられず、ただ頷いた。
冷たい奴だと印象を与えたかもしれない。森川は特に表情を変えず、俺のすぐ後ろの席に着いた。黒髪がなびいてまるで幻が消えるかのようだった。
休み時間、教室はいつも以上にざわめいている。それは転校生森川恵理のせいだ。いや、彼女自身が騒いでいるわけではない。彼女を取り巻く生徒たちがよってたかって質問攻めをしている。
「やれやれ、ミーハーな事だぜ。おかげで俺は楽してるけどな」
俺は小田桐の席に来ていた。俺の席は転校生美少女を取りかこむ記者どもに占領されてとんでもない人だかりだ。普段は同じような目にあっている小田桐は半ばあきれ、半ば同情した視線を向けながらため息をついていた。
「でもさー。この時期に転校なんてねぇ?」
沢渡が俺たちによってきた。確かに、後二週間もすれば期末テストだ。後一ヶ月で冬休み。この時期に転校はちょっと珍しかった。
「裕さん、女難の相が出てないか? 草薙も来てないしさ」
小田桐がからかうように笑う。
「それにしても、真奈美どうしたんだろ? あの子が休むなんて事あった?」
俺は草薙とクラスが一緒になったのは初めてだった。四月から記憶をさかのぼるが、俺の記憶の限り、活発だった彼女が休んだことは無いように思う。
俺は二人の顔を見た。二人とも俺と同じことを考えていたのだろう。少し不安の入り混じった真剣な顔をしていた。
午後にもなると転校生騒ぎは随分収まっていた。
森川恵理はその存在感はともかく、人としての反応はあまりにもそっけない感じのする人物だったからである。
たとえ二重三重に取り囲まれて、次から次へと質問を投げかけられても動じる様子もなかったし、質問には一つ一つ律儀に答えていた。ただ、その答え方にも、笑いを取ろうとか冗談めかそうとかいう要素は何一つなく、明確な答えだけを述べ、むしろ表情すら変えることもない。
それを神秘的だと喜ぶ男子も若干名いたことにはいたが、あまりに冷たすぎるその反応に早くもクラスメートは飽き始めていたか、その雰囲気に近寄りづらさを感じていたのか、人だかりはなくなっていった。
放課後、俺は帰り支度をして昇降口まで歩いてきた。
そこにある自販機でパックの飲み物を買うセーラー服の女子生徒に出くわした。もちろん、森川である。その彼女と視線が合ってしまった。
彼女はじっと俺の顔を見てくる。俺は何もなければその場を立ち去るつもりでいたが、目を合わせたたまま、立ち去るというのも気まずいものだ。
「アレだけしゃべらされちゃ、さすがに喉も渇くよね。でもちょっとほっとしたな、なんだか森川さん、人間らしくないから」
俺は笑いながらいったが、ちょっと失礼な事を言ってしまった。森川はじっと俺の顔を見てくる。端整な顔立ちゆえか、それが冷ややかな視線に感じてしまう。
「春日井君。ちょっと教えてほしいことがあるんだけど、いいかな?」
それはクラスでみんなの質問に答えていたときのような無機質な声ではなく、少しだけだが微妙に遠慮というか不安定さがあった。
俺に断る理由がなかった。
