心臓を掻きむられるような感覚。それを覚えて俺は昨夜目がさめてのた打ち回った。ベッドから転げ落ち、俺は冷たい床から這いつくばったまま立ち上がれずにフローリングの上を転がっていた。
耐えがたい激痛の中、俺は小さな白い光を見た。だが、それが何かわからないまま、意識は遠くかすんで行った。まるで安らぎに溶け込むように。
俺の目の前で千明が声を立てて笑っている。目にはわずかに涙さえ浮かべている。必死に笑いをこらえようとしているらしいが止められないらしい。
俺はそれを不愉快そうに眺めていた。
朝、俺を起こしにきた千明は無様に床でひっくり返って寝ている俺を発見したらしい。その姿があまりに哀れだったらしく、俺は千明の笑い声で今朝は目覚めたというわけだ。あまりに笑われるため、俺は昨夜のことを千明に話そうかと考えたが、やはり心配性の千明に余計な刺激を与えまいと弁解は止めておいた。
だが、昨日の苦しみはなんだったんだろう。夢? それは今まで俺が見ていた夢と同じ系統のものなのだろうか? そしてあの光はなんだったんだろう。
推理しようにも手がかりがない。
俺はため息をついて千明の作ったハムエッグを頬張った。
日曜日の朝の出来事はそれくらいだった。
本来ならそれだけであとは特筆に価するような出来事はないはずだったが……
長い午後が始まった。
それは正午ちょっと前、沢渡からの電話から事を発することになる。
どうも沢渡の家族は週末を利用して旅行へ出かけてしまい、唯一バイトで同行できなかった彼女だけが取り残されてしまったらしい。昨日、その一人の気ままさと退屈さを満喫した沢渡は、俺の家に昼食がてら遊びにくるとの事だった。
こういう場合は俺に決定権はなく、昼食を作る千明の方にある。千明も沢渡を好いていたからもちろん二つ返事でOKを出した。
チャイムが鳴る。時間的に沢渡だろう。俺はソファから立ち上がって玄関へ出向いた。 ドアを開ける。
「ういーす。もう一人連れてきちゃった」
見慣れた沢渡の姿の後ろにもう一人、髪の長い少女がいた。
森川恵理。突然転校してきて、俺の心に大きくその存在を示している女。
彼女は黒いハイネックのセーターにジーンズのジャケットとパンツというラフな格好だった。
「森川さん……」
「ごめんなさい。突然で。お邪魔してもいいかしら?」
「ああ、かまわないけど」
俺はしどろもどろに答えて、ドアを大きく開けた。
「森川さん、一人暮らしでさ、お昼ご飯に駅前まで出てきたところをばったり、って感じで。誘ってみたら乗り気みたいだったからつれてきちゃった」
沢渡は悪戯っぽく笑うと、勝って知ったる春日井家のリビングへと上がりこんだ。
森川もすこし戸惑いながらも彼女の後を追った。
「こんにちわー、千明ちゃん。ごめん、悪いけど一人増えちゃった」
「あ、陽子さん。いいですよー。お友達ですか?」
千明はキッチンで小忙しくしている。
「森川恵理さん。こないだ話さなかったっけ? ホラ、フェイノールからきたって言う……」
「森川先輩!」
キッチンでけたたましい音がした。俺たちリビングにいた三人はそろって驚いた顔をして千明を見た。千明は普段でも大きな目をいっぱいに広げてキッチンに備え付けのカウンター越しに俺たちを、いや森川を見た。
「何? 知り合いだったの?」
「いえ、そういうわけじゃ……ないけど。その……森川先輩って学校でも有名な人だったから」
千明は森川の顔色をうかがうようなしぐさで言った。
何でも物事をはきはき言う千明にしては珍しい行動だ。
俺は森川の横顔を見た。同じように沢渡も怪訝そうな顔つきで森川をうかがっていた。 当の本人は少し困ったような表情をしていただけだった。
昼食中の話題は森川の話題で持ちきりだった。
「ホントに憧れてたんですよぉ。森川先輩ってカッコイイなって」
千明の口調は何時になく弾んでいる。俺や沢渡のように千明が心許している相手ならともかく、千明はあまり他人との会話を好まない。人見知りするとかそういうレベルではなく、人との付き合いがあまり器用ではない。
それが珍しく多弁になっている。
森川恵理という少女もまた、俺の予想をはるかに越えた女の子だった。
森川財閥というこの国で一二を争う財閥がある。その総裁たる森川家の御令嬢が彼女だったのだ。その話を千明から聞かされたときは俺と沢渡は目を合わせたまま、しばらく開いた口がふさがらなかった。確かにそれなら、あのフェイノール学園でも有名人だろう。その上、ちょっと見かけることのできない美人だ。たとえ女子高だとしても、噂ぐらいにはなるだろう。
というか、そんな彼女のようなお嬢様が通う学校に千明が同じように通っていることがいまさらながらに信じられない。
「憧れる……って私そんな何もしてないつもりだったけど?」
「ええと、何ていうか孤高の人って感じなんですよ、森川先輩」
孤高の人。たしかにウチのクラスでもそういう雰囲気だった。他を寄せ付けない、というよりは他に依存しないという感じだ。確かにそれは一見強そうで、それゆえに孤高であるといえる。だが、それは同時にひどく頼りなくて危うい。つまり、千明とよく似ている。千明は自分のことを詳しく話すことは少ないが、学校の友達と上手くいっていないことを俺は知っている。千明もウチのクラスの森川と同じような感じでいるのだろうか?
