月が明るい。その月を背にして森川は立っている。
俺は記憶の中から雨の夜裏路地からずぶ濡れで出てきたことを思い出した。その時、彼女は草薙と会っていたのだろうか?
「春日井君、あなた、草薙さんの恋人?」
俺は森川の顔を見た。あまりに突飛な質問だったからだ。彼女の表情はクラスのみんなと話していたときのような、感情のない……そう、月明かりにはまるで能面のような表情だった。
俺は彼女の真意を読み取れず、しどろもどろとした。
「わからない。でも、恋人、じゃないとおもう。俺は……まだ答えを返してないから」
俺の答えに森川は首をかしげた。
「俺は草薙に告られたけど、俺はまだその返事を返してないんだ」
俺は現状を正直に返した。俺は草薙とは恋人同士だと胸を張って答える事ができない。付き合っているわけではないし、さっきあった草薙は俺が知っている草薙ではなかった。俺はどうすればいいのかわからない。
森川はゆっくりと歩きながら言った。
「もう、草薙さんとは会わないほうがいいわ」
彼女の表情はわずかだが悲しげに歪んでいた。
「え?」
「彼女はもう、人ではないの……信じられないかもしれないけど、彼女は人とは違うものになってしまったのよ」
森川は静かに言う。
「吸血鬼?」
俺は恐る恐る言った。草薙の言葉、そして森川の言葉。一致すれば認めざるをえないのだろうか?
「本人から聞いたのね? そう、その表現にとりあえず間違いない。彼女は吸血鬼、人ではないの」
俺は愕然とした。だが、草薙がこの町で起こっている猟奇殺人事件の犯人で人でないとしても、俺はその場面を見たわけではなかった。俺の中ではまだ希望的観測が残されていた。
「でも、草薙はいままで俺たちと暮してきたんだ」
「そうね、いままで彼女は人間だった……というべきでしょうね。おそらく彼女は他の吸血鬼に噛まれ、その僕の吸血鬼になってしまった。何時からなのか私にはわからないけど、そういうことだと思うの」
俺はえらく飛躍した森川の話を受け止める事ができた。何より俺は草薙自身に会って、本人から話を聞いていたし、森川が真面目な顔でまだ会って間もない俺にそんな嘘話をするメリットがないからだ。
「森川さん、君は……」
「そうね、春日井君には話しておいたほうがいいかもしれない」
森川は瞳を閉じた。つらそうな表情が少しだけ浮き出ている。
こういう感情の表現をする少女なのだとわかった。感情がないわけではない、表現の仕方がごく小さいのだ。
「私、草薙さんを殺しにきたの」
おそらく予想できた言葉。だが、俺は意図的にその言葉を隠し、驚愕という感情に身を任せた。
「え?」
「殺しにきたの。彼女を」
寝静まった街の公園で、セーラー服の少女が放つ言葉。大きくもなく小さくもなく、抑揚があるわけでもない。整った形の唇から発せられる言葉はあまりに普通で、それゆえに鋭利に尖っていた。
「どうして……」
俺は力ない声で言った。草薙を殺す、という言葉に俺は殺されていたのかもしれない。
「草薙さんを放っておけばさらに被害者は増える……殺人鬼を野放しにいておくわけには行かないでしょう? 春日井君、あなただって次に彼女に会えば、どうなるかわからないわ?」
俺は草薙の言葉を思い出して愕然とした。
と、森川が小さく震えているのがわかった。夜の冷気を防ぐにセーラー服一枚ではとてもしのげるものではない。あまりに特異な彼女だった為に、そんな基本的なことを忘れていた。
「詳しく聞きたいよ、草薙の事、森川さんの事。俺、このままじゃとても納得できない」
「そう、わかったわ。そうね月曜日、学校で。それでいい?」
「今日は行かないのか? 草薙のところへ」
「無理ね、月が出てきたわ。月の夜は吸血種の力は強くなるの。とても殺しきれる相手じゃないわ……今夜はもう帰ることにするわ」
草薙に会う前、あれほどまでにどんよりと曇っていた空は、冷たく吹き始めた風にすっかり流されて、月が夜の支配者だといわんばかりに煌々と光を放っている。それはまるで狂ったかのような眩しさだ。
俺が月を見上げて、その視線を地上に戻した頃、森川はすでに歩き始めていた。
ふと彼女の瞳が残した光は、この月の蒼さに関わらず草薙のようにひどく紅かったような気がした。
俺が帰宅した時刻は0時を十分に回っていた。
もちろん、不機嫌な千明が俺を待ち構えていた事は言うまでもない。
「どこがちょっと、なの?」
いつもは甲高い千明の声がいやに低い。千明が十二分に怒っている事をあらわしている。俺は引きつった笑顔を浮かべた。ごまかすのは性に合わないので千明の機関銃のような文句を俺は黙って受け入れることにした。
俺は冷静に千明の文句が何分続くのか図っていたが、なんと驚くべきことにそれは十五分間も続いたのである。よくもそこまで言葉が続くものだ。アナウンサーかラジオのDJの才能があるのかもしれない。
と、冗談はさておき、千明を心配させたのは反省しているのだ。
「ホントにさあ、心配させないでよね」
