深まった秋の空は何処までも蒼だ。空の境界は地上とそれだけで後は何もさえぎる事のない蒼。白銀の太陽はひとつ空に浮かんでいて蒼との見事なグラデーションを描く。そこには不思議なことに何一つ境界線などない。
俺は公園で空を見上げていた。
小春日和という言葉のためにあるような陽気だ。公園は午前中であるに関わらず、雑踏があふれて少しだけにぎやかだ。それでも街の喧騒よりは俺はこの公園のような静かな空間のほうが好みだ。
「気が、狂いそうだ」
俺は誰にも聞こえない低い声でつぶやいた。公園のベンチから見上げる空と裏腹に俺の心はひどく沈んでいる。
昨夜、俺は実の妹を襲うところだった。あの頭痛がなければ俺は千明の首筋に噛み付き、その鮮血をすすり上げ殺しただろう。いや、あの頭痛の中で俺はそれでも千明の血を飲みたいと思っていた。
朝起きると、俺には昨夜のような衝動は消えていた。
だが、俺は、俺が思っているとおりの殺人鬼なのだろうか。あれは夢ではない。起きて荒れた俺の部屋を見たとき、そう確信した。
俺はすでに学校へ行った千明のいない部屋で朝食を取った。朝のワイドショーのレポーターが俺の街で起きている連続殺人事件を必要以上に悲しそうな表情で伝える。
俺は千明に悪いと思ったが、気分が悪くなって朝食を残したまま街に逃げ出した。
太陽は随分高くなっていた。
突然、俺の座っていたベンチが軋んだ音を立てた。勢いよくベンチに座ったのだ。俺は驚いて視線を空から地上へ戻した。境界線を越えて。
「沢渡」
ベンチに座った人物は沢渡陽子だった。
「裕也何してんの? ボケーっと空なんか見ちゃってさ」
沢渡はジーパンにトレーナーといった普段着でアクティブな彼女の性格が服装にも出ていた。
「そういうおまえこそ?」
「私はバイトの帰り」
この公園は街の中心である繁華街と住宅街を分断するようにある大きな公園だ。沢渡の家はその他多数と同じで住宅街に家族と共に住んでいる。ちなみに俺はその逆で駅に近い繁華街のマンションに千明と住んでいるわけだ。
もちろん、まともに道を歩いていくよりも公園を突っ切るほうがはるかに早い。
「最近夜物騒だから、バイト早番にしてもらってるんだ。休みの日はね」
沢渡はこの空のように陽気な笑顔で言った。すぐ表情が変わるところなど秋の空とそっくりだ。
「ふうん」
俺は曖昧な返事で相槌をした。
「裕也なんかあった? 悩み事?」
「え?」
「これでもさ、おばさんと千明ちゃんの次に裕也と付き合い長いんだ。分かるよ」
昨日、沢渡が言い残した言葉がよみがえる。俺はしどろもどろとした。
「相談に乗るよ? 場合によってはグチでもオッケー」
沢渡は俺が悩んでいる事が馬鹿みたいに思えるくらいの笑顔だった。俺もつられて苦笑いを浮かべる。
「もし、俺が街で起こっている連続殺人事件の犯人で、吸血鬼だったらどうする?」
俺はさらりと言った。あまりにさらりと言い過ぎたのか、すぐに沢渡からの反応がなかった。見ると沢渡は大きな目をさらに一回り大きくして驚いていた。
「何、それ?」
沢渡は小さな声で言った。まさかこんな事を真に受けるとは思えないが。
「……裕也大丈夫?」
沢渡は手を俺の額に乗せて、心配そうに覗き込んだ。もちろん、これは彼女の演技だ。
「裕也が連続殺人犯? あの太陽が落ちてきたってありえないね。裕也は人を殺すくらいなら殺されるほうがマシだって考える人間じゃない? 私はそう思うよ」
そう言いながら沢渡は腹を抱えて笑い始めた。俺の言った事はそれほどまでに彼女から考えると突拍子もないことだったんだろう。
いや、むしろ妙な考えに至っている俺はどちらにしてもおかしいのだろう。
「それにさ、吸血鬼ならこんないい天気に日向ぼっこする?」
沢渡の笑いは止まらない。しかし沢渡の言う事はもっともだ。俺もつられて笑いがこみ上げ、我慢できなかった。
二人してしばらく笑った後、沢渡が提案をした。
「これから真奈美の家に行く予定だったんだ。アポは取ってないけどね。休み続いてるし、もし病気とかだったら心配でしょ? 裕也も行く?」
沢渡の質問は質問ではなく強制のような声だった。ここで首を横に振ろうものなら、マシンガンのように文句が降り注ぐに違いない。俺は特に予定もなかったし、正直草薙の事も気になる。俺は素直に頷いた。
草薙の家は公園からさして遠くない住宅街の一角にあった。良くある住宅地の一軒屋で特に特徴もないからよく道を覚えておかないと迷いそうだ。
沢渡はインターホンのボタンを押す。草薙の家はカーテンやら雨戸やらで中の様子はわからない。最近は物騒だからその辺りは常識的なことかもしれないが。