「千明、まさか森川さんの真似してるんじゃないだろうな?」
俺は自分の中でもっている深刻さを隠して言った。
「まさか。ただ憧れているだけだよ。とても真似なんか」
千明は慌てて首を振った。森川に遠慮して言葉を選ぶような妹ではない。
「でもさ、森川さんなんで転校なんてしてきたの? 一人暮らしまでして、こんな時期にウチなんかにさ」
瑞穂学園はそれほど評判の悪い学校ではない。だが、フェイノール学園に比べれば、校風も一流大学進学率も格段に違う。
「ちょっと都合がね」
森川は言葉を濁した。森川の表情に沢渡と千明も声を潜めた。彼女らの憶測はきっと単純なもので名門の森川家の家族問題のことでも創造したに違いない。
だが、俺は知っている。森川は草薙を殺すためにこの街へ来た。
家族問題なら俺たちは他人事ですむ。だが、ここにいる森川は俺たちのクラスメートを殺しにやってきたのだ。
俺は少しだけ歯軋りをした。かといって、森川を止めようとする気は起こらない。俺は草薙が今どういう状態なのか知っている。
しばらくして会話は再開し、昼食が終わった。
「おいしかったわ、千明ちゃん……何ていうか、私が憧れるかも。こういうの、まったくダメだから……」
森川が千明に微笑んだ。それだけで千明は絶頂になったのかもしれない。あと片付けの動作が妙に浮かれている。
「裕也はお嫁さんもらうのに苦労するね」
「なんでだよ?」
「だって、千明ちゃんに慣れてると他の女の子なんてダメダメだもの」
沢渡が笑った。それにつられて森川も小さく笑った。
こういう形で森川の笑顔を見るのは初めてかもしれない。草薙を殺しに来た女。その笑顔は沢渡や千明と変わるところはないのに。
そのあと、なぜか沢渡の提案でテレビゲーム大会に突入してしまった。新作の格闘ゲームを購入したらしく、沢渡は対戦相手を求めていたようだ。彼女は元空手部ということでとにかくこの手のゲームには目がない。
そのあとパーティゲームやらなにやらであっという間に日は暮れてしまい、結局沢渡も森川もウチで夕食を取ることになった。沢渡はむしろそれが確信犯的であり、森川もその共犯にされてしまったような感じだった。
時計の針は午後九時を回っていた。
「そろそろ帰らないとね。ね、裕也送ってよ、森川さんもいることだし」
「あ、私もついてく。帰りお兄ちゃん一人になったら危ないでしょ?」
「……あのなあ千明」
「いいじゃん、みんなで行こうよ。森川さん、おうちはどこ?」
「マンション小倉。公園のそばの」
「だったら方向一緒だね」
と、俺は沢渡と森川を送ることになったのだが、なぜか千明までくっついてきている。結局昨晩のツケかと俺は思い、付き合わせることにした。
青い月が出ていた。俺の前では沢渡と千明が騒がしく会話を続けている。俺の半歩後ろには森川が静かに歩いている。ただの、蒼い夜だ。
ふと前を歩いていた二人が立ち止まった。
「どうした?」
俺は怪訝そう尋ねると、千明が指を指した。
街頭と月明かりで割と視界のきく公園の道に一人の男が立っていた。スーツを着たサラリーマン風の男。だらりと両手を下げ、うつろにこっちを見つめている。酔っ払いのような感じもしたが、その眼光は不吉にも紅い。それはあの草薙と同質のものに思えた。
「こっちから行こう」
沢渡が言った。彼女の視線の先には二股に分かれた道がある。その男を避けることは簡単だった。
俺と千明は無言で了承した。その道でも大して距離も代わらないからだし、わざわざその男のそばを通らねばならない理由はない。
「あれ?」
