放課後の運動場は喧騒に満ち溢れている。俺は森川と共にサッカーコートの近くの木陰に来ていた。練習熱心なサッカー部はすでに練習をはじめていて、ミニゲームでもやっているようだった。
「今日、クラスで休んでいる人、いたでしょう?」
森川が問い掛けてきた。森川は今日この学校に来たばかりだ。俺は怪訝そうに彼女の顔を見た。
「前のほうに空席がひとつあったの、気になって」
「ああ、草薙真奈美って女子だよ。それが何か?」
俺が答えると、森川はやや困ったような表情で何かを切り出せないような顔でいた。それは今日一日教室で見ることができた彼女の姿とはまったく正反対で俺はどきりとした。
だが、彼女が何故今日の欠席者を気にして悩むような事をしなければならないとか、俺にはさっぱり分からない。俺は怪訝そうな顔をしていたのだろう。森川はその端正な顔を少し崩して苦笑した。
「草薙さんとは顔見知りかもしれないの。だからちょっと気になって」
「かもしれない?」
「うん、勘違いなのかもしれないけど」
なるほど、それならわからない話でもない。
「草薙さん、休んでるのって今日だけ?」
「……いや、昨日も休んでるな」
「そう……最後に会ったのは?」
「一昨日の夕方かな? 何でそんなこと聞くんだ?」
森川は少しだけ困ったような顔をした。表情の変化が少ない女だ。俺はそう思った。
と、その瞬間俺のこめかみのあたりに違和感を感じた。少しだけ視界がぼやける。これは前兆だ。俺の未来視の……
俺はとっさに体を動かした。俺は何か丸くて大きいものが飛んでくるのを見たからだ。俺の未来視のビジョンはこの程度のものだが、それでも俺は俺から見えるはずのない場所から飛んでくるものにわざわざ当たりに行くことができた。もし、俺が動かなかったらそれは俺に当たる事はなかっただろう。俺がその場所へ移動したのは、その延長線上に森川がいたからである。
「いてっ」
丁度俺の腰のあたりに結構な重さのボールが当たった。サッカーボールだ。おそらくミニゲームをしているサッカー部がシュートでもして大はずれしたのだろう。
「すみませーん」
玉拾いをしている一年生らしい男子が頭を下げながら走ってきた。
俺はボールを拾い上げると彼にボールを投げてやった。
「で、えーと、なんだっけ?」
俺は気を取り直して森川に向き直った。
森川は驚いた表情で俺の顔見ていた。
「どうしてボールが来るの分かったの?」
「……偶然じゃないかな? ボールが俺に当たってきたんだよ」
「違う、春日井君、あなたはボールに当たりにいったわ」
俺は頭を掻いた。俺の能力は他人には知られたくないことだった。トラウマってやつはあまり人にべらべらしゃべるものじゃない。
俺が気まずそうに黙っていると、森川は小さくため息をついたようだった。
「ありがとう、春日井君」
「え?」
「私が聞きたかったのは草薙さんの事だけだから……それじゃ」
森川はすばやくお辞儀をするときびすを返して歩き出した。決して慌てているようでもないのに彼女の足取りは颯爽としていて速い。
俺は彼女の後姿を見送った。
「えへへ、見たよ裕也。モテモテじゃん」
突然肩をつかまれて背後から声がした。
「沢渡、湧いて出るな」
声の主は聞きなれた声だったので俺は少し驚くだけですんだ。俺が振り返ると予想通り声の主は沢渡だった。
「あのねえ、人を虫みたいに言わないでよ」
沢渡は不満顔だった。もともと幼く見える彼女だが、むくれてほほを膨らませていると中学生もいいとこだ。
「言っちゃうぞ。真奈美に。でも森川さんも森川さんよね。転校初日じゃない」
「あのなあ、沢渡。今してた話は全然そんな話じゃないぞ」
「え、そうなの?」
「森川さん、草薙の事を聞いてたぞ。顔見知りなのかもしれない、だって」
「なーんだ、つまんない」
「おまえね、第一俺と森川さんじゃつりあわないよ」
俺はため息をついた。だが、沢渡の表情は不満顔のままだ。
「それって、森川さんが美人だから? それ、真奈美に失礼じゃない?」
沢渡の言いたいことは分かる気がする。沢渡は俺の中で草薙が森川に劣るのかと責めているのだ。女の子としては自分が付き合っている女が一番であって欲しいのだろう。それはわかる気がする。だけど、俺はまだ草薙と正式に付き合っているわけじゃない。まあ、それも沢渡にとっては不満なんだろう。それは口にしないことにした。
「たく、裕也はオタク君と一緒にいるから目立たないけどさ、結構もてるんだぞ」
「え?」
