喉が鳴る。乾ききったそれは何かが張り付いているようで気持ちが悪い。唾液を飲み込もうにもそれがでない。代わりに全身から噴出した汗が嫌がらせの様に流れ落ちていく
恵理は手にした木刀でよろよろと立ち上がって目の前の男、黒川をにらみつけた。
「もう限界か」
黒川は手にした木刀で空気を切った。それが加害者なのであろう、シャツから露出した恵理の白い肌は数多くのあざで覆われている。
恵理はおぼつかない足で体を支え、木刀を構える。
構えに入った瞬間、黒川の木刀が恐るべき速度で襲う。
疲労と痛みで朦朧とする意識の中、反射的に恵理はそれを裁いた。訓練による動きの賜物だったが、体力の限界は既に超していた。そのまま意識を失い、倒れこむ恵理。
「今日何度死んだ? これくらいでは話にはならない。今度の訓練までにはもうすこしマシになっていることだな」
黒川の冷淡な声が飛ぶ。
恵理は薄れ行く意識の中それを聞いたが、答えることは到底無理だった。
黒川は地下室にある内線電話で芹香を取り付いた。恵理の身の回りの世話をしているのは芹香だ。受話器の向こう側の芹香は、慌てずに「すぐ向います」と残して内線を切った。
ふと黒川は別の気配を感じて地下室の入り口に視線を向けた。
そこには正孝の姿があった。鋭い視線、というよりは感情のこもった視線が黒川に突き刺さっていた。
「これは正孝様。こんなところに……」
「やりすぎだ」
肩をすくめた黒川に対し、正孝は鋭く低く言った。敵意のこもった目でゆっくりと歩いて恵理に近づいた。
「恵理様はもう実戦投入されているのですよ? 訓練に手を抜くわけには行きません。訓練ならば怪我で済みますが……」
黒川は言葉を中断した。正孝の視線が余りに激しく憎悪で満ちていたからだ。そこには論理を超えた感情がある。いかに正論を投げかけようと無駄だろう。
しばらくして芹香が現れると黒川は入れ替わるように訓練場から立ち去った。
「芹香!」
「大丈夫です。正孝様。気を失っておられるだけです……」
明らかに狼狽を浮かべる正孝をなだめるように芹香が言った。正孝は子供の様におろおろとうろたえ、手を出していいものかどうかもわからずにいた。
芹香は小さくため息をつき、恵理の頬に触れた。
「私にお任せください。この程度のお怪我ならば、一両日中に綺麗に治ります。私の力を信じていただけますか?」
芹香は穏やかな表情で正孝を諭すように言った……
渡辺可憐・芹香の姉妹はどの役所の、どの帳簿を見渡してもその本籍と住所は見当たらない。戸籍を持っていないのだ。つまり、行政的に彼女たちは「存在しない」のである。当然、彼女たちに関わる公的なものは森川家が作り出した、または作らせた偽のものである。
事実上、彼女たちは森川家の「所有物」として存在している。
彼女たちは森川家が管轄する孤児で、幼い子供の頃から特殊な能力を発揮していた。
それは「癒し」の能力である。姉妹は人に触れることによって、触れた者の自己回復能力を促進させる。また、それは外傷だけではなく、精神的な安定にも寄与する。二人が森川家に引き取られてから十七年、彼女たちの能力に対して研究が続けられているが何故彼女たちがその能力を持っているのかは解明していない。ただわかっている点としては、その効果を得るためには彼女たちの身体に接触を持つことである。彼女たちの意思には関わらず、その力は発動する。そしてその能力の真価は彼女らの体液にこそ存在する。
いずれ訪れる体内に潜む魔の侵食。それから逃れるために、彼女たちを手に入れた。彼女たちの成長を待って、それを利用するつもりだった。だが、侵食は予想よりも早く、恵理達の父は、唯一の希望を幼い彼女らに求めた……
ぼんやりとした灯りが、暗い視界の中に浮かび上がってくる。揺らめいたそれはまるで暗中の灯火のようにも思える。柔らかなものに包まれている。恵理はそこがどこであるかにわかに判断が出来なかった。
「……理様、恵理様」
声が聞こえた。聞きなれた声だ。それはすぐに芹香のものだとわかった。意識がはっきりとしてくる。柔らかな灯りはやはり見慣れた自分の部屋の照明で、今寝かされている場所も自分のベッドだとわかった。
首をもたげる。