と、俺は森川の気配がないことに気がついた。
俺はあたりを見渡したが、その瞬間に未来のビジョンが飛び込んできた。その男は千明に襲いかかろうとしていた。だが、その未来はあまりに『近い』。
「くっ!」
俺は後先考えず、千明を力いっぱい押した。千明は軽く悲鳴を上げて吹っ飛んだが、幸いその方向に沢渡がいたので彼女が受け止めてくれた。
その刹那、俺の体に重い衝撃が走った。と言うよりは誰かにのしかかられたような感じだ。俺は簡単に押し倒され、コンクリで軽く後頭部をぶつけた。
俺はうめいて加害者を見ると、先ほどのサラリーマン風の男が俺に覆い被さっていた。あの紅い目が目前に迫る。
「うあああっ!」
俺は悲鳴をあげて男を跳ね除けようとした。だが、俺の両肩をつかむ男の手は予想以上に強く……いや、徐々に万力のように締め上げてくる。俺はその痛みにうめいた。
次の瞬間、その男は俺の右肩に噛み付いた。服の上から、そう吸血鬼よろしく牙を立てて。そして俺の血を吸い上げたのだ。
俺は恐怖に駆られた。強引にでも彼を引き離そうと暴れたが、万力のような怪力で両肩を抑えられていてはままならない。
と、白いものが俺の眼前を一閃した。
沢渡の脚だった。彼女の強烈なローキックが、そう男は俺の上にのしかかっているからそれがわき腹あたりに食い込んで、さらにそれを吹っ飛ばした。
男は無様にひっくり返る。あれだけ強烈なローキックがわき腹に入ったのだ、身動きはおろか呼吸すらままならないだろう。
俺は肩の痛みを抑えながら立ち上がった。その途中、視界に入った沢渡の表情が驚愕に変わるのを見て男が吹っ飛んだ方向を見た。
男は表情ひとつ変えず、俺と同じタイミングで立ち上がっていたのだ。
そもそも、俺たちが進路を変えようとしたとき、俺たちと男との距離はゆうに二十メートルはあったはずだ。それが一瞬にして俺は押し倒された。それだけで十分に異常ではないか。
男はゆらりと沢渡のほうを見た。
さっきの一撃に興味を示したのだろうか、それともお返しをするつもりなのだろうか。標的を換えたことには間違いはなさそうだった。
と、男の体が跳ねる。その速さ、加速、どう考えても人間の速さではない。文字通り弾けるようにそれは沢渡に突進した。
沢渡も狼狽しながらそれを避けた。それはむしろ予測してよけたのではなく、本能の為せる業に違いない。とにかく沢渡はそれをよけて背後とった。そしてその男の左手をねじり上げる。完全に極めあげるその技は護身術と呼ぶには沢渡のそれは強力すぎだ。だが、それでも男は力任せに立ち上がろうとした。ぶちぶちと筋の切れる音がする。沢渡が左腕をねじり上げているから、筋が本来とは違う方向へひねられているからだ。
その感触が直に沢渡に伝わっているのだろう。彼女は数瞬、恐怖とためらいのあとその左腕を離した。
男は筋がねじきれた痛みなどまるで関係がないように振り向いた。沢渡は二歩三歩とよろけるように下がる。もはやその男は『人間』ではないことを確信していた。
と、緩やかに黒い影がすべる。
一瞬の白と男が交錯した。
それは、森川だった。刀と呼ぶには短すぎる。ナイフと呼ぶには長すぎる。そして人を殺すには美しいほど十分な長さの刃物を彼女はその男の背中に突き立て、そして滑らかに裂いた。
俺はその瞬間、彼女がその男を殺したのだと判った。人を殺すという行為がこんなにも緩やかで美しいものだとは思いもしなかったが、それは眼前に起こった事実だった。
黒い、蒼く光る月の下ではあまりに黒い血飛沫が飛ぶ。
その返り血を避ける様すら美しいと俺は思った。