「ってそういうことを自覚してないのが頭来るよね。私だってさあ……その、裕也のことちょっとは……いいなって、思ってみることだってあるんだから」
沢渡の口調にいつものような歯切れのよさがない。
「おいおい、あんまりからかうなよ」
俺は苦笑いをして沢渡の顔を覗き込んだ。
何か反撃をもらうと思っていた俺だが、彼女の反応はいつもと違って俺はどきりとした。沢渡は紅い顔をしてそっぽを向いたまま、大きい瞳をわずかにうるませていた。
「おい、沢渡?」
「あー、私部活あるからさ、またね、裕也」
と、沢渡はもう俺と視線を合わさず空手部の練習場がある体育館へと走り出した。
明日はもう土曜日である。俺たちの通う瑞穂高校は私立の為、隔週で土曜日も休みになる。とはいっても、全体の単位数、つまり授業数は通常の公立高校と変わらないので損得はない。が、千明の通うフェイノール学院は毎週土曜にも授業があるので妙に得した気分になる。そして明日はその休みの土曜日である。
午前一時五分千明は明日も早い為もう寝ている。
俺も昨日ろくに眠れなかった事を思い出すと、急激に眠気を感じて、自分の部屋に入った。暖房の効いていたリビングから自室に入ると思いのほか冷え切っている。
俺は悪寒を感じた。
「随分冷えてきたな」
俺は身震いをするとベッドの中へともぐりこんだ。
あっという間に俺を睡魔が襲う。ゆっくりと目を閉じると意識は闇へと沈んだ。
俺は歯軋りをした。奴だ。奴がいなければ食事にありつけたはずだった。奴が現れてからと言うものの、まともに食事ができた試しはない。今日も獲物を取り逃がした。
俺はビルの壁を叩いた。コンクリートの壁がひび割れてその中心がへこむ。この力を持ってすれば、奴など一撃で殺せる。そうすれば奴を食らってやってもいい。だが、奴はあざ笑うかのように俺の攻撃をすり抜ける。
俺はがくりと膝をついた。エネルギーが足りない。俺の体はエネルギーを求めているのに関わらず獲物を取り逃がしているからだ。
と、足音が聞こえる。軽い足音だ。女のものだ。
俺は路地に身を潜めた。
女は俺に気付かず足早に通り過ぎる。
俺は辺りを確認する。奴はいない。俺は一瞬にして女の背後へ迫った。女が気付こうが気付くまいが関係はない。抵抗する間すら与えずに狩れるからだ。俺の眼前に無防備な女の首が迫った。
「うあっ……」
俺は毛布を跳ね上げて荒い息をついた。
蒼い深夜が部屋を包んでいる。俺の部屋だ。
俺は顔中を汗まみれにしていた。汗が顎を伝って定期的に落ちる。息は荒いままだ。喉は焼け付くように渇き、胸は燃えるように熱い。息は上がり、心臓はフル稼働している。
気が狂いそうになるような飢えに俺は喉元をかきむしった。
「くそっ」
俺は罪もない枕を投げつけると部屋を出た。
リビングを少し歩き、千明の部屋を開ける。
小奇麗に片付いた千明の部屋だ。俺はよろけるようにその部屋へ入った。
ベッドでは千明が静かな寝息を立てている。少しはだけたそのパジャマの襟元から覗く白い首筋は、俺が今まさに狩ろうとしていた女の首筋によく似ていた。
俺はかさかさに乾いた唇を震わせ、喉を鳴らした。
その白くやわらかい首筋に牙を立て、その血を吸えばこの飢えは収まる。欲望のままに喰らえば至福が得られる。
俺は笑った。獲物はたやすくここにいるではないか。
と、俺は軽い頭痛を感じた。それは頭全体を覆うようなものではなく、後頭部の一部分だけがほんの少し針を刺したように痛む。
それが、引き金だった。
俺が、千明の血を飲む?
俺が、千明を殺す?
その針のような傷みはその疑問だった。
それはあっという間に俺の頭全体に広がりきり、耐えがたい頭痛に襲われた。
「うぐ……あっ」
俺は頭を抱えて壁にもたれかかった。割れるような痛みが絶え間なく俺を襲う。汗は高ぶっていた先ほどの汗とは違う、脂汗のようなぎとぎとしたものに変わった。頭痛は治まるどころか波打つように徐々に強くなっていく。
視界がぼやけて意識が遠くなる。
ここは千明の部屋だ。ここで倒れるわけにはいかない。
俺は壁に寄りかかり、崩れる膝を必死で立ててリビングへ出た。指先まで汗に塗れたその手で何とかドアを閉める。
その場で俺はしゃがみこみ、荒く息をした。
今度は自分の部屋に戻らなければならない。俺はもはや立ち上がることもできなかったから、はいずるように自分の部屋へ入った。
視界は蒼い靄がかかり、頭の中心が軋む。俺は激しく髪をかきむしりながらベッドへと戻った。意識が保てるような状態ではない。嫌な汗の感触だけが妙に鋭く伝わってくる。だがそれさえも、まもなく朧のように消えた。