すぐそばに芹香の姿があった。いつものメイド服に身を包んだ彼女は、優しげに微笑みかけている。右手を握られている。その柔らかさが伝わってくる。全身の痛みはもうない。意識を失っているうちに、芹香が能力で癒してくれたのだろう。
「芹香……」
恵理は知っている。正孝が父を殺した時、彼女はなにも知らなかったが、芹香が恵理を担当する使用人と決まって、芹香の正体を知ることになった。彼女は恵理の傷を癒すため、そして魔の侵食を押さえるために存在している。その存在理由は恵理に「ヒト」の存在理由とは異なる気がしていた。まるで、「モノ」のような扱い。だが、芹香は人間だ。それが許されるのだろうか。いかに互いに普通ではない存在だとはいえ、許されることなのだろうか。
芹香の献身的で優しい微笑みを見るたびにその疑問は広がっていく。
芹香は怨んだりしないのだろうか? 森川を、私を。森川という穢れた一族がいなければ彼女らは今ごろ……
「ほとんど痛みはひいているかと思います。ただ、痛みを押さえることに集中しましたので、とりあえず傷の方は完治というわけではありません」
恵理は切なくなって寝返りを打って芹香を見つめた。
「どうされました? どこか痛いところでも?」
恵理の浮かべた悲しい顔は、芹香には辛いと映った。
「……ん、大丈夫……」
拗ねたように恵理はクッションに顔をうずめた。いいたい事はそんなことではない。いえない自分が歯がゆい。だが、言ってしまえば今が崩れてしまいそうで恐ろしいのだ。恵理は芹香が好きだった。だから、彼女を不幸してしまう自分が恨めしかった。
そんな恵理の姿を見て、芹香は彼女の心境を悟ったのかもしれない。少し寂しげな微笑をうかべて恵理の右手を離した。
何かを言いかけて、それを内線にさえぎられる。
芹香は電話の受話器を上げた。
恵理は芹香のやり取りをみつめた。芹香の顔が強張るのを見た。恵理はそれが何を意味するのか知っていた。何度と見た光景だった。
芹香が受話器を置く。それと同時に恵理は体を起こして、ベッドの縁に腰掛けた。
「恵理様……」
「わかってる」
それは恵理の仕事の連絡が来たという事だった。
恵理の仕事とは「闇払い」の事だ。表の世界には存在しないことになっている、魑魅魍魎を闇の中で始末する。森川家の裏の側面だ。
恵理は立ち上がろうとしてよろめいた。間接に鈍い痛みが走る。
「……っ」
「恵理様!」
芹香が支えた。昼間の訓練の怪我が完治していないのだ。よりによってこんな時に。芹香は強く唇を結んで、タイミングの悪さを恨んだ。
「大丈夫、芹香……ちゃんと動ける」
恵理は芹香の顔を見て諭すように言った。自分の足で歩いて、立てかけてある剣を取る。刃渡りの短い、霊刀「小月」。正確な出所や銘は打たれていないが、古くから伝わる妖魔を滅するために鍛え上げられた霊刀。その刃で切り裂かれた魔は灰へと消える。刀身自体に霊力が込められているが、魔の血をひく森川家の血筋しか扱うことは敵わない。
玄関には正孝がいた。時刻は零時を回っている。
綺麗な顔立ちの正孝はまるで感情を抱いていないかのようにも見える。だが、恵理は兄の心情を見て取るようにわかった。
「恵理、行くのか」
「ええ……」
恵理は兄の心情を知っていながら、それをあえて無視をした。恵理は戦いに赴く。不安だ。だが、それ以上に不安に思っている兄を思えば、あえて何も言わないほうが余計な心配をかけないと思ったからだ。
兄が妹を心配する。当然のことかもしれない。いつものことかもしれない。
だが、その夜は違った。
「行くな……」
低く小さく言った。だから恵理はそれが聞き間違いだと思った。森川家の役割は、正孝も恵理も、自分自身が一番よく知っている。
「正孝様?」
恵理に付き添ってきた芹香が驚いた風に声を漏らした。
「行くな、恵理」
はっきりと聞こえる。恵理は驚いて兄を見た。兄の表情は大して変っていないように見える。だが、向き合った瞳は深い闇に覆われている。恵理はその闇に吸い込まれそうになった。
「俺から離れるな」
正孝は恵理に近づくと覆い被さるように彼女を抱きしめた。
強い力で細い身体を抱きしめる。
「に、にいさん?」
