しんと静まり返った校庭と微動だにしない草薙とその影。まるで時間が止まった写真のように。俺はその世界に無理に入っていくように足音を奏でた。するとその止まっていた時間はあっさりと崩れ落ちる。ハーフコート姿の草薙が笑った。
「やあ、来たねー」
何も力の入ってない言葉。いつも教室で聞いていたような声。
何日も姿を見せなかったり、誰も居ない深夜の学校という場所というだけでまったく別の印象を受けてしまう。
俺はいったいどういう表情をしただろう。草薙の姿を見て安心し、そして心配し、そして怒りを浮かべたりもした。
「ごめんね」
草薙が悲しそうにつぶやいた。おそらく俺は心配から怒りにかけた表情をしていたのだろう。冷たい空気が顔にぴりぴりとした。
「草薙……いったいどうしたんだよ?」
それは疑問。告白されてから今までという空白の時間。そして今現在、この場所に居るという事。
「うん、そうね。それを話さなきゃいけないから、春日井君を呼んだんだったね」
草薙は悲しそうに笑った。空を見上げる。その視線は遠くこのどんよりと曇った雲まで届きそうだった。彼女の心情がこの空に映し出されているのか。
「春日井君、今街でで連続殺人事件が起こっているの知ってる?」
その事件をこの街で知らない人なんているんだろうか。怪訝そうに俺は頷いた。
「春日井君はその連続殺人犯が憎い?」
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「いいから」
「わからないな、正直。身勝手な言い方かもしれないけど、殺されてる人は見ず知らずの人たちだし、たまたま近所で起こっているだけでさ……知り合いでもないのに悲しいとか、憎いとかそう言うのは感じないな」
俺が少し生真面目すぎる答えを返すと、草薙は少し目を細めて微笑んだ。納得したような安心したような。
草薙はゆっくりと俺に向かって歩いてきた。柔らかな表情。少しだけ紅い光をはらんだきれいな瞳と視線が合う。まるで吸い込まれそうな錯覚すら覚えるように彼女の顔が近づいてくる。
草薙がそのきれいな額を俺の胸につけた。俺はどきりとして顎を上げた。顎を下げれば草薙の髪の毛に触れそうだったからだ。胸が高鳴る。無理もない、これだけ女の子が密着する事など千明を除いて初めてだ。
俺はどうしていいか分からずに固まっていた。
「ねえ……これを見て」
草薙は小さくそうつぶやくとコートのボタンをはずしてこの寒空の下、コートを脱ぎ始めた。
「え?」
俺は驚いて草薙を見た。
そのコートの下から現れたそれは俺が今までよく見ていた草薙の制服姿だった。ある一点を除いて……
俺は最初の一声から次の声がたせなかった。
草薙の制服はおびただしいほどの血に塗れていた。
紺のセーターベストは血と混ざり黒ずみ、純白のはずのブラウスは赤黒く斑になっていて特に袖の辺りがひどい。
「私が殺人鬼なのよ」
一歩俺から離れた草薙が言った。その声に俺ははじかれたように草薙の顔を見た。
紅い、そう人の物とは思えないほどの紅い光を孕んでいる。酷く強く、酷く悲しい光。
どれくらい時間がたっているのだろう、俺の喉はカラカラで彼女の言葉を否定する言葉が出なかった。
いや違う。俺は草薙が浴びたであろうその返り血を見てそれを否定する事ができなかったのだ。口に残る唾液を何とか飲み下して声を出す。
「どうして……」
かすれた声だ。草薙は少しだけ笑った。
「どうしてかな? それは春日井君だって知ってるはずよ。ううん、動物ならみんな知ってる。生きる為には何かを食べなきゃいけない」
草薙の言っている事は訳がわからない。俺が分かろうとしていないのか。
「……それがたまたま私は人間だっただけ」
抑揚のない声。その声に俺はぞくりとする。寒さではない悪寒。
「そんな、馬鹿な」
自分でも否定してないくせに言葉にする。
「そうね。馬鹿げている。私もつい最近まではそんなこと思いもしなかった……でも、一度その衝動に駆られてしまったら、もう止められないのよ。そう、もう私は人間じゃないの……吸血鬼……そういう種類なのよ」
紅い目が映る。草薙はそんな目をしていただろうか。記憶を必死にまさぐる。答えはノーしか返ってこない。いや、ひとつだけ。あの夕暮れ二人で居たとき。それだけだ。
あの時、草薙は俺を好きだと言った。
「俺に何か用があったんだろ?」
俺は草薙の言葉を否定しなかった。わざわざこんな時間に学校に呼び出し、返り血にまみれたクラスメートがそんなわけの分からない冗談を飛ばすわけがない。何処までが真実か証明する手段はないが、草薙は至って真剣だと思う。
