二ヶ月以上が経っていた。
リビングから談笑が聞こえてきた。廊下から横目で見ると、正孝と可憐が楽しそうに会話をしている。可憐が笑っている姿を見て恵理は驚いた。恵理は可憐が笑っている姿を見たことがない。
可憐はほとんど感情を表に出すことがない。恵理はそう思っていた。だが、彼女は兄の前だけあのような表情で笑うことを知った。驚きは禁じえなかったが、うれしくもあった。兄だけだったとしても、感情を表に出せる人間がいるなら彼女にも救いがあるというものだろう。恵理はそう思うとそっとリビングを離れた。
「恵理様……お手すきですか?」
廊下で本を山ほど抱えた芹香が汗をかきながらよろめいている。書斎の整理でもしていたのだろうか、恵理は苦笑いを浮かべて腰に手を当てた。
「手伝うわよ」
恵理は芹香から半分ほどの本を受け受け取った。
「ありがとうございます」
芹香はほっと息を吐いて微笑んだ。その微笑が恵理には他では代えられない何かのような気がした。芹香の指示で倉庫へ向う。
「芹香、あまり無理しないでね。怪我でもしてもらったら困るわ」
「ありがとうございます。でも最近恵理様がお怪我をなさらないので、大丈夫です」
芹香は笑って答えた。
恵理はやや不安げな笑みを浮かべた。人はいつもと違う状況に置かれると不安になるようだ。たとえそれがプラスの方向だったとしても。
「そうね……ここのところすっかりあの手の事件もおきないし、黒川さんが辞めてから次の先生も見つからないし……」
あのグールの一件ののち、黒川はしばらくして恵理の指導を退いた。理由は恵理の下には届いていない。それ以来後任が決まらず、恵理の訓練は行われずにいた。
恵理は、森川家の令嬢である、と言う立場を除けばただの少女のような暮らしを続けていた。
「そういえば可憐の笑顔って見たことある?」
「いえ?」
怪訝そうに芹香が問い返した。恵理はそれを意外だと思った。あの笑顔は今のところ兄のものだけなのか。双子の妹である芹香でさえみたことがないとなると、推測は確実だった。
「可憐が兄さんと談笑をしてたのよ」
「可憐が……笑ってた……」
芹香は一瞬驚いたような表情を恵理に向け、視線を床に落としてつぶやいた。
芹香は複雑な表情で笑い、自分に言い聞かせるように言う。
「可憐も……きっと幸せなんですよ」
「芹香……」
恵理は不安そうに声をかけた。芹香は押し黙ったまま廊下を進み、目的地である倉庫の中へ入って本を置いた。恵理も芹香の指示でそのとなりに本を積む。
「これで終り? 芹香」
「はい」
恵理は軽く手をはたくと、一つ息をついた。
「芹香の淹れた紅茶が飲みたいわ」
だが、返答がない。恵理は怪訝そうに芹香を見た。芹香の栗色の目が恵理を突き刺していた。柔らかだった恵理の顔が強張る。
「どう……したの?」
「恵理様は『血の呪い』をご存知ですか」
一片の容赦もない真剣な声。
「恵理様や正孝様の中に流れる、森川の血の呪いのことです」
二ヶ月前。
秋の色が濃くなった夏の夕暮れの日は駆け足だ。
グールとの戦いで傷ついた恵理は芹香の献身的な治療もあって、ほとんど完治に近い状態だった。大事を取る意味で屋敷の中で静養を続けていたが、活力に溢れる少女にはむしろ時間をもてあますだけの結果となっていた。
そんな恵理は屋敷の中を所在なさげにうろうろしていた。
廊下から屋敷の裏に広がる広大な林をながめる。それはもう夕闇を通り越し暗黒に包まれている。
と、その中で光を見つけた。揺らめく光はただの光の反射ではないだろう。
恵理は闇の中の光に誘われるように、屋敷の外へと飛び出した。
闇に包まれる林を駆ける。
子供のときから知っている裏庭だ。たとえ闇の中でも迷うことはない。恵理は臆せず闇の中の光を目指した。
それはやがてはっきりとし、焚き火の火だという事がわかる。
「恵理。もう動いて大丈夫なのか?」
そこには正孝が焚き火をしていたのだ。
「にいさん……なにを……」
「ん? ああ、キャンプファイアーの真似事。夏も終わっちまうしな。夏休みらしいこと何もしてないだろ? もう少し火が派手になったら、お前を呼ぼうとおもってたんだけどな。ほら、花火も用意してある」
正孝は笑った。その笑顔は十八の少年が持つそれで、少しだけ大人で多分に悪戯っぽい子供がふくまれていた。恵理はおかしくなって噴出した。
兄の持つ雰囲気は妹のそれよりも、一般の学生のものに近かった。恵理はそれがうらやましかった。二人は手持ちの花火を手にとると、焚き火の火で点火し楽しんだ。
わずかな時間だが激しく光る炎。その光が激しければ激しいほど美しく短い。
やがて最後の線香花火が落ちて、光は焚き火の炎だけとなる。夜はもう更けて林の中は真っ暗だった。