しばらく時間が経ち、何の反応も返ってこない。沢渡はもう一度インターホンを鳴らしたがやはり反応はなかった。
「留守、かな?」
沢渡が小首をかしげた。
「学校休んでるのに?」
「うーん、家の人とかもいないのかなぁ?」
二人して沈黙する。
「まさか入院とかないよね?」
「まさかね。それにもし入院とかなら、学校に連絡があって先生が言うんじゃないか?」
「だよね」
俺と沢渡は同時にため息をついた。
大げさな言い方をすれば草薙は消息不明って奴だ。
「ま、今夜にでも電話しとくよ……それじゃ、私は帰るけど?」
「ああ、俺も帰るよ。気も晴れたしな」
「なーんだ、やっぱ沈んでたの?」
「ちょっとな」
「……ね、裕也」
「ん?」
俺は沢渡に背を向けて歩き出そうというところで止められた。
振り返ると何時になく真剣な眼差しの沢渡が俺を見上げていた。
「私ら友達だよね。それも何年もの。相談したい事とかあったら言ってよね」
友達か。俺は微笑んだ。いや、意思ではない。笑みがこぼれたと言うべきだった。
「ああ、そん時はよろしく頼むよ」
平穏な土曜の午後は過ぎていく。午後を過ぎてすぐに千明の帰宅があり、あとは何もない日常だ。ここのところいろいろありすぎて参っていたのかもしれない。千明は昨夜の事は何も覚えていないようだった。まあ、ぐっすり眠っていたようだから仕方がないが。
夕食を終え、夜も深まった頃に携帯が鳴る。
俺は携帯の表示を見て固まった。
『草薙真奈美』
一昨日登録したばかりの番号だ。そして、俺に告白をして以来ぱったりと姿を消した草薙。
俺は慌てて通話ボタンを押した。
「……春日井君?」
携帯からはクリアな音で草薙の声が聞こえた。
「草薙か? 何で……じゃない。何処にいるんだ? 今までどうしてたんだ? 俺……」
「質問が多いよ。まあそれだけ心配してくれてた、ってことかな? うれしいなあ」
ひとまず元気そうな草薙の声に俺は安心して緊張をほぐした。
「今さ、私学校に居るんだけど……」
「学校?」
時計の針を見る。時計は十時三十分を回ったところだ。もちろん、午後。
「そんな時間に、学校で何やってんだよ? 一人か?」
ただでさえ、女の子の深夜歩きは危険だ。さらにこの街は最近物騒になっている。
「一人。だからさ、春日井君、今から学校にこれない?」
「え?」
「ワガママは分かってるよ、でも来てほしいんだ。今すぐ」
草薙の声は強くはなかった。だが何か有無を言わせない深刻さがあった。俺はしばらく無言で考えた。答えは決まっているはずなのに、俺は即答を避けた。何故そうしたのか聞かれても答えれないが。
「わかった。待ってろ」
「うん」
草薙のうれしそうな声が聞こえて電話が切れた。
俺は部屋を飛び出してリビングに出た。
千明がテレビドラマをいつものように見ている。
「悪い、俺今から出かけるから」
「今から? って何処に?」
千明が驚いて振り返った。あまりに驚いたからか声が裏返っている。
「あのねぇ。物騒だから人には早く帰って来いってうるさいくせに」
「友達が一人で学校に居るんだ。ほっとけないだろ?」
「学校? こんな時間になんで?」
「わかんね。すぐ帰るから」
俺は玄関のドアを開けようとした。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
千明が慌しくはしって、コートを持ってきた。
「せめてこれ着てきなよ。寒いよ、今日」
「……サンキュ」
「ったく、彼女からの呼び出し? 不良!」
千明の憎まれ口に感謝しながら俺は部屋を出た。
俺のマンションから学校までは走れば十分とかからない。俺は冷え切った夜の町を駆けた。何時の間にか雲が張り出し星は見えなかった。昼間の快晴はまるで嘘のようだ。
吐き出した息が白くなって後ろに流れていく。こんな寒い夜に草薙は学校なんかで何をやっているのだろう。いや、今まで姿を見せなかったのは何故なのか、今まで何をしていたのか。とにかく知りたかった。
校門につく。学校は少し街からはずれた場所にあって深夜にはこの辺りはほぼ無人だ。しんと静まり返った夜の校庭は青白い明かりに照らされてなんとなく不気味だ。
校門はさすがにしまっていたが、それを乗り越えるくらいはわけはない。
しかしこの広い敷地内の何処に居るというのだろう? 俺は少し戸惑って登校時と同じように昇降口へ向かった。
草薙は俺の行動を呼んでいたのかもしれない。
夜のライトアップに照らし出され、長い影をアスファルトに落とした蒼いクラスメートはそこで俺を待っていた……