「うん、そうね……春日井君、私の事好き?」
予想外の切り返しに俺は返答に窮した。困った俺を草薙はみて無邪気に笑う。これが殺人鬼の顔か。俺はあまりにかけ離れたイメージに混乱した。
「あはは、殺人鬼だの吸血鬼だの言っておいてそれはないよね」
「そうだな、俺が知ってる……クラスにいた草薙なら好きになったかもしれない」
これは正直な言葉だ。そして、今ここにいる血まみれの草薙の姿を暗に否定していた。そしてそれは俺の希望だ。
草薙の笑いが止まった。
「春日井君、助けて」
真摯な目だ。それが俺を貫いて放さない。今視線をそらす事は彼女を裏切る事になるような、そんな脅迫めいた強い視線だった。
「私、本当に吸血鬼になってしまったのよ。一週間前、ううん、もうちょっと近いけど、町で倒れていたことがあるの。その前後は記憶があいまいでよく分からないけど、それから普通の食事を受け付けなくなって……人の血が欲しくて欲しくてたまらなくなった。そして、気が付いたら人を殺していたわ。とても暖かくて美味しくて……まるで浴びるように」
草薙の目が焦点を失っていく。口元にはわずかに笑みが浮かぶ。
その食事をきっと思い出しているのだろう。
草薙は両手で顔を覆った。指の間からかすかに赤い瞳が覗く。
「一度その味をしってしまったら、もう止め様がなかった。どんなに理性を保とうとしてもその衝動に勝つことはできなかった」
草薙の告白は続く。
「食事の後、私は我に帰るの。今の私みたいに血だらけの姿で、まだ湯気が出ているような食い散らかした人間の死体の上で……分かる? 私の気持ち」
発狂しそうだろう。いやもう狂っているのかもしれない。草薙の顔はこわばるように笑っている。
「あー、やっぱりダメかも」
草薙は苦しそうに胸を押さえる。顔一杯に冷や汗が浮かぶ。それでも口元の引きつったような笑みは消えない。草薙は息を必死で整えているようだ。
「春日井君を襲わないように、先に一人食べてきたのに、もう……」
草薙は紅い目を俺に向けた。
俺はその場に踏みとどまる事ができなかった。
『先に一人食べてきたのに』
その言葉ですでに草薙は俺とは違う種類になっていることを悟った。だが、俺は草薙が怖くて逃げ出したのではない。そんな、草薙をもう見ていられなかったからだ。
「お願い、殺して」
草薙が俺の背中にむけて叫んだ。俺はその言葉を受け止めきれずに一目散に走った。
まるで心臓が爆発しそうで、膝は今歩みを止めたらとたんに崩れそうだった。足は重く視界は狭い。ペース配分などまったく考えずに俺は全力疾走していた。もちろんそのスピードははじめに比べ随分と遅くなっているだろう。
俺は草薙が追ってくる気配がないことを知っていたが、体力が続く限りは走りつづけ、ついに足が絡まって倒れた。
気が付けば公園だった。噴水の前の、そう今日沢渡と会った場所だ。
俺はベンチに這い登り、空を仰いだ。荒い息の向こうに月が見える。雲は晴れ、月が空に浮かんでいる。あまりに静かなその月が俺の心とはまるで正反対で俺は無性に腹が立った。
俺は無意味に叫びたくなったが、その時足音に気付いて俺は過敏にそれ反応した。
「こんばんわ」
森川だった。この寒空にセーラー服は不似合いだった。
意外な人物の登場に、いや意外ではない、この人物の登場に俺の心は安定に向かった。
「草薙さんに会ったの?」
「森川さん、あんた何を知ってる?」
俺は彼女を睨みつけたかもしれない。森川はすこし困ったような表情を形のいい眉で表現した。しばらくの沈黙が続いた。
「春日井君の知らないことをいろいろと知ってるわ」
森川の声には抑揚がなかった。意識して押さえているのかもしれない。彼女の顔は困惑していた。だが、森川はその表情のまま続きを話そうとしない。俺は少し苛立ったがその原因が実は俺だと知って苦笑した。
俺は多分ものすごい視線を森川に向けていたのだ。それを敵意だと思われても仕方がないくらいの。
「俺、余裕ないんだな」
俺はひとつため息をついて笑った。それに森川も少しだけ表情を緩めた。
俺は助けを求めるように森川を見つめた。
「俺、草薙に会ったよ。あいつ、自分のこと吸血鬼だと言ってた……そして今ここで起こってる連続殺人事件の犯人だとも……」
森川はそれを表情一つ変えずに聞いた。それはすでに既知のことだと言わんばかりに。
「言ったでしょ? 私、草薙さんとは顔見知りかもしれないって」