ひとつ息をついてに千明が言う。痛いほどわかる。俺は気まずそうに頭を書いた。俺と千明は十六年を共にすごしている。千明は感情を言葉にし、俺はそれを態度にする。俺たちには暗黙の了解だった。
「いつかだったよね、お兄ちゃんが怪我して帰ってきた日……」
「え?」
「ほら、なんだか怖そうな連中に囲まれてた女の子を助けたって言ってたじゃない?」
俺は記憶をたどった。
俺は千明の言う通り、女の子を囲んで脅していた不良グループとケンカをした。どこかのゲームセンターの近くだったかもしれない。
俺は特に正義漢というわけじゃない。ただ、なぜかその日は虫の居所が悪かったし、路地に連れ込まれたその女の子を見たとき、視線がその子とばっちりあってしまったからだ。
そこで逃げ出すのも後味が悪いし、なによりその女の子は自分と同じ高校の制服を着ていた。
不良グループは四人だった。普通に考えればケンカを売って勝ち目はない。
だが、俺は考えるよりも先に走っていた。いやな性格だと思う。困っているヤツを放って置けないのは。
俺は不意をついて一人の男の後頭部に持っていたかばんをたたきつけた。
男はその一撃で昏倒したが、あとは三対一だ。かなうわけがない。俺には未来を見るという能力があり、特に自分の身の危険を感じるときにはかなりの確率で発揮することができる。
だが、未来の危険が見えたとしても、それを回避する身体能力がなければ意味はない。俺はたちまち三人に袋叩きにされた。
それでも俺に絡んでいる隙に、その女の子は逃げ出したようだった。
その時、小田桐拓郎が通りかからなかったら、俺もどうなっていたかわかったものじゃない。拓郎がやはり一人の男に奇襲をかけて一撃で昏倒させた。そのあとは二対二だ。そのとき俺は初めて拓郎と出会っていて、彼にまつわるエトセトラを知らなかったわけだが、そのときのケンカぶりといったらそれは芸術に値した。
俺たちはなんとか不良グループを追い払うことができたが、俺はずいぶん怪我をしてしまった。
帰った後、千明が泣きながら手当てをしてくれたことを思い出した。
俺はその時助けた女の子の顔を鮮明に思い出すことができた。
「それ、いつの話だっけ?」
「一年位前かな? 私中学生だったし」
俺は千明に確認を取って確信した。草薙と同じクラスになったのは二年になってからだ。
「あれ、草薙だったんだ……」
俺は小さく声にした。
「え? 何?」
千明が聞き返してきた。だが、俺はすでに千明にほとんど意識を傾けていなかった。
「ワリ、俺ちょっと電話するから」
俺は立ち上がって自分の部屋に向かった。
「あ、ちょっと……」
後ろで千明が怒りをあらわにしていたが、俺はあっさりと自室のドアを閉めた。
あとでフォローしておかなければならないな、とは思いつつ、携帯電話のメモリからダイアルを探す。
時計の針は一時近くだった。
長いコールのあと、聞きなれた声が飛び込んでくる。
「あれ、裕也? どしたの?」
「悪いな、沢渡、寝てたか?」
俺がコールした相手は沢渡だった。直接、草薙にかけたい事もあったが、どうせ彼女は出てはくれないだろう。それに確かめたいことがあったからだ。
「ううん、まあ今寝ようかと思ったとこだけどさ。何かあったの?」
「草薙のことなんだけどさ」
「ほっほー」
沢渡の含みのかかった声が聞こえてくる。容易に表情が想像できるのが少しいやだ。
「別に意味はねえよ……ただ、気になってな」
俺はとりあえず今夜草薙にあったことを秘密にすることにした。
「確かにねー。真奈美がここまで顔見せないなんてね。家で何かあったかな?」
「どういう意味だよ?」
「あのコの家さ、あまり上手く行ってなくって、両親は不在かケンカばかりだし、真奈美、その両親からやつあたりみたいなものも受けてみたいだし……なんていうかな、その愛情に飢えてるってやつかな?」
沢渡の声が暗い。彼女は毒舌上手であるが、それ以上に多感で他人の感情をよく理解する。それゆえに草薙の事情などのも聞きだせたのだろう。そして、草薙がそんな沢渡と仲がよかったのもうなづける。
「そっか……」
俺は答える言葉をもたず、曖昧に答えた。
草薙は俺に助けを求めていた。一度、草薙を助けたことのある俺にすがったのは、きっと助けを求めることのできる人物が少なかったからだろう。
だが、草薙は自分を吸血鬼だといった。そしてこの町で起こっている殺人事件の殺人鬼だとも。その草薙が俺に最後に叫んだ言葉。
『お願い、殺して』
俺はどうすればいいのだろう?
「裕也?」
電話を通して沢渡の心配そうな声が聞こえてきた。
「ん?」
「裕也は大丈夫なの? 裕也、最近ちょっと変……わかるよ、私だってね」
沢渡の声はやさしい。彼女の声を聞くと落ち着く。千明と同じような近さを彼女は持っている。それに俺は今まで何度救われてきたかわからない。
「サンキュな、沢渡。でも、俺は大丈夫だ。それより草薙のことさ。とりあえず今日はもう切るよ。遅いしな……」
俺は沢渡の返事を待って電話を切った。
俺は草薙のことを沢渡に話すことができなかった。