恵理は足元で蠢く何かを見た。
一歩引く。
「恵理、それは蛾だよ」
「蛾?」
蛾くらいは知っている。森川家の裏庭の林は広く、小学生の昆虫採集には困らないくらいの虫は十分にいる。だが、恵理の足元で蠢いている蛾は恵理の知っている蛾のいずれでもなく、羽根がなく地上でみすぼらしくうごめくそれは蛾とは思えなかった。
「炎で灼かれたのさ」
その蛾は虫の本能で光に集まろうとして、飛び火した炎で羽根だけ焼かれて地面に落ちたものだった。
「それ、もう蛾とはおもえないよな」
正孝の声には感情というものを感じられなかった。恵理ははっとして兄の顔を見た。闇の中に炎で照らされている兄の顔は何か違うものの様に見える。
「でも見てごらん、恵理。これはもう蛾とは呼べないような姿だけど、蛾としての本能をわすれてはいない」
正孝の視線の先にいる蛾は重い胴体を引きずりながら炎へと進んでいる。
恵理は無言でそれを眺めた。
「炎に入ってしまえば灼かれて死ぬだけなのに……愚かな生物だと思うか? 恵理」
恵理は正孝の質問に困惑した。その質問の奥にある兄の真意とは何かを知るために。
「でも、俺はその気持ちがわからなくもない。たとえ地に落ちて泥に塗れて、俺が俺だと判らなくなったとしても……もしこの世がこの闇夜の様に暗闇で覆われていて、光がこの炎だけだったとしたら……俺は迷わずこの炎を目指すだろう。たとえこの身が灼かれ、死んだとしても……」
「……にいさん」
不意に正孝は恵理に近づいた。恵理もそれに気づいたが、身動きが取れなかった。
正孝は恵理の肩を抱いた。
「恵理、お前は俺の光だ」
恵理は心臓が一つ強く打ったのを感じた。
「俺はお前の炎で死ぬことができるなら、死ぬことなど怖くはない」
「兄さん何を……」
恵理は正孝に唇を奪われた。驚きで恵理は目を見開く。力の限り暴れて、兄の腕を振り解く。勢い余った恵理はしりもちを着いた。その体制から兄を見上げると、兄は目を細めて笑っていた。
「……恵理、お前は俺が守るよ」
その狂気が恵理の脳裏によみがえった。森川の呪われた血。それはもちろん恵理も知っていることだった。
「正孝様の血に流れる魔の濃さは……亡くなられただんな様や恵理様と比べても、相当濃いものなのかもしれません……」
芹香の声はきわめて冷静を保っている。わずかの曇りもない透明な声が恵理の胸に突き刺さる。恵理は表情で平静を保ちながらも、その奥は崩れそうに揺れていた。
恵理にも心当たりがあったのだ。
父親を殺した時。そして最近に鳴って垣間見る情緒不安定になる時。正孝の異常さは恵理の目にも明らかだった。
「失礼な表現かもしれませんが……可憐にとって正孝様は必要不可欠な存在なのです……恵理様にこんなことを言っても、どうにもならないことはわかっています……]
芹香の感情の硬さは、もう時間がさほど残されていないことを悟るに十分だった。恵理は両の拳を握り締めた。呪いの血を恨み、そして己の無力さを悔いた。それが、芹香と可憐に対する懺悔になるとは思わなかったが、彼女はそうすることのほか、手段がなかったのだ。
十一月の冷たい雨が屋敷を包んでいた。
学校から戻った恵理は雨の冷気に身体を震わせて、ドアを開けた。いや開けようとした。
突然ドアがものすごい勢いで開き、可憐が飛び出してきた。
傘も差さず飛び出していく。激しい雨ではないが、傘なしではずぶぬれになるような雨だ。それよりも血相を変えた可憐の姿は恵理にとって初めてだった。
「……可憐っ?」
恵理は驚いて声をあげた。可憐もそれに気づき、一瞬だがその動きを止めて振り返った。
「あ……」
冷たい雨に濡れ何か困惑したような顔を向ける。何かを言いたそうで言葉にならない可憐。恵理は呆然とそれを見つめた。
可憐の瞳がどこか助けを求めているように恵理は感じた。
可憐は雨の中を再び駆け始めた。
「可憐? どうしたの?」
恵理も彼女を追いかけた。恵理の記憶では可憐が屋敷から出る姿をみるのもこれが初めてだった。その彼女が全力で雨の中を駆けていく。
その行き先は裏庭の林の中だった。
「待って! どうしたというのよ?」
恵理が可憐に追いつき肩に手をかけて叫ぶ。
可憐は立ち止まり、恵理に顔を向けた。それは芹香と見間違わんばかりに表情豊な姿だった。ただしそれは不安と恐怖に満ちていた。
「正孝様が……この林の中に」
「にいさんが?」
「それと……黒川さんらしき人が……探してください。いやな……いやな予感がするんです!」
可憐は雨で濡れた顔を振り乱した。それは雨だけではなかったかもしれない。
恵理は鋭く頷いて、林の中へ足を踏み入れた。