恵理は狼狽してあがいた。兄を振りほどこうとしたが、腕力では到底敵わない。恵理はなすがまま、兄に抱きしめられた。
「お前は俺の光だ……今、お前をなくしたら、俺は……俺は残された闇の中でどうすればいい? 頼む……何処にも行くな。俺のそばに……いてくれ」
絞り出すような声に恵理は背筋が凍る思いがした。同時に兄を哀れにも思うし、切なくも思った。兄はいつからこんな弱い男になっただろう。
「私は何処にも行きません。この場所に帰ってきます。兄さんのそばに」
「恵理……」
「今夜の相手はただのグールです。大した敵ではありません。ここのほかに、私の居場所がありますか?」
恵理は微笑んだ。その微笑を見つめて、正孝は抱きしめる力を緩めた。恵理がゆっくりと正孝から離れた。
「姉さん、お願い……」
いつのまにか芹香のとなりには彼女の双子の姉、可憐が立っていて正孝に近づいた。
「正孝様、お部屋へ……」
可憐は言葉少なに正孝を促した。正孝は頷き、廊下の闇へと消えていく。
その後姿に、父の最期の夜となったあの夜が恵理の脳裏に浮かんだ。結局親子そろって芹香たちを! 恵理は拳を握り締めて唇をかんだ。
「恵理様。お車の準備が出来ております」
薄暗い廊下に佇む芹香が静かに言った。やや青みがかかった静かな黒い瞳が恵理を見つめていた。
膝をつく。上半身すら支えられず、両手で体を支える。汗と一緒に落ちた赤い液体がまっさらのコンクリートを染めた。目の前の小月はその役目を果たした。命亡き蠢く死体、グールはその刃を突き立てられ、灰塵へと化した。だが、人より格段に高い運動能力をもつグールとの戦いに恵理は無傷で入られなかった。
「恵理様!」
悲鳴のような声をあげて芹香が恵理に駆け寄った。恵理は顔を上げて、彼女に心配させないように微笑んで見せた。だが、その姿が余計に痛々しい。
芹香は悲しい表情を浮かべると、恵理の身体を抱きしめた。
「芹香?」
恵理は驚いて声をあげたが、二の句が出なかった。芹香の唇が恵理の唇を奪ったからだった。柔らかな感触と温もりが恵理の中に流れ込んでくる。芹香の能力の真価が発揮されている。恵理は目を閉じた。全てを芹香に委ねる。何も考えられなくなる。それが限りなく心地よかった。傷の痛みが緩やかに消えていく。そして戦いで乱れた精神が癒されていった。
芹香の唇が離れる。恵理はうっすらと目を開けた。戦いの傷の痛みはもうない。
芹香の力が抜けて、恵理の服を掴んだ。
「え……? 芹香!」
芹香は脂汗を額に浮かべ、表情を苦しげにゆがめながら激しく肩で息をした。
芹香達の力は無限大ではない。彼女たちは人を癒せる代わりに、自分たちを消耗する。「能力を使いすぎよ、芹香。私はもう大丈夫!」
恵理は芹香を支えた。芹香は力なく微笑むと恵理の瞳を見つめた。恵理は不安に瞳を揺らしている。
「私には代わりに戦う力はありません。恵理様を守る力すらありません。私にできることは……これくらいですから」
「何故? 何故あなたは……あなたたちは私達をそんなになってまで、何故つくしてくれるの?」
恵理は無意識のうちに芹香の肩を抱いていた。震える。瞳からは涙がこぼれていた。
芹香は細い恵理の身体を感じながら満足そうに微笑んだ。
「私たちは、恵理様たちと共にありますから」
芹香は思う。自分たちは籠の中の鳥なのかもしれない。森川の一族に仕えるために育てられてきた。それだけが彼女たちの中での価値観のすべてだった。身を削り、利用されようとも、恵理が無事であればそれで幸せだった。
籠の中で育った鳥は大空の自由を知らない。そこから見える広大な景色もすばらしい風の匂いも。それはとても綺麗に輝いている夢だ。だが、決して適うことのない夢。大空を羽ばたくための翼はもう動かない。
芹香はもう飛び立てない鳥だった。籠の中の小鳥だ。ならば主人を愛し、主人に愛されることが、唯一で絶対の夢であり幸せだった。
こうして恵理に抱かれている芹香は、幸せで満ちていた。
彼女の父に傷つけられた幼い記憶も、それを目の当たりにして言葉と感情の表現をほとんど忘れた姉も、男というものに恐怖意外感じられなくなった自らも。すべて恵理を愛していれば、夢の中にいるように幸せだった。