息が切れる。まとわりついた雨は重く、体温を奪い身体を凍えさせる。身体は鈍く足元は緩い土に奪われる。焦燥だけが募っていき、時間は空しくすぎる。
「にいさん! にいさん! 返事を……返事をしてください!」
恵理の声は虚しく雨音にかき消される。
と、恵理は人の気配を背後に感じて振り返った。
手が条件反射的に小月に触れる。
だが、そこにいたのは可憐だった。
可憐は泥の上に座り込みながら何か大きなものを抱えていた。
「か、れん……」
恵理は可憐が抱えているものを見間違うはずがなかった。
泥に塗れ、血に塗れていようとも、それは間違いなく彼女の兄だったのである。
「にいさん!」
悲鳴に近い声が響く。冷たい雨が彼女らを打つ。恵理は泥に足をとられながらも兄と可憐の元へ駆けた。
「にいさん! しっかり!」
反応はない。可憐もまた、正孝を抱えたままぴくりとも動こうとしない。瞳は焦点を失ってうつろだ。ただその細い両腕が正孝の身体を強く抱きしめる。
「可憐! 一体何が」
恵理は可憐の身体をゆすった。可憐は放心して何も反応しない。ただ彼女が触れていることで彼女の能力は正孝に影響を与えていた。
「すぐに芹香をつれてくる!」
二人がかりなら兄を救えるかもしれない。恵理はそう思って屋敷に向かって駆け出そうとした。
だが、その手を掴む者が居た。
「にいさん!」
恵理は振り返った。瀕死の正孝が彼女の左腕を掴んで放さない。雨が強くなった。
「……恵理。ここにいてくれ」
「しゃべってはだめです!」
「……いい、もう助からん」
正孝の声に愕然とする。恵理は全身から力が抜けるのを覚えて、その場所に崩れ落ちる。泥に塗れた恵理の姿をみて、正孝が首をわずかに振った。
「ああ、お前にはそんな姿は似合わないよ」
「……にい、さん」
「俺はお前を守ってやれなかった……お前が傷ついていくのが許せなくて、お前の代わりに俺はひそかに戦いの道を選んだ」
絶句する恵理。ここのところの無事はすべて兄が解決していたのだ。
「何故、そんなこと……」
「理由なんてないさ。俺は俺の好きなものが傷ついていくのをただ、見ていられなかっただけ」
正孝の口調ははっきりしていたが、声はだんだんと低くなっていく。
恵理は這いずるように兄の口元へ顔を近づける。
「可憐には悪いことをしたと思う。許してはくれないだろうが……妹も守れず、俺を好いてくれる女にも答えられず、最低の男だな……」
恵理は言葉が出ずに、ただ首を横に振る。
「でも、これでやっと、あの黒い影から逃げ出せる……」
それは森川の血に流れる魔の存在のことだろう。正孝はそれが顕著に自分の中に現れていたのを感じ取っていたのだ。そしてそれが彼の精神を蝕み、追い詰めた。彼が戦いを選んだのも、それから逃れるための足掻きだったのかもしれない。いや、妹を守るという使命感で自分を保とうとしたのだ。恵理にはそれがわかった。だから、恵理は兄の手を強く、強く握り返した。
正孝は微笑んだ。泥と血と雨に塗れながら、至福を手に入れたように笑った。
そして恵理の手の中にある兄の手から力が抜ける。あれほどまでに力強かった兄の手が恵理の手の中から滑り落ちる。
「にいさん? にいさん!」
恵理の絶叫が激しくなった雨の中、何度も何度も響いていた。
「じゃあ、可憐を預かるわね、恵理ちゃん」
恵理は数年ぶりに逢ったその育ての親にも笑顔を作ることが出来なかった。
「ええ、おねがいします」
麻生広美は森川家に縁のある女だった。年は四十をすこし越えたぐらいだが、その美貌に衰えは見えず、妖艶な雰囲気をかもし出している。生まれてすぐに母親を亡くした恵理の乳母となった女だった。その彼女に心を閉ざしてしまった可憐を預けることにしたのは森川家を運営している老人たちだ。このままでは可憐は使い物にならない、と言う判断なのだろう。
「恵理ちゃん……気持ちはわからないでもないけど、しっかりね」
広美は優しく笑うと屋敷の玄関の前に止めてあるリムジンの後部座席を開けた。そこには既に可憐の姿があった。その横顔は硬質で、兄を失って葬儀と当主交代に疲れた恵理の顔よりも硬かった。
「可憐、にいさんの敵は必ず……」
恵理は誰にも聞こえないような声でつぶやいた。
それを聞き取った芹香が身を強張らせた。
恵理もまた、兄の正孝と同様に闇の中にその身を焦がす炎を探しに行くのか。それは森川の家に生まれた瞬間定まってしまった運命のなのだろうか。
可憐を乗せた車が出て行く。
その車が視界から消えるまで二人は見送った。
恵理の表情は変わらない。
二年。
恵理が、表情を取り戻すまで、吸血鬼と化した黒川を見つけ出すまでその時間を要することになる。
